節分祭
節分は、雑節の一つで、各季節の始まりの日である立春・立夏・立秋・立冬の前日のこと。
節分とは「季節を分ける」ことも意味している。江戸時代以降は特に立春の前日を指す場合が多い。
「鬼は外、福は内」と声を出しながら福豆を撒いて、年齢の数、もしくは1つ多く豆を食べる厄除けを行う。
また、邪気除けの柊鰯などを飾る。
歴史
節分とは立春・立夏・立秋・立冬の前日を意味し、その中でも立春の前日としての節分に行われる風習としてはいくつかあるが、
最も一般的といえる鬼払いの風習は、中国の風習を由来とする平安時代の宮中行事を元としているとされる。
行事の由来とされる中国の歳事は、元々旧暦で十二月の歳事だった。
この頃は一年の変わり目、冬から春に転じるときで変化が大きく、疫鬼が民に病や災禍をもたらすとされた。
そこで疫鬼を駆逐し、古い年を送り、新たな年、春の陽気、吉福を内に迎えたことが、「後漢書」礼儀志中などに記されている。
平安時代の女流作家・藤原道綱母が著した『蜻蛉日記』には、900年代の人々が鬼遣に興ずる様子が描かれている。
室町時代には形を変えて豆をまくようになったが、これは「魔滅(まめ)」に由来する。
日本人は古来言霊の存在を信じ、言葉に霊力と意味を与えてきた。
それに豆は「五穀」のひとつであり、農耕民族である日本人の生活に欠かせないもので、力が宿るとされてきた。
室町時代後期成立とされる『貴船の本地』では、娘が人間と恋をしたために、鬼が日本人を食おうとし更に軍勢で襲撃しようとしたが、その鬼封じの為に明法道の博士が導入した儀式であるとされている。
文献に現れる最も古い記録は、室町時代の応永32年正月8日(1425年1月27日)を記した2文書である。
宮中の『看聞日記』には「抑鬼大豆打事、近年重有朝臣無何打之」とあり、室町幕府の記録『花営三代記』には「天晴。節分大豆打役。昭心カチグリ打。アキノ方申ト酉ノアイ也。アキノ方ヨリウチテアキノ方ニテ止」とあることから、この頃既に都の公家や武家で豆まきが習わしになっていたことがわかる。
その20年後に編纂された辞典『壒嚢鈔』巻一の八十三「節分夜打大豆事」には、宇多天皇の時代、鞍馬山の僧正が谷と美曽路池(現在の深泥池)の端にある石穴から鬼が出て来て都を荒らすのを、祈祷し、鬼の穴を封じて三石三升の炒り豆(大豆)で鬼の目を打ちつぶし、災厄を逃れたとする由来伝説が記されている。