「続・あゝボルネオ」目次へ

御遺族、戦友手記の章より

当ページの小目次


夫 憶 ふ

独歩三六七大隊第二中隊 浜口剛三・妻  浜口 一子 (神戸市)

三十年経ぬ 若き生命の代償も
 四人の孫のつゝがなきこと

亡夫の名叫んで見たい古日記
 三年十ケ月のむつみを終る

声かけて 秋陽に洗う夫の墓
 曼珠沙華ひそかにつぼむ

ひたすらに 唯ひたすらに働きて
 かこむ湯豆腐の湯気に君を見る

寡婦とかき未亡人と書き後家とかく
 三十三回忌の水無月を恋ふ
付 記   山本恒雄
 浜口一子さんは、第二中隊浜口剛三君の奥さんです。死の行軍に出発前の昭和二十年一月二十日の事です。中隊では笹川隊長、原田、山田少尉に、神戸上筒井の八幡神社の小野寿人君、浜口剛三君に私も加つて、椰子の実で搾つた油灯を囲んで、原田少尉の指導で俳句会を持つた事がありました。其のとき浜口君の次の句が入選し、先日句帳を整理して居りました処見付かりましたので、浜口一子さんに御知らせした処、前記の様な短歌を送つて下さつたのです。
 浜口君の句

   寝やらぬ 真闇の底を宮守なく

 此の句には望郷の思ひが秘められ、奥さんの短歌には、夫を思ふ心と三十有余年に亘る苦闘がしみて居ります。
 仲のよい御夫婦であつたことが、両者の歌や句ににじんで居ります。



英霊の皆様安らかに

独歩第三六七大隊第二中隊 片岡薫新・妻  片岡 綾子 (淡路一宮町)

 白鷺ボルネオ会の御世話下さつて居る皆様、先日は慰霊碑建立につき種々御世話下さいましてほんとうに有難うございました。又除幕式には御馳走になり、写真までお送り下さいまして厚く御礼申上げます。何分にも私筆不性の上農繁期を控えおそくなりました。お詫び申上げます。

 私が物心ついた頃には両親は亡く、一人の弱い姉と祖父のほそぼそとした三人暮しで寂しかつたものです、五、六反の田畑と山があり、年老いた祖父を見ては可愛さうで、小学校時代からよく手伝はされて、私自身も暇さえあれば薪き物拾ひから、田圃の仕事を学校から帰へると祖父の後について行つたものです。
 時に支那事変から太平洋戦争となり、私が亡き主人と結婚したのは、祖父の亡くなつた翌年の昭和十七年の春でした。戦時中の事とて、簡単な盃だけの結婚式でした。そうしてやつと男手が出来たと喜ぶのも束の間結婚二年目、私の家にも赤紙が来た。覚悟はしていたものゝびつくり、昭和十九年七月二十八日、夫は姫路に入隊し、面会に行くと同時に南方に征ちました。
 又も姉と女ばかりの二人暮しが始つた。時に私は五ケ月の身重でありました。大きなお腹をかゝえて働く辛さは格別でした。でも主人を送り、あとはこの私が家を守らねばと勇気を振ひおこして、朝は朝星、夜は夜星一生けんめい銃後の花嫁として働きました。幸に健康に恵まれ、仕事はそんなに苦にならず、稲刈の最中、十一月七日無事女の子が生れました。隣保の人や親戚の人々にその秋はお世話になりました。そのときの御恩は忘れられません。私の隣保も次々と召されて、男といふ男は出征し、老人と子供、女ばかりになつてしまいました。

 共同作業によつて手のないところを助け合ひ、私の家もそのお蔭によつて、農業がつづけられました。思へば当時は現在のような機械は無く、鍬使いから牛仕事と、それこそ命がけで働きました。よく頑張つたものだと自分ながら感心もし自惚れて居ります。戦争がそうさせた、年も若かつた・・・と昔を思ひ浮べます。
愛しき夫の残してくれた子供を育てるには、六反の田畑の耕作に打ち込む外はありませんでした。幸に弱いながらも片腕となつてくれる姉が居て、病気の折や疲れた時など話相手となつて、励し合つての暮しは、私も唯一の心の慰めでありました。戦争は次第に激しく、本土空襲、遂に終戦となり、あちこちより復員の方々を見る様になりました。

 然し主人は帰つて来ませんでした。主人の父親が仁井のお寺に笹川隊長を尋ねて行き、戦死の知らせを聞きました。泣いても泣いても、夜も昼も仕事が手につかず、この子を抱へてこれからどうする、張切つて居た心も一ぺんに切れました。然し子供の泣き声に私の心は励まされて、さうだこの子供を育て家を守る事、それがせめてもの亡き夫に対する私の努めと元気を出して立上りました。
 私には、戦前、戦中、戦後と娘時代も青春もなく、苦労でみじめな暮の連続でした。戦死した主人の弟がひよつこりビルマより復員して参りました。人のすゝめもあつて私は再婚し、二人の男の子に恵まれ、やつと人並の生活が出来るようになりました。三人の子供はお蔭様にてすくすくと成長し、社会人となり、今は夫々に家庭を持ち子供にも恵まれ、今は四人の孫に囲まれたおばあさんとなりました。長男夫婦と同居し、明るい六人家族の賑やかな家庭生活で楽しくやつて居ります。

 戦後三十有余年、中国との友好関係も確立し、我淡路にも縦貫道路が出来、大鳴門橋が出来ようとして居ります。然し此の繁栄の蔭にはあの激しい戦争で、散華された数多くの英霊が礎となられた事を忘れる事は出来ません。英霊よ安らかにとお墓にお詣りして、平和に暮らせる毎日を感謝して居ります。人生の大半を送り、これからの余生を健康で幸福に過したいと念願して居ります。
 会長様始め生還者の皆々様、今回は慰霊碑の建立ほんとうに有難う御座居ました。英霊もさぞかし喜んで居る事と思ひます。重ねてお礼申上げます。


碑の建立にあたつて

独歩主六七大隊第二中隊所属  三谷 謹二  (横浜市)

 思えば昭和十九年七月、予備役を主力に編成された私達三六七大隊要員が召集され、慌ただしく姫路を進発、潜水艦に追はれ、台風に見舞れ、且つ本船での航行不可能と遂に機帆船に一ケ小隊づつ分乗、尚戦勝を信じつゝ南下、平時なら一週間でつける彼地にニケ月余を費して到着した、未開地ボルネオである。
当地警備のため、毎日々々濠堀り一線二線と堀り続けた。然しこの時転進命令が発せられ、世にいう「ボルネオの死の行軍」がはじまつた。その悲惨さは数多くの単行本等で紹介されているが、サンダカンより転進した邦人婦女子の如きは、遂にジャングルから出られなかつたという、只一人お産のため、みんなと別れてカヌーで川を下つた人だけは生還したという。兎も角世界戦史に例をみず、世界の戦術家が今尚理解出来ないというのがこの転進作戦である。

 そして数多くの戦友が戦う以前に前人未踏のこのジャングルの中で、あたら青春の生命の灯を消されていったのである。漸やくにしてこのジャングルを突破して目的地到着したものも充分静養する暇もなく、ブルネイの戦闘が始り、再び多くの犠牲者を出し、退路をたゝれやむなくジャングルに、敗走折角生き残つた者も食糧もなく次々にマラリヤで倒れ、悲惨極りない戦場の明け暮れ、斯くして散つた数多き戦友が犬死の如く扱われ、その遺骨すらあのジャングルでは収容することも不可能な状態である。
その御霊を慰めるべく、大隊だけの慰霊碑の出来た事は、他に例を見ないのではなかろうかと思う。然も生還者と遺族だけの浄財の寄進によつて・・・。

 この碑の建立にあたつて、計画から施工完成へと終始お世話下さつた方々に、その御労苦に対し生還者、遺族の別なく、みんなで感謝しお礼申し上げたいと思ひます。又場所を提供して下さつた神社や氏子の方々の御厚志に対しても何んと御礼を申上げてよいやら其の言葉がわからない。
私達は悲劇の島ボルネオによつて、かなしい運命の絆によつて結ばれたもの、近隣遠隔を問はず、共に慰め励ましあつて一度でも多く相寄り偲び語り合ひ、うすれゆく過去を蘇らせて、後幾年とも知れぬ生命のある限り集ひたいと思ひます。
碑の底に経石納めいまこゝに
  彼の地に果てし戦友や偲ばむ

経石を碑前に供ふ女人等の
  ほゝの零に戦友や安かれ

経石を納めてくれる人もなく
  代りて納む我まだ生けり


転進半ばコヤ川で倒れサンダカンに至る

独歩三六七大隊第二中隊所属  奥田 利男  (神戸市)

 私はタワオで約ニケ月半も居たでせうか、其の間明けても暮れても壕掘り、やがて雨期に入り、出発日は丸きり記憶にありません。
 或る日突然「最終任地はケニンゴー、兵は健康に留意し、あらゆる困難を克服し、此のジャングルを突破し、最後迄完遂する様」との中隊長の厳たる訓示があつて、愈々生死を賭けた移動踏破行、地獄への道を歩み初めました。

 いやー、全くジャングルでは色々な事がありました。
 タワオよりモステンを経て、煙草で有名な「セガマ」の手前でしたか「ルンマニス」と云う処で、十匹程の猿群を見付けて一発、まぐれにも眉間に当り、兵五人と共に空腹を満しました。
 どしや降りの中、既に何体かの遺体を見乍ら、あのコヤ川に辿り着きました。

 やつと此処で中隊長と見慣れた戦友と逢う事が出来たが、気が弛んだのか脳症を起す一歩手前で熱発、完全にダウン、二日間程は意識朦朧として、此の先の転進に自信全く無くしましたところ、中隊長殿の計ひで今一人既にすい弱して転進に耐へぬ違口良二(淡路町楠本出身、遺児明男氏)と共に相い労り乍ら、直ちに舟で川を下れと命令され、ニッパ椰子の傘屋根の付いた現地兵の漕ぐ小舟で、幾日掛つたか真夜中に再度懐しのサンダカンに着きました。

 担架に乗せられトラックで、やがて街を見下す山裾の小高い南方第十一陸病棟に寝かされていました。此処で一ケ月余も過ぎたでせうか、確か五月二十七日、海軍記念日の様に記憶します。此の日遂にドンパンが始まりました。
 空は熊ん蜂に似たグラマン、双胴のロッキードP38、悠々と飛行艇一機が入り交つて三〇機種が、無差別超低空でバリバリと遮二無二、小型爆弾迄も投下し初めました。
 我が方に高射砲があつたのか、なかつたのか、唯無音・・・僅かに数丁の機関銃がハジキ豆の様な音を立てて居たが、威力に価するものは聞えなかつた。全く彼等の成すがまゝに、我々は逃げまどい、私には永い永い時間の様に感じました。

 その内にズドン…ズドン…と艦砲射撃が始まり、ピンク色をした曳光弾も交り出した。其の時、左腎部にまるで焼火箸を突き差された様な激痛を感じて「こいつはやられた」と思い、手を当てると、生温かい真赤な血が手を染めて居ました。傷は破片だつたので大した事はなかつたが、脚気の方がひどく、益々歩行が困難の上に熱発続きで、「此処ら辺りで俺もお参りか」と半ばふて腐れ気味でいました。
 それでも、せめて弾の届かぬ処迄逃げようと、人間誰しも斯様な生死の境では、それも極限に立つと、生きる執念と一種の諦らめに似たものが交錯して、一瞬自失状態となり、時間から時間、其の空間、全く無感のまゝに或る華僑の家へころがり込んでいました。夫婦と男児二人の農家でした。

