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 以下は主に『HISTORY OF IDEI ふるさと伊傳居の歴史』(福若茂太)をもとに書いています。
誤読による間違いがあれば、その文責はわたしにあります。

伊伝居

播磨風土記  『播磨國風土記』(713年作成)にある「播磨國 餝磨(しかま)郡 因達里(いだてのさと)」にあったと考えられます。「いでい」の名は出てきませんが、「因達里」は現在の新在家から八代・伊伝居のあたりと比定されます。
 『随願寺記』に行基菩薩が天平7年出井村に一泊したとあり、奈良時代には「出井村」と呼ばれ書かれていたようです。室町・戦国期のころから「井出村」、明治4年には「伊傳居」と変わっています。
 村人の多くが大阪へ出ていき村人が減るのを心配して村の名前を「人が居つくように」との願いを込めて「伊傳居」に替えたと言われています。
 「いでい」の名の由来ですが、『播磨鑑』に「水涌し故に出井という」とあります。また『飾磨郡誌』では、奥州の伊達が「だて」と転訛したのと同じように因達を「いで」と呼ばせたのであろうと注釈しています。
 旧伊伝居の地域は、現在の行政町名でいうと「伊伝居・城北新町一~三丁目・広峰一~二丁目・北八代二丁目・城北本町・増位本町一~二丁目」であると『兵庫県の地名』(平凡社)に記されています。

桑原神社

桑原神社  伊伝居字居屋敷地内の神社で「旧伊伝居村の氏神様」です。『増位山随願寺集記』「出井の里、住吉神社の北に御所を造り」とあるのが最古の記録です。鬱蒼とした鎮守の杜だったようです。昭和初年、この隣に祖父が庵を結んでいました。
 社殿は昭和20年7月の空襲で焼失し、氏子が団結して復興しましたが、竣工の翌年、失火により半焼して現在に至っています。
 桑原神社の名前の由来は分かっていません。桑の木が一面に生え桑原を作っていたとの説もありますが、全国に数多い「桑原」の地名の由来から雷との関係も指摘されています。雷が落ちて皆が「くわばら くわばら」と逃げ惑ったので、というものです。
桑原神社  御祭神:本殿・・・伊弉那美命(いざなみのみこと)
     中筒男命(なかつつおのみこと)
     東の摂社・智鯉鮒神社(ちりゅうじんじゃ)
     西の摂社・青木稲荷神社(あおきいなりじんじゃ)
 石造り参道狛犬:明和元年(1764) 姫路市で最古
 小の燈篭:享保3年(1718)
 小の手洗い:享保六歳(1721)

船場川

船場川  『播磨國風土記』には市川水系を「大川」「小川」と表現しています。古代の大川は西の方に流れ、現在の船場川の流れにほぼ一致していたと考えられています。小川は大川が下砥堀のあたりで東に分かれて流れる支流で、現在の市川の流れに当たり、小さな流れだったと考えられています。
 古代のある時期、大川は市川の本流として伊伝居のすぐそばを流れていたのでしょう。伊伝居から野里にかけては大川の河川敷だったと考えられます。地下水が豊かで各所に「出水」が湧き出していました。「出井」の名の起こりでもあります。今も姫路市旧市街の上水道はここから供給されているのです。猫婆軒の庭を潤す水も汲み上げた地下水です。
 室町時代の大洪水で小川が本流(今の市川)となり、その後、池田輝政の姫路城築城によって市川の本流は現在の市川に付け替えられます。輝政は姫路城下を広げ城郭並びに町割りの縄張りを決めました。旧河川敷は整理され新田が開発されました。そして、船場川は現在のように市川の支流となったのです。また、第21代城主本多忠政が高瀬舟による舟運を開いたことから船場川と呼ばれるようになったとされています。
 今、桑原神社、猫婆軒のすぐ南を流れる船場川はとても小さな流れです。しかし時には増水し、濁流となって渦を巻くことがあります。寛延2年(1749)の氾濫が寛延の播磨大一揆の誘因となったと言われています。近年も大雨により小規模でしたが氾濫があり、油断はできません。