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味園について(3)歴史−2
さて、ひき続き月刊ビル味園特集号の記事を参考に味園の歴史をご紹介してみます。
『創業当時のユニバースは地上3階吹抜の大空間で、床はコンサートホールのように傾斜していた。LIFE(著者注:アメリカのグラフ雑誌「LIFE」のこと)には「360のテーブルに1000人の客、3つのジャズバンドに1000人のホステス」と書かれている』とあります。私の聞いた「うわさ話」で10mの高さの天井からゴンドラで踊り子さんが登場した、というのは本当でした。
現在、ハワイやタイ、パリなど海外の観光地へ行くと、ショーを観ながら食事のできるレストランシアターが必ずありますが、「LIFE」で紹介された記事からも当時の味園がそういう役割をもっていたのだとうかがえます。
また、地下には「ユニバースダンシングチーム」のショーを見せるホールもあり、当店にお越しいただいたお客様の中にも「チケットを買ってダンスホールに行くと、そのチケット分ダンサーさんが一緒に社交(チーク?)ダンスを踊ってくれた」とおっしゃっていた方もおられ、当時流行していたダンスを楽しみながら教えてくれる場所でもあったようです。
このように、地下と大キャバレーの存在から、当時の味園は一大興業施設だったといえるでしょう。
味園ビルが誕生した1956年というと1945年の終戦から11年。1950年から3年間の朝鮮戦争を経て、まさに経済成長はじまらんとする時期でした。ゼロから始まった戦後社会で、創業者たちは今とは比べものにならないほどの利益を上げ、作れば売れる時代の中で接待などに湯水のようにカネが流れました。また戦後、進駐軍であるアメリカ兵が持ち込んだダンスやジャズ、そしてそれらをカネに結びつけマネジメントしていくショービジネスの世界での遊びは、そのまま高度経済成長期の経営者や夜の社交界に受け継がれていきました。そうした特殊な社会情勢が、味園という総合レジャーランドを欲求しミナミに出現させたのです。
その後、時代の変化とともに遊び方も変わり、それにあわせて味園は70年代後半から80年代にかけて営業を続けながら大改修工事 を行います。
'77年にはキャバレーユニバースをレストランシアターとして改装し、こけら落としにはピンクレディが出演。16歳の和田アキ子が専属歌手として歌うなど日本歌謡界でも有名な場所でした。
その後、2階〜4階のキャバレースペースをそれぞれの階に分けてホテル、サウナ、スナック街がオープンします。サンテレビなどで有名な味園のCMが流されていたのもこの頃だと思います。
キャバレーは地下へ移動し、ディスコが営業されていた時期もありました。
また、私も記憶にありますが、まだコンビニが普及してなかった頃、1階でスーパーマーケットを営業。その後そのスペースはしばらくカラオケルームになっていたようです。
そして現在。
ご存じのことと思いますが、地下1階のキャバレーユニバースは2011年3月15日で閉店しました。しかし、貸しスペースとして貸し出されており、昭和レトロというかサイケデリックな内装を活かしたイベントが開催されています。
1階には以前2階で営業していたギャラリーが移転。
2階のスナック街はアラフォー世代を中心としたオーナーマスター/ママの経営するバー街として、東京の「新宿2丁目」に対する大阪ミナミの「千日前2番街」として元気に(?)営業中。
3階のサウナは休業してますが、サウナのマッサージ師だったお姉さんたちが現在もガンバる60分3000円のマッサージ室は営業中です。
4階のHGホテル味園はシングル3500円〜、ツインは6500円〜。調度は古いですがモダンで、清潔で広い室内にモーニングサービスもついてます。白人家族の旅行者なども見かけます。宿泊すると駐車場がタダになるので、車で来て飲まなければいけなくなった人にはお奨めです。
さらに5階の宴会場は500人が一度に入れる宴会場と有名で、それ以外にも人数にあわせた個室があります。CMの頃から今も続く大瓶ビール290円は、飲食店をやるものとして謎の値段です。このフロアだけが建築当時からのもので、内装も一見の価値ありです。
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