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御遺族、戦友手記の章より

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温容の閣下の御霊、鎮め奉る

独混第五六旅団(貫兵団)参謀 松本 幸次 (藤沢市)

 昭和五十三年九月二十三日荒井神社境内で、三六七大隊慰霊碑除幕式が挙行され、私も参加し、思ひがけなく岡田大隊長未亡人と共に除幕の綱を手繰る事が出来まことに光栄の至でした。
 幕が少しつつ下るに従ひ巨大な自然石が現れ、その表面には忠烈と墨痕鮮かな故朋石兵団長閣下の遺墨が刻まれてあり、下の鋼板には戦況を記され、忠勇義烈英霊御活躍の御模様が偲ばれて尊し、更に石碑下には玄室を設け、二基の石燈籠も供へられたまことに立派な慰霊碑でありました。

 よくも短時日の間にこのやうな壮麗な碑が出来たものかと感心しましたが、承る所によれば、石を刻まれたのは戦友であり、又諸費用は戦友及御遺族の寄附によつたものですが、その寄附金が当初の目標見込を三倍近くオーバーして潤沢に集り、すべて予定計画以上に立派に出来るようになつたとの事でありました。
 是は役員諸君の御努力と戦友や御遺族の赤心の現れであると感服致すと共に、このようなまとまりを見せるに至つた遠因は広瀬君が終戦以来南風会や白鷺ボルネオ会の中心となり、献心的努力を傾倒された結果、歳月を経るに従い鞏固なる団結を産み、今回の企画に対しても会員の心が慰霊碑建設に結集し、かかる成果を挙げられたものと思ひ、まことに広瀬君積年の労を多とすると共に深く敬意を表する次第です。

 除幕式に続いて神式及仏式により、壮厳に慰霊祭が挙行されましたが、神式は第一中隊長の広瀬荒井神社宮司と御子息及英霊の弟にあたられる姫路護国神社の神官により、仏式は第二中隊長の笹川極楽寺住職とその御子息及英霊の遺児にあたられる薬仙寺僧侶を加へて、各々三名宛で供養が行はれました。
 まことに英霊に最もゆかりの深い方々により祭典が行はれました事は、英霊と吾等戦友や遺族が再び幽明の境を超えて交り会うような近親感に充ち溢れた思ひでありまして、英霊も嘸満足された事と思ひました。
私も深く頭を下げて亡き英霊や戦後の物故者の霊を弔ひ、その御冥福を祈りました。
 仏式の慰霊祭の折、般若心経の経文の一字を小石に墨書し、其の裏面に御遺族が夫々の英霊の御氏名を墨書され、読経の声降りそそぎ、香煙柵曳き漂う中を之を手にして碑前に進み、台上に安置されました。此の石はやがて玄室に納められ、永遠に御冥福が祈られる事でしよう。

 私は「若」の一字を小石の表面に、裏面に貫兵団長の御氏名明石泰二郎と墨書し、之を捧持して大勢の御遺族の列に続き、碑前に進み御焼香をしました。私が碑前に額突き御冥福を祈りました時、閣下の温容溢るる御姿が三十数年の歳月を超えて髣髴として眼に浮び思はず涙しました。そして閣下も吃度御喜びであろうと感じ、何かホツとするような心安まる思ひがしました。同時に私の脳裡を閣下との思ひ出が走馬灯のように走りました。それは寸秒の瞬間に過ぎませんが、其の思ひ出を筆にしますと少し長くなりますが次のようなことです。

 私は若い頃北朝鮮会寧の聯隊に勤務して居ましたが、其の頃陸軍に軽機関銃が新兵器として用ひられるよぅになり、その使用法等を各隊に普及する必要上、千葉の陸軍歩兵学校に学生として派遣されました。昭和四年の頃でした。その折の軽機関銃の教官が明石閣下で、多分大尉でしたか大変熱心に教えて頂き、真面目な、しかも温かい思ひやりのある教官でした。
 次の再会が戦乱のボルネオで、昭和二十年三月、当時の教官は今貫兵団長として新たに赴任され、私は参謀として閣下をボーホート附近でお迎へしました。そして互に奇遇を喜びましたが、思へば閣下は苦労する為ボルネオに来られたようなものでした。