 実は既に先客が居て、神田兵長(神戸・平野)、島田上等兵(京都)、森本上等兵(加古川)、稲垣一等兵(静岡)の四人居ました。サンダカンの街より十七哩(二七・四粁)程の奥地へ来ていました。此処で華僑と我等五人との奇妙な共同生活が始まりました。
 日夜ゲリラに気をつけねばならず、食う事、特に夜は食糧あさりを交代で、昼はグラマンの来る度に病人を家から引きづり出して、暇さへあれば唯々食う事のみに専念して毎日を送つていました。
 或る日、森本上等兵が一人で野菜らしき物を湯がいて食べ、其の夜吐いて呆気なく他界し、神田は殆んど完全な脳症に罹り、何処ともなくいつの間にやら居なくなつて居た。彼はおそらくボルネオの土となつたのではなかろうか?。私も自分の腹へ何を入れ、何が通つて行くのやら、空ら恐ろしく成りました。
 コヤ川より同行した違口君は、サンダカンのドサクサで離散、後日ゼツセルトン収容所での戦友の話では脳症のための戦病死したと聞かされました。

 悲惨なボルネオ死の行軍半にて落伍し、友軍の戦友と離れた孤独感はとても筆舌には申されません。然しながら九死に一生を得て帰還した一人です。数多亡き戦友の御冥福を心より祈念いたします。


ある夜の夢

独歩三六七大隊第三中隊所属  田中 茂  (姫路市)

 或る夜の夢をそのまゝここに寄稿した理由は次の通りです。
 十一月の末に広瀬隊長より「あゝボルネオ」追録寄稿募集の書面を受取り、三中隊の皆さんに依頼、私も何か寄稿を思い、乏しい記憶をたどりながら一週間程で書き終り、十一時頃床につき、妻に起される迄一時間たらずのみじかい夢でしたが、その事を書くのが夢の中に出て来た方々の意志である様に思はれ、既に書き終つた作文を捨て、敢て夢物語を書いた次第です。

 私はよく夢を見る。その中でも戦場の夢が多い。中国大陸だつたり、どこか分らぬ所だつたり、北ボルネオのジャングルだつたり、種々様々、何時だつたか敵陣に突撃白兵戦の際、私は持つた十字鍬で敵の顔を力まかせになぐつたとたん「いたゝゝ」目をさまして驚いた。起き上つた妻が眼の上を押へて大へんな怒りやう。朝見ると左眼の上が紫色になつていた。それ以来声を出したり、泣いたりするとすぐ起されてしまふ。

 昨夜の夢は大きな河が流れ、バナゝの葉の茂つた中に小さな民家、その附近で二、三十名程の兵隊が、一生懸命所々で大きな木を切つている。射撃の邪魔になるのであろう。大きな河や地形に見覚へがある。「ツトン」の最前線のやうだ。私のそばに八木曹長がいる。どうしたことか腰迄水があるのに、ヒゲだらけの顔を気持良さそうに座りこんでいる。私も座ろうと思つたが、水だらけで座る所はどこにもない。「ヒヨイ」と後を向いた。何とした事か、第一小隊長の人見中尉が立つている。

 見た事のある軍刀を右手に、左肘を僅かに外に曲げ、相変らず気むづかしい顔で「オイ軍曹」の一言、私のあわてた敬礼にこたへず、あれを見よと云はんばかりに刀の指す方を見ると、今迄木を切つていた兵隊が一かたまりに集つている。山口伍長、清水兵長、坂本、谷口、土井、島谷、家永、松本、山蔭。重り合つた顔々、みんな見覚へのあるなつかしい顔ばかり、不思議な事に、あの時から少しも年をとつてない、若々しいその中から第二小隊長の山崎少尉のいかつい顔も見へたとたんすつと立上る。僅か腰を前かゞみに私はあわてた。敬礼も何もかも忘れ、走りよろうとしたが足が動かない。何か云はなければとあせつたが声も出ない。あまりのもどかしさに、声にならぬ声をカーバイ張り上げ、両手を大きく広げてみんなに抱きついた。
その肩を少尉の手が二度、三度たゝく。

 これで私の夢は終つた。妻が声に驚いてあわてゝ起したらしい。後で様子を尋ねたら「ワーツ」と大声と共に、何とも云へない悲しげに泣いたと云ふ。夢さめて後、どうして死者ばかりが夢に出たのだろう。記録をたどれば、十二日は夢に出てきた人々の殆んどが、プルネイ戦で戦死した命日であつた。夢の中の人見中尉は「オイ軍曹」の後何が云いたかつたのだろう。多くの死者の顔は何を語ろうとしたのだろう。又山崎少尉の手が肩をたゝいて何を教えようとしたのだろう。願はくば霊よもうー度夢に出て何かを語つてくれ、教へてくれ、あれやこれや思い悩み眠れぬ毎日、とにもかくにも死者の霊よ安らかにと祈りと願をこめて、建立された碑にみんなの霊が、魂が永住の場所として安らかに眠つている。

 その事実を知る事が出来ない以上我々に終戦はない。戦争然も敗戦といふ苛酷な運命の下、恨みをのんで異国の土と化した数多くの死者こそ最大の犠性者である。今日の日本の繁栄がその死者の上に打建られたものであることを忘れてはならない。戦後三十有余年人々の心から忘れ去られようとしているこの事実を幾世代の後迄も伝へるべく、荒井神社に建立された忠烈の碑の意義は誠に大きい。



父への想い出

独歩三六七大隊第三中隊 人見立夫・長女  細江(旧姓人見)咲子  (西宮市)

 さわやかな秋風、澄み切った日本晴れのこの九月のお彼岸の日、ここ荒井神社境内において戦没者の慰霊碑除幕式並びに慰霊祭が行われ、そのご丁寧な御案内を頂き、参拝させて頂けた喜びは、なんと申しましても皆様方のご尽力の賜ものと深く感謝の念にたえません。神式、仏式、般若心経を一字ずつ書いた経石を各自納めるなど、心あたゝまるご配慮に本当に胸が熱くなる思いが致しました。
 遺族代表の玉串奉奠には、母が参拝させていただいたことは、あまりある光栄に存じました。戦争未亡人と呼ばれ、戦後の長い間の苦労をひとり堪忍んできた母の姿をそこに見た時、天国の父もきっと喜んでくれていると思いました。

 木々の緑におおわれて「忠烈」ときざまれた慰霊碑の神々しさ、思わず目をとじて合掌し、英霊の皆様やすらかにと、心深くお祈りいたしました。
 私が父と別れたのは遠い昔のように思えたり、逆に昨日の様に感じたり、でもその過ぎさった年月に驚きとため息すらもらします。「あなたの父は?」と聞かれて「戦死いたしました]と答えると「はっ戦死?」と聞き返されるほど、今や世間は忘れつゝあり、遠くなってしまったようです。

 あれは私が小学校五年生の七月、当時通学していた甲子園の鳴尾小学校から帰って来ると父に召集令状が来たことを母から告げられ、中支から帰って一年余りなのに又征くのかとがくぜんとしました。残り少い時間の中で父は多忙で、子供とゆっくり話をかわしている間もなかったのです。
 私は小さい小箱にもみじの模様の千代紙をきれいにはり、その中に糸まきにまいた糸と縫針など入れて、そっと父のカバンに入れておいてあげたのだけど、父は後で気がついてくれたであろうか。あの時のあの小さい千代紙の小箱はどうなったのかしら、ジャングルの中、砂と消えてしまったのでしょうか。
 面会日だと云うので、母と妹と三人で姫路へ向った。はじめて見る姫路城でした。旅館で他の家族の方も多くにぎやかでしたが、その中で覚えているのは、山崎中尉様のご家族で、男の子達が廊下で遊んでおられたのを父が紹介してくれたことです。

 一泊して朝食をすませた後、旅館を出て父と一緒に歩きました。これが生涯親と子が肩を並べて歩く最後になるとは夢にも思いませんでした。歩くたびに軍刀のくさりの音とともに、黒い皮の長靴がキュツキュツと鳴っていたのが今も耳に残っています。家に居る時は私がこの長靴をよくみがいてあげたもので、ピカピカに光った靴をはいて出かける父の姿を見てほこらしく思ったものです。当時鳴尾村の在郷軍人の仕事もしていました。
 数分歩いたでしょうか、営門の前に来た時、母としばらく話合っていた様子だったが、私達の方を見て「ここでいい、見送らなくても良い」と云い、妹を抱いている母の側に立っていた私に「かあさんの云う事をよく聞くんだぞ」と云いました。私は黙ってうなづいただけでした。軍国主義のあの時代には、幼い心も勝つまではとじつと堪えていたのです。
 あれがこの世での父との別れであったのかと・・・手を振って営門の中に消えていった父のあの後姿が、私には一生忘れることはありません。目をとじればあの別れのひとゝきが、瞼に深くやきついてはなれないのです。空を見上げた時、姫路城が高々とそびえていたのを思い出します。
 九月の中頃ったでしょうか。台湾から砂糖菓子を送って来てくれ大よろこび、「ますます元気」と書いてありました。

 戦況はいよく激しくなり、学校も疎開しなくてはならなく、私は母の実家である淡路島の大町と云う所へ疎開いたしました。慣れない環境の中でがんばり、そこで終戦を迎えたのです。八月十五日のラジオからの天皇のお言葉を聞き、戦争は終った、父が帰って来ると喜んだものでした。帰ってくれば又もとの都会へ帰れて、希望する学校に通学出来ると、それはそれは心まちの日々でした。毎日毎日ラジオにかじりつき「復員便り」に耳を傾けました。次々と放送されてゆく帰還される人々の名、人見立夫を早く云ってくれないかなーと胸をはづませて聞入っておりました。ダメな時はがっかりして、又きっと明日にはと望みをかけて待っておりました。

 中学一年の春のある日、今日あたりは帰ってくると云う知らせが来ているのぢゃないかと、学校からいそいそと帰って来ました。でもなんだか母の表情が、いやに固いのにどうしたのかと聞いた時、父の戦死を知らされました。信じられない! 終戦後十ケ月近くもたっているのにと、あふれる涙もふかず、全身の力がぬけて、ぽうぜんとつったっていました。まわりの草の緑も五月の青空もみんな灰色に見えて、自分がわからなくなっていました。

 母は遺骨をもらって来ましたが、白い箱に「人見立夫」の名がぽんやりとしか目にうつりません。振って見るとコトコトと音がします。開けて見ようかと思いましたが、失望を残すだけとやめました。戦死を知らないで待ちつづけ来た空しさ、ラジオから流れる復員便りも、もう聞く用もなくなって、その時間になると悲しくなって、外へとび出し野辺をふらついて歩いていました。妹は小さくまだ何もわからないので、無心に遊んでいる姿が不憫でした。もう勉強なんてどうでもいいと、英語のテストなど白紙で出したものです。
 学校の帰りなど、ひとり志筑の海岸に出かけて、何時間も砂浜に坐り、遠くの水平線を見つめて、在りし日の父の思い出にひたっていました。波うち際に立ち、寄せては返す波の音にじっと耳をかたむけ、そっと手を水にふれてみて、この海の水がやがて太平洋に出て、はるかボルネオの海岸までつづいているのだなーとまだ見知らぬボルネオを想いうかべたりしたものです。

