第二次 応召 三河村の村長さん始め皆さんの万歳に答えて、車内から別れの手を振る。バスは次第に速度を増し皆さんの姿も遠ざかる。客席に戻ると一斉に乗客の視線が、私に注がれた。「ああ・又お召しが来た」緊張感と虚脱感が襲って来た垂水の家に帰ったのは、日も漸く暮れかけた頃であった。しかし召集は家の方には、知らされて居なかった。夕食をしながら、召集の来た事を妻に告げた。一瞬、異様な緊張感が今までの和やかさを吹き消した。
第一次召集は昭和十三年九月から十八年五月迄続いた。やっとこの垂水の家に落ち着いてから、一年と三箇月に、成るか成らないかである、長男四才、次男は生後三箇月、二人は、すやすやと眠りに着いた、妻と二人になると、召集の二字がお互いを引き裂くのだと言う思いが募り、緊と抱き合って二人は泣いた。しかし、陛下の為、国の為、私情にかられては居られない。当時召集は男子としては、最高の栄誉とされて居た。翌日は事務引き継ぎの為に出勤し、会長より励ましの詞をもらって帰宅し、入隊の準備を始めた。入隊は昭和十九年七月二十八日本籍地からとの事であった。二十六日垂水の隣保の方々の見送りを受け、垂水の海神社に参拝し家族と共に帰郷した。
出征を 告げる墓参や 蝉しぐれ 恒雄
帰郷と共に、先ず先祖のお墓にお参りして、武運長久をお願いした。苔むした墓石にしみいる様に、蝉は啼き続けた。
姫路歩兵第百十一連隊補充隊に入隊
昭和十九年(1944)七月二十八日上記の補充隊に入隊し、第二中隊に編入された。前回の応召の時と異なり、階級相応の任務が、即刻課せられた。取り敢えず中隊の編成事務、二百余名の兵員の階級氏名を書いた名簿を渡された。幸いな事に、名簿の中に幹候同期の大西正勝軍曹が居た、同君は動員室に勤務し編成事務に詳しかった、軍曹の力をかりて編成を無事終える事が出来た。二十八日に入隊して二日三晩は不眠不休であった。入隊の面々は、予備役のシャキ・シャキばかりであった三十日土用の炎天下、家族の見送る中白鷺城を後に、軍用列車に乗り込んだ、列車は夕方出発一路門司に向かった。
昭和十九年(1944)八月四日門司出港、一路南下・・門司港に集結した兵員は、我々姫路部隊の外想像も出来ない数であった、輸送船団は二十七隻に達し、出港は四日と決定し、私共は輸送指揮官乗船の、タンカー船「橘丸」に乗り込み、船団の中央を進んだ。出港当日の軍の命令では「軍は本船団の半数が目的地に到着することを以て成功と思う」とのことであった、出港二・三日にして早くも友船は敵の魚雷を受けて轟沈した。ボッ・ボッと吹き鳴らす力無き汽笛の音が、今だに私の耳から離れない。船は一路南下し高雄に到着し二・三日休止した、一日上陸が許され、家族に台湾産の飴を求めて送ったが、復員後聞いたところ、辛うじて着いたらしい、これがこの度の召集期間中、私と家族を繋いだ唯一の郵便物であった。
停泊中、台風に襲われ係留中の船が海岸に打ち上げられると言う、惨事もあったが、船団は、「バシーイ海峡」を渡り比島のアパリに到着した。時に八月二十四日であった。
アパリで門司出港時の船団は解かれて一同下船し、アパリからマニラへ、マニラから北ボルムオのタワオへと百屯舟の機帆船行軍が開始された。敵の魚雷攻撃を避ける為の苦肉の作戦であった。南の国の月は冴え、望郷の思いをかりたてる、機帆船は当時瀬戸内海を走って居た小さいものであった。炊事の設備も二・三人の乗務員を賄う家庭用の鍋釜があるだけて、乗り込んだ兵員には一日に茶碗一パイの飯が当たれば良い方であった。因みに中隊は四隻の機帆船に分乗したと思って居る。夕方停泊すると、対岸に泳いで渡り、椰子の実を採って来ては、食料の足しにした。
