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ミナミ 千日前について(3)
歴史あるミナミ 千日前を少し詳しく調べてみました。なお、資料索引は、本稿末尾に記します。
「楽天地」の完成と前後して周辺には近代的な映画館や演芸場が復活し、再び娯楽の街へと発展します。
「楽天地」誕生のすぐ後、その向かいには「芦邊倶楽部」が再開し、そこではキネオラマと呼ばれる舞台上に立体的造形物パノラマを造り、模型を動かし照明などで演出しながら弁士が巧みな話術で盛り上げるという演し物を上演して名所となっていました。
火災後の復興にあわせて大阪市は千日前通りを現在の広さに拡幅、真ん中には市電を走らせるなど都市開発を進め、一帯は映画館・劇場など大型娯楽施設を中心に整備されていきます。 芦邊クラブ
この時代、大阪は映画製作でも活発でした。
大阪港パーク撮影所(大阪市)をはじめ、瓢箪山撮影所(東大阪市)、亜細亜映画旭ヶ丘撮影所(枚方市)、極東映画古市撮影所(羽曳野市)などがあり多くの映画がつくられていました。
「楽天地」の山川吉太郎も千日土地建物の株を売り1920年「帝国キネマ」を設立。東大阪の小阪と芦屋に2つの撮影所を建設、後に東大阪市長瀬に3万平方メートルの巨大撮影所を開設しますが、後に同撮影所が火災で全焼するなどします。そして、帝国キネマはさまざまな変遷を経て「大映」と「松竹芸能」の母体となりました。
「楽天地」を持つ千日土地建物は松竹創業者の一人である白井松次郎に買収され、「楽天地」は1930年に廃業。
その跡地に1932年7階建てで3000人収容の「大阪歌舞伎座」が誕生します。
以降、松竹の興業による大阪歌舞伎が定期的に上演され、初代中村鴈治郎などの人気役者も排出し千日前で大阪歌舞伎の全盛期を迎えました。
大阪歌舞伎座『近代建築画譜』より
大正末期から昭和初期にかけて大阪市は商・工業の中心地として発展し、1925年第2次市域拡張により周辺市町村との合併で、面積181平方キロ、人口211万人と東京市を超え日本一の大都市となり、大大阪時代を迎えます。
この時代には道頓堀界隈を中心に、ミナミには多くのダンスホールやカフェー(酒場)が生まれ、そこではジャズが演奏されていて「道頓堀ジャズ」とも呼ばれました。
1923年関東大震災が発生し、職場をなくした多くのミュージシャンや作家、文化人が大阪へ流れてきたことで、さらに道頓堀ジャズは発展していったと言われています。
この頃、高島屋や当時日本橋3丁目にあった松阪屋、そして鰻のいづもやなどがそれぞれ宣伝用にブラスバンドをかかえていたというほど景気が良くにぎやかな時代でした。
1934年松竹は、千日前の大阪劇場(通称・大劇)の経営に参加し、後に傘下に収めます。
1922年に結成し道頓堀松竹座に出演していた「松竹楽劇部」を「大阪松竹少女歌劇団」(OSSK)と改称し本拠地を大劇へ移し、松竹映画との二本立て興業を行いました。
戦時中の1943年OSSKは「大阪松竹歌劇団」(OSK)と改称。笠置シズ子や京マチ子などのスターを生み出し、宝塚歌劇と並ぶ関西の2大少女歌劇のひとつとして人気を博します。
大阪劇場1956年「上方芸能」149号より 松竹歌劇団1932年撮影「松竹百年史」より
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