I. 父(1912-1999)の戦争体験
1. 応 召〔姫路三十九連隊に入隊から広東派遣迄〕
産青連兵庫県連合の結成以来、私の仕事は増えて来た、町村連盟の結成式には必ずといって良い程招かれた。県連合は毎年大会を秋季に開く事としていた。昭和十三年九月十四日その年の大会を九月二十四日の秋分の日とし、会場は神崎郡田原町(現在の福崎町)の小学校と定め、当日提出すべき大会宣言・決議案及び地方より提出されて居る諸問題を討議していた、そのとき、父よりの電話の旨給士が伝えて来た。何事かと電話に出た。
私「もしもし、お父さん、何や」
父「召集令状が来たよ」
私「そう何時入隊や」
父「九月二十日に三九に入隊や」 *三九(姫路歩兵三十九連隊)
私「そう、じゃ、明日一応帰るとしよう」
と電話を切った。
会議室に戻って、そのむねを話すと、それは大変だ「お目出度う」と列席者の声、いよいよ来るものが来た、と思った。我が支会でも私の一年後輩の竹内君が現役で入隊し、一期の検閲を受けて、中支に派遣され、戦死の悲報が入って居た。私は取り合えず帰郷した。部落からは鈴木夏夫君が、又従兄弟の衣笠朱治君にも来ていた。朱治君は前にも一寸触れたが、叔母衣笠ますえの三男であった、叔母には五男・二女があって、長男は日支事変早々に予備役で召集され、北支で戦死を遂げて居た。そうしショックが抜けやらぬ中に又朱治君の召集、口には出さないが、その顔色は冴えなかった。
「恒ちゃん、朱にも来たのや」と力無く私に語りかけた。
「体をくれぐれも大切にしいや」と弱々しい、言葉を残して帰って行った。
2. 結 婚
私はその年の五月頃であったか、長らくお世話になって居た、神戸山手小学校の長岡祐治先生が突然支会事務所に来られ、「実は私の母が経営している裁縫女学校の教師をしている、女性を紹介するから、見合いをしてみたら」とのことで、七月十日岡山市旭川河畔の同校を母と共に訪ねて、見合いをし婚約した、結婚式は十月頃と定めて、準備を進めて居た。其処への召集であるから、結婚についても、どうするか考えねばならなかった。十四日取り合えず、仲人の長岡先生にその旨を知らせる為に訪れた。奥様が出で来られ、「其は大変、早速品子さんにも、お知らせしましょう」と、私は玄関で、お暇して帰郷の途についた。車中の人となって、令状と言う一枚の赤紙が、かくも青年恒雄の人生行路に大きな節目を作るものかと・・・宵闇迫る播州平野を眺めつつ・・ひしひしと迫るものを感じた。
列車が姫路駅に近づくと白鷺城が見えてきた、数日後には自分もあの城下の連隊の一員となるのだと思うと、又複雑な気持ちになるのであった。
生家に着くと、流石緊張の色は隠せない、近所の人達が挨拶に訪れて居る。座敷や床の間も整頓されて、仏壇には灯明が掲げられ、父も着替えて身なりを整えて居た、母は台所に立って忙しくしている、親戚の人も手伝いに来ていた。
私「只今、帰りました」
父「おお、帰ったたか、御苦労」
母が暫くして、風呂を勧めた、促される儘に入浴していると、母が風呂の小窓から顔を出して、
母「恒雄・いよいよ来たな・・」
暫くして・・・・
母「岡山の方はどうする、こんな事になっては、もう話しが無かったものとするのが、良いかもしれないな・・・」
私は湯船にしたりながら・・・そうかも知れぬ・・生死の程は神のみぞ知る・・・そんなことを思いながら、母に・・
「今日帰るときに長岡先生に召集令状の来たことを、知らせて置いた。お母さんの言う通りにしなければならないかも、知れないな・・相手の・・」と風呂を出た。
平素心易くしている人達が「今度は御苦労様です」と次々と挨拶に来て下さった。
十四日の夜は何時の間にやら明けて十五日朝早く帰途に着いた、支会事務所に出勤して事務の引き継ぎ、壮行会と慌ただしく過ぎ、大楠公を祀る湊川神社に詣で出征の御祓を受けると、いよいよ征くのだとの感慨が湧いた。十五日夜遅く帰ると、長岡先生から、今夜はどんなに遅くなっても、是非来るようにとの伝言が届いて居た、先生の宅は諏訪山公園の東下に在った。