甲板に 椰子わりて飲む 盆の月
一服の 薬に頼り 夏の航
船内では南京虫やマラリアの熱に悩まされた。
アパリ出港以来四十二日目の十月六日タワオ(北ボルネオ)に到着した。此処に三菱系の農園があった。その施設が宿舎に当てられた。付近一帯は椰子の木に覆はれ、所謂椰子林の中にあった。我々は毎日この椰子林に敵の上陸を予想して濠掘りに専念した。種類は、小銃・軽機・重機・テキ弾筒等の種類に及んだ。しかしその濠に据えるべき兵器は何一つ無かった、姫路出発したときの儘の装備で、台湾・マニラで装備は補充される筈であったが、期待は裏切られ復員時迄補われることは無かった。兵器・被服は勿論毎日食う食料も規定量に遠く及ばず、特に我々の常食米の如きは一日茶碗一パイ位しか与えられ無かった。しかし夕方になると、軍歌演習もした、お正月が来ると、タビオカをついて餅を作り内地を偲んだ。
当時現地人は我々に好意的であった、沢山の山羊を飼って居た老夫婦が居た、この夫婦が多数の山羊を連れて椰子林の中を毎日巡回していた、この夫婦が濠を掘る兵隊にタビオカで作った、蒸し物を毎日差し入れてくれた、兵糧不足に悩む我々には、地獄に仏とは此の事かと思って感謝して居た。
マラリヤに倒れる兵も次第に増えて来た。中隊では桑田兵長が最初の犠牲者となった。荼毘の炎があの椰子林を真っ赤に染めた事は私の脳裏から消えない、又故郷の生家の東隣の「辻川の正ちゃん」が一緒に召集になり、彼は第一中隊に編入されたがマラリヤのため戦病死したのも此の頃であった。 句帳を開くと
軍歌止んで 蛍火の濃く 流れけり
椰子林に 病む兵の皆 妻子あり
兵病める 部屋に蛍火 流れ消ゆ
亡き戦友の 側に病む兵 蠅追わず
枕辺に 戦友の供えし 椰子一つ
椰子林に 桑田兵長 鎮まれり
正月も過ぎると、敵機の襲来も激しくなってきた、そうこうする中に西海岸ブルネーへの転進命令が出た。
是より先十一月現地で部隊の編成替えがあった、私は歩兵第三六七大隊第二中隊の第三小隊長を命ぜられた。転進命令と共に、中隊に別れて先発し「ブルネー方面への兵力転用の為の作戦道の修理」の任に就いた。バロンに拠点を置き、行軍の宿舎となるべき、第一の小屋作りに当たった、小屋の屋根に用いるアタップ(椰子の葉) を背負って皆の隊員と共に運んだ、又父に教えられた、草鞋をマニラ麻で作り、軍靴の代用に備えた。
当時の句に、
炎天下 皇軍の列 蝶わたる
ジャングルの 中を軍靴の 征くばかり
山蛭を 葉さきに見つめ 兵を待つ
蜩の 鳴いてジャングル 暮れにけり
檳榔樹 くろぐろとたち 十字星
驟雨来て 草鞋作りの 兵濡れぬ
ジャングル内のスコールは凄い、今までの道が、忽の中に河となり、背嚢迄塗らすこともしばしばで・・モステンの手前を流れるカロンバン河がスコールで増水し、あの大きな吊り橋が流水にブッタ切られでしまった。平岡兵長はこの時遭難した。私は同行の林軍曹の報せで、是を知り、在留邦人や現地人の協力を得て、平岡兵長の捜索とカロンバン河の大吊り橋の修理に当たった、捜索は空しく見あたら無かった。河岸には「合歓の花」が咲き乱れ、是に蝶が群がり翔び交い、兵長を呑んだ濁流は嘘の様に水嵩も減り、河の中央に新しく洲が出来て居た。二抱えも三抱えも有る大きな樹を切る鋭い音、ドオーと地響き立てて河の新しい洲に向かって倒れる、現地の人の斧一本の見事な腕前に感心した。
夏蝶の 濁流わたる 真昼かな
応急修理もなり、中隊本隊を渡し終えた、私は兵と共にモステンを後にした、道はいよいよ険しくなり、濁流に架けられた丸木橋を渡ったり時にはお互いの体をロープでシバリ合つて激流を渡ったり、難行は続いた、食料の不足・マラリアに因る犠牲者は募り始めた。
