出征を 告げる墓参や 蝉時雨 7月27日
輸送船上俳句の手ほどきを受けての第一作の句、明日入隊と言う7月19日の景況である。夏凪し 大海原や 魚飛べる 8月22日
バシ−海峡を渡り終えてポンポン船行軍となった。食料不足を補う為に陸地に泳いでわたり、椰子の実をとって来ては飯の足しにした。一粒の 薬に頼り 夏の航 9月20日
内地から便りは来ない、そう来ない筈だ、部隊も任地も知らないのだから。椰子の芯 皆真っ直ぐに 雲を衝く 12月1日
愈濠堀が始まった、兵は黙々と土を運ぶ。此れに据える兵器は何一つ無い。此れがタワオ残留の戦友達の病死者の墓場に成ろうとは誰一人として想像しなかった。夕焼けの 消えて椰子林 灯を欲りぬ 12月5日
トカゲはどんな声で啼くのかと聞かれると困る。2メ−トルもあるトカゲだもの啼く事もあるでしょう。その声を陽と感じるか陰と感じとるかで句が違ってきます。先発の 兵見えずなる 草いきれ 12月16日
病床の兵は,もう蠅を追い払う力も無い戦友逝くと 兵馳せ来る 炎天下 1月12日
大行軍炎天下 行軍の列 蝶わたる 1月24日
昭和20年1月『ブルネ−方面への転進命令』が出た。私は第三小隊長として、中隊に先発して『兵力転用の為の作戦道修理』の任務に衝いた。この時私は思った。私の運命は神がお定めになる。命令の定める所に従って最善を尽くすのみと。
どんなル−トで得たか分からないが『阪神地方空襲』というニ−スを耳にした。心配だ。油火で 湯沸かす兵に 月流る 1月28日
ヒグラシを土人は時計虫とも言うそうだジャングルや ぬかるむままに 又すすむ 2月1日
トンカンとは小舟のこと縁広き 夏帽の娘 畑にたつ 2月6日
バロン駐屯中マニラ麻で草鞋の作り方を教え、軍靴の損傷に備えた。驟雨して 兵褌を 絞りけり 2月15日
モステンに到着し、現地在住の邦人の好意で風呂を頂いて居ると中隊伝令として林軍曹が来て曰く『平岡兵長が先程のスコ−ルで、カロンバン河が氾濫し、あの大きな吊り橋が切れ、遭難した』との事。夜中の事どうする事も出来ず夜明けを待つこととし、兵長の捜索と橋の修理に当たった。兵長は見つからなかった。河の水は引き大きな中州が出来ていた。マニラ麻の太いロ−プが垂れ下がり、岸辺の合歓木の花に蝶が群れていた。此れが兵長を呑んだ河か・・『夏蝶の句』はこの時生まれた。ジャングルに 鑿音たかし あげは蝶 2月19日
コヤ河の合流点を過ぎると、メッキリと英霊の墓標が増えて来た。墓は木の枝を削って作った物。○○君の墓と書いてあるだけ。甘薯の葉の 青きしたしや 山の小屋 3月2日
乗馬部隊の馬もジャングル行軍には叶はない。橋は象に砕かれ丸木橋では渡れない。やむなく倒れ死んで行く。私たちは捌いて良いところをすき焼きにして腹を満たした。又焼き肉にして飯盒に詰めて携行した。満腹後の放尿の気持ちのよさと、あの十字星の輝きは忘れられない。しかし焼き肉は日持ちがしなかった。燻製の へい馬の肉と 草いきれ 3月15日
大休止も終わり出発,道も良く沿道で土人の女がバナナを売っていた。大隊長の病死 二句
ラナウを出て間もないタンブナンに患者収容所があった。隊長が療養をしておられるとの事であったが片仮名の 看板の見ゆ 椰子の陰 3月30日
戦勝国日本を意識してか、ラナウを出ると日本語の看板が目に着く様になった。沿道に豪州軍の俘虜収容所があって、立ち寄った所、図らずも神崎郡出身の憲兵曹長が所長をして居られた。名は田村と言ったと思うが定かではない。良い人であった。私がアピ−俘虜収容所に居るときラブアン島の軍事裁判で刑死と聞いたが間違いであってほしいと念じたものだった。熱発を かさねつ敢えて 熱地征きしが 4月6日