玄関を開けると、奥さんが、
「いらっしゃい・・品子さんが来て居ます」との事で在った、奥さんは更に続けて・・
「山本さんの召集の事を早速岡山へ電話したの、そうしたらね、品子さんが、もう一端決めたのだから、どんな事が在ろうとも・・・」と言葉を詰まらせて・・・・
「さあ、お会いになって・・」と座敷に通された。入ると校長先生と一緒に、彼女が端坐していた。
校長先生「今も、嫁が申し上げた通りです。それで形式だけでもと『食台を鋏み、私と彼女と向かい合い』上座に校長先生が坐られ、若奥様のお酌で・・
「お目出度ごさいます」白磁の杯で三・三・九度の杯を交わしたので在った。是が私達の結婚式であった。
一夜明けて先生たちが有馬温泉を勧めて頂いたが、召集が来た時、金田さんが、自宅で二人で心静かに飲もうとの約束が在ったので、有馬行きは実現出来ず、須磨の金田さん宅に趣いた。
話しは変わるが、私は金田さんが着任されてしばらくして謡曲の手ほどきを受けた。毎週一回、当初は三人が弟子入りしたが、二人は落伍し、私一人となった。先生は宝生流の名士で、神戸にも同好の士も多く、枚方の香里の巽先生を招いて本格的に自らも練習されていた。新年の謡始め等には先生のお供をして、謡の会に連れて行って貰った。そんな訳で十六日の当日も、お復習い中の「小督」の仕上げをして頂いたのであった、何事にも厳しい方で当日も・そこは違う・此処はこうだと・容赦無く扱われた。稽古も済み奥様の手料理で心往くまで頂いた、年を経た今日も徒然に謡を楽しめるのも、先生のお蔭である、特に戦地に派遣されたときも、携行した小謡の本に、どれほど慰められた事か、感謝に堪えない。
横道に反れたが、十六日夕方金田さんの宅をお暇して、長岡先生宅に帰り、静かに第二夜も共にした。折から諏訪山動物園のライオンが吼える声が聞こえた。百獣の王ライオンの獅子吼えだ。
秋の夜や 獅子吼に愛を 確かめぬ 恒雄
十七日支会事務所を訪れてお礼を述べて帰途に着いた。郷里の駅・国鉄山陽線の竜野駅に着いたのは、夕方に近かった、駅には弟二人と兄嫁の座に着いた品子が迎えに来ていた。
当日仲人の校長先生も私の帰りを実家で待って居て下さった。帰ると先ず、先生に礼を述べて、私は結納を収めて居なかったので、失礼ですがと、支会や同僚その他関係方面から頂いた餞別を開いて、残らず結納としてお納め下さいと差し出した。その金額は幾らであったか忘れたが、こんな結納の納め方も、恐らく前代未聞であったろう。其から父母・兄弟座敷に集まり仲人の先生を中心にして三・三・九度の杯と固めの杯を母の用意した所に従って行った。夜は急遽岡山から駆けつけた、石井の義父も混じり、杯を交わしたと思う、何分にも、取り込み中はっきりとは覚えて居ない。
翌十八日は天気は晴れ、私は生まれてから二十有七年、親しんだ故郷の野山を紹介しようと、妻を連れ出した・・途中墓参りもして・・ある時は父母兄弟と共に落ち葉をかき、ツツジ咲くころ母の手作りの弁当で、一家総出で、孟宗藪の手入れに汗を流したこと、秋には朝露に濡れながら松茸を取りに行った事等々、思い出は尽きない。いまは小学校になって居るが、当時は父が村人・老若男女・と一諸になって開墾した盆地であった。そこには、萩・ススキ・桔梗・女郎花が咲き、盆地と池の接点には、一寸した湿地があり鷺草・モウセンゴケ・センブリ等が生えていた。
召集令状・結婚・入隊と言う、戦時下特有の慌ただしい中で、二人には此の花野の散策は、今日的な「ハネムーン」であった。坐り心地の良さそうな所を見つけて、二人だけの座を定めて、往く雲を眺めながら、慌ただしく過ぎた・十五・十六・十七・と此の十八日の四日間、残る入隊迄の二日・語るには余りにも切なく、楽しい語らいは又沈黙に変わり、沈黙はある時は涙となり、激しく萩の花を散らす事も在った。妻の俳句に
明日は征く 夫と来て泣く 萩のかげ 品子