折からサンダカン方面から転進してきた他隊が馬を連れてジャングルに入って来た、しかし馬はジャングルには叶わない、次々と倒れて行く。倒れた馬は中には大きな河に捨てられて居た、これを魚が大きな音を立て喰って居る、中には大きく跳ねて熱帯の暑い日差しに光って居た。
私共も此の馬肉を頂いた。美味かった事・・今まで黄色くチョロ・チョロと出で居た尿が、澄んだ、真っ白な尿が勢い良く出た、その時のあの・・放尿の心地良さ・・一生忘れる事は出来ない。馬を喰え・馬を喰え・野草を入れてスキヤキ風にして食べた、焼き肉にしたり、燻製にして飯盒に詰めて携行した。しかし二・三日もすると「臭い」が鼻に付く、残念ながら捨てる外はなかった。お鏡餅の様な、大きな象君の糞が見られたのもこの頃であった。
英霊の 墓標おろがみ 青嵐
ジャングルの道端に、細い生木を削って、○○君の墓と書いた墓標が並ぶ様になった、羊歯の繁みに、時ならぬザワメキが起こる・・大きなトカゲの逃げる音である、屍臭がする、戦友の死体に群れて居たトカゲの走り去る音だと分かると、心中で合掌した。ジャングルと言うと万緑・食べる物は豊富だと思われるが、案外ない、気を付けて食べられる物は採って食べた。一寸人気を思わせるところ(廃墟の跡等)には甘藷の葉があった、又唐辛子もあった、これらは安心して食べられる食料である。
甘藷の葉の 青き浸しや 山の小屋
ジャングルに 病む兵食料 無しという
先着の 裸の兵の 雑魚を釣る
こんな密林の水溜まりにと、思われる所でも、糸を垂れると魚にありつくこともあった。
昭和二十年(1945)三月十日頃ラナウに着いた。大休止で三日程休めた、タワオ出発以来宿舎らしい宿舎も無く野宿同様・・・山蛭との同居の生活だった。疲れて軍靴を履き、ゲートルを着用した儘寝ていると靴紐のハトメやゲートルの合間から蛭が入って血を吸う。血を腹一杯すった蛭は出ることを知らず、寝返りによって潰れて血だらけになる。ことも有ろうに、痒いと思って股間に手を遣ると蛭であることもしばしばあった。ラナウは北ボルネオ最高峰のキナ山の麓にあった、宿舎に立てられた日章旗が南国特有の澄み切った青空にはためく、あの日の丸の美しかった事一生忘れることが出来ない。
灼け雲や 兵泊つ小屋の 日章旗
大休止 午睡の窓に 雲灼くる
ラナウからブルネーへの道は良くなった、簡易舗装の所さえあった、所どころに鉄木の真っ赤な花が咲き、道端にはバナナを売る、女の人影が見られるようになった。
バナナ売る 女の乳房の 陽にあらは
鐘を鳴らして、呑み明かす土人の歌声も聞こえた、しかし悲しい報せも聞いた、大隊長岡田少佐の戦病死である、
水垂るる 椰子の実 啜り給いしが
タワオで濠を掘って居るとき、馬で単身来られ、サイダーと称する朝取りの冷たい椰子の水を進めると、気さくに「美味い」と言ってよく呑まれたものだった。
ラナウ出てから四十五日歩き続けて漸く目的地ブルネーに着いた、時に四月二十五日、暫くして天長節を迎えた、しかし中隊長も先任の小隊長も途中発病の為、ブルネー入りが遅れた中隊の兵力は二十名そこそこであった。
四月二十五日ジャングル行軍を終えて漸くブルネーに到着した。私は中隊長先任小隊長が途中病気のためブルネー到着が遅れたので、中隊の責任者として行動せざるを得なかった。命令により、明石旅団長・松本参謀・佐藤大隊長(第三六大隊)・筒井大隊長(三六七大隊)と共に毎日駐留地区の陣地偵察に出た。偵察は石炭山を中心に行われた、偵察に参加しながら、こんな広い地域を現在の少人数でどうして守るつもりかと、しかも兵器らしい兵器も無いのにと疑問を感じつつ、命令に従って働いた。敵機は定期便の様に襲来する。機関銃掃射と爆撃を繰り返して行った。
