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ミナミ 千日前について(2)

歴史あるミナミ 千日前を少し詳しく調べてみました。なお、資料索引は、本稿末尾に記します。


saijo

こうして、道頓堀近辺は賑わいを見せますが、今のアムザの位置にあった刑場から南側は、まさしく死者の世界。刑場には晒し首が並べられ、首洗い井戸や人骨が積み上がった灰の山まであり、墓地と火葬場、斎場のある不気味な場所として古典落語の「らくだ」にも登場します。

しかし明治維新により明治3年(1870年)に刑場が廃止され、1874年には墓地と火葬場も阿倍野へ移されます。
跡地利用をしたい行政は、それらの跡地を一坪につき、なんと50銭のお金を付けて払い下げますが、それでもなかなか貰い手がありません。そこで、行政はこの地域での見せ物小屋を許可します。

「斎場」の写真(「上方」10号)

そうした中、1885年阪堺鉄道(現在の南海電気鉄道)難波駅が開業します。
すると、それまで道頓堀を中心に賑わっていたミナミの人の流れが変わり、街は千日前から南海難波駅へかけて拡大していきます。
1897年、今のTOHOシネマズなんばの場所にあった南地演舞場で日本最初の映画興行シネマトグラフが評判を呼び、その後映画は娯楽の中心となっていきます。1910年頃には第一電気館、大阪館など7つの映画館が営業していました。
千日前から当時溝端と呼ばれていた南海通りにかけては軽業、奇術、芝居などを見せる小屋や寄席、映画館が建ち並び、その周辺に飲食店ができて新地や花街とは違った庶民の歓楽街として発展していきます。

1899年発行の「南海鉄道案内」によると千日前は「左右皆寄席興業物を連ねて北海道の熊やインドの大蛇など奇獣異鳥この世にある物は必ず一度はこの地を通っていく。また鳥獣だけでなくコビト、大男、釈迦の骸骨、中国の太夫、東京の花魁、白川の田植え女、琉球の貝採り、女の子を集めた妖しい舞踊や子供を集めた可憐な芸(旧仮名遣い文を現代語に意訳)」など多彩な見せ物を集め、「横井座の芝居、鶴谷団十郎一座の戯劇、播重席の女義太夫、奥田席の大運動会、英人による催眠術などが繁盛している」と紹介しています。
また、現在の南海通りの北側にあった新金比羅宮の境内では大阪相撲の興行も行われていたそうで、1887年には、アメリカ人・スペイン人といった外人力士を交えた興行の記録もあり、現代のプロレスのように庶民に楽しまれていました。
大阪市明細地圖(1895年・明治28年)

しかし、1912年1月16日「ミナミの大火」により道頓堀の南側、戎橋筋東側の難波新地から千日前、高津新地、生國神社あたりまでが消失、これらの地にあった遊郭は移転して消滅します。
繁華街消滅の危機に、南海電鉄社長大塚惟明(これあき)は大型レジャー施設の建設を計画し、大阪の大物興行師である山川吉太郎に協力を要請します。彼は当時、千日前で活動写真館を経営し、役者をアイドルとして売り出す才能の持ち主でした。
こうして、1913年1月千日土地建物(後の日本ドリーム観光)を設立、同時に火災の跡地で土地が安かったことも幸いし、現在ビッグカメラなんばになっている1300坪の広い土地を安価に購入することができました。
ここに地下1階地上3階の円形ドーム型の巨大な建物「楽天地」がオープンします。

「楽天地」は多くの尖塔を持ち屋上には展望台を備え、夜はイルミネーションが輝いて「不夜城」と呼ばれます。
地下には水族館やローラースケート場からパチンコなどの遊戯施設を設けた屋内遊園地があり、地上部分には大劇場と小劇場が2つ造られました。
大劇場では外国映画が上映され、小劇場「朝陽殿」はお笑い。ウグイスチャップリンや花菱アチャコらが出演していました。また、もうひとつの「月宮殿」では少女琵琶劇が上演され、後の田中絹子も出演するなど老若男女すべてを楽しませる施設として千日前復興の起爆剤となります。
「楽天地」

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