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神戸市北区 淡河城趾 2014年1月15日
1:淡河城趾
2:同 神社入り口
3:シンボルの櫓
4:石碑
5:北側・道の駅淡河
6:濠跡
7,8,9:淡河家廟所


三木城趾を巡った後、そこから10km東にある淡河城趾に行ってみた。


天正七年三木合戦の折には三木城の別所長治とともに秀吉軍と戦った。
淡河定範は敵陣に牝馬を放って撹乱したという。

三木城趾の合戦図より


淡河城趾碑文
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承久四年(1222年?)淡河在地頭職に補任された北條右近将監成正が築き後淡河氏と称し土地の豪族として連綿と続いた。
弘安の比叡尊上人に帰依し石峯寺の再興をなし庄内の山林を殺生禁断の地と定めた。
また正応二年一遍上人寂後時宗の再興に尽力し創宗の基を築いた。
南北朝の頃淡河氏は南朝に加担し為に再三北朝軍が来攻し城を囲んだ。
その後は赤松氏の旗下となり播磨国境の守備の任を帯ぶ。

嘉吉の乱には来攻せる山名軍に降り事なきを得。
応仁以降は赤松再興にその策源となり後三木城主別所氏の旗下に属す。
天文二十三年(1553年)三好氏三木城を攻む時当城へも来攻落城したが永禄元年(1558年)旧に復した。

天正六年(1578年)二月別所長治織田信長に叛き為に羽柴秀吉三木城に迫る。
城主淡河弾正定範同六月二十七日敵陣に牝馬を放ち羽柴秀長を敗走せしめ大勝を得るも後悉く三木城に入る。
以降当城は有馬刑部郷法印則頼の居城となり三千二百石を領す。
後山崎合戦、長久手合戦の功に依一万五千石増封せらる。然るに慶長五年(1600年)関ヶ原合戦起るや有馬氏東軍に加担し同十月戦功に依有馬軍三田城に二万石を賜い移封するに及同六年正月以降廃城となる。

元和元年(1615年)濠及土塁を毀つ。城地は竹慶寺の黒印地として維新まであり。
昭和十年(1935年)旧城主の裔有馬頼寧伯爵の揮毫を建つ。
昭和四十九年(1974年)十月天正七年淡河合戦三百九十五年を記念し碑文を草す。

 謹誌 淡河町南僧尾住 下田 勉
 建立 裔孫久留米市安武町住 淡河 浩
 協賛 淡河本町 史跡を護る会
 筆者 三木市本町住 鈴木信次
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なお、この城跡の南側に丹生山(515m)がある(淡河家廟所・写真7の後ろに見えている山)。
山上には丹生城趾と丹生神社がある。

丹生神社のいわれ(神戸市HPより)
平清盛が福原に都を移した折、日吉山王権現を祀って月参りしたと伝えられ、もとは南北朝時代に多くの僧兵を持つ明要寺の鎮守社であった。この寺も、三木合戦で別所方に味方したため秀吉軍に焼打ちされた。その時、多くの童子が殺され、稚子ヶ墓山に埋葬されたと伝えている。


国道428号線傍にある丹生山への古い道標

2006年5月 丹生山縦走
2007年2月 丹生山縦走
2010年 丹生山〜シビレ山