幾度か 敵機を羊歯に 避けて行く
敵機を羊歯に避けて居ると、何か高貴な香りが鼻先にする、ふと見ると胡蝶蘭が美しく咲いて居るのに出会う事があった。
露深き 羊歯の中なる 胡蝶蘭
陣地偵察の作業が終わり、要図を作って大隊本部に向かった途中空襲に合い、バナナの株にしがみ付いて、もう是までかと思った。筒井大隊長に提出したが、既に戦闘が下令せられ、要図の必要はなくなって居た。大隊は石炭山を中心に配備に付くこととなった。病気のため遅れておられた、笹川中隊長や山田・原田の両小隊長もブルネー入りを終えられ、中隊の体制は整った。夜に入り健康な兵員はブルネー河畔に出て敵の上陸に備えた。私は小隊の三田軍曹、横尾兵長、長手兵長と共に荒れ果てた建物の蔭で、飯盒炊餐をして、虎の子の様に大切にしていた米を炊き「銀飯」を食べた、口には出さないが、皆には是が最後の「晩餐」との覚悟があった。
敵の艦砲射撃は益々激しくなった。ブルネー河には水上カンポンがある、その中の一軒から不気味な光が点滅している。何かの信号らしい。 光の点滅するたびに艦砲射撃が来る。突然中隊本部から伝令が来た、「中隊本部の位置に引き上げよ」との事であった。兵員を集めて本部に引き上げた。本部では焚き火をしてざわめき立ち、異様な興奮状態にあった。
中隊長に、引き上げた旨申告すると・「司令部の位置まで退却する事となった」との事、飯盒の蓋でブランデーを頂き健闘を誓いあった。病気の為に山に残した戦友との連絡はときくと「未だ取って無い」とのこと・小隊全員で「オーイ・オーイ」と叫んだが連絡は就かなかった。私の小隊でも高松上等兵を病気の為宿舎に残して居たので、退却の途中一緒に連れて行くべく立ち寄ったが、その影は見えなかった、どうしたのか、私の配慮が仇になったらしい。夜陰に乗じて、ブルネー渡河の予定は遅れてついに夜明けとなった。
ブルネー河を渡って上陸した所がサエ山、上陸用舟艇はマングロープの茂みの中に座礁した、ザブザブと水の中を掻き分け、掻き分け上陸した。夜になって盆地を見下ろすと、敵の幕舎が見える、音楽を奏でパーテイーでも開いて居るのか、笑い声さえ聞こえる、ある時は特攻隊をと言う計画もあった様だが、軍司令部の位置迄退却が決定した、私は後衛を命ぜられて、中隊の後方警戒の任に当たった。この時大隊の虎の子・機関銃が火を吹いた。敵のお返しは凄く、友軍に犠牲が出た。私の小隊でも阿部兵長が股に砲弾の破片を受けた。やっとのこと歩く事が出来た、不幸中の幸いであった。その時の句に・・・
血痕の 続ける道や 炎天下
砲弾の ゴムの葉とばす 間をすすむ
迫撃砲 ゴムの梢を とばしけり
此の戦闘で、山田少尉・大西軍曹等数人が帰らぬ人となった。不思議な事に、敵は急追して来なかった、この退却行軍は、当時ブルネーに進出していた商社マン及びその家族諸共の引き上げであった。若し敵が追撃していたら、どんな事になっただろうと思うと、身の毛もよだつ思いがする。それにしても或る人は妻を又子供を・・或る者は主人を見殺しにしての行軍であった。サエ山の戦闘から二・三日して小休止があった、命令によると「是から十日位は人里は無い、食料の徴発は不可能であるから、此処で十分な準備をするよう」との事であった。土人の籾蔵から籾を取って来て鉄兜で搗き、精米して携帯した、私は小隊員に体の弱った者の分は強い者が助ける様に指示した。タワオからブルネーへの行軍と異なり、現地人の我々兵に対する感情も、こうした徴発行為で悪化した、落伍は死を覚悟せねばならない。
小休止 兵緑蔭に 籾を搗く