 貫兵団は之より先一月末から軍令により、タワオ附近よりジャングルの中をブルネ一に向ひ、難行軍を重ねつつ転進して居り、閣下は逐次隷下部隊を途中で掌握して、直ちに展開陣地を構築する状況で、しかも全兵力の集結に先立ち早くも六月には敵兵は、隷下の奥山大隊の死守するラブアン島へ、又佐藤大隊三中隊の守備するムアラ半島先端に上陸、各々善戦玉砕する状態となりました。

 ブルネー主陣地には、当三六七大隊と佐藤大隊主力の二ケ大隊のみで、ニケ旅団の敵兵と対戦する事となりました。閣下は対ソ軍戦法の権威として歩兵学校教官となり、又習志野学校教官として、対瓦斯戦に就て夫々後輩将校を育成された立派な方でしたが、得意の戦法もボルネオでは活用の余地なく、今部下と共に全員玉砕すべきか否かの重大局面に立たれた訳です。当時兵団砲兵隊には一門の砲もなく、兵団通信隊の無線は既に悉く使用不可能で、軍は勿論兵団指揮下のミリ方面諸部隊とも交信不能でありました。

 長途の行軍に疲れ果て、武器弾薬不十分の少数兵力を以て、優勢なる敵と対戦する結果は明瞭であります。
閣下の苦渋は並々ならぬものでありました。現陣地を死守全員玉砕する、之は軍人気質の閣下、武人の本懐として尤も望まれる所でありましたが、当時兵団には軍政官や現地在留邦人、婦女子等多数を収容して居り、一旦撤退転進して更に持久戦を画策するに決心される迄、最高指揮官としての苦悩は筆舌に尽し難きものでした。常に行動を共にした私にはそれがよく判りました。その時のお姿がふと眼前を過るのでした。

 閣下は終戦の後俘虜収容所に灘軍の北ボルネオ全将兵が収容されるや、その最高指揮官として英濠軍との交渉、部下将兵の待遇改善、厳しい戦犯追及に対する防衛、内地帰還業務の処理等に心労されましたが、最後に内地帰還の際引揚船葛城の艦上で「自分としては出来るだけの事をした。しかし多数の部下を失いまことに申し訳ない事をした」とポッリと淋しげに語られた。それは人事を尽して天命に従つた悟り切つた明僧の如き崇高な面影であつた。そしてその中に淋しい淋しい影が漂つて居ました。そんな諸々の思ひが短かい間に、碑前に額突く私の脳裡を掠めて通るのでした。

 思うに貫隷下諸隊の中、閣下と尤もなじみ深かつたのは、当三六七大隊であります。閣下がボルネオ到着以来、ブルネーの悽惨な戦闘を共に闘ひ、引き続き峻険な山脈、人跡未踏のジャングルを踏破しての転進も、日夜当隊と行動を一にして、共に飢餓瘴癘と闘はれました。其の後の収容所生活は勿論、引揚げに際しても共に葛城艦で内地に帰還されました。慰霊碑に刻まれた忠烈の文字は、此の引揚船葛城の艦上で広瀬君の為に閣下が揮毒されたものと承ります。