 疎開の身故に食糧難だから、父と一緒に過した思い出のしみついた、応接間セットの家具類などや、父の遺品となる背広など次々とお米に変られていくのが、この上もなくやりきれない哀しみでした。最後はやめてほしいと母に頼みました。通学も土地の子は自転車で通っていましたが、私は大町から志筑まで六キロを雨の日も風の日も、暑い真夏の日もがんばって歩いて通学いたしました。
 月日がさまざまな悲しみも喜びも、のみこんでいく様に過ぎて行き、私達母子三人も、鳴尾近くに帰ることが出来、卒業、就職そして結婚、二人の息子の母親となりました。口ずさむ子守歌も、いつも知らぬ間に軍歌を唱っておりました。

 そもそも私が、ボルネオ会の存在を知ることが出来たのは、それは五十年の三月何日かの朝日新聞に、北ボルネオでの戦歿者慰霊碑建立のため、南太平洋友好協会々長の「山田無文老師墨蹟展」を開くと載っていたのが目にとまり、どうしても行って見たいと、神戸大丸の美術画廊に出かけました。色々の色紙、短冊、掛軸、額など展覧即売しており、サンテレビのアナウンサーも来て、無文老師との会話をされておられました。
私は下の子の手をひいて片隅でその様子を見ておりましたが、このまゝ帰るのも何か後髪をひかれる思いがして、誰か父のことを知っておられぬかと係の人に話かけてお聞きしてみたのです。それを側で聞いていて話かけて来て下さったのが松本初美様と云う方でした。御主人がブルネ一方面で戦死されたそうで、ボルネオに一度行って来られたとか、親切に話をして下さったのです。そして「あゝボルネオ」と云う本も出ているとのこと、白鷺ボルネオ会や、四十五年に慰霊祭があったことなど教えて頂きました。父と別れて以来、三十年余りに得た感激、まるで父に逢えるようなうれしさでした。

 松本様のお宅を訪れて、その「あゝボルネオ」の本をお借りいたしました。雪の散らつく寒い日でしたが、その本の重みが確かなささえの様に感じて、しつかりかかえて帰りました。そして本を開いて読んでいくうちに、第三中隊の西川様の手記の中に「人見小隊長以下……」の文面が目に入ったとたん、思わず「お父さん!」と心痛のさけび声と、ほとばしる涙に側にいた息子達が驚いて、私の顔を見守っていました。戦後二十五年余りたっていますのに、よく名前を覚えていて下さって、それを手記に書いて下さったとうれしく思いました。この本を読ませて頂き、今まで知らずにいたことがよくわかり「死の行軍」のその悲惨さが本当に心痛く身にしみました。

 ジャングルの茂みの枝がからみ合う如く、人間関係のからみ合い、そこにはどんな人間模様が展開されていたにしろ、愛和の精神、つまり人間愛を戦争は忘れさせてしまうのだろうか、罪のない人間同志が殺し合わねばならない悲しさ、戦争を知らぬ人達が多くなった中で、今の日本の平和な発展の陰に、数多くの戦没者が石づえとなったことを、永久に忘れることは出来ません。

 名簿を見ていると淡路島に居られる方が多いのに、ひとりもめぐり逢うことがなかったのが残念に思いました。  この本の編者の広瀬正三様に、さっそくお電話で「人見立夫の娘」であることを名のり出ましたところ、とても気さくにお話下さいまして、本も頂けるとのこと、実にそのお人柄に深く感謝いたしました。
 また五十二年夏の暑いある日に、芦屋の緑多い山手の道を歩いておりましたら、途中に「昆陽、渡辺」と書いた小型のトラックが止っており、もしや名簿にのっていた伊丹の造園業をされている渡辺様ではと思い切って声をかけて聞いてみましたところ、木の上に登って仕事中の人がやっぱり渡辺様でした。全く不思議で三十三年目の何か父のひき合せではないかと思いました。

 おかげ様で五十二年の第三回合同慰霊祭に出席させて頂くことが出来ました。そこでお世話をして下さる田中様より、父の持ちものであった軍刀につけるくさりを返して頂くことになり、思いがけなくも遺品として手もとに届きましたことは、この上もなく幸せでありました。
 現在私が住んでいる西宮の苦楽園の家の窓より、幼き日父と一緒に泳ぎに行った甲子園の海が見えるのです。窓をあけるたびにその思い出が頭の中をよこぎり、なつかしさがこみ上げて来ます。
 タバコの大好きな父、よくタバコ屋さんへ買いに行かされました。タバコの香は父の香りです。庭に咲いたさざんかの花を表に眺めたこと、又、よくお相撲も女の子ながら父ととりました。おひと好しのまがったことの嫌いな父でした。

 私の一生で、本当に短い父と娘のふれあいでしかありませんでしたが、父の思い出は私にとって何よりの宝ものとなっています。娘としては何一つ親孝行することも出来ませんでした。片親で育つ哀しみの裏にいろいろの多くの人生の尊い経験や教えを自ら知ることを得ました。苦難は幸福に入る狭い門であると云います。ことあるごとに考えてみれば、父のおかげにつながるものが多く、姿なき父に真の感謝の涙が流れます。
 私の息子が父と同じ学校へ入学し、同じ校章の帽子をかぶって通学しています。父がそこで青春を送ったように、その孫の私の息子も同じ大学で青春時代を送るのです。生きていたらどんなに喜んだことでしょう。
息子達も逢ったことのない父を「おじいちゃん」と呼んでくれて、いつの間にか父の写真を自分の机のガラス板の中にはさんでおります。
 目をとじれば父の面影がほのかに私にほほ笑みかけて来るのです。私もそっとその面影にほほえみ返すのです。
 父さん、ありがとう。
 最後にいろいろと御多忙の中をおお世話下さいました数多くの皆様、心より厚く御礼申し上げます。くれぐれも御身をお大切に御多幸をお祈り申し上げます。


わが最良の日

独歩第三六七大隊第三中隊 山崎義雄・妻  山崎 千代栄 (高槻市)

 昭和五十三年九月二十三日、待ちに待つた慰霊碑の除幕式並に慰霊祭の当日でした。式場は距離的に少し遠く、三時間はかゝるだろうと思うと、相当早く家を出なければならない。年も年とてあまり一人旅はしないので、うまく目的地に行けるか、戦友の方たちに始めてお逢いする嬉しさ等々と、前夜は熟睡出来ず雨もようの朝を迎えました。
 午前六時半家を出て、バス、国電、タクシーと乗りつぎ、それでもおかげさまで、九時過に今日の式場高砂市の荒井神社に着きました。お始めての戦友の阿部様、田中様の御親切なお迎えをうけて、ほんとうに嬉しくほつとして涙がこぼれてしまいました。

 しばらく休憩、式は十時に始りました。空模様も今日のこの立派な事業並に慰霊祭を愛でて回復し、大勢の参列者になりました。荘厳に神式と仏式で慰霊祭が行はれました。除幕されて大きな立派な碑に、明石泰二郎閣下の鮮やかな遺墨「忠烈」の文字があらはれて来た時、御英霊の皆々様どんなにか満足されている事だろうと、熱いものがこみ上げて来ました。前には一対の灯籠が立てられ、大きな碑を引きしめていました。
 この様な立派な碑をお作り下さつた広瀬会長様始め、各中隊の世話人の方々や、その他大勢のお世話になった方々に、何とお礼を申し上げてよいのやら、ただただありがとうございました、ありがとうございましたと独り言を申していました。

 慰霊を祈念して小石に般若心経の一文字と名前を記し、碑の基底に桧の箱に入れて納められました。この石の大きさと云い、白さと云いほんとうによくそろつて、お世話下さったお方の御心がこもつていると感謝で一杯でした。午後からの親睦会も盛大で、御英霊達もきつとその席に来て、書こんで居られた事と思いました。散会後田中様に当時の模様を詳しくお伺いし、これで思い残す事はないと存じました。

 北ボルネオ!と云へば堪らなくなつて、あちこちとそのグループをお訪ねして、お話を聞かせていたゞきました。現地北ボルネオにも行つてまいりましたが、今日の様に主人とずつと行動を共にして下さつた方々にお出会い出来、お話を聞かせていたゞいた事は始めてだつたので、主人に出合えた様な気持がして嬉しく懐かしく存じました。ほんとうに今日はよかつた、わが最長の日でした。帰宅後も疲れを忘れて、息子たちとひとしきり話に花を咲かせました。ほんとうにありがとうございました。
 皆々様の御恩を忘れないようにと、子や孫に申しきかせました。
慰霊碑を拝み仰ぐ秋の空

秋分や読経おごそか慰霊祭

秋の風英霊来たり読経うけ


兄の面影を偲ぶ

独竺六七大隊第三中隊 島田義実・妹  島田 八重子 (兵庫県洲本市)

 この度戦友の皆様方のなみなみならぬお世話によりまして、このような立派な慰霊碑が建立なされ、その上盛大なる慰霊祭にお招きを戴きまして、一遺族と致しまして本当に嬉しく参拝させていただきました。どうも有難うございました、厚く御礼申上げます。
 皆様方のお元気なお姿に接しまして、心温まる思いで更めて、在りし日の兄の面影を偲ぶことが出来ました。慰霊碑の前に立たせて戴いた途端、あの厳しかつた当時のいろいろの事柄が思い浮かび、懐かしさと悔しさが交叉し、複雑な気持で一時過ごさせていただきました。

 私の家は淡路島の田舎で、当時両親と兄嫁とで農業を営み、私は二里程離れた小学校に勤めて居りました。毎日ラジオのニュースを聞き、兄の便りを楽しみに、母は雨の日も風の日も、早朝村の鎮守様に武運長久の日参を行ない、父は五里程離れた飛行場建設の奉仕作業に毎日出掛けました。兄嫁は年老いた両親助けて一生懸命家を守り、私は古い自転車のハンドルに防空頭巾を掛け、母の着物で作り直したモンペ姿で、父が編んでくれた藁草履をはいて通勤致しました。学校では運動場の片すみに防空壕を設け、子供の避難訓練に力を注ぎ、落付いた授業は余り出来ませんでした。

 家では作つた米の殆どを供出に努め、残つた僅かな米で芋がゆを作り、塩を振り掛けて食べるのが食事でしたから、充分な栄養がとれず時には栄養失調に罹り、黒板に書く字が見えにくくなつたこともしばしばあります。当時は職場がちがっても、男も女も老若を間はず、-人-会皆な力を合せ、どんな苦労も不自由さも耐えしのぎ、唯日本は神国なりの言葉を信じ、頑張り続けました。突然ニュースで終戦を知らされた時にはどうしても信ずる事が出来ず、ただ呆然としておりましたが、漸く本当だと分つた時には、落胆悔し涙にむせぶばかりでした。