がある。
十八・十九日は忽の中に過ぎて、明日二十日は入隊で在る。当日は激しい雨で在った、部落では応召があると荒神様にお参りして、村人より祝福の言葉を貰って出発することにしていた。激しい雨の中、鈴木夏夫君と共に荒神様にお参りし、続いて、氏神様と国鉄竜野駅前で村全体の入隊者に合流し、壮行の言葉を頂いて車中の人となった。三十分程で姫路駅に到着し、姫路歩兵三十九連隊の留守隊に着いたのは九時頃であった。衛門で肉親と別れ入門、編成の結果、三十九連隊補充隊第一中隊に編入された。配給される服装品を着用して、山本陸軍二等兵が生まれた。
「上官の命令は、朕の命令と思え」二等兵生活の第一日は慌ただしく過ぎて、夜を迎えた。初めて、藁布団の寝台に身を横たえた時、室内の電灯は消え、衛兵の吹奏する消灯ラッパが、夜空をつんざく様に響きわたった。
3.軍隊時代
3- i. 入隊の頃 --
昭和十三年九月二十一日、起床ラッパの音に新しい軍隊生活が始まった。三箇月の、歩兵の基本教育が始まった。戦局は、一人でも多く、一刻も早く兵員を戦地に送らねばならない、情況に迫られて居た。「不動の姿勢は、軍人基本の姿勢なり」と歩兵操典により教育は進行した。一寸気を抜くと、ビンタが飛ぶ、しかしこうした、軍隊生活も気の持ち様で、是ほど暢気な所はない朝から晩まで、訓練に次ぐ訓練で腹が減る。しかし定時が来れば食事となり、腹一杯何の心配も無く食べられる、精神的に何の屈託も無く生活が続く。それが証拠に、私は一期の検閲終わった十二月の始めには入隊当時四十五キロしか無かった体重が、六十キログラムとなった。今日八十才の長寿を迎えて、肺嚢胞の手術に耐えられたのも、こうした訓練のお蔭かも知れない。
十月頃であったか、幹部候補生の採用試験があった。当時の事、口頭試問に、教育勅語が出たが、私は暗唱していたので、難無く切り抜けた。検閲が終わると、星が一つ増えて一等兵となった。年末には我々の同期の戦友達は、七月に入隊した若い兵隊と共に大部分が外地に派遣された。隊内はこの為に、ごったかえした、私は何故かこの動員には掛から無かった。翌年十月(?)日支事変当初に北支那へ派遣された、沼田部隊が復員してきた。交代である。若し尾崎の従兄弟の一夫君が戦死しておらなかったら、帰って来ているのにと、悔やまれてならなかった。
十師団の復員であったが幹部候補生志願者には適用せられず、私は改めて歩兵三十九連隊第一中隊に編入され、乙種幹部候補生として、昭和十四年(1939)の一箇年間姫路の原隊で教育を受け、翌十五年(1940)四月一日完了し、陸軍軍曹に任ぜられた。
3- ii. 南支那広東に派遣命令出る --
昭和十五年五月一日広東駐留の第七患者輸送部本部に転属命令が出た。転属が決まると、外泊休暇が与えられ、郷里の生家と妻の里で休暇をゆっくりと過ごした。生家では、此の日のために、母が準備していた・お守り・の仕上げに掛かった。此のお守りと言うのは、先にも書いたが、私が生まれた時母は難産で、竜野の常照寺にこもり、そのときに頂いた「清正公の南無妙法蓮華経」と書いた小さな掛軸で、母は是を表装し、その裏に兄が観音経の一句を書いて、妻の縫った袋に入れて完成した。私は此のお守りを肌身離さず携行した。私は本部付きであったので、帯刀を許された。予め今日の日を予測して、刀の準備も進めて居たが、携行袋も、妻が縫って呉れた。刀であるが我が家には大・小二本あった、他方弟の茂が「私の今日の日を下宿の主人に話したところ『私の家に古びた刀身が一振り在る、宜しければ、差し上げるから、兄さんに持って行って欲しい』との事で貰って居た」当時戦友に刀研師が居て鑑定してもらった所、この方が良いとのことで、携行した。
五月七日宇品港出発と決まった。同行者に柳川伍長が居た、宇品港迄は兄貞二とその長男丞嗣(当時六才)母と妻が同行した、丞嗣が広島迄の長旅に「おっちゃん、此処未だ、日本か」と目を白黒させて、車中の者を笑わせて、今も語り草と成っている。