 然るに同じ貫隷下でもラブアン島守備の奥山大隊とは海を隔てて相見える暇もなく、無線連絡さへもつかぬまま同隊は玉砕し、佐藤大隊亦ブルネーで悲憤の別離の後玉砕しました。軍直属となり、ボーホート附近で勇戦した木村大隊及タワオ防備に当つた須賀崎大隊は、終戦の後収容所で之を掌握する有様でした。又櫛山大隊は、閣下着任以前既に南ボルネオに、転進して居ました。此の如く広くボルネオ全土に分散防衛せざるを得ず、或は局地毎に独立戦闘を致しました関係上、他の諸部隊とは共に行動すること少く、独り三六七大隊のみ終始行動を共にされた感があります。しかのみならず戦後も広瀬君と閣下との親交厚く、昭和四十四年病没せられる迄交際が続けられた。

 此の度慰霊碑が荒井神社境内に建立され、三六七大隊の諸英霊が、今後永く共に戦場で闘ひ共に苦労した戦友広瀬宮司の朝夕の御祈を受け、又戦友各位や御遺族の御参拝を得られることはまことに喜ばしき限りでありますが、閣下もゆかり深き三大七大隊の英霊と共に祀られ、嘸御満足であろうと思はれます。
東京には靖国神社あり、又千鳥ケ淵の霊園もありますが、郷土に直ぐ御参り出来る処に慰霊碑が建立されました事は、手近な処に心の拠り所が出来た思ひです。一同次々と年を加えて参りますが、今後変らず此の慰霊碑の許に相会しましよう。そして孫子の代迄受け継ぎましよう。


兵庫県郷土部隊で最後の幸せ

独歩三六七大隊長岡田憲之・妻 岡田 満代 (松江市)

 昭和五十三年もあと数日で暮れようといたしております。今年もいろいろなことがございましたが、去る九月二十三日に荒井神社境内に建立された独立歩兵第三六七大隊戦没者慰霊碑除幕式並びに慰霊祭を感慨深く忍びながら一通のお手紙を拝見いたしております。

 去る昭和四十三年二月十二日付で、広瀬正三様(白鷺ボルネオ会々長)より頂戴いたしましたこの文は、戦後私が何時も気にかゝりながらも、知り得なかつた亡き主人とその所属部隊の消息にかゝわる事柄をお知らせ下さつたものでございます。行間にあふれる御厚情と御配慮は真に有難く、長男と共々にくり返し拝読させていたゞき、大変感激いたしましたことを昨日のことのように思い出すのでございます。このような訳で、私の戦後はその貴重なお手紙を境といたしまして、気持の上で大きく変化いたしました。それは長いトンネルをやつとくゞりぬけた時の気持とでも申しましようか……。

 その後皆様のご厚意をいたゞきましてお仲間にさせていたゞいております。当時不利な戦況のなかで、世に謂う死の行軍は飢えと病魔との死闘の連続でありましたとのこと、もとより直接戦場に参加し得ない婦女子の理解をこえたものでございましたでしよう。部隊編成当初より最後まで、難行苦行のなかで戦没なされた各位と、あるいは死するよりも辛らかつたともいえる試練に耐えられた生還者各位に思いをいたしますときに、ただただご苦労様でございましたと涙するほかすべてを知りません。また御遺族各位におかれましては、戦後の混乱期を経て今日に到るまで、多くの困難に御蓬ひなされたことと拝察いたします。

 長い間のご苦労を思うとき御慰め申し上げる言葉もございません。戦後三十有余年を経過いたし、戦争のことは遠い昔のことと忘れられるようになりました今日このごろ、数度に亘り慰霊祭を取り行なわれ、又その間には他の部隊に例を見ない戦記の編纂、更には先頃の慰霊碑建立をなし遂げられるなど、並々ならぬ配慮をたまわりました事は誠に有難く、遺族の一員といたしまして、生還者各位にたいし深く感謝申し上げますと共に、心から敬意を表します。皆様のお仲間にしていただきまして以来、つくづく思いますことは、亡き主人の長い軍歴の最後をこの兵庫県を中心とする郷土部隊で終らせていただいたことを大変幸せであつたということでございます。とりとめのないことを書きつらねましたが、ご判読をお願い申し上げます。
 皆様の御健康と御多幸を心よりお祈り申し上げます。