 ときが経つにつれて徐々に平静に戻り、兄嫁を中心にして、毎日毎日兄の帰りを待ち続けましたが、思いもよらぬ戦死の知らせに接したときにはあまりのショックに気が狂いそうになりました。それからはつらい毎日でしたが、やさしい兄嫁と共に両親を励まし、兄の供養をしながらも、もしや兄が帰つたらの気持で、毎晩門の鍵はかけずに過ごして居りましたが遂に戻らず、無事に帰つた方々をうらやましく思えてなりませんでしたが、此の度の慰霊祭に参列させて戴き、戦友の方々のお話しを伺つている中に、私は皆さんの気持ちになぐさめられ、大きな落し物が手元に戻つた気持になりました。

 戦友の方々にはボルネオでのご活躍につぎ、戦後さびれた社会を今日の民主社会の成長に大きく貢献なされ、平和な社会建設に邁進下さつているお姿には、唯感謝するとともに、偉大な力を教えていただきました。これからは残る人生を兄に変り皆様方同様に、社会のために励んで行きたいと存じます。
 思付きのまゝを書連らね申訳けなく思いますが、戦友の皆様には何卒ぞ御自愛下さいまして、益々の御活躍をお祈りいたします。


闘病十年の夫を送りて

独歩三六七大隊第三中隊 八木卓一・妻  八木 久枝 (姫路市)

 この度亡夫葬儀に際しましては、皆様方の多大な御厚情を賜り、又生前中には多くさんの方から御見舞を戴き誠に有難うございました。ここに厚く御礼申し上げます。
 広瀬様を中心に白鷺ボルネオ会が発足されましてから、本来ならばその事に喜んでお世話させて戴きたかった事と思いますが、病床に伏しながら、皆様のお世話になるばかりで、不甲斐なき事と残念に思つておりました事でございましよう。よく戦地でのもようを話してくれましたが、いつも興味をそそる様な話ばかり得意げに語つてくれるものですから、私もそんな時が楽しみでございました。主人のもとに来ましてから三十何年かの生活の中で、昔の記憶はほとんど忘れ去つて、まる十年間の闘病生活が総てであつた様に思はれます。

 その十年の歳月が、又戦友とのつながりの中で生きていたかの様に、主人と戦友とはかた時もきりはなす事が出来ませんでした。と申しますのは、国立病院に入院致しました当初に、戦死した方等が、多くさん主人の夢枕に立つたのだそうです。あの様な悲惨な状態の中で生きて帰つた自分が、一度も亡き戦友のみ霊をとむらう事もしないで申しわけなかつた。許してほしいとその朝声を上げて泣いたのです。
 煙草や酒やぜんざいを一杯お供えして、すぐに供養をしてほしいと云う主人の言葉に、電話で知り合いの方に連絡して、第三中隊英霊の御供養をして戴きました。それ以来私の頭の中に主人と戦友とが結びついてしまつたのです。看護をしてゐるとは申しましても、何もかも相談しながら、主人が頼りでしたから、この年まで生きてゐてくれました事がどんなにか有難く、戦友のみ霊に守られてゐた事と、皆様方の陰ながらの暖かいお心のはげましのお蔭様だと感謝せずにはゐられませんでした。

 毎年夏の暑さに弱り、涼しくなると元気を取りもどしておりましたが、今年の暑さにはもちこたえる事が出来なかつたものと思はれます。八月の初頃から高い熱が続き、暑さと熱とで最後の苦しい日が続きました。
どうしてあげる事も出来ず、そばにつき添いながら遠い昔戦地で死の行軍を続けてゐた兵士等の姿を主人の中に見る想が致しました。
 「何か云いたい事があるんぢやないの」と尋ねますと、わづか二十人でそこを死守せよとの命令が下された時、疲れ果てた者がこれだけの人数でどうする事も出来ない事をわかりつゝも、命令に服し多くの友を亡くした時の事が忘れようにも忘れられないのだと申しました。三十年余り過ぎた今もなほその時の事が、怒りとも自責の念ともなつて、本人を苦しめてゐるようでございました。そのみ霊にお詫をし、心からの冥福を願うべく、前と同じ様に第三中隊英霊の御供養を真心でさせて戴きましたのが、八月九日でございました。

 なにげなく神戸新聞の正平調のところに目をやりますと、その日は八月ここのかびと云つて、全国で一勢に戦没者と戦災者の慰霊祭が行はれてゐる日で、この日に供養された人は、四万六千日観音様にお参りをした功徳があるのだと書かれてありました。偶然にもこの様な日に、私宅で戦友のみ霊の御供養をさせて戴くめぐりあはせを、わからないまゝに何かがあるのだなあと思つた事でございます。それから熱も下り、死ぬ一週間前には平常にもどり、本当に安らかな眠りにつきました事が何よりの喜びでございます。広瀬様を始め皆様方のお骨折り下さいましたお蔭様で、この度慰霊碑が建立されまして、又主人もそこに入れて戴き、昔の友と語りあう事でございましよう。

 昨今は不景気とかで、倒産、失業者、又人々の心の断絶や、色々と暗いニュースもー面には少くありませんが、豊富な物に恵まれ、平和な日々がおくれますのも、尊い命をお国に捧られた多くの方等の犠牲の上に築かれたものだと云う事を忘れてはならないと思つて居ります。これからは私も、年に一度の慰霊祭に参拝させて戴き、皆様方と御-緒に多くさんの英霊の御冥福をお祈り申したいと思います。色々と本当に有難うございました。
 何卒今後共よろしくお願申上げます。


アパリの街

独歩三六七大隊第四中隊所属  坪田 政信  (神戸市)

 台湾高雄より敵潜水艦の巣である難関、バーシー海峡を無事に渡つて、ルソン島(フィリツピン本島)の最北端アパリに上陸した。これより先は、大型の輸送船では、敵機・敵潜の攻撃を受ける可能性が一段と強くなつたので、機帆船に乗替えるべく、一時上陸したわけだ。
 宿舎は古い木造家屋で何の跡かわからないが、三日位滞在したように思う。二日目位か当番兵の鈴木上等兵が外出より帰つて来て、街をものめずらしく散歩中、のどが乾いたので水を呑ましてもらうのに、通りすがりの民家に立寄った処、そこは歯科医師の家で、早速家の中へ招き入れられ、コーヒー、菓子等を出し、夫婦でダンスをして見せてくれるまで歓待し、隊長がダンスが好きなら、是非連れて来るように云はれたと云う。

私も船待ちで丁度退屈していたので、それではと、その夜鈴木上等兵とその民家に出かけた。早速広間に通されると、異国に珍しい日本菓子、コーヒーがテーブルに並べられた。主人公の歯科医師が若い美しい夫人と、二才位の娘と母親、それに双生児だと云う弟夫妻を紹介してくれた。
間もなく、日本語通訳兼ピアニストと云う若い美しい女性が表れて、しばし和やかな会話が続いた。やがて、部屋中の電灯は全部消され、灯はピアノの上の椰子ランプの淡い光のみとなり、同時に軽いピアノの旋律が流れて来た。

 いよいよダンスパーティの始りだ。先づ、主人公の歯科医師夫妻が軽く会釈して中央に出て踊り出した。ワルツの曲だつたと思う。女の方は目の覚めるような真紅のワンピースのドレスで、しなやかな身振りだ。
淡いランプの光の下だけに、仲々気分が出る。次いで弟夫妻が踊り出した。これも仲々うまい。さすが情熱のお国柄だ。それが踊り終ると、兄の方の夫人が私の前へ来て、私の相手になるから踊れと催促して来た。
汗くさい軍服姿、それも上衣なしの開襟シャツ姿のドタ靴の軍靴で、真紅のドレスを相手に踊るのだから、如何に珍奇なカップルだつたろうか。

 最初は神戸を懐しんで「港の見える丘」のブルースに始り、「奥様お手をどうぞ」のタンゴまで数曲楽しく踊つた。一応ソシアル・ダンスが終ると、お国比島独特の踊りが披露され、みんなが一緒になつて踊つた。
これは男女相接して踊るのではなく、多数の人が輪になつてならび、一人のリーダーの仕草を真似て、面白おかしく踊るのである。あまりおかしく愉快であるので、皆がやんやと騒いでいたら、突然、あわただしく階段を昇つて来る音がして、この地の駐屯部隊の一人の上等兵が入室して釆た。何事かと思つたら、その上等兵は「自分は通信隊の者です。やかましくて、通信の邪魔になるから静かにして下さい。そして自分の隊長が責任者を同行して来るように云はれた」と云う。

 これで今まで戦争に来ているのも忘れて、楽しかつたパーティもーペんに興醒めとなり、その上等兵に「通信隊がすぐそばにあるのを知らなかつた。もう止して帰隊するから、隊長によしなに謝つて呉れ」と頼むより他に手がなかつた。早々に歯科医の先生に礼をのべ、逃げるように帰隊した。


秋燕がさゝやく

独歩三六七大隊第四中隊 石山一雄・妻  石山 八重子  (芦屋市)

 広瀬正三様と戦友の方々の御尽力により、立派な碑を建立していただき、遺族にとりまして此の様な嬉しい事は御座いません。山本さんが作って下さった和歌のように、秋燕が遥かボルネオの空で、荒井神社の碑の事を、無き戦友達に知らせてくれた事と思います。白鷺ボルネオ隊に属してよかったとお互いに語らってると存じます。
思い起こせば令状一枚で、住友銀行役員秘書室から出征の身となりました。当時三才の長男の手を引き、一才の長女は紐でおんぶして、好物のおはぎをお重箱につめて、母を伴い急ぎ足で姫路の部隊へ届けたのも三十三年前の事と月日は流れました。

 残された子供は、どうしても育て上げなければと固く決心しました。貨車に乗って津山方面迄さつまいもをリュックに、或時は結婚衣裳を全部小麦粉に替えてもらって、子供達の成長を助けました。無き石山が守ってくれてましたのか、お蔭様で大病もせず、現在は夫々社会人、主婦と、家を造り頑張っております。
 白鷺ボルネオ会の皆々様は、慰霊祭に出席いたしましても、何時も私達遺族に優しく言葉をかけて下さいます。世の中一歩外に出ますと波は荒く、私共々苦労がおありだったと存じます。この建碑して下さった事には、何か今迄の願いが一度に成就しました様な気持です。感謝いたします。厚く厚く御礼申し上げます。


知られざる北ボルネオ戦

独歩三六七大隊第四中隊所属  木之村 匡  (神戸市)