五升の米を携行する事は、マラリア等で体力の衰えたお互いには持ち重みがした、中には捨てる者も出た。サエヤマの戦闘で負傷した兵の担架担ぎもした、渓流沿いの道無き道、一歩誤ると谷底に転落する、不幸にして落ちた兵は渓流に晒されて白く・ふやけて着て居る服もはち切れんばかり。轟々と激しい音を立てて、大きな滝が見えることもあった。
ジャングルの 吐きて垂れたる 大瀑布
常夏の 高山に泊つ夜や 火を欲りぬ
中隊の中堅下士官が、不帰の士となったのもこの時期であった。私が手足と頼んだ、三田軍曹・安原兵長・長手上等兵が無くなった。長手上等兵の如きは回虫に冒されて無くなった、一服のサントニンかマクリが有ればと悔やまれた。十日の予定が二十日になっても人里には出られなかった、食料は底をついた、敵の飛行機から撒かれるビラに、イタリヤ・ドイツ等の同盟国が無条件降伏したと、大きく書かれていた、しかしどうした事だろう、このビラを見て、大した感慨が湧かなかった。野営の為草や木を刈り倒して居た、コツンと音がした、見ると大きな亀だった、亀だと声を立てると神戸出身の・夫馬二等兵が亀は美味しいですと、教えてくれた。一同活気付き甲羅を外して、裁いた、沢山の卵を持ち、肉は鶏の肉にそっくりだった。
亀くらい 万年の生に あやからん
人里求めて退却行軍は続く、疲れ切った鼻先に、柑橘類の花の香りがした、人里が近いらしい。
ザボンの花 一輪の香に 邑近し
廃れたる 邑跡に咲く ハイピカス
六月十四日サエヤマの戦闘以来一箇月と十日、漸くケマボンに着いた。時に昭和二十年(1945)七月二十六日
永らえて 陸稲摘む日や 雲灼ける
陸稲の畑があった、痩せ細った稲が僅かづづ実を付けて居た。是を摘んで久々に腹を満たした。宿舎は藪の中にあった。
ケマボン駐留中に私は大隊本部に出掛ける事かあった、途中平原があって、一本の木も生えて居ない、此処を横断中に敵機に見つかるものなら大変なので、朝の中に通過するようにしていた。
ある日の事、例に依って途中司令部の参謀を尋ねた、御苦労と労いの詞を頂いて「曹長帰る時はもうパールの平原は敵機の心配はないから」との事で、その理由は話されなかった。不思議に思いつつ「ハイ・有り難うございます」と答えて退出した。その脚で大隊本部の筒井大隊長を訪ねると「山本・戦争は勝つと思うか、負けると思うか」と問われた。「サァー」と返事の仕方が無かった。帰隊の途中、土人の部落があり、「カチャン・クイ」駄菓子屋があった。南京豆を砂糖の蜜で綴じた物で、これを食べる事も楽しみの一つであった。
その時の事である、連れて居た兵の一人が「隊長殿、今神戸出身の関西配電の軍属に会いました、私の知人です、その軍属の言うのに、ラジオをいじって居ると・天皇陛下の玉音放送が入り、敵は無条件降伏をしたそうです・・・我々も時ならず凱旋出来ますよ・・」と嬉しそうに話した。思えば本部行きは「終戦の日」であったのかも知れない。帰隊して暫く経った九月会報が出て・・武装解除となり・・敗戦が確定した。
銃置いて せきと声無し ヤモリ鳴く
土匪襲来 真闇に光る 夜光茸
夜光茸 野犬群れ吠ゆ 真闇かな
役に立たない銃も取り上げられて仕舞うと、実に淋しい。無条件降伏と言うと、兵の中に不安は隠し切れないものがあった。サエヤマの戦闘で得た負傷を苦にして自らの命を断った兵も居た。不安に耐えきれず自殺した者もあった。