建碑に心やすらぐ

独歩三六七大隊副官  荻野 三吉 (兵庫県氷上郡市島町)

 独立歩兵第三六七大隊戦没者慰霊碑建立の事は、私共生還者多年の念願でありました。此の事が昨年合同慰霊祭懇親会の席に於て発議になり、万場の皆さんの盛大な拍手に依つて決定されました。それ以来広瀬会長を中心に、各隊の世話人の皆さんの非常な御骨折によりまして、着々と準備が進められ、又御遺族並に生還者皆さんの寄せられました多額の浄財によりまして、当初の計画を大きく上まわる立派な忠魂慰霊碑が荒井神社境内の聖域に建立せられました。

 そして本年九月二十三日、碑の除幕式並に慰霊祭が神式と仏式によりまして、いとも厳粛荘厳裡に執り行われ、感慨無量で御座いました。神式祭典の祭主は元第一中隊長荒井神社宮司広瀬正三氏、仏式祭典の導師は元第二中隊長笹川隆永氏、又神式、仏式の随官、随院共に部隊に関係深い方々ばかりであつたと聞き一層感を深く致しました。さぞかし灼熱の地「ボルネオ」で、護国の鬼と化されました諸戦友の御魂も御満足になっただろうと信じ、やつと生還した私達としてやる可き事が出来たとほつと致しました。と同時に此の慰霊碑建立について約-ケ年に亘り、何回となく会合を重ねられ、石材の物色、碑の構想交渉、浄財の勧募等あらゆる御苦労を賜わり、此処に立派に完成させて戴きました。広瀬会長を初め各隊世話人の皆さんの御苦労に対しまして、心より深甚なる敬意と感謝を申上げたいと念じて居ります。ほんとうに有難う御座いました。

 思へば昭和十九年七月三十日、白鷺城を後に一路征途に上り、二十七隻の輸送船団は、敵潜水艦のむらがる中を南方向けて七十五日、やつと着任地北ボ〜ネオ、タワオ、ラハダット、赤道直下、地肉をこがす灼熱の下での陣地構築、続いて起るブルネーへの転進、昼尚暗きジャング〜の中、馬も革も通れぬ道なき道の死の行軍、マラリヤと飢えと敵と戦いながら、数十日後に任地プルネ一に着いた。兵員の疲労は極度に達していたが、休養とる暇もなく陣地配備につく。敵はマッカーサー指拝の数万の軍、ブルネー湾桟橋に上陸、昼間は空襲と迫撃砲の集中砲火、夜は艦砲射撃、物量攻の地域射撃遂に起る。暗夜のプルネー河渡河、サエ山での決戦、布陣テノムへの転進、此の間に敵弾に倒れ、又マラリヤの病魔に倒れた多くのあたら歴戦の勇士戦友を失つた此の苦るしみは今も尚心に焼きついて残る。そしておそらく終生忘れ得ぬであろう。

 今日、日本の此の繁栄を見るにつけ「ボルネオ」で散つた多くの戦友が残した言葉が偲ばれてならない。「内地へ帰つて畳の上で、水道の水を腹一杯飲んで、たとへ三日で死んでも本望だ」とほんとうにそうだつた。此の戦争の悲劇、もう再びやつてはならない。地球は狭くなつた。科学者は云う、宇宙時代も近いとか、今や世界平和の為、人類愛善と世界連邦建設の時期到来の早やからん事を念じっ1おわります。


戦死の弟を悼む

独歩三六七大隊本部 野沢真五・兄 野沢 幸三郎 (神戸市東灘区)

 私は昔から徹底的な軍拡論者である。それは一にかかって、徹底的な軍備を持っておれば平和が保てるという主義からである。
 然しながらそれを逆に悪用したのは仏蘭西のナポレオン、独逸のヒットラー、伊太利のムッソリーニ、日本の東条ぐらいではないだろうか。皆それぞれいろんな悪い条件があるにも拘らず、それを立派に悪用したのは前記の四氏ではないだろうか。