死の行軍の発端
 年月の去りし日のなんと早いことか、省みて、今日本人の中堅を成す人々の間で「大東亜戦争」と云う言葉が昔の歴史にあつたげな、と云う時代に成つてしまつた感がする。
 過日の「サバ州一人歩く兵」をお読み頂いて、死の行軍の一端を紹介させて頂きましたが、当時我々が知る由もない色々な事柄が、従軍関係者により数々の書籍となつて、記録紹介されている事を知る。
 今其の一端を記す事にする。
          ○
 中央公論(昭和五十二年十月号・豊田 穣執筆)記載によると。
 昭和十九年十月下旬、比国レイテ島へ連合軍が上陸するや、日本軍は北ボルネオ東海岸一帯を守備した。
 連合軍は二十年一月、既に東海岸各所に爆撃を加へ、其の隙を狙つて西海岸のブルネイ湾ラブアン島に上陸せんとした。
 三七軍司令官は、当時ゼツセルトン(コタキナパル)に居たが、大本営の参謀が図上に一本の線を引いて、タワオからラブァン島の近くのメンバークル港迄は直距離二百粁、毎日四十粁で行けば五日間で行ける。
「東海岸に在る二万の兵は、ラブアン島の連合軍を撃滅せよ」この命令を受け取つた馬場中将並に黒田参謀は、この山岳重畳せる原始林の道、各河川が網の目の如く入交る湿地帯を越えて重装備で大部隊の移動不可と考へ、先づ「サンダカン」へ、「サンダカン」の兵を先行させて、後を追つて随行させる事を決め、ゼツセルトン、ラナウ、ケニンゴー、テノム、ボーホートの線で連合軍を迎へ討つ事とした。
 独混第五十六旅団〔貫兵団=明石少将麾下歩兵三六六大隊他六ヶ大隊(我が三六七大も含む)砲兵、工兵、通信隊、及び独歩第二十五連隊(家村大佐指揮)、独混第七十一旅団ニケ大隊及砲兵隊、通信隊〕等に対し、サンダカン経由ゼツセルトンに向う様に発令、これが二十年二月十四日とある。
          ○
しかるに一方、藤原稜三著「落日のラブアン島」の文中には次の様な記がある。
          ○
 この転進命令(灘作戦命令二三号)は一体誰が発令し、いつ誰がどの様な形でそれを復唱して、下達されたものか、今日でも尚不明のまゝである。
 当時の参謀長馬奈木中将は、次の様に回顧されている。・・・昭和二十年一月、東京会同にて全軍参謀長会同があり、これに基づいて二月十日(一九四五年)サイゴンに於て、南方総軍参謀長会同があつた。しかし此の転進作戦の議題は、全く登つてはいなかつた。決定は此の会同で決められ実施される事に成つている。
 ところが私の作戦麾下にある第三七軍は、私の知らぬ間に、何者かの命令に従つて一月下旬には、早くも転進作戦の行動を開始し、どうして此様な事態が発生したのか、今日に到るも全く不明である。三月一日に私は二師団長に就任のため、ベトナムへ向つたが、その時点に於てすら、私は貫兵団長転進作戦行動の事実を知らなかつた。当時私は南方総軍司令部に対し、第三七軍の転進作戦行動には不同意である旨の正式電報を発していたから、東海州守備の各部隊は、それぞれの陣地を守備中と計り信じていました。・・・
          ○
 今一つ、山田誠治著「ボルネオ戦記戦闘編」の記事には、
 過ぐる二月初旬のサイゴン会同(参謀長会同)の折りには、総軍からは一言の意志表示もなく、何等下相談すら行われていなかつたにも拘らず、馬奈木参謀長の二師団長転出と相前後して、初めて「東正面動点配備の方針を改めて、兵を西北方へ転進する必要あり、貴軍の可能性を伺い度し」と云う突然の打診に対し、「この転進はまず不可能に近いこと、あえて強行すれば、戦闘以上の多大な犠牲を覚悟せねばならぬ、と強硬に反対の意見を具申した」が、この間に周囲の状勢は益々切迫して、やがて総軍は命令を以つて、「転進を強行する以外に方途なしとの強制的な意向の応酬もあり、二月の初旬、遂に最も恐れていた事態が招来した。この南方総軍の命令に基づき、馬場軍令官は万巳むを得ず、涙をのんで東海岸所在の全員に対して、断乎、転進命令の発令となつた]とある。

 斯の如く転進命令発端前後の状況が各書に示され、ことに発令期日については、二十年二月十四日、或は一月下旬、或は二月初旬とあるが、最も信頼すべき我が部隊の第一中隊長広瀬大尉の戦塵日記中にある如く一月二十九日に既に転進に対する行動が開始されているのでしたがつて転進命令の発令は、二十年一月中旬と見るのが最も正しいと思はれる。
サバ州を偲ぷ
 前述の様な死の行軍が待つているなんて、神ならぬ身誰が知らう。我々四中隊の面々は、お蔭で大した危険もなく、十九年十月中旬にラハドダツの港へ安着した。早速翌日から街へ行き、華僑の人々からマレー語を教えてもらい、私のノートはマレー語でーパイに成つた。だが残念、帰国時に全部焼却し、今は何んにも頭の中に残つてはいない。
 一小隊長故石山一雄氏、二小隊長坪田政信氏、三小隊長永井茂雄氏の面々で、坪田隊は上陸後、間もなくシンボルナへ分駐された由、此のお話は又坪田さんより機会があれば伺へるかと思います。
          ○
 二十年の三月十日前後と思う。
 コヤ川を渡り、一群より取り残されて、一人泥海でのた打ち廻つて苦しみ、谷川の渡河に失敗したり、「バタンカ」か「ラマグ」か、木造の長屋風の民家を左川端で見付けた。多分ラマグのカンポン(村)だつたと思う。先客の兵が二十数人、全部が病人計り、衛生兵と後一〜二名が快々しく世話をしていた。三日程も世話に成ったと思う。
 其の間に誰かが川向うの林に居た猿を射とめて食はして呉れた。大変美味だつた。だがあの歯をむき出して、目はランランとこちらをにらんでいる形相、あたかも人間を怨むかの様で、二度と見る気はしなかつた。何しろ、コヤ川出発時の糧秣支給より「ラナウ」迄は、どこに支給所がない。いや既に撤収前進していて支給所がなくなつていた。

 我々が其の当時、知つている南国と云う知識は、映画か本で知る甘いロマンスの話で、時にはターザン映画程度の南国、即ち到る処に食物有りとさえ錯誤する時代、だが現実はそんなに甘くはない。食物は総て人が作る物で、あろう。人の居ない地域では絶対無に等しい。又有つたとしても知る由もなく、一つ達へば死を招くであろう。
 ラマグを過ぎて甲地点近くで、右側ジャングル内で猿群を見て、何か食う物があるのではと思い、リンゴに似た果実を発見、苦労して取り口にして思わず吐き出した。渋いとも苦いとも云い様のない物でした。獣は象、野猪、鰐、バンビ、豪猪、蛇、大小の晰錫、山羊、猿類等々・・・猛獣に類するものは居ない様である。現地人に猛獣はと聞くも「サーナ・ジャウ」(遠い向こうの方)と云うだけで、確たることは知らない様である。

 十九年十二月に、私はコヤ川迄ではあるが歩いて、色々な原始林に住む野生の動物に出会つたが、二十年二月からの行軍では、さすがの野獣も幾数千の日本軍の転進に、ボルネオ始つて以来の出来事で、恐れをなしてか影も姿も見せず、大変淋しく興が薄れて張がなく、苦痛のみ一段と倍加した。
 唯-つ、セガマを過ぎて象ケ丘よりラマグを過ぐる間で、我々を驚かすと云うか、なごますと云うか、笑わせてくれる生き物が居た。笑ふ鳥と云うか虫と云うか、大きな声で「ウワウワウワ…⊥と可成り永く次第に小さい声になつて、終り近くは「ハハハ……」と聞えなくなる。人を小馬鹿にした様な声で、又しても思い出した様に鳴き出す。正体を探ぐるも不明、現地人に聞くも「ティラ・チキチキ」と云う(小さい知らない)だけで、確なる事は教えてくれなかつた。私は常に現地人と接するに「キタ・サヤ・カワン・カワンサマサマ」(お前等も私も皆々同じだよと)云つて、平等にあつかつて来ました。
 私はラハドダツを出発以来、軍装の外に私物米三合、塩、薬、燐寸等々をゴム袋に入れて必携し、これ等が後日物々交換(トツカル)に役立ち、私を内地へ帰してくれる原動力にもなつた。
          ○
私は忠烈碑建立慰霊祭後に今更の様でしたが、私の住む近隣の戦死者宅を探し、御蔵通六丁目、銃砲隊所属の故江口芳松君宅へお参りして、併せて慰霊碑建立の様子やらボルネオの模様等をお話して、併せて私の拙文をお渡して参りました。
          ○
 二十年三月二十日前後の頃、甲地点附近と思います。
 私が自決を思い止どまつて後二〜三日過ぎ、病み、痩せ、衰へた兵の姿をどの様に受け止められたろう?  将校(尉官)当時戦闘員は階級章は全部外していた。唯一人、何れから来られ、何こへ行かれるのか、何れの所属の方なのか、初めて出会つた人、嬉しかつた、嬉しかつた。優しく声を掛けて下さつた。今はその言葉は覚えていないが、何隊の何と云う人だったのか、元気で御無事にお帰りに成つて居られるかしら。彼の将校は大変元気で、私を振り返りながら「ラマグ」の方へ行かれた。

 セガマを出発して此の当り迄が本当のジャングルで、常に千米前後の山岳が重畳し、原始林の昼尚暗きぬかるみの山道、体力の限界は既に越へていた。三小隊永井隊長、四分隊浜辺班長とも「セガマ」で別れて、もぅ一ヶ月にもなる。早く追い着き再会を願うも、体調思う様にならず・・・。広瀬正三氏の手記によると、私が「ラナウ」に着いた頃には大隊主力は、ブルネイに到着して居た様です。其の頃我が永井隊はいづれの地に居られしや。
 六月上旬、メララップの病院に居る頃、我が大隊はブルネイで大乱戦の最中・・・。ラブアン島での玉砕、奥山大隊もこの頃のようである。メララップの野戦病院から、西村隊長(何隊か不明)と共こテノムへ向けて出発するのですが、病院での給与があまりにひどいので、近くにあると聞く日本農園を探してマカン(食)を決め込んだ。

 何日か後にテノムに着いた。六月下旬頃。飯盒炊さんをするのも煙が気になつて、森の中で隠れる様に、身に栄養と思うも何もない。近くを流れる小川で、蛙や蜥蜴を追い回して、捕獲しては米の中にぶち込んで飯き「蛙飯」と称して食う事も多々あつた。

 七月下旬、ボーホートの前線(三六八大隊木村部隊)にまぎれ込んで敵と対陣した時、毎日毎日毎日全員の食糧(握飯)を後方迄交代で受領に行く、其の途中に湊川程の谷川を丸木橋の上を渡つて往復するのですが、敵は此の地点を山頂よりよく狙撃して来る。一番いやな危険な地点であつた。今も当時を思い浮べては「よく無事で」と思ふ。
          ○
 先日永井隊長方へも慰霊碑除幕式の写真と共に、私の拙文も併せて送つて置きました。隊長からも皆々各位様へ宜しくとの伝書でした。当年七〇才になられて、教職も退かれ、余生を送つて居られる御様子です。
          ○
 二十年七月頃からボーホート戦線に於て、日夜と云いたいが、夜は全く平静で静寂そのもの、夜が明けると、午前八時を合図に各種の火器が一斉に火を吹き、こゝと思われる地点へ物量に物を云わせて打ち込んでくるも、我方何等応酬する事もなく、いや出来なかつたのだろう。あの難行軍が災して、兵器弾薬の搬送が意の如くならず、まして制空制海を御せられては、遂に砲声らしき反撃音を聞く事なくして、ボーホートの戦は終りを告げた。
          ○
 常夏の国ボルネオ、南十字星輝く北ボルネオ、多くの戦友の眠れるサバ州、上陸以来此の地に足を踏み入れて、約ニケ年の歳月・・・。共に帰国を胸に秘めて、互に命を永らえんと懸命に、だが運命の神は多くの人々を見放して戦友を此の地の土と化し給ふ。幸にも私達は九死に一生を得て、北斗七星の輝を見る事が出来た。
 唯一つ、今となつて残念に思い出される事で、亡父が日露役にも持参した家宝の短刀を、ボーホートの収容所で没収されたが、思い様一つで今日ある私の身替りと、今更ながら父の尊さを知る。
          ○
 此度白鷺ボルネオ会の広瀬会長を中心に、役員各位の御尽力により、念願の慰霊碑が出来まして、戦友と共にお喜び申し上げ、厚く御礼を申上ます。


