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粉彩酒杯

粉彩酒杯 時代:清代道光年間(1821年-1850年)
口径5.8cm/高さ4.9cm

 底款に「慎徳堂製」とある。慎徳堂は道光帝が晩年に過ごした円明園内にあったとされる書堂の名前である。紅彩楷書銘の「慎徳堂製」粉彩磁器は、皇帝がこの堂内で使用するために特注して焼かせた、あるいは嘉慶・道光年間の親王・貴族の注文品だとも言われている。金色の款も存在する。
 この3客の酒杯(ワイングラス)はAntikWest Gōtheborgの取り扱いによる。孔雀と梅が粉彩で精緻に描かれている。しかし、「慎徳堂製」の四文字の大きさが不揃いであることから清末の光緒(1875-1908)ないし民国初期の倣作も疑われる。そうだとすれば、この時期は御用の堂名落款を持つ作品はないことから、清朝の崩壊に伴い職を失った官窯の職人が生活の糧として私窯・民窯で製作した一群の作品であろうと思われる。

青花ティーボール・ソーサー

青花ティーボール・ソーサー 時代:清代乾隆年間(1736年-1795年)
ボール:口径11.3cm/高さ2.3cm
ソーサ―:口径7.3cm/高さ3.9cm

 この一組はナンキンカーゴの一つである。ナンキンカーゴとは、1752年に沈没したオランダ東インド会社(VOC)の商船ゲルデルメルセン号から引き上げられた貴重な貨物のことを言う。1986年にクリスティーズのアムステルダム支店でオークションにかけられた。
 乾隆帝の時代に景徳鎮で製作されたもので、風景や花鳥など中国の伝統的なモチーフが描かれているが、VOCの注文に応じてヨーロッパ向けに特別にデザインされている。
 内側は青花、外側は無地でバタビアブラウンと呼ばれる茶色。バタビア(ジャカルタ)を経由して一括大量に運ばれる日用雑器だったのだろう。入手時、カップには海底の砂が固着していたが、使用するために洗い落としてしまった。ソーサーの底裏にロットナンバーを打ったクリスティーズのラベルが付いている。

 比較のため、ほぼ同サイズの粉彩ティーセットを挙げておく。

粉彩ティーボール・ソーサー
時代:清代雍正年間(1723年-1735年)
ボール:口径11.2cm/高さ2.1cm
ソーサ―:口径7.2cm/高さ3.9cm

青花赤絵入れ子碗

青花赤絵入れ子碗  時代:清代道光年間(1821年-1850年)
 口径11.5cm/高さ6.6cm ~ 口径4.8cm/高さ2.7cm

 赤を基調とした五彩を日本では赤絵と言う。赤絵に使われるのはベンガラと呼ばれる酸化第二鉄を主成分にした顔料で、技法的には青花と同じである。
 この作品は10口の入れ子になっている。底裏の印文(底款)は青花で「大清道光年製」と読める。龍と鳳凰が瑞雲の中を飛翔する姿がリアルに描かれている。龍は皇帝のみに許された五爪龍である。
 購入地は2000年前後の台北。国民党関係者が大陸から携えてきたのだろうか。どさくさ紛れの中で散逸した故宮の宝物の一つなのかは想像するしかない。

青花碟と五彩碟

緑釉耳杯  時代:清代乾隆年間(1736年-1795年)
 青花碟:12.2cm×7.9cm  五彩碟:12.2cm×8.1cm

 青花とは、白磁に酸化コバルト顔料(呉須)で模様を描き透明釉をかけて焼成した磁器である。日本でいう染付のこと。
 五彩とは、高火度焼成した白磁釉の上に多色(5色とは限らない)の絵具で描画し再び低火度焼成する技法である。この碟(せつ/小皿の意)は五彩と思われるが七宝技術を応用した粉彩、あるいは赤絵技法併用の可能性もある。
 中国磁器はヨーロッパや中東の王侯貴族に愛され、清朝時代の康煕・雍正・乾隆年間に数多く輸出された。「磁器・焼き物」が「China」と呼ばれるようになったのはこの由縁であろう。ヨーロッパ嗜好を考えて製作されたことはこれら小皿の形状や絵付けなどを見れば明らかである。間違いなく景徳鎮窯である。
 この2枚の小皿は中国の磁器を専門に扱うスウェーデンAntikWest Gōtheborgから某所を経由して、現在「猫婆軒」所蔵となっている。普段使いの食器にしていたため、入手時に付いていたナンバーシールは1枚しか残っていない。1745年、広州からの帰途、ヨーテボリ寄港を目前に座礁し沈没したスウェーデン東インド会社所属の商船ヨーテボリ号(1984年発見)の積荷の一つとされている。

緑釉耳杯

緑釉耳杯  時代:漢(B.C.206-8 A.D.25-220)

 耳杯(ジハイ)は漢代に多く用いられた漆器の飲食器で、主に酒ときには羹(あつもの)が盛られた。楕円形で両側面に把手がつく。この形がひとの耳に見えることから耳杯と呼ばれる。羽觴(ウショウ)ともいう。
 1980年代後半、経済開放政策により中国国内のいたるところで鉄道や道路などのインフラ開発が行われた。工事中に多くの漢代や唐代の墳墓が発見され大量の緑釉陶で作られた明器(副葬品)が出土した。これはその当時に出土したものであろう。
 緑釉陶は前漢末から後漢、三国時代(222-280)にかけて盛んに作られた。日用器ではなくほとんどが明器であり、唐代の唐三彩にも引き継がれている。鉛を含む緑釉は崩れた墳墓の中で銀化する場合があると聞くが、展示の緑釉耳杯は銀化が見られない。

陶鬲

陶鬲  時代:紀元前2000年-1500年頃
 出土:推定中国北部

 鬲(れき)は三脚の煮沸具で陶製と青銅製があります。この陶鬲は、内蒙古自治区赤峰市の夏家店下層遺跡を標式遺跡とする夏家店下層文化の特徴を持っています。
 夏家店下層遺跡から出土する土器や陶器、青銅器の様式は殷(商)のものとよく似ています。殷文化に属する人々が北東へ移住した、あるいは逆に遼河文化に属する人々が気候変動によって中原に南下して殷文化を形成したと考えられています。

黒陶双耳壺

黒陶双耳壺  時代:前漢(西漢)BC206-AD8 
 中華人民共和国四川省出土

 「牛眼」と呼ばれる不思議なデザインが特徴。中原にはない特殊な器形であることが一見して分かります。ひし形の口縁頸部に櫛描文、把手3ヵ所に凸円形部を持っています。このタイプの壺はかつて大英博物館、ホノルルのアカデミーアーツ、東京国立博物館の三点しか確認されていませんでした。
 1920年代以降の発掘(盗掘)により、四川省の前漢墓からのみ出土する四川省理番県(成都の北方約100km)を基準遺跡とした理番文化の特徴的な黒陶とされています。