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ミナミ 千日前について(1)

歴史あるミナミ 千日前を少し詳しく調べてみました。なお、資料索引は、本稿末尾に記します。


chizu

豊臣時代、それまで中心市街地であった城西側地は大阪城三の丸として城郭の中に取り込まれ、東横堀川の西側に新たに造成した地域に移されました。
これが船場の始まりで、北は土佐堀川、南は長堀川、西は西横堀川に囲まれた地域が大阪の中心地域となりました。
徳川時代になると三の丸地域を再度市民に開放し、再び市街地化します。船場の本町通りより北を北組、南を南組、天満地域を天満組として町人自治の元、天領として東西奉行所が設置され治めることになります。
その後、海運の発達とともに大阪は全国の物資、特に米の集積地であり取引所として商業、金融、廻船、倉庫などの産業が発達し、100以上の藩が年貢米取引のために市中の堀川沿岸に蔵屋敷を設置するなど「天下の台所」として活況を現していきます。

少し戻りますが
大阪城落城後、1615年最初の摂津大阪藩10万石の藩主兼大阪城代として家康の孫、松平忠明(ただあき)が赴任します。
忠明は大がかりな市街整理を行い秀吉の時代に始まった道頓堀の工事を完成させる他、多くの運河を新たに掘削・改修させます。道頓堀川の完成により市街地は道頓堀川北側まで広がり、また、海運業者・問屋や住居地として西横堀川以西へも市街地は拡大していき、1616年には西区堀江の北、新町地区に江戸吉原、京都島原とならび日本3大花街のひとつ新町遊郭ができるなど市街地は急速に拡大していきます。

また、市中の街区整理も積極的に行い、点在していた寺院を小橋村と高津村、天満村に集め、墓地は千日、小橋村、葭原村、濱村、梅田村へ移します。特に千日には刑場も置かれたため一般の人を遠ざける場所になりました。

浄土宗天竜山法善寺は、京都山城に開山され、1637年に現在の場所に移転してきました。
1644年頃から一度の参詣が千日に当たるという千日念仏が行われたことで評判になり、南隣に隣接する竹林寺(2008年 天王寺勝山へ移転)も同じ千日念仏を行ったことから両寺とも千日寺と呼ばれ、その門前町が千日前として栄えました。また、法善寺境内には芝居小屋や飲食させる店も並び、今の法善寺横町の基礎ができていきます。

またこの頃から道頓堀に芝居小屋が集まってきます。1625年道ト(どうぼく)が南船場にあった芝居小屋を道頓堀に移し、1652年には中座、角座、浪花座がオープンします。こうした劇場で上演される歌舞伎がブームとなる一方、人形浄瑠璃の竹本座(1684年)や豊竹座(1703年)もオープンします。
近松門左衛門(1653〜1724)は日本最大の劇詩人とも、東洋のシェークスピアとも呼ばれ、「曽根崎心中」をはじめ「冥土(メイド)の飛脚」など歌舞伎脚本30余編、浄瑠璃100余編を残し、その大半が道頓堀の竹本座などで初演されました。竹本座では近松亡き後も「義経千本桜」「仮名手本忠臣蔵」など今に残る名作を多数生み出し、歌舞伎に決定的な影響を与えたと言われています。
江戸時代から、江戸三座・浪花五座といわれ、道頓堀の弁天座・朝日座・角座・中座・竹本座(浪花座)は名実ともに演劇界を代表する劇場となっていました。
道頓堀の南岸は現在飲食店が並んでいますが、江戸時代には茶屋が並んでおり浜側と呼ばれていたそうです。


「摂津名所図絵」道頓堀のにぎわい

大阪城開城以来京都伏見から移住していた商人たちは、1702年当時住んでいた玉造・伏見坂町の北半分(大阪三郷北組分)が武家屋敷地に組み込まれたため、道頓堀南側の西高津村域に移転させられます。
それが、元伏見坂町と呼ばれ、後に坂町と通称されるようになり、千日前に隣接していることからやがて茶屋や見世物小屋が集まって南地五花街(宗右衛門町・九郎右衛門町・櫓町・阪町・難波新地)の一つに数えられるほどになり、千日前はいっそう賑わいを増すことになります。
なお、坂町と坂町裏の難波新地1丁目が現在の千日前1丁目にあたります

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