<ruby><rb>古宮</rb><rt>ふるみや</rt></ruby>神社 大阪市鶴見区

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菅原道真すがわらのみちざねこう

古宮ふるみや神社にいらっしゃる神様

菅原道真すがわらのみちざねこうとは

菅原道真公(845年8月1日-903年3月26日)は、日本の平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。
参議・菅原是善の三男。官位は従二位・右大臣。贈正一位・太政大臣。

忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで上り詰めた。
しかし謀反を計画したとして(昌泰の変)、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。
死後、天満天神として信仰の対象となる。
現在は学問の神として親しまれる。

小倉百人一首では、菅家。

道真公は幼少より詩歌に才を見せ、11歳で初めて漢詩を詠んだ。
貞観4年(862年)18歳で文章生となる。
貞観9年(867年)には文章生のうち2名が選ばれる文章得業生となり、正六位下・下野権少掾に叙任される。
貞観12年(870年)、官吏登用試験『対策』の方略策に「中上」の成績で合格し、位階を進め、正六位上となった。
玄蕃助・少内記を経て、貞観16年(874年)従五位下に叙爵し、兵部少輔ついで民部少輔に任ぜられた。
当時の朝廷の第一人者藤原基経も道真公の文才を評価した一人であり、父・菅原是善を差し置いて、度々代筆を道真公に依頼している。
元慶元年(877年)式部少輔次いで世職である文章博士を兼任する。
元慶3年(879年)従五位上。元慶4年(880年)の父・是善の没後は、祖父・菅原清公以来の私塾である菅家廊下を主宰、朝廷における文人社会の中心的な存在となった。

仁和2年(886年)讃岐守(讃岐国司)を拝任、式部少輔兼文章博士を辞し、任国へ下向することととなった。道真公はこの任が「左遷である」と言われていることが残念であると述べており、度々悲しみの意を表している。
送別の宴で、道真公は摂政藤原基経から詩をともに唱和するよう求められたが、落涙・嗚咽して一言しか発せなかったという。
仁和3年末には一時帰京し、翌仁和4年(888年)正月には任地に戻った。この年の4月、阿衡事件が発生し、基経が職務を妨害する事態となった。
道真公は10月頃再び入京し、基経に事件の発端となった橘広相を罰しないように意見書(奉昭宣公書)を寄せて諌めたとされる。この書が出されたとされる11月にはすでに橘広相は赦免されており、基経の態度に影響を与えるものではなかったが、儒者による橘広相への非難を緩和する効果があった可能性も指摘されている。

宇多天皇の近臣
寛平2年(890年)任地より帰京した。
道真公は本来ならば任地で行う引き継ぎを行わず京都に戻っている。この年、阿衡事件の後も厚い信任を受けていた橘広相が病没し、宇多天皇は代わる側近として道真を抜擢した。
寛平3年(891年)2月29日、道真公は蔵人頭に補任された。蔵人頭は天皇近臣中の近臣ともいえる職であり、紀伝道の家系で蔵人頭となったのは、道真公以前は橘広相のみであった。道真公は蔵人頭を辞任したいと願い出ているが、許されなかった。さらに3月9日には式部少輔、4月11日に左中弁を兼務。
翌寛平4年(892年)従四位下に叙せられ、12月5日には左京大夫となっている。寛平5年(893年)2月16日には参議兼式部大輔に任ぜられて公卿に列し、2月22日には左大弁を兼務した[14]。4月2日には敦仁親王が皇太子となったが、宇多天皇が相談した相手は道真公一人であったという。立太子に伴い、道真公は春宮亮を兼ねている。
寛平6年(894年)遣唐大使に任ぜられるが、道真公は唐の混乱を踏まえて遣使の再検討を求める建議を提出している。ただし、この建議は結局検討されず、道真公は遣唐大使の職にありつづけた。しかし内外の情勢により、遣使が行われることはなかった。
延喜7年(907年)に唐が滅亡したため、遣唐使の歴史はここで幕を下ろすこととなった。
寛平7年(895年)参議在任2年半にして、先任者3名(藤原国経・藤原有実・源直)を越えて従三位・権中納言、権春宮大夫に叙任。また寛平8年(896年)長女衍子を宇多天皇の女御とし、寛平10年(898年)には三女寧子を宇多天皇の皇子・斉世親王の妃とし、宇多天皇との結びつきがより強化されることとなった。

右大臣
宇多朝末にかけて、左大臣の源融や藤原良世、宇多天皇の元で太政官を統率する右大臣の源能有ら大官が相次いで没し、寛平9年(897年)6月に藤原時平が大納言兼左近衛大将、道真は権大納言兼右近衛大将に任ぜられ、この両名が太政官の長となる体制となる。7月に入ると宇多天皇は敦仁親王(醍醐天皇)に譲位したが、道真公を引き続き重用するよう強く醍醐天皇に求め、藤原時平と道真公にのみ官奏執奏の特権を許した。
醍醐天皇の治世でも宇多上皇の御幸や宴席に従うなど、宇多の側近としての立場も保ち続けた。
昌泰2年(899年)右大臣に昇進して、時平と道真公が左右大臣として肩を並べた。道真公は家が儒家であり家格が低いことと、出世につけて中傷が増えたため辞退したいと上申していたが、悉く却下された。
翌昌泰3年(900年)には右近衛大将の辞意を示したが、これも却下された。一方で文章博士・三善清行が道真公に止足を知り引退して生を楽しむよう諭す文章を送っている。8月21日には祖父以来の文章・詩をまとめた家集を醍醐天皇に献上し、「尽く金」と激賞された。

左遷と死
昌泰4年(901年)正月に従二位に叙せられたが、間もなく「宇多上皇を欺き惑わした」「醍醐天皇を廃立して娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀った」として、1月25日に大宰員外帥に左遷された。宇多上皇はこれを聞き醍醐天皇に面会しとりなそうとしたが、衛士に阻まれて参内できず、また道真公の弟子であった蔵人頭藤原菅根が取り次がなかったため、宇多の参内を天皇は知らなかった。また、長男の高視を初め、子供4人が流刑に処された(昌泰の変)。
『菅家後集』に収められた「叙意一百韻」では、左遷・流謫の身に至るまでの自らの嘆きを綴っている。大宰府浄妙院で謹慎していたが、左遷から2年後の延喜3年(903年)2月25日に大宰府で薨去し、安楽寺に葬られた。享年59。

死後の復権
延喜6年(906年)冬、道真公の嫡子高視は赦免され、大学頭に復帰している。延喜8年(908年)に藤原菅根が病死し、延喜9年(909年)には藤原時平が39歳で病死した。これらは後に道真公の怨霊によるものだとされる。延喜13年(913年)には右大臣源光が狩りの最中に泥沼に沈んで溺死した。
延喜23年には醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王が薨御した。『日本紀略』はこれを道真公の恨みがなしたものだとしている。4月20日(923年5月13日)、道真公は従二位大宰員外師から右大臣に復され、正二位を贈られた。
延長8年(930年)朝議中の清涼殿が落雷を受け、大納言藤原清貫をはじめ朝廷要人に多くの死傷者が出た(清涼殿落雷事件)上に、それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御した。これも道真公の怨霊が原因とされ、天暦元年(947年)に北野社において神として祀られるようになった。
一条天皇の時代には道真公の神格化が更に進み、正暦4年(993年)6月28日には贈正一位左大臣、同年閏10月20日には太政大臣が贈られた。