その他
竿秤(さおばかり)
近代中国
19世紀-20世紀前半
竿秤(棹秤・棒ばかり)は、てこの原理を応用して重さを量る道具である。竿につけた取っ手の紐(下げ緒)が支点である。片方の端を作用点として計量するものをのせる皿(鈎爪も)を、反対側に力点として錘(重り)の分銅を吊り下げた。錘を移動させて水平を保つ位置の目盛を読むのである。竿には二種類の目盛が刻まれていて、二つある取っ手の紐(皿に遠い方と近い方)に対応している。計量するものの軽重によって使い分けるためである。
展示品は小型なので重量物は量れない。竿の長さは25.5cm、太さは最大でも5mmと細い。当然刻まれた目盛は非常に小さい。象牙製か骨製とみられる。34.5gの分銅、直径7.7cmの皿は真鍮製で爪はついていない。もともとは不明だが分銅と皿を吊るす紐は購入時に細い凧糸が使用されていた。下げ緒も同様で、丈夫な布紐や革紐ではない。携帯に便利な共箱(竿箱)に入っている。
日本では昭和中期まで八百屋などで普通に見られた。魚屋さんが店先で棒の先端の爪に魚のえらをひっかけて、錘を素早く器用に動かして値段を告げる様子を年配の方で懐かしく思い出す方も多いだろう。
正体不明
形状からも割れ目の模様から見ても普通の岩石には見えない。しかし、「内蒙古で入手した恐竜の卵」と言うのは嘘だろう。
モンゴル共和国や中国内蒙古自治区は恐竜の化石が多く発掘されることで有名である。卵の化石も数多いが、博物館で見た卵はほとんどがもっと小さく球状であった。ひび割れた卵殻が残っていたり、割れ目に孵化直前の幼体が観察されることもある。
この石には卵の化石に見られる特徴がない。長径14㎝・短径12.5㎝、厚さ11.5㎝、重さ約2.5㎏。やや扁平で巨大なピスタチオナッツ状をしている。半分に割れたもの(右)は11.5cm-9.7cmと少し小ぶり。海中に噴出した溶岩のようでもないし、残念ながら「正体不明」である。用途不明の「謎の遺物」はよく存在しているが、どなたかご存じの方があれば教えていただきたいと願っている。
甲骨文(複製品)
時代:商(殷)紀元前17世紀頃~紀元前1407年
出土:中国河南省安陽市小屯村付近
商(殷)時代の遺跡から出土する漢字の原初となった古代文字。古代中国で行われた卜占の結果を亀の甲羅や牛や鹿の肩甲骨に刻みつけて記録したものである。
商代の卜占は、事前に占うべきことを刻んでおき、甲骨裏面に穿った小さな穴に熱した金属棒を差し込むという方法で行われた。表面に生じたひび割れの形から将来の吉凶を占った。その判断を甲骨に刻み、占いに従った実際の結果も追記した。これらの記録が甲骨文字として現代につながったのだが、神権政治の権威づけとなる卜占そのものはかなりインチキだったようだ。割れ目をコントロールするための加工が事前になされ、王の政策の正当性の証明に利用されたと言われている。
発見された甲骨文の解読は20%程度にすぎないが、まぼろしとされていた「商(殷)王朝」の実在とともに『史記』(司馬遷)の記述の正確さが証明されたことはあまりにも有名である。
小屯村(殷墟)の博物館倉庫?には膨大な量の甲骨が無造作に保管されている。文字が刻まれていないものも多い。この展示品は、おそらくその一部を使い、専門家(学芸員)が不法に刻みつけたものと思われる。
獣形勾玉
時代:縄文時代後・晩期
(約4400年前-約3200年前-約2400年前)
勾玉の起源についてはよくわかっていない。① 縄文時代早期あるいは旧石器時代晩期の人々が動物の牙の根元に孔をあけたもの ② 玦(ケツ)状耳飾りが半分に折れたときに半折品の一端に孔をあけて垂下したもの(縄文前期初頭に存在) ③ 胎児の形をもとにして生々しい生命と呪力をイメージするもの(タマは魂・霊) ④ 海岸に打ち寄せられたヒスイを海からの客人(マレビト)とし、タツノオトシゴを模したもの(出雲の神在祭では稲佐の浜に上陸する龍蛇神)など諸説がある。
この展示品のような獣形勾玉は縄文時代後期・晩期に多く見られ、材質は糸魚川・青梅川上流域に産するいわゆる姫川ヒスイである。川を下り海に入り海岸に打ち上げられた原石を加工した。縄文人は白か緑を好んだようである。
弥生から古墳時代にかけて形は洗練され定型化していく。ヒスイ製は減少し後期古墳からは一点も出土していない。ヌノカワヒメとオオクニヌシの神話が物語るように、越の工人集団も出雲に移ったのだろうか。出雲が勾玉づくりの中心地となり、材料も碧玉、瑪瑙、琥珀、水晶、蛇紋岩、滑石、ガラスなど多様化した。やがて越(こし)の硬玉ヒスイは完全に忘れ去られていった。