 故東条大将が図に乗って満州、北支、南支、ビルマからインドネシア、濠洲まで攻略したのは、正に気違いの一種と評せざるを得ない。東条さんが満洲とせいぜい北支位にとどめておれば、今日の日本は隆々たるものだったと云い得よう。人・金・物の三者が揃わないにも拘らず、東洋全般の征伐にかかったのは何ともいえない残念さである。
 日本軍が南京を攻略した時に、蒋介石一派から停戦の申出があり、参謀本部に於ていろいろ協議した結果嘗って海外に駐在した旧武官連中は、停戦に応ずべきという意見であったに拘らず、衆寡不敵、分別無き将校連中に押し切られたことは返す返すも残念至極取りかえしのつかないものであった。

 私は戦争中近所の町内会長を仰せつかり、絶えず拙宅に於て町内会を催し、今回の戦争はプロ野球と中学校の選手との試合と異ならないといったところ、町内会の連中は、野沢さんそんなことおっしゃつたら憲兵や警察に引警れますよ、と何十回にも亘り忠告を受けた次第である。然しながら私の家へは金モールの肩章をつけた陸海軍の将校、憲兵隊の将校、警察のお偉方が出入りするし、何も引張られることはなかったのである。

 私の弟真五は戦争中サンダカンで戦病死した。この弟は篠山連隊に入隊しており、出征の直前に病気の故をもって帰郷を命ぜられたが、立派な見送りを受けて入隊したにも拘らず、オメオメと帰郷することは忍びないという理由のもとに、帰郷をお断りして無理に出征したところ病魔が募り、遂に戦病死した次第である。
 私が聞くところによれば、戦死したのは純真な農家の息子か、か弱い良家の息子さん連中であったそうである。算盤高いインテリは巧く逃げたということであり、むべなるかなと思う次第である。
 戦死した私の弟真五は、父が昭和十八年二月八日早朝昇天したのであるが、その枕頭に坐して必死の看病をしたことは、今なお眼前にちらつく次弟であり、頭の下る思ひがする。
 然しながら終戦後の日本は、教育と文化と日本人の偉大なる努力によって、今日の隆盛を来し感慨無量である。
 戦死した私の舎弟真五の死没に至るまでの状況について、御承知の方があれば何卒御教示を賜りたく、本誌をお借りしてお願い申し上げる次第であります。


心のふるさとに建碑

独歩三六七大隊本部 小柳秀男・妻  小柳 素 (吹田市)

 昭和五十三年九月二十三日、私達の心のふるさと、高砂市荒井神社境内の一遇に雄々しくも悠然と、然も慈愛こぼれるが如く光り輝く慰霊碑が建立され、今玄に遺族の方々と生存戦友の方達、それぐの礼装に身をまとい、心を正して除幕式並びに慰霊祭が執り行はれました。海ゆかばの合唱で除幕が行はれ、斎主荒井神社広瀬宮司の慰霊詞奏上、県知事の祭文奏上、玉串奉奠にて神式の慰霊祭は終り、次に仏式にて慰霊の儀が行はれ、般若心経の読経の流れに、英霊の芳名をしるした経石をそれぞれ碑の中へ納めました。

 戦友の方々並びに関係者の方々の絶大なる御協力御支援を賜はり、お蔭をもちまして終戦後三十三年にしてこの碑が、建立されました事でありますが、御英霊にとりましては、実に々々に永き歳月の思がなされた事であろうと存じます。茲に慰霊碑建立によりまして、無念の戦死を遂げられた戦友の方々永久に護国の鎮神となり、私達の心のよりどころとして、何時々々までもお導き下され、御加護給らん事を祈念して止みません。
 慰霊碑除幕式に参列出来ました事に感謝申し上げます。