断腸の思ひ

独歩三六七大隊銃砲隊所属  山本 利二  (兵庫県三原郡)

 不惜身命、惜身命、己が身を打ち捨て、愛しき家族と別れ、只管皇国の干城として御奉行され居られしに鳴呼生者必滅会者定離、突如として病魔に冒され、或は傷痍の身となり、又は潔よく散り行く山桜の如く、時ならぬ無情の風に誘はれ散華せられ、黄泉に旅立たれ帰らぬ身となられし、幾多英霊の御遺族に思ひを致すとき、御愁傷の程如何許りかと目もくれ、心も迷ひ、痛ましとも怨めしとも云はんすべなく、是こそ本当に「断腸の思ひ」と言ふものかと痛恨極りなきを今も尚禁じ得ません。

 終戦後既に三十有余年、長寿を全うせられ、世の中の変遷に驚異の眼をそゝがれ居られる御両親方、雄々しく風雪に堪へ偲ばれ、御立派に生き抜かれました奥様方、そして又力強き母の愛に育まれ、今では青壮年紳士として、大志をいだき目的達成のため、中堅国民として国家再建に御活躍の御子様達、此の三十数年間に於ける忍従御努力御精進には、筆舌につきないものが多々あられたことゝ拝察、衷心より感謝感激に堪へないものが御座居ます。

 さて追憶をたどれば、戦争といふものは、夢か幻か嘘の様でもある。最後の輸送船団かとも云はれた南方行、そして灼熱の北ボルネオ、サンダカンを経てタワオに到着、食糧補給もつかないまゝ、箸のいらない湯粥をすゝつたことも、岩塩湯に甘藷の葉一、二片を浮かべて味噌汁替りにしたことも、椰子の芽を主食替りとしたことも、一個のパパイヤやウビカユも気持よく分け合つたことも毎日の様だつた。

 それに加へて、ジャングル地帯をスコールになやまされつゝ、二ケ月半に亘る死の行軍を続けたタワオ、ブルネ一間、スコールが多い地方とはいへ飲料水は乏しく、ボーフラを吹き吹き喉をうるほしたことも幾度か。空腹のため眠れぬ夜も幾日ともなく続く。でも日増しに疲労が加はり、目が覚めてもすぐ眠る。また空腹を覚ゆる。まるで飢と疲労との戦であつた。
 お互ひに励まし合つたあの言葉
「老ひても尚精出して居る故国の両親を思へ、銃後を健気に護る愛妻を思へ、可愛いゝ吾が子の笑顔を思へ、そして出征の日の旗の波を忘れたか」と、
 元気づけつゝお互ひの心と心のふれあいを求めつゝ歩き続けた。そして気力で生き抜いた死の行軍、然し一人たほれ、二人へり、三人たほれと日毎に敵陣を睨み、母国日本を偲びつゝ、昇天して行く亡き戦友の姿を見送る度毎に、今度は自分の番かも知れぬと思つたことも幾度びか。だが縁あつて「憎まれ子世に憚る」といふ言葉通りか、終戦の翌春北ボルネオ、ブルネイ国ラブアン島(前田島)港湾を最後に、日の丸をクツキリと画いた復員船、元空母「葛城」に乗り組み、昭和二十一年四月二十四日、母国日本呉大竹港に上陸復員完了をみたので御座居ます。其の後生き残りの戦友が会する度毎に、ありし日の面影を今も尚語り草として伝へられて居ります。

 今では幽明境を異にし、再び亡き戦友の眼ざしに接する術はありませぬが、故人の愛情と御遺志は御遺族方に受けつがれ、悲嘆の中に埋もり果てることもなく躍動しつゞけられて居られることゝ存じます。私達も余生いくばくも御座居ませんが、幸にして今日あるは、今は亡き戦友の御加護によるものだと肝に命じ、頑張り抜く覚悟を新たに致して居ります。
 殊に去る九月二十三日の秋分の佳き日、高砂市荒井神社の境内に慰霊碑を建立、是が除幕式と合せて慰霊祭を挙行、私達の寄り処が出来得ましたことは、せめてもの慰めだと存じて居ります。尚建立に際し一方ならぬ御骨折をいただきました方々に、紙上を借り深甚なる敬意と感謝を捧げると共に、亡き戦友の御冥福をお祈り申し上げ、併せて御遺族皆々様方の益々の御健勝と御多幸を御祈念申し上げ筆を置きます。
 椰子の葉や 亡き戦友偲び 今日も亦
    生き抜く力 おのづから湧く


貴方もおじいさん

独歩三六七大隊銃砲隊 神子素武雄・妻  神子素 喜代子  (洲本市)

 柚子が色づき、師走の声と共に今年も暮れようとしています。光陰矢の如しとか申します様に、月日の経つのが早いもので、私も仏に向って手を合し、般若心経を唱える三人の孫をもつ白髪まじりのおばあさん。
やれやれ貴方もおじいさん。今はどんな姿に変っていることやら・・・。娘時代は軍服姿の凜々しい人をと、憧れて結婚すると、どんな家庭を築こうかなあ、子供は沢山出来るといいのにね、と夢をいだいて楽しさ一杯に胸をふくらませ、或る時はあまいムードの二人きり、影を慕いて雨に日に-と歌と共に、バイオリンの静かに流す夜のひとときを、月光の曲の音楽は新婚の気分を出させ、粗末なお菓子で語りながら、お茶のお点前をしては、お茶の味を味って時を楽しんだものでした。

 やがて母となり、乳房をしやにむにしやぶる赤ちやんは、どんな子に成長してくれることやら・・・早く大きくなります様にと、一日千秋の想で育てつゝ・・・「誰がしかけた戦ぞ」。我が子をいつまでも見守って抱きしめ抱きしめ、これが見納めかと思ふ心のやるせなさ・・・あわれをさそひ、胸の痛さを感じさせられ、妻子の契り浅く出発しました。

手紙の便りに、故里の庭の実りが気にかゝりの文句の一節に、母は我が子の安否を気遣いながら、あれもこれもと蔭膳を、帰らじとかねて覚悟はしているものゝ、つい寂しさに犬が啼いては、想し我が子見れば目がうるみ涙で過した日もありました。「国の為捧げし命惜からず、我が身守りたまえ靖国の君」長い様で短い一生をやさしかった貴方の愛情があればこそ、今は暖い家庭に守られて送らせて頂くことが出来そうです。

 先日は私達の為に、立派な忠烈の碑が皆様方の御力によって出来上り、その除幕式に参列させて頂き、出船入船の焼香で、その当時を浮ばさせられ、菊で飾った周囲の美しさの中に、勇ましい力強い忠烈の字が現れて、夫と共にあるのだと、只々勿体なく有難さに感謝の気持で、どうか私達に幸あれと永久に見守りたまえと一人言をつぶやき、念じながらしばらく立留り、名残のつきない碑に別れを告げて帰路に着きました。
 国のため捧げし命忠烈は菊薫る
 忠烈碑帰らぬ人を目の前に涙ふく
 最後に皆々様方が、私達に尽して下さる数々は、頭が下る思で心から嬉しく厚く御礼申し上げます。本当 に有難うございました。                       合 掌


礼状

独歩三六七大隊銃砲隊 玉垣春雄・妻  玉垣 佐々子  (加古川市)

 前文御免下さい。乱筆乍ら一筆取らせて頂きます。其後広瀬中隊長様始め、戦友の皆様方にはお変り御座居ませんか、何時も乍ら何かと一方ならぬお世話様に成つて居ります。本当に有難う御座います。主人が召されて三十四年、永い年月では有りますが、過ぎてしまえば夢の如く早いものですね。
 昭和十九年七月三十日、三十九連隊を出て、南方の彼方へ行く兵隊さんを必死の思いで、姫路駅迄見送りましたあの日の事が、昨日の事の様に思い出されます。生きて帰る事の出来なかつた主人も、今は草葉の影にて安らかに眠つて呉れて居る事でせう。生還なされた戦友の皆様の厚いお心により、去る昭和四十五年八月、荒井神社に於いて、始めて慰霊祭をして下さるとの通知を受けました。盛大に慰霊祭をもよおして戴き本当に嬉しく感謝にたえません。

 他の部隊にも数多く戦死なされた方々も多さん居られますが、こんなに丁寧に慰霊祭をして頂いて居る事は聞いた事が御座居ません。有難く嬉しくたゞたゞ涙にむせぶばかりでした。おひるの懇親会の時には、戦友の皆様にどんな事をお話ししようか、又どんな事を聞かせて戴ける事かと心待ちして居りましたが、お逢いしますればたゞ涙が先・・・私のすぐ前に座つて居られた方が、玉垣さんですねと声をかけて下さいまして主人の最後の行軍の様子等こまごまと話して下さいました。涙乍らに聞かせて戴きましたが、此人達が助け合つて一緒に御奉公して下さつたのだと思い、本当に嬉しく思いました。此日は興奮さめやらぬまゝ帰宅致しました。

 其後も度々慰霊祭をして戴き、本当に有難く感謝にたえません。又此度は立派な慰霊碑迄建て戴き、何と御礼申し上げて良いやら、とても筆舌には言いあらわせません。英霊方もどんなにか喜んで居られる事でせう。何時迄もお忘れなく、今の様に慰霊祭をつゞけて頂きまして、私達も皆様とお逢い出来ます日を楽しみにして居ります。では拙い文章では御座いますが、此辺で筆を置かせて頂きます。
何時迄もお元気で、又お連出来ます日迄                        かしこ


七人の孫に囲れて

独歩三六七大隊作業隊 村瀬一好・妻  村瀬 しげ子  (三木市)

 戦後丸三十四年が過ぎましたが、此の度、高砂市の荒井神社の境内に戦没碑が建立されました。かえり見ますれば戦後、消息不明の遺族達を尋ね探して幾年、度々慰霊祭を催して英霊達を慰め、遺族達を力づけ、又〝あゝボルネオ″と名付けられた立派な本を出版し、今は亡き人々の足跡も詳しく知る事が出来、本当に嬉しく思つておりました。
 しかるに此度、はからずも立派な戦没碑の建立、除幕式に参加させていただき、感謝の気持で一杯でございます。これらはひと重に皆々様の努力と熱意の賜で、英霊に対する深い愛情、遺族達に対する厚い思いやりのあらわれであると、頭の下る思いでございます。地下の英霊達もさぞよろこんでいる事と思います。