その夜は広島の相生橋の麓の相生旅館にとまった。夜間、兄の背広と帽子を借りて街に出た、兄は身長六尺に近かった、私は五尺五寸で身長の差が五寸あった、ダブダフのズボン、正にチャプリンのスタイルで内地での最後の夜を楽しみ、妻に指輪を買い与えた。一生の記念に成ると思って居たが、その指輪も結婚指輪と共に、戦争が激しくなると、政府は「ダイヤモンドの買い上げを開始し・金・白金の強制買い上げ」を実施し軍用器材として、供出してしまったとの事で、今はその影は見る術も無い。
以来妻の指には、五十有余年を経た今日迄、リングの影が見えない。
五月七日天候は晴れ、海は凪、私供を乗せて行く病院船氷川丸は、緑の十字を鮮やかに、海水に映して沖合に停泊していた。他隊の同行者と合流し艀に乗って、氷川丸に向かった。
見送る人々を振り替える事さえ、恐ろしい気がした。宇品港を出て七日目、船は十四日に広東省黄浦港に入港した。同日広東に到着し第七患者輸送部本部に着任した。
3- iii. 広東における生活 --
部隊は広東の河南にあって、小さい病院の跡だったらしい。前には蓮池が有り、アヒルが飼われていた。部の蛋白供給源でその数は百羽を越えて居た。部隊長は勝村中佐であったが、ほどなく帰還されて堀井隆佳中佐が着任された。私の仕事は本部書記で軍司令部より、命令や色々な書類を受領して来て、部隊の幹部に報告整理し、陣中日誌を書くことであった。着任後半年程して兵員の交代が行われた、古兵は事変当初よりの勤務者で、新兵の来着で古兵の悦び様はなかった。戦局は次第に緊迫し、着任当時順調に届いて居た内地よりの、慰問袋や便りの類も、次第に遠退き少なくなった、又内地より送られる兵員も昔の様に、堂々たる体格の甲種合格者ばかりで無くなった。兵役法の改正で丙種合格者迄、兵として採用されるようになったとか、中には眼の悪い者、背丈の五尺に足り無い者等々、見るからに見すぼらしい姿の兵が来るようになった。
3- iv. 東山教習所・広東錬成所の設置 --
広東の南支派遣軍の司令官は、陸軍大将今村均閣下であった、内地より送られて来る兵員の体力つくり対策として
(1)軍の中隊長に対し、保健衛生知識の普及徹底を期する
(2)虚弱兵員の体力増強
を図る事とし、此の政策を実現するため、東山教習所、広東錬成所を開設せられた。それぞれの長に我が本部長の堀井中佐が任命された、此の二つの施設は広東の河北の執信中学校跡が選ばれた。煉瓦造りの立派な建物で、庭にはムクゲの花が咲き、池には蓮が咲き、部隊も隊長と共に此の中学校に移り住む事となった、私に与えられた、居室の窓辺にはバナナ・パパイヤが一本づつ生えて居て、年中実を付けて私を楽しませた。付近には、孫文の革命に協力した二十七人の烈士の墓が有り、環境も良く、二十七烈士の中には神戸出身の日本人も居て、その名が刻まれていた。
東山教習所は、軍司令部軍医部江口中佐を主査とし、直接の運営には当時東山野戦病院の岡田し郎軍医大尉が当たられた、私はこれら上官の命を受けて、事務局を開設した。事務局には輸送本部所属の班より、大学出の兵五名を選び、各講師より提供される教材の印刷に当たって貰った。教育期間は一箇月で、教習生は中隊長で、人員は三十名合宿で在った、食事の世話、教室、教材の準備等々忙しい毎日で在ったが、江口中佐、岡田大尉其から体育係として来られた、高木中尉等我々を良く面倒見て頂き、働き甲斐があった。教習所は幾回か回を重ねる中に戦局が急を告げることとなり、岡田大尉・高木中尉殿達もそれぞれ転属せられ、閉鎖され昭和十六年(1941)十二月八日対米英宣戦布告となり戦局は泥沼化し此の教習所も再び開設されることは無かった。
広東錬成所は、広東軍司令部管内の各部隊に内地より送られてくる虚弱な兵員の錬成に当たり、高木中尉が主となり教育を担当された、教習所と同様戦局の激変と共に無くなった。我々も患者輸送本部本来の仕事に戻り、香港攻略戦に因る傷病兵の輸送に参加した。