昭和二十年(1945)九月二十九日私共はボーホートの捕虜収容所に収容された・・・私は明日収容所に入ると言うのにマラリアが出て発熱して、キニーネを服用したが、効きすぎて三半規官を冒され耳は聞こえず、脚はふらつき歩行困難に陥った。そのとき三中隊の東山兵長が「どうしました」と声を掛けてくれ、肩を貸して貰って医務室に辿り着き、ビタカンを定量の二倍打って貰い漸く正常になり、入所用の舟艇に間に会った。先に入所した隊の話を聞くと、軍装検査が厳しく大変らしい。同僚の日野曹長と相談し、「実は僕は内地から・広東駐留当時広東市で買ったカメラを持って居る、是で軍装検査の責任者を買収しよう」と相談した。日野さんがやって見ましょうとのことで、責任者を呼んで貰った、大尉がやってきた、日野さんの通訳で私はカメラを差し出した。所がOKと明るい返事、名前はと聞かれたので、「山本恒雄」と答えると、彼曰く「山本恒雄は賢い子供」とたどたどしい日本語が帰って来た、一同大笑い。軍装検査は簡単に難無く進行した。しかし腕時計だけは取り上げられた。豪州兵の中には取り上げた時計を手首から肩迄ズラット着けて居る者も居た・・聞くところによると、是だけあると一年間は食べられるとか。その時私はバルカンのスイス時計を持って居た。是も広東市で買った記念の品であった。提出するとき大尉に「是は日本の恋人が記念にくれた大切な時計である、出来れば返して欲しい」と頼んだ、笑って居たが入所して二日目此の時計は返却された。入所中良く使役に出た、日野曹長と私は枕を並べて寝て居た、此の時計は豪州軍の炊事兵に頼んで、罐詰めと交換して、栄養とした。
捕虜収容所の生活は何分にも初体験で不安があった。入所当時帯刀していた軍刀は取り上げられ、本当の丸腰となった、それぞれの思い出の籠もる軍刀が無雑作に一片の名札を付けて積み上げられて行くのを見ると感慨無量であった。又酷いマラリアに冒される事がしばしばあった。食生活は十分では無かったが、雑炊が三度・三度ときちんと与えられた。是も日を追うに連れて固くなり美味しく成って来たのには嬉しかった。マラリアが出て熱発すると衛生兵が来て、注射をうたれた。治療に当たるのは元日本の衛生兵であった、治療は屋外で行われた、従来は呑み薬一本槍であったが収容所では血管注射の方法が採用せられた。あの熱帯の炎天下でも熱発すると寒く震えが止まらない血管に注射されると、途端に天地が引っ繰り返ったかと錯覚を起こし頭がグラツキ立って居られ無い、地べたに伏す。後は分からない、何分がして気がつくと、ベットリと全身に汗、熱が引いている。幕舎に帰って横になっていると一応治まるのであった。体力が衰えて居るときはその儘命を落とすことも有るという。当時コクスイ病と言う病気があった、病名は国衰病と書くのかも知れない、尿がコーヒーの様に黒い色の物がでる、患者は痛い・痛いと悲鳴を上げ、手や足が硬直し始め部分的に死んで行く、二日とは持たない悲惨な病気である。
亡き戦友を 語ろう芝に 夜蝉鳴く
亡き戦友は ここなる芝に 母を語りし
幕舎でゴロ・ゴロしていると使役にでるよう、通報があった。二・三日前に豪雨があって、ボーホートとテノムを結ぶ鉄道が崖崩れのため不通となった。使役は此の崩れた土砂を取り除く作業であった。私は三十名程の兵を連れて現場に向かった。聞くところに依ると、昨日迄此の仕事に従事した使役兵の中には作業態度が悪く、能率も上がらず、豪州軍の監視兵から注意を受け銃把で小突かれる者もあったとか、私は現場に着き作業に掛かる前に次の様な注意を与えた。
〔1〕私達は戦争に敗れた、捕虜の身である、何事も先方の指示に従わねばならない 逆らっても通るものではない、示される作業に快く働く事は、戦争の勝ち負け以前の問題で、真面目に働いて欲しい
〔2〕私は監視兵の長である軍曹に次の様な要求を出した、
その一は四十五分働いて十五分休憩
その二は昼食の休みは一時間呉れ
その三は作業が終わったら下の河でマンデーをさしてくれ