 私共においても、子供達三人、それぞれ結婚して独立、最近は七人の孫に囲まれ、無事に暮らしております。地下の夫に対する自分の務めも果せた事と肩の荷を下しております。
 終りになりましたが、関係者の方々始め、生還者の方々におかれましては、英霊の分まで長生きされ、元気に活躍されます事を心よりお祈り致します。有難うございました。
園児来て戦没碑をふり仰ぐ秋の宮
戦没碑除幕かつての戦士温め酒
戦友の老初まりぬ秋の暮
墓も建ち戦没碑も建ち菊の香に酔いぬ
亡父の齢はるかに越えて松手入  (長男 勝蔵作)
  付   記
戦死、村瀬一好氏の二男村瀬一紀氏は荒井町に居住され、お孫さんに当る村瀬智彦ちやんは、私方の白兎愛育園の園児でした。祖父ちやんの鎮魂の碑前で毎日元気でお遊びしていたのですが、本年三月お家を稲美町に新築され移住されました。       (編者記)


世話人代表挨拶並に経過報告

独歩三六七大隊作業隊長 奥平 冬正  (姫路市)

 来賓の皆様を初め、独立歩兵第三六七大隊の御遺族の皆様又生還者の皆様、本日はようこそ御越し下さいました。私元作業隊長の奥平でございます。私達は昭和四十五年以来、独立歩兵第三六七大隊の生還者及遺族を以て、白鷺ボルネオ会を結成して以来、年一回の慰霊祭や懇親会を続けつゝ今日に至つて居りますが、結成以来白鷺ボルネオ会の会長は、元独歩三六七大隊の第一中隊長であり、現在当荒井神社の宮司をして居られます広瀬正三さんを推戴して、広瀬さんを中心に、
 本部の坂越秀夫さん
 一中隊の柏木竹男さん
 二中隊の本日司会を担当して居られます山本恒雄さん
 三中隊の阿部辰二さんと田中茂さん、更にもう一人、東山鉄夫さんが御世話して居りましたが、この八月二十五日急逝され、生前は良く御世話をして頂きました。
 四中隊の坪田政信さん
 銃砲隊の松下博夫さん
 作業隊の私奥平冬正
と、本部、各隊の世話人を以て運営して参つて居りますが、昨年の当荒井神社に於ける合同慰霊祭後の懇親会に於て、慰霊碑を建設してはどうかの建議が起こり、世話人相集ひ機は熟したと見て、建設に踏みきることに決し、本年二月、慰霊碑建立基金募集趣意書を発送すると共に、五月に中間報告を兼ね再度の募金の御願を申上げると共に、本部各隊毎に私文書、電話、面接等の方法を以て、その促進に努めました結果、本日出席の皆様に御配布致しました昭和五十三年八月十五日現在、独立歩兵第三六七大隊慰霊碑建立基金寄進者名簿記載の通り、生還者一三七名と遺族一二八名、合計二六五名の賛助を得まして、合計金三九一万五千円の募金集計となり、当初目標の慰霊碑建立基金百五十万円を軽く突破しましたことは、皆様の御理解と御協力の賜物でありまして、世話人一同厚く感謝申上げます。

従ひまして皆様の熱い御協力に酬いるため、慰霊碑建設関係に約百万円を追加して、建碑関係に二百五十万円を予定して、よりよい忠烈慰霊碑を建設すると共に、記念品を準備し、残余は本日の慰霊経費や懇親会費用に充当することとして、予算を改定して本日を迎へた次第です。

 扨慰霊碑建設に閲し御報告申上げ度いと思ひます。慰霊碑の施行は元作業隊の生還者であり、現在宍粟郡波賀町で、この方面の施行で明るい藤原石材の手を煩わし、設計は坪野さんの助言も採り入れ、世話人と協議しつゝ建設して頂き、夫々精塊を傾けて施行して頂きました。先程会長より感謝状を贈呈してその労に些少でありますが、酬いる方法を講じました次第です。皆様の御賛同を得たいと思ひます。

 碑石の方は四国屋島の庵治石で適当なものがあり、参拾万円で藤原石材の手で入手し、私達も現地で確認し、題字その他の打合せを行つた次第です。表面の題字は元貫兵団長明石泰二郎閣下の遺墨の忠烈の文字を拡大描字して仕上げたものです。この文字は会長であります広瀬さんが、兵団長閣下より、揮毫を授けられたものでありますが、今は亡き兵団長閣下の霊も御慰め出来得るものと信じて居ります。ブルネイよりテノムへのあの難行苦行の転進を共にした思ひ出は尽きません。閣下は軍人の鏡ともいふべき立派な御方で、生存して居られたら一番喜ばれるのではないかと思ひます。

 正面下部の碑文は、白鷺ボルネオ会会長の文武兼備の広瀬正三さんが精塊を傾け、部隊行動の概要、英霊の顕彰と共に復員後不幸に物故されました諸霊も併せ祭る様配慮された碑文であり、当時を偲び涙なきを得ません。正面向つて右側に戦没者英名を本部各隊毎に、左側に寄進者芳名を何れも鋼鋳板にて銘記取付を致します。尚背面基部に霊石及遺品、記念品等の収納庫を設ける様施行に工夫してありますが、更に保存方法に改良を加へ永く保存に耐える様補強致します。

 又荒井神社の方も、心よく建設地を選定下さいまして、誠に有難うございました。或る程度の永代料を用意して御芳志に幾分なりとも酬いたいものと念願して居ります。皆様の御賛同を得たいと思ひます。
 更に本日司会を担当して居られます山本恒雄さんには、自家育成の五月苗の優良品数十本特別寄贈を受けました。慰霊碑附近や神社の境内に五月の花が咲き競ひ、神社の境内も一段と美化されるものと思ひます。
又こうした五月の花盛りの頃に一度は慰霊祭を開きたいものと念願するものです。

 扮彼岸の中日の本日、除幕式並に慰霊祭の本番を迎へた次第です。秋晴れの好天爽やかな中に、約二百五十名の出席を得て開催して参りました。遠く神奈川県藤沢市より御越しの元貫兵団松本幸次参謀を生還者の代表として、又独歩三六七大隊初代大隊長岡田憲之中佐の未亡人岡田満代さんには、松江市より御越し頂きましたので、遺族代表として除幕並に玉串奉典をして頂きました。又先程神式及仏式の慰霊祭を終了しましたが、神式の斎主はお馴染みの会長の広瀬正三さんであり、斎員として御子息の当荒井神社の広瀬明正さん更に姫路護国神社にお勤めの作業隊所属遺族の大部満男さんの三名の御方、又続いて行はれました仏式の慰霊については、元第二中隊長で現在神戸市兵庫区の極楽寺住職をして居られます笹川隆永さんを導師として迎へ、又御子息さんにも御奉仕頂きました。又もう一人の御方は、地元高砂市の薬仙寺の住職をして居られます元大隊副官堀尾稔さんの御子息の堀尾慈鏡さんの三名の御方でございました。

 神式、仏式何れに於ても、独歩三六七大隊に関係の深い皆様の御奉仕で、誠心慰霊の誠を捧げて頂きましたので、遠くボルネオの地に散華せられました英霊を御迎へすると共に、その後物故されました諸霊も併せ合祀しましたので、諸霊も御満足頂けたものと信じて居ります。又参加頂きました御遺族の方を初め、皆様には般若心経の一字と戦没者氏名その他を夫々心を込めて銘記された玉石を御納め頂き、焼香して頂きましたが、安らかに眠つて下さいと夫々心を込めて納石焼香された事と存じます。本日御納め頂きました玉石は慰霊碑基部の収納庫に丁重に収納致します。

 このことを以て本日御詣り頂きました皆様と、本慰霊碑は心の通つた慰霊碑の完成を意味し、皆様と共に心より喜びに耐へない次第でありますと共に、お互にこの慰霊碑を守つて行きたいと思ひます。又その責任があろうかと思つて居ります。

 今後の白鷺ボルネオ会の方向としましては、この慰霊碑完成を通じて、御遺族、生還者平等の立場に立つて、年一回の慰霊祭や懇親会を続けつゝ経費捻出が出来得れば、慰霊碑建立特集号を発行して、本日のスナップ写真模様の外に、昭和四十六年に記念誌として発行しました独歩三六七大隊の足跡「あゝボルネオ」以来の白鷺ボルネオ会の歩み、その他記録したものを来年の慰霊祭迄に発行して、皆様の御手許に配布したいものと世話人一同考へて居ります。

 青春時代を南方ボルネオで、若き血潮に燃へて苦楽を共にした私達も、年一年と老いて行きます。残り少い人生の心の拠りどころとも言ふべき慰霊碑が皆様の御協力で完成しました。出来得る限り御詣りして頂く意味合ひもあり、万難を排し、慰霊祭や懇親会に御出席を賜り、英霊を偲びつゝお互の心の洗濯をしようではありませんか、私達も年一回は是が非でも、皆様と御会ひすることを楽しみに、命ある限り頑張つて参ります。

 申し遅れましたが、来賓の皆様には公私御多用の中を御出席賜り、祭文や激励祝辞を賜りまして感謝に耐へません。私達念願の慰霊碑は御蔭を以て完成することが出来ましたが、土地の提供があつてのことで、地元高砂市や神社関係者の御理解と御支援の賜物であることを忘れは致しません。今後共何分よろしく御願申上げます。
 最後に世話人一同準備万端整へたつもりでありますが、或は不行届の点があつたかと心配して居ります。
昨日以来地元会員の陰の力もお借りして居ります。又当荒井神社は毎年の如く利用をさせて頂いて居ります。
こうしたことが出来るのも会長自身の御人徳御理解は申すに及ばず、御家族皆様の御支援の賜物であることを感じて居ります。御心労に対し皆様と共に厚く御礼を申し上げたいと思ひます。

 皆様本日は本当にようこそ御出席下さいました。皆様の善意に支へられ、慰霊碑は見事に完成し、除幕式並に慰霊祭は無事終了しましたことを感謝申上げますと共に「在天の英霊この慰霊碑と共に永しへに安らかに」と念じつゝ併て皆様の御健康と御発展を御祈り申上げます。
 以上を以て拙い私でございますが、世話人を代表して挨拶と経過報告と致します。


身近に慰霊碑を仰ぐ地元民

高砂市軍恩連合会代表  柳 行雄  (高砂市荒井町)

  征く果ては、知らず夏雲遥かなり  ーある兵のよめる-

 戦勢急迫の昭和十九年八月、かねて覚悟の召集令、家を捨て身をも忘れ、南へ南へ、蒼茫の海を漂泊、ついにボルネオ戦線に投入された一、〇〇七名の健児ら、その名は独立歩兵第三六七大隊。
 超極度の物資欠乏と、瘴癘惨たる熱地作戦を闘い抜き、昭和二十一年四月、心身共にぽろぽろとなつて本土に還りついたのが僅か三五四名。

 しかし生残つた戦友方の、心の通い、血のつながりが白鷺ボルネオ会と結実して、ついに芳塊万古、忠烈の碑として私達地元の洗宮神域に祀られることとなり、時あるごとにこれを仰ぐ地元の私達に、独歩三六七の生きざま、闘いざま、死にざまを切々として語りかけてくれるのです。感慨なくして何がありましようか。
 恭しく碑を拝するに、正面は兵団長閣下直筆の「忠烈」の碑文が荘重かつ壮烈、下方は惨烈の戦闘経過要図、側面には悲しくも亡き数に入りにし友がらの名を刻む。戦友の皆様方の画案苦心のあとが偲ばれて、拝する者、胸中みな熱涙たぎる思いを禁じ得ないのであります。