南支那派遣軍に於いても、大移動が実施せられ、仏印、マレイシヤ、ビルマ等大戦果を納めたかに見えた。香港も陥落し昭和十七年の十二月八日の一周年記念日には、盛大なるパレイドが行われ、海珠橋では大花火大会が催される等々、日本の戦勝が祝福された。
4. 内地帰還
昭和十八年(1943)の正月、例によって司令部から命令その他の書類を貰って、部隊長に提出した所「山本、今度はお前を内地へ帰さねばならぬこととなった。」とのこと、下士官実役〇年以上服役の者は、必ず一度内地に帰還せしめよとの、極秘軍達が出て、私は其に該当した。早速手続きが取られ、四月二十六日付けで姫路第五十四部隊に転属となった二十八日香港出航帰還の途に着いた。
何処で、どうして私が帰ると言う情報を得たのか、河南駐屯中、宣布工作の一助として、日本語学校が部隊で開設され、私は一学級を担当したことがあった。講師と言っても、広東語が出来る訳でも無く、英語は中学の低学年の実力有るか無し、しかし力を尽くして教えた、生徒の出席率も良く、ある時学期末に学芸会を行った、私か「舌切り雀」のシナリヲを作り、自らお爺さん役となり、生徒と共に一夜を楽しんだことが在った。これら生徒数人が、自らの写真や土産物を持って別れに訪れた。楽しく半日を過ごした。象牙の箸、パイプ等を頂いた。
昭和十八年と言うと戦局も傾き加減で、情勢は余り良くなかった、二十八日に香港出航の時には三年前赴任の時に乗ってきた、病院船氷川丸が敵の無差別攻撃を受けて犠牲となり、緑十字のマークを空に向けて、座礁していた。私共の乗った輸送船は、暁天丸と言い、香港作戦の時九龍ドックで進水したばかりのものを、戦利品として押収し、日立造船の前進で在る大阪鉄工が艤装した貨物船で、三千トン級の船であった。当時はもう資材不足で、エンジンも大きな物が取りつけられず、出力も思うように出なかった。香港を出るときから、敵の潜水艦情報が刻々と流され、暁天丸は恰好の獲物として、狙われ続けた。
暁天丸(文化資源デジタル博物館より)
ドカーン・バリバリ・ドカン・ドーン内地へあと三日と言う、五月五・六日の霧深く、視界〇に近い昼頃、舟山列島沖で敵の潜水艦の攻撃を受けた。船尾の砲門も開いたが、何か空しい音に聞こえた。一大事と甲板に出た、幸い船は沈んで居ない、エンジンの音もする、シメタ・・同行の兵達に「大丈夫だ」と怒鳴った。聞くところに依ると、此の暁天丸は艤装の時三つの船倉を作り、それぞれに独立性を持たせた、敵の魚雷は一番船倉に命中し船首は飛ばされたが、エンジン船倉は安泰だった。速力は落ちたが航行は出来た、日本の駆潜艇が二隻三隻と集まってきた、敵の潜水艦は見えなくなり、駆潜艇に守られ、内地へ後三日の旅、内地の山々が見えて来たときの涙、あれが感涙と言うのだろう。
似島の検疫を終えて、宇品港に上陸、姫路に向かった、時に五月十日、義兄の岡山駅勤務を思い出し連絡して見た所成功し、岡山駅で義母・義兄・妻・長男が出迎えで呉れた。昭和十五年五月以来の再会で在る、妻はイガクリ頭の長男を抱き上げで「そうれ、お父ちゃんょ」と私に見せたが、てれくさそうに、そっぽを向いた。是が長男との初めての対面で在った。数分に満たない停車中の面会で、出発の汽笛と共に姫路へ・姫路へ・・・
五月十日中部第五十四部隊に到着し(輜重隊)関係者に申告し、内地での第一夜を迎えた、四日間の隊内生活を終え、召集解除となり自由の身となり、眺める白鷺城、故郷の竜野駅に着いたのは果たして何時であったのか覚えて居ない。
生家に着き、父母の前に頭を垂れ、仏壇に合掌したが、只涙であった。「只今帰りました」の七文字も声にも成らず、果たして父母に聞き取れたか。
5. 召 集 解 除