戦友の御冥福を祈る

独歩三六七大隊本部所属  高田 正保 (高砂市)

 このたび我々独立歩兵第三六七大隊の多年の宿願でありました慰霊碑が、御遺族、生還者の貴重な浄財にょって、神聖なる荒井神社の境内に立派に完成しましたことは誠に御同慶に堪えません。建立に際しては、心よく御承諾下さいました、荒井神社宮司広瀬正三様並びに氏子役員の方々の御協力に対し厚くお礼申上げます。又誠意をもつて施工された元作業隊藤原広様、特に公私御多用の中寸暇を惜しまず、終始一貫してその掌に当られた広瀬宮司様に対し深く敬意を表する次第です。

 思へば遥かボルネオの地にて同志が生死を共にして、ひたすら戦勝を祈念しつゝ戦つて参りましたが、幸か不幸か、今は大義に殉じた戦友を偲びつゝ今日に至りました。そうして今ここに心と心の結集が、慰霊碑建立の実現をみることが出来て、九月二十三日、兵庫県知事ほか多くの来賓の参列のもと、厳粛且盛大に鎮魂式が挙行されました。我々生還者にとつては大いなる喜びとするところであり、今は亡き戦友に対して一つの責任と、義務を果すことが出来ましたことは、胸中安堵と肩の重みがおりたような気持ちで感無量の思いで一つぱいです。

 戦後三十有余年、安定した平和な現在をかえりみるとき、祖国の礎となつた戦友に心からご冥福をお祈りしますとともに、永く子々孫々に至るまでお伝えし、二度と悲劇を繰返さないことをお誓いして、御遺族の方々の幸多いことをお祈り申上げます。


益良男、碑に還り給ふ

独歩三六七大隊第一中隊所属  枌原 敏秀 (姫路市)

 このたび荒井神社の聖域に、白鷺ボルネオ会並びに関係者各方面の絶大なる御協力のもとに、独立歩兵第三六七大隊戦死者英霊碑が建立されましたことは、まことに御同慶に堪えません。
 さて、昨五十三年九月下旬に、戦後三十有余年、ともすれば、日本の前古未曾有の敗戦の悲劇が、忘れがちにならんとするときにあたり、同大隊生還者並びに戦死者の御遺族の方々の尊い御浄財によって英霊碑が建立され、碑の除幕式につづいて、他部隊では見られない、厳粛な慰霊祭が挙行されましたことは、護国の神と化せられた戦友達と労苦を共にしてきた生還者の一員として、まことに感激の極みであります。謹んで幾多の御英霊の永久の御冥福を心から御祈り申し上げる次第であります。

 さて、この感銘・感激のひときは深いこの機会にあたり、過ぎし日の戦友達の酷暑・炎熱下における、南方地域での数々の悪戦苦闘を偲びながら、御英霊の偉大なる御功績に応えたいと思います。
  万朶の桜か襟の色
   花は吉野に嵐吹く
    大和男子と生れなば
     散兵戦の花と散れ
 憶えば昭和十九年七月二十八日、臨時召集により、われわれ南方派遣要員は、姫路白鷺城下に召し出だされ、広瀬正三元大尉を中隊長として、懐しの故国を後に勇躍はるばると、猛暑灼熱の南方ボルネオに向って、輸送船の征旅に出発した。時恰かも八月四日であった。門司港を出航し、いよいよ懐しの故国との最後の別れであった。青い山の景色、陸の姿がだんだん遠ざかって行く。
  あゝ堂々の輸送船
   さらば祖国よ栄えあれ
    遙かに拝む宮城の
     空に誓つたこの決意
 御国のために召されて行く戦友達のあの顔、あの声、手柄頼むとちぎれるほどに振った肉親達の日の丸の旗、当時のあの姿が、髣髴として今も涙と共に憶い出される。

