<ruby><rb>古宮</rb><rt>ふるみや</rt></ruby>神社 大阪市鶴見区

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誉田ほんだ別命わけのみこと

古宮ふるみや神社にいらっしゃる神様

誉田ほんだ別命わけのみこととは

応神天皇のこと。足仲彦天皇(仲哀天皇)の第四皇子。母は気長足姫尊(神功皇后)。
異母兄に麛坂皇子と忍熊皇子がいる。
神功皇后の三韓征伐の帰途に筑紫の宇瀰(神功皇后紀。うみ:福岡県糟屋郡宇美町)、または蚊田(応神天皇紀。かだ:筑後国御井郡賀駄郷あるいは筑前国怡土郡長野村蚊田)で 仲哀天皇9年(若井敏明によると西暦367年)に生まれたとされるが、これは足仲彦天皇が崩御して十月十日後であるため、足仲彦天皇の実子では無いことを示唆しているとする異説もある。
応神天皇は胎中天皇とされ、異母兄たちはこれに抵抗して叛乱を起こしたが気長足姫尊によって鎮圧され排除された。神功皇后摂政3年に立太子。

即位2年、仲姫命を皇后として大鷦鷯尊(仁徳天皇)らを得た。他にも多くの妃や皇子女がいた。即位6年、近江へ行幸。
『古事記』によればこのとき宮主矢河枝比売を娶り菟道稚郎子と八田皇女を得たと言う。
在位中には様々な渡来人の来朝があった。韓人には池を作らせたほか蝦夷や海人を平定して山海の部民を定めた。
名のある渡来人には弓月君、阿直岐、王仁、阿知使主といった人物がおり、弓月君は秦氏の祖である。
『古事記』によると和邇吉師(王仁)によって論語と千字文、すなわち儒教と漢字が伝わったという。
また即位37年、阿知使主と子の都加使主は縫製の女工を求めるため呉(東晋あるいは宋)に派遣されたという。
即位40年、大鷦鷯尊と大山守皇子に相談の上で菟道稚郎子を立太子。
即位41年に111歳で崩御。
『古事記』では130歳、甲午年9月9日に崩じたとされる。