広東よりの帰途、魚雷攻撃と言う、アクシデントに九死に一生を得て五月十四日(昭和十八年)召集を解除されたときの気持ちは、本当にこれで帰ったのだとの解放感と同時に、吸う空気までが美味しく感ぜられた。生家で一週間、妻の実家と言うよりも、妻や子供の寄遇先で一、二週間過ごしてから、召集時に公私共に厄介になった、金田爾郎先生を訪ねる事を発意した。先生は産業組合中央会兵庫支会の専務理事として迎えられた時は、関係者が三顧の礼を尽くして実現したもので有るが、私が広東駐留中に意見が対立し、退任せられ、郷里の鳥取県東伯郡御来屋町に隠遁せられ、時には付近の農業高校の講師を勤めておられたらしい。先生の宅は森と言うよりも、防風林の中にあった。日本海の荒々しい風雪を避けるためのこの地方独特の景観である。
予め列車時刻を知らせて置いたので、雨の中をわざわざ長靴を持って先生自ら出迎えて頂いた。二晩泊めてもらい、四方山話に花を咲かせた。興ずるままに、召集間際まで教えて貰った、謡曲もうたった。奥様は『戦争に行っても、節は忘れ無かったのね』と拍手を頂いた。先生は苦笑いをしておられた。また名和町の名和長年公を祀る、名和神社に参詣した。『山本さん、この主人のセルを着て行きなさい』と和服に着替え、先生の山高帽子をお借りして出ていった。今も当日の写真が残って居るが、アルバムを見るたびに、公私に亘る先生の御指導の数々が脳裏を去来するのである。山本君、こんな葬式とじの書類には判は押さん・・とつきかえされたり、同じ誤りを二度する者は愚の骨頂だと、打たれた事、そうかと言うと、機関誌の原稿作成の為に、自宅にある時は有馬の鄙びた温泉宿にお供して一日を静かに過ごした事等々数え切れない。
昭和十八年(1943)六月初旬私は兵庫支会に復帰した、県庁や関係諸団体に挨拶に出向いた、行く先々で「住まいは決まったか」と心配して頂いた。私は住居の決まるまで、生家より神戸まで毎日朝六時過ぎの列車で片道二時間半掛けて通勤した。
或る日友人の岩浅氏を食料営団の本部に訪ねた。挨拶も済まさぬ中に、「山本さん家は」ときかれ、「未だ」とこたえると、私の一軒置いて隣が空いて居るとの話で、早速お世話をお願いした。場所は神戸市垂水で、省線の垂水駅より歩いて二十分位の所だった、六畳一間、三畳二間に玄関と言う小さいものであったが、環境も良いので早速岡山から家族を呼び寄せた家族は三人、始めての家庭生活であった、一軒置いて東には当の岩浅さん、又暫くして裏隣に同僚の太田君家族が加わり本当に心強い限りであった。当時物は不足勝ちで、家主の好意で菜園を貸して貰い、野菜も作った、又海が近かったので、ワカメやイカナゴの特配がバケツに一パイあった、薪も勿論配給であったので、海岸に打ち上げられる、流木を持ちかえっては、配給の足しにした。
忘れもしない事に、昭和十九年の正月にモチ米の配給が年末にあった、「欲しがりません、勝つまでわ」是が当時の生活標語であった、餅米をチンツキに出して餅にすることは簡単だが、其では余りに能がなさすぎる、其処で自家製の餅を作る事にした。先ず、餅米を蒸して、是をお櫃にとって、すりこぎで磨り潰し、是を丸めてお鏡、小餅を作った。チンツキのようには行かない、オハギのオバサンの様なものが出来た。 妻は二人目の子をお腹にして居たが、初めての水入らずのお正月である、無いものずくしの時代ではあったが、それなりに工夫をして、お節料理の準備に怠り無かった。元旦の朝祝いのとき、例の餅を普通に茹でた、蕩けてしまって、形が無くなった、鍋の底に粥状となって残った、焼いてから雑煮にすれば良かったと思っても後の祭り。親子三人「明けましてお目出度ございます」と挨拶交わして、雑煮騒動も一件落着した。次男が三月に生まれた。そのとき母が手伝いに来てくれた。母は長男に、お正月のお餅はどうしたと尋ねたそうだ。すると長男はスリコギとオヒツを持ち出して、年末の我が家のモチツキを説明したそうだが、母には何のことだか分からない。妻が横から説明してやっと分かったらしく、大笑いの中にも、涙を溜めて居たそうで、語り草になった。
