昭和19年7月20日姫路歩兵第111連隊補充隊に応召、30日姫路出発、8月4日門司出航南方に向かった。
「軍は本船団の半分が目的地に到着する事を以て成功と思う」との事であった。船団は27隻で3列行進、私達は船団長座乗の橘丸で中央を航行した。
私は船中で二度内地の土を踏む事は難しいのではないか・・と日誌を付け其の末尾に五、七、五の俳句とも川柳ともいえない私流の五七五を作っていた。その時「何を書いている居るの」と近づく将校があった。年の頃なら40位、其れは我が中隊の第二小隊長の原田少尉で有った。少尉は山茶花に属し「柳志」と号した。
「君俳句やるの・・いや・・そう、これは俳句ではないね・・」と言って、初めて俳句の手解きを受けた、此れが私の俳句への出発となった。
以来,遮二無二作った。ボルネオ従軍中一心不乱に作った。その数は数え切れない程に達した。俘虜収容所生活中に又原田少尉と枕を共にする機会を得た。この時とばかりに私は選句をお願いした。タワオからブルネ−のジャングル行軍、ブルネ−からケマボンへの退却行軍中目に写る物・物起こる出来事を俳句にした。選句で残ったものは五百余りになった。
有り合わせの紙や物で句帳を作り、復員の時は進駐軍に取られない様にと肌身はなさず持ちかえった。今も其の句帳にはその時の汗が染みて居る。五十年経った今も此の句帳は宝である。
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昭和53年正月の事・・自分の俳句は此れで良いのかと疑問が沸いた。新聞広告で俳句教室の生徒募集が出た。入会して試して見よう。以来十有余年、投句を続けて居る。当初は山下一海先生のご指導を得た。先生が都合でお辞めになり、山本五兵先生になったが、以来ずっと先生のご指導を受けて居る。
涼しさや 師弟会わざる 十五年
と言う短冊を去年(平成8年)頂いた。一回七句の添削のお付き合で有る。年齢も戦争の体験もお持ちの様子である。
芭蕉の『乾坤の変は風雅の種なり』此れを心に俳句を続けたい。
句集は次の様に大筋で分けた。
復員から五十七年七月迄の句である。岡山の空襲に会い妻の健気な努力により家族には人命の被害は無かった。 しかし、苦闘の出発であった。亡き戦友の事は励みに成った。その頃遺骨収拾や慰霊の事がとり沙汰されるようになった。
この頃になると、歳はとりたく無いと思う。
『唐招寺の団扇巻き』長男のヨット紀行、清荒神社の初詣で、葛城山のツツジ等忘れられない思い出がある。病気もよくした。私は元気とはりきっていた妻も入退院をしだした。学友戦友も同様の歳だ。しかし59年の盆には戦友の写経を済ました。
この頃になると、昔をしのぶ句が多くなりもっと積極的な句をと思うが、中々難しい。寄る年波、戦友学友が他界してゆくのは、止められない。今日も山頭火の日誌を呼んでいると『世の中に真実のものは一つ、何か・・何事も偽り多き世の中に、死は誠なり』とあった。我々の歳になると此の誠に向かって動くものらしい。