笠ヶ城山 1:大谷登山口 2,3:モミジ谷分岐 4:山頂三角点 5:北東:一山 6:西側 大谷登山口から 7:皆木の里 8:大甲山、荒尾山(右) 原不動の滝 9:波賀温泉 10〜12:吊り橋 13:不動滝上部 14:同 下部 15,16:渓流 | |
記念碑の由来
この碑は当地出身の力士で、大阪相撲の大関にまで昇進した「朝日嶽留蔵」の記念碑である。
昭和四十三年六月町内相撲協会及び有志によって建立されたものである。
明治・大正時代にも已に遠くなり、その勇姿や足跡を語るよすがもこの地には今は無い。
この記念碑の由来を説明する世代も絶えたい現在(いま)、唯一近くから貴重な資料を得たので、これを機に碑の由来を記したい。
その資料は、昭和五十年六月に発行された播磨の総合雑誌「駟路(しろ)」に掲載された「朝日嶽留蔵」の一文を要約して紹介する。
朝日嶽留蔵は、明治二十二年当時奥谷村原、幸福嘉蔵の三男として生を享けた。
家は代々酒造り販売を業としていたが、祖父の代に倒産、その後林業に転じ留蔵も家事を手伝っていた。その頃この土地では山を主にした仕事が殆どであった。
留蔵は片道六キロの山路を十七キログラムの木炭四俵を背負って厳しい仕事に果敢に挑んでいく中に、強靱な足腰と強い腕力が作られていった。
当時、大阪営林局(大林局)の委嘱により、国有地の植林作業をしていた神路宗一郎氏に見出され、同氏が留蔵を地方頭取の免許を持つ小野川調五郎に紹介し、初めは行事木村越後の付け人となった。
時に二十二歳、身長一六二センチ、体重七五キロの小兵であったが入門が叶い三保ヶ関の力士として、稽古の虫といわれる程の頑張りを続けた。故郷での厳しい作業で鍛えられた頑強な体力の賜であったと同時に強い精神力の人でもあった。
大正三年五月十両、五年六月に入幕、七年五月前頭東十枚目で優勝、九年一月に小結に昇進五月場所で二回目の優勝、やがて関脇を経て十年一月大関に張り出された。この時留蔵は三十歳になっていた。
当時の相撲界は東京・大阪の合併興行が行われ東西の対抗相撲は大きく人々を沸かしたのである。そこでも朝日嶽の活躍の記録は多く残されている。
その頃、満洲(中国東北部)や朝鮮への巡業興行が行われそれに同行した朝日嶽は、巡業中ジストマに罹りそれが因で大正十二年惜しまれつつ、引退した。
入門以来、後援と厚遇を与えていた鴻池家(現鴻池組)への感謝の日々であったが、昭和四十七年八十六歳でこの世を去り、今、静かに故郷の地に眠っている。
平成十五年十月 波賀町教育委員会