と、すると心良くOKを頂いた。
どうか、叱られて、銃把でこずかれ、鞭で打たれながらするのも仕事、自ら進んで働くのも仕事、お互いに心良く働こうではないか、私もスコップを持って皆と一緒に、働くからと。作業の能率は監視兵の期待以上に上がったらしい。四十五分働くと笛で合図して休憩をくれた。監視の長で或る軍曹も嬉しかったのだろう、昼食のときには、自分の携帯食の缶詰を私達に食べるように差し出した、見回りの兵もおとなしく扱ってくれて楽しく一日を過ごすことが出来た。この時軍曹と心が通じたのか、十月十六日パパールの収容所に移った時偶然私を見附け、仕事に来いと言うことで、いって見ると大工仕事で幕舎の構築作業に従事した。勿論私は、ずぶの素人であったか中には本来の大工さんが居たので手伝いとして働いた。戦後復員して養鶏を一時やったことがあったが、この時の経験が鶏舎作りに役だった。
ある日の事、軍曹が何か私に欲しいものは無いかとのことであった。私は入隊迄煙草を口にしたことは無かったが、捕虜生活の手持ち無沙汰と、食料不足による空腹に耐えられず煙草を口にする様になっていた。私は彼の質問に「煙草が欲しい」と答えた。其から四・五日たったであらうか、私がマンデーを終えて幕舎に帰り掛けた時、一隻の上陸用舟艇が大きな音を立てて砂浜に着いた。振り返ると濠州兵が乗り込んで行く。その中に彼の軍曹が居た。「サージャン」と大声で呼んだ、振り向いた彼は「おお、山本」と私を見つけて、舟艇から水の中をジャブ・ジャブと降りて来て「オオ・カムバック・オーストラリヤ」と大声で話し、煙草が欲しいとの事であったから、あの翌日金網の所迄行ったが、見当ら無かった。是をやると・英国製のネビーカットの罐入り一ダースを頂いた。名前も住所もメモしたが、復員時の服装検査等で無くしてしまった。シドニー出身だけは記憶にのこっている。私も彼に日本の住所と名をメモして渡したが帰って見ると、疎開して垂水の住所は私のものでは無くなって居た。あの小柄で、人の良さそうな、ふっくらとした人相の軍曹、私は彼から、国境を越えて、肌の色、眼の色は異なっていても、正直・勤勉と言う、四字は洋の東西を問わず共通である事を教えられた。母なれば早速次のように、歌にしたのでは有るまいかと。
眼の色や肌の色は 変わるとも
変わらぬ人の 素直さを知る
パパールの収容所から約三十キロ程の北アピー収容所〔ゼッセルトン〕に移ったのはその年の十一月の末頃であった。今度の収容所の中では、従来の中隊編成単位で生活した。タワオで体調を崩し残留していた隊員も追求して合流したので賑やかになった。聞くところによるとタワオに残った兵もマラリヤや栄養失調で亡くなったと、再会を喜ぶ反面、暗い悲しい話も少なく無かった。行軍で中隊の陣中日誌や戦時名簿等を携行していた兵が戦病死したので、色々な記録が無くなって締まった。大隊本部からの指令でこれらの書類を整え、復員に備えよとのことであった。私は当時指揮班の山本兵長等の協力を得て、先ず戦時名簿の作成に掛かった。一人一人が何時・何処で死亡したか、戦友の証言で決めて行った。戦死者・戦病死者の名簿は、余分に作り、大切に腹に巻いて持ち帰った。
今も「木の箱に納め・独歩三六七大隊第二中隊之英霊」と記して仏壇に祀り、慰霊の拠り所としている。又幸い輸送船の「橘丸」で俳句の手ぼどきを受けた、原田少尉と枕を並べて過ごす事が出来たので、俳句の指導は日夜を分かたず受ける事が出来た、有りがたい事であった。
蚊帳に寝て なほ語り合う 奇しき縁
ほつ・ほつと 語りて地虫の 夜となんぬ
地虫鳴いて 油灯に湯の たぎる音