昭和十八年十九年と言うと戦局は日本にとって厳しく、暗い情報が続いた。山本五十六海軍大将の戦死、アッツ島の玉砕、またサイパン島の玉砕と続いた。国民の服装も、国民服にゲートル着用と戦時体制であった。私は母に作って貰った紺の脚絆をゲートルの代用とし、頭も丸刈りにし戦闘帽を着て出勤した。社会政策も経済政策も戦争遂行の為にのみ存在した。こうした暗い情報にも係わらず。一般国民は、敗戦の二字を忘却し、神風を信じて、努力した。言論の自由も制限せられ、特に政談演説等には警察官が臨席し演説内容について一寸でも戦争批判があると「中止」が宣言せられ、演説会は流れて仕舞うこともしばしばあった。
こうした統制の波は私共の所属する農業団体にも押し寄せ、農村経済の指導体制は従来、
1農政並びに技術面は帝国農会
2経済面は産業組合
と、二つの流れがあったが、これからは二つの団体を統合する、農業会法が成立した。明治三十三年以来四十有余年の歴史を持つ産業組合も昭和十八年を以てその幕を閉じる事となったのである。当支会も解散して兵庫県農業会に移行する事となった。この為傘下市町村産業組合長大会を開催解散を宣言し、外郭団体の県下産業組合役職員の共済制度の解散等、私はこれらの案件処理に、折しも専務に就任されて居た大先輩榎本源七氏を中心に専念した、召集解除により復帰から年末迄六か月本当に忙しい毎日であった。
幸いにして無事諸案件の処理も終わり、予定の如く農業会の指導部として支会は更衣し、私は農業会の指導部の福祉部門を担当することとなったのである。
さきに記した通り、わたしは広東駐留中内地より送られてくる兵員の錬成に当たる機会を与えられた、農村は兵員供給母体である、その農村の保健衛生の向上に努力する機会が与えられ、地味ではあるが、やり甲斐を感ぜずには居られなかった。青壮年の男子は戦争に、農業生産は婦人の労働力に依存した、婦人の健康管理は社会問題の一つであった。当時は今日の様に機械も無く、田植えの如きも、漸く正条植えが普及し始めた程度であった、特に田植え時には婦人の負担を少しでも軽くすると共に栄養改善のため共同炊事が提唱され始めたのも此の頃であった。一方で農家の戸々の健康管理を徹底的に行う為、農家一軒毎に「カルテ」を作り、その家族全員の健康状態を把握しようと言う試みがなされた。私は彼の共同炊事の普及には県衛生課と共催でよく農村を廻った、又後者の農家の健康管理については、名古屋医大の外科部長の協力で、外科学生を特定の農村に一週間程度派遣してもらい各家庭の「カルテ」を作る計画をした。
当時農村には結核患者が少なくなく、しかも是を隠す風習があった。あの家は労咳だと噂が立つと結婚話にも差し支えると、隠し立てた、又住居は暗く、太陽光線が入らない部屋が多くあった。
住まいの改善、結核は不治の病でなく、直る病気だと言うことを知らせる必要があった「カルテ」を作ることは、こうした農家の発掘にも繋がり力を入れた。当時そんな夢見たいな事を言うなと、上司からも言われ予算も充分頂けず苦労したが、こんな私に二箇村が計画に賛同してくれた。村は宍粟郡三河村と多紀郡今田村であった。七月中旬その説明に三河村を訪れた、今でこそ中国縦貫道路が出来て、便利になってが、当時は不便で千種川の源である。夏の土用も近い暑い日であったが、流石山村の冷気は身に滲みた。村の役場を会場にして、村長さん始め皆さんと熱心に協議を進めて居た。そのとき「山本さん電話です」との声・・何かと出て見ると、郷里の農業会経済部の八木さんから「恒雄さんか、又召集が来た、七月二十八日姫路三九に入隊せよとのことです」と電話が切れた席に戻り電話の旨を報告した「御苦労様です、今日の打合せご期待に沿うよう努めます」と村長さん始め皆さんから、励ましの言葉を頂いて、後は駐在の新庄さんに頼み、バスに乗り込む、発車とともに「山本さんの武運長久を祈って、万歳・万歳・万歳」とその声は折からの蜩の鳴声をかき消して続いた。
6. 第二次応召に続く・・・