ブルネ−到着敵機去り 陣地は蛍の 飛ぶばかり 5月13日
四月二十五日目指すブルネ−に到着す。中隊長及び第一、第二小隊長、途中熱発のため到着は遅れた。中隊の兵力は私以下二十四、五名だったか。敵機の襲来は日を追って激しくなった。
中隊長の到着が遅れたので、石炭山付近の陣地偵察に出た。大隊命令であった旅団長、参謀、大隊長等と行を共にした。しかし5月20日頃には中隊の幹部の方々もブルネ−に到着せられて体制は整った。『六月四日、遂に戦闘下令』石炭山を中心に陣地を敷いた。私は三田軍曹、横尾兵長等小隊の幹部と共にブルネ−河畔の防衛を命ぜられて山を下りた。此れが最後の夜と小隊の幹部と当番の長手兵長等と共に『飯盒の銀飯』を食った。砲弾は不気味に時々唸ったが,落ちなかった。砲弾の ゴムの葉飛ばす 間を進む 6月19日
退却行軍
6月4日『戦闘下令』8日退却と決まる。しかし陣地に残した兵への連絡は取り様もなく、「退却だ下りて乞い」と山に向かって怒鳴るのが関の山だった。山を降り又ブルネ−河をわたり、サエ山で陣地を敷いた、此処では多くの犠牲者が出た。
敵は追撃して来なかった。命令で十日分以上の米を挑発し、食料を確保せよとの事であった一心に鉄兜で籾をついた。戦友の屍 流れに転ぶ 径を征く 7月16日
十日経っても目的地に出られなかった。兵の疲労は極限に来た。ボルネオでも夜の高地は寒い。毎日スコ−ルは来る。渓流に転げ落ちた戦友の屍はふやけて着ている服も張り裂けんばかり。食料は底をついた。我が三小隊は少しの余裕があった。一心に籾搗きをしたお蔭。隊員が「小隊長、小隊長集合です。何でも我々の米を取り上げて分配するそうです」と。そうか・・中隊長から同趣旨の話だった。私は「取り上げるなら私を殺してからにしてください」と答えた。「戦友愛で出せるだけ出して欲しいと言われるのなら協力を頼んでみます」と答え、何がしかの米を隊員に頼んで出して貰った。亀くらい 万年の生に あやからん 7月16日
蛮刀にカチン、亀だ『食べましょう』捌いて皆で食べた。美味しかった事ザボンの花 一輪の香に 邑ちかし 7月16日
サエ山の戦闘以来四十日ぶりにケマボンにつく。竹藪の中に宿舎があった。廃れたる 邑跡に咲く 仏桑花 7月30日
亀を食ったあの山中で三国同盟のドイツが無条件降伏をしたと言うビラを見た。しかし何の感激も沸かなかった。どうしたことか。そうして一月後、武装解除の通達があった。武装解除 寂と声なし ヤモリ啼く 8月30日
遠くの村里から聞こえる。音楽は哀愁があり、澄み切った夜空に響き卿愁をつのらせる。垂る蚊帳に ヤモリの這いて 兵病める 1月10日
帰還の話が出はじめた頃、旅団の主催で慰霊祭が行われた。切々と 祝詞胸突く トカゲ啼く 2月24日
病院船到着余命をば 担架に委ね 炎天下 3月31日
患者は一足早く内地へ送還される事となつた。船の名は『すみれ丸』と言った。神戸−淡路間を通って居た船の名と同じだったと記憶している船尾には『日章旗』がはためき・・国破れても、日章旗あり・・私の胸にはジンと来た。ラナウの小屋の日章旗と共に脳裏から離れない。第二中隊からは,横尾兵長が乗り込んだ。
熱発は続いた。しかし家族の親身の介抱で快方に向かった。5月10日隣郡の亡き戦友の遺族の方々を招いて報告会を行った。戦友の竹内保君も同席してくれました。永らえて 菖蒲を供え 亡戦友(とも) 祀る 5月10日