 それにつけても悲しく憤ろしいのは、戦後三十余年、靖国のみたまが未だに公式に祀られないことであります。国民の多くに、ボルネオ会の皆様の、この建碑の誠と情熱とがあれば、とっくに解決されていたことでしよう。切歯憤慨の念を禁ずることが出来ません。殉国のみたまをまもる心のない国家が、如何に経済大国などと云つても、人のみ栄え、国滅ぶ類でありましよう。所詮日本は根のない砂上の楼閣にひとしく、此のままではくずれ去る日がいつかやつて参ります。
 皆様方の血と涙が凝つて出来ましたこの「忠烈」の慰霊碑が声なき警鐘となつて必ず私達の地元を、地域を、そして祖国を導いて下さるものと信じてやみません。慰霊碑にぬかずく地元民の一人として、感慨の一端を申し上げ、ボルネオ会の皆様方に深く深く敬意を表する次第であります。      合 掌


追記   馬奈木敬信先生を偲ぶ

(昭和五十四年十一月七日  広瀬記)

 本書〝続″ の完成出版も間近い昭和五十四年十一月五日でした。東京に事務局を置く「北ボルネオ戦友協議会」の松橋政敏氏から、前ボルネオ会々長馬奈木敬信(まなぎたかのぶ)先生が、昨四日他界されたとの悲しき知らせを電話でいただきました。
 これより先、十月七日でしたか、元三十七軍(灘軍)司令部付飛行班長であつた、信州岡谷市にお住ひの山田誠治氏が京都まで来たついでにと、御夫妻で私宅を訪問下さり、その時に馬奈木先生の病状について話され〝もう寿命が無いのではないか″とのことでした。丁度一ケ月前のことです。それが今や現実と相成り、先生は逐に幽界に旅立れました。此処に生前の御厚誼に深く感謝し、どうにか本書の印刷にも間に合ひますので、末尾ではありますが先生の徳を偲び追記いたします。
          ○
 我々貫兵団独歩三六七大隊としては、広大なボルネオが戦野であつたため、戦場では直接に相接する時はありませんでしたが、ともかく我々が所属する第三七軍の参謀長閣下でありました。
 昭和十七年から昭和二十年の初頭までボルネオに在任され、昭和二十年二月、陸軍中将に栄進と同時に、第二師団長としてボルネオよりサイゴンに赴任されたのです。先生の戦歴中最も世間に知られてゐるのは、シンガポール攻略戦の時、山下奉文将軍の下で参謀副長として活躍されたことであらうと思ひます。戦後、日本金鵄連合会長、或は我々の全国ボルネオ会々長として御世話いただきました。
          ○
 私は戦中はお目にかかることもありませんでしたが、戦後東京にボルネオ会発足以来会合毎にお目にかゝり、何かと御指導にあづかり御懇意に願つてをりました。昭和四十五年でしたか、関西ボルネオ会として馬奈木先生御夫妻を万国博覧会に御案内して、奈良の宿で共に夜をすごした思ひ出も御座ゐます。
 前書〝あゝボルネオ″の巻頭の序文の玉稿を我々の為に、御多忙の中を御執筆いただき御寄せいただきました。本書〝続″六八貢掲載の靖国神社の社頭に於ける私の手元の写真が最後の御姿となつてしまひました。
二、三年前に奥様に先立たれましたが、御本人は八十才を越えてゐらつしやるとは、とても見えぬほど矍鑠としてをられましたものを、全く世の無情をひしひしと感じます。
          ○
 先生は肺シュヨウのため、東京国立療養所中野病院に於て十一月四日午前八時三十六分、八十五才を一世のとじめと御逝去されました。御出身地は九州福岡市であつたと聞いてをります。十一月六日正午より御自宅、東京都世田ケ谷区に於て、長男敬宏氏喪主のもとに葬儀が営れた由です(各新聞掲載)
 白鷺ボルネオ会としては、葬儀当日弔電を送り、次の日に御悔状に御香料を添へ御霊前に御供へきせていただきました。謹んで馬奈木敬信先生の御冥福を白鷺ボルネオ会各位と共に御祈り申上たいと存じます。


後   記

編 者   広 瀬 白 兎

 先づ発刊の遅れたことを謹んで御託びしたいと思ひます。
 前書「あゝボルネオ」の〝続″を編集発刊することに、世話人会で決めた昨年十一月三日から、丁度一ケ年がまたゝく間に流れ去りました。建碑に伴ふ手記並に収骨参加手記を御寄稿下さつた方々には、一層待遠しいことだつたことと存じます。すぐ編纂に取り組んでをれば、五十四年春、おそくとも夏には発刊出来てゐるものを全く申訳けありません。

 私ごとを申上て言訳にもなりませんが、我が家の生後僅か数ヶ月の孫元明が、川崎氏病といふ変な幼児病に冒され、五十三年十月中旬から五十四年三月初まで入院し、その間赤ん坊は生死の間をさまよひ続け、家族もその為心配ど看護で家族の日常生活のバランスが狂ひ、やむを得ず本書の執筆、編集を手ばなしにして居りました。さて、幸ひにも赤ん坊は一命を取りとめ、三月五日退院して来たものの、三月、四月は私の務めの神社、保育園の予算、決算の時期であり、春祭が待つてをり、これ又本書に手が出ず、気になりつゝも五十四年前半六ケ月はあれよ、あれよと思ふ内に日がすぎてしまつたのが私の実情の姿でありました。
          ○
 六月の大祓祭(夏祭)も滞りなく終へ、大病した孫も元気にはひ廻る姿を見るやうになつた七月に入つてから、やうやく編集と執筆にとりかゝつた次第です。概ねの内容、体裁等の見通のついた時点の八月十五日に世話人会を開き、各位に遅れを詫び〝続″の概要説明と御協力を御願ひ申上たやうな次第です。
 印刷所については、原稿、校正刷のやりとりを何回となく行来せねばならぬので、高砂市地元の印刷所とも考へては見たものの、これとて造本の経験のない印刷所ではかへつて暇がゐると考へ、結局前書〝あゝボルネオ″編纂印刷の際、中心になつて仕事をした神戸市の印刷所啓文社の次男、安達輝臣君が只今では親元から離れて独立して〝あだち印刷舎″として、神戸市に於て印刷業を営んでゐるので、遠いけれども経験もあり、無理も聞いてもらへるであらうし、話も通じると思つて再度彼に仕事をしてもらふことにしました。
 私の執筆にかゝるものも、全章を通じてかなり多量であり、寄稿者原稿に就いても、歴史的仮名遣ひと現代仮名遣いはそれぞれ御本人の執筆を重じ、誤字の訂正、句読点の挿入、印刷所の困る部分の浄書、或はカットの部分は本人の了解を得る等、これらにもかなりの日時を要し、結局私自身の執筆と編集に十月下旬までかゝつてしまつた次第です。
          ○
 本書の表題書名に就いては、編纂当初では前書表題に〝建碑特集号″とする案であり、各隊世話人とも話合つてゐたのですが、その後編集の進むにつれて〝収骨記″がかなりの頁量を占むるに至り、それでは〝収骨篇並に建碑編″とも考へられましたが、更にサンテレビ出演の一項も、白鷺ボルネオ会としては大きな足跡の一コマであり、それをも加へて表題に表示すれば、あまりにも表題がゴチヤゴチャするので、前書表題の上に〝続″一字のみを冠して本書の表題書名とすることにいたしました。
 尚ほ、装偵に就いては、前書は深海に浮ぶ赤道直下の巨島ボルネオを意味して、濃紺色の台に椰子生ふ海辺の赤色写真を中央に浮したのですが、今度の〝続″は前書と姉妹篇たることも考慮に入れ、千古未踏の密林(濃緑色)に聳ゆ聖火の霊峰キナパルを赤色写真にして中央に配することにいたしました。
          ○
 その間にあつて、高砂市出身渡海元三郎建設大臣には、八月十四日墓参帰郷の際、御自宅に於て本書の為〝鎮魂〟の色紙を御寄せいただきました。又序文については、兵庫県坂井知事には高砂市選出山本県会議員の御力添へをわづらはし、吉田兵庫県神社庁長、国際ロータリー多胡兵庫県ガバナーには私自身で御依頼に参り、それぞれ八月末日には御多用の中を本書の為御執筆賜り、本書に光彩を御添へいただき真に有難く存じます。更に又、感謝にたへぬことは、高砂市に古くから製紙業を営むでゐる三菱製紙株式会社高砂工場の格別の御厚意で、本書に必要な用紙すべてを御寄贈賜つたことであります。謹んで厚く御礼申上ます。
 各隊世話人の御協力は申すまでもありません。坂越氏には初めからの関係もあつて、収支決算、寄進者芳名の校正を御願ひしました。御多用の中を御苦労様でした。厚く御礼申上ます。
 尚ほ、私をして長期にわたり執筆編纂或は校正に明け暮れ、出来得たのも家族の大変な協力の賜だと思つてをります。妻延子の内助の功も少くありません。同時に嗣子明正が親の口から言ふのも鼻下の長いことながら、若年であるにもかゝはらず既に己の学術書出版の経験もあり、私のよき相談相手となつて、校正には特に協力してくれたことを有難く思つてをります。
          ○
 本書はただ単なる白鷺ボルネオ会(独歩三六七大隊)の実施した行事乃至は事業の足跡の記録書にすぎません。しかし全章を通じ、ことに寄稿者約四十篇に一貫して脈々と流れるものは、英霊顕彰の心であり、戦友愛であり、奉仕の精神であると思ひます。我々は此の尊い精神を心の遺産として、次の世代の者に身を以て伝へるべき義務があると信じてをります。
 思ふに我々世代の者は、激動極りない時代に生れ合せて、全世界を相手に戦ひ、遂に敗れて故山ことごとく廃嘘にしてしまつたのは我々世代であります。しかし銃を捨て丸裸から立ち上つて、経済大国、世界先進国に復興せしめたのも又我々世代であると言はねばなりませぬ。
 永遠の歴史の流れから見れば、我々の生存体験する期間は真に短い一コマでありませう、しかし必や此の短い一コマは後世の足跡に残るであらうことを信じます。それ故に我々の世代の踏み来た体験記録を、たとへさゝやかであつても残しておくことは大いに意義ありと思つてゐます。神州不滅の根元がいづこにありやと求めるならば、私は斯様な処に有りと胸張つて答へたいと存じます。  勿論我々白鷺ボルネオ会の各位にあつては、本書は又と得がたい我々の踏みきた我々の歴史であり、他部隊では見ることの出来ぬ戦友、御遺族相互の心のよりどころとなるべき結実の書であると信じてをります。
          ○
 終筆にあたり本書に御芳情を御寄せ下さつた方々を始め、終始御世話いただいた各隊世話人各位、寄稿者各位に重ねて厚く御礼申上げます。
 而して三六七大隊英霊は申すに及ばず、幾百万の英霊の御冥福を謹んで御祈り申上げ、御遺族皆々様、戦友各位の御健康と御多幸を心より御祈り申上げ後記といたします。          敬 白

 昭和五十四年師走吉日                            
編 者 広瀬 白兎     


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