将校集会で俳句の話が出て、句会をする事になったと、原田少尉の話し、私は少尉の求めで句会の世話役を仰せつかり、短冊〔紙切れ〕の配布・取り集めの雑用を手伝った。
昭和二十一年(1946)三月に入ると、俄に内地帰還の声があちこちから入るようになった。三月十一日〔句帳に記す〕「すみれ丸」が病院船として、ゼッセルトンの埠頭に入港した。患者は一足先に帰すと言うことだった。私達は担架で病人の搬送に当たった。我が中隊では横尾兵長もその一人であった。病院船の船尾には「日章旗」がはためいて居た、「戦い敗れたりといえども国あり、ああ帰る日本はある」嬉し涙が出た。
玉の緒を 担架に委ね 炎天下
離れ行く 船窓追いて 夏帽を振る
出航のドラが鳴る。次いで汽笛が元気よく鳴り渡る。敵の潜水艦攻撃を受けたときの、あの汽笛とは全然違う、今日程嬉しい・別れ・は無い、夏帽を千切れよとばかりに振った。四月十二日、いよいよ待望の我々の番が、遂に来た。帰還となると、色々の事が脳裏を掠める、門司を出た時の百七十一名の戦友は今は四十名を割っている、輸送船・機帆船行軍・タワオの濠堀・ブルネーへの横断行軍・戦闘下令・退却行軍・捕虜生活等々・・・・
作り続けた俳句〔凡句〕も四百余句になっている、軍より支給される煙草の包装紙や現地の人から貰った紙で三冊の句帳に纏め、戦友の死没者名簿、自分の軍隊手帳と共に、これだけはどんな事が有ってもと腹巻きにして持ち帰ろうと、心に決めた。復員船は十四日アピーを出航、仏印のサイゴンを経由して内地にむかった、この船は空母〔摩耶〕として活用する予定であったが、資材が無く、犠装が出来なかった言わば半製品であった。先に広東から召集解除により帰った時の、暁天丸とは事違い、大きさ・速力は抜群であった、海上なんの不安もなく一路内地に向かい大竹港に入港したのは昭和二十一年(1946)四月二十四日。ああ・帰った、上陸は二十五日となった、しかし当時の港の景観や印象は何一つ残って居ない、いまにして思えば広島の原爆の生・生しい跡が見えた筈なのにと悔やまれる。
検疫・復員の支給品の受取等があったが、検疫の時「DDT」を頭の先から股間迄掛けられ、日銀の窓口へ大切に持ち帰った、軍票を納め、新円五百円と復員証明書・軍票預かり証の交付を受けた事は記憶にある。大竹港に上陸して、中隊長より労いの詞を頂き解散、各自帰途に着いた。命賭の一年九箇月・六百二十八日の幕切れ・本当に淋しいものであった。しかし是が敗戦に依る私の出発でもあったのかも知れない。私は隣村の揖西村から出征の竹内保君と一緒に行動し車中の人となった。
所属する第367大隊の生還者は総員1,007名中354名といわれている |
ボーホートで捕虜収容所で、豪州軍に取り上げられた軍刀が、昭和四十四年(1969)十一月十一日海上自衛隊練習艦隊「てるづき・艦長植田一雄がシドニー訪問の砌、オーストラリア国シドニー市のR・ハイワード氏より次の様な手紙を付けて帰ってきた。
〔一〕軍刀が帰ってきた。私の軍刀が帰って来た。
豪州人が日本軍人の 軍刀を愛する心根を知って二十五年前の姿の儘で返してくれた。
〔二〕私は愛刀を手にして 涙がとまらなかった。
軍刀を見ると走馬灯のように 私の従軍の歴史がよみがえる
特にボルネオ戦線の死闘
数多くの亡き戦友の顔
顔・・顔・・顔
〔三〕一人でも良い
軍刀の様に
帰らないかなー
軍刀の様に
軍刀の様に
添えられた手紙・・
本書は私の友人である日本国海上自衛隊のKフジカワ一に委託してお渡ししたものです。日本刀一振りはオーストラリアの人々から日本の人々に心からの願いを込めて、此の刀の所持者に又は近親者に対し返還するもので有ります。 敬具
R・ハイワード