 この当時、すでに敵国の内地への近迫も激しく、九州近辺・台湾・バシー海峡では、輸送船団の数隻が撃沈され、作戦の前途に暗胆たる大きな不安を覚え、恐怖のどん底に突き落された。八月下旬には、ルソン島アパリに到着、九月上旬にマニラ港上陸、十初旬に北ボルネオ・サンダカンさらにタワオに上陸し、赤道直下の同地付近の厳重なる陣地の構築と警備任務に苦闘の数か月が流れた。戦局の推移は決して楽観を許さず、当時すでに太平洋諸島では、日本軍は各方面で徹底的な打撃を受け、その損害も極めて甚大との悪情報も伝わり、いよいよわが部隊も一大決戦間近しと覚悟し、戦友達の緊張は一段と増大した。
 このとき、昭和二十年二月上旬に、私達数名の将校・下士官は、独混第五六旅団第三六九大隊要員として内地以来ボルネオまで、数々の労苦を共にしてきた広瀬中隊長をはじめ、懐しい戦友達と椰子林茂るタワオの山地で訣別し、遥か奥地の新部隊に転出後、南ボルネオ・バンジエルマシンに海路転進、同地付近の警戒任務に従事したのであった。

 その後広瀬中隊では、タワオからラハラッド・ムハラット・ラナウ・ブルネーへと、北ボルネオの一大山嶽地帯の難関を、雨季・悪路・飢餓を克服しながら、二か月有半、しかも百数十里の大行軍を強行され、さらに敵軍との交戦により、多数の犠牲者が続出したとの最悪の悲報を後日聞き及んだ。われわれの新編成部隊でも、これと殆んど時を同じうして、南ボルネオからジャワ・スマトラ島へと転進し、南スマトラ・ビリトン島で終戦を知り、同日から引き続き、スマトラ領バンカ島・ビリトン島さらに転進して、スマトラ島南部の警備に服務した。

 当時、現地では、インドネシヤ民族の独立運動が俄かに活発化尖鋭し、各地で日本軍に対する襲撃、夜暗に乗ずる兵器の掠奪とこれに対する防御態勢など、日夜の警戒は瞬時もゆるがせにすることはできなかった。
この間、幾多の尊い犠牲者や戦病死者が続出したのであったが、戦友達の粉骨砕身の大きな悪戦苦闘の労苦は到底言語や筆舌に尽し得ない。謹んで今は亡き戦友達の最後までの奮闘を讃えるとともに、その御冥福を心から御祈り申し上げる次第であります。

 復員後聞くところによれば、広瀬中隊でも戦死者・病死者など戦没者の数は六割以上であったともいう。
いかに苦闘の連続であり、いかに戦闘の激甚であったかが想像される。敗戦とは言いながら、慨嘆・悲憤、正に言語に尽くせぬ痛痕事であります。
 最後に三十有余年の往昔、戦友達と共にした南方での悪戦苦闘のごく一端を改めて偲び、悠久の大義を全うされたその偉大なる御功績を深く謝して、その御冥福をお祈りするとともに、また御遺族の方々の御多幸と御健康を併せてお祈り申し上げて、英霊碑建立の感想文といたします。
 国のため 命さゝげし 益良雄が
   いまぞ故山の 忠魂碑に還り坐(ま)す



九十一才の老母感謝の日

独歩三六七大隊第一中隊 岸本明男・母   岸本 いし (小野市)

 部隊長様、戦友の皆々様、此の度の忠魂碑建立の儀、誠に有難い事で御座いました。日夜御多忙の御身にもかゝわりませず、御労苦の程唯々感謝感激は筆にも言葉にも示す事の出来ない幸せ一ぱいで御座います。
何と素晴らしい名称、白鷺ボルネオ会、魂の古里荒井神社へと、南から北からと集い参らせられた戦友又遺族の方々のお顔は、秋空と共に晴れやかな中に御式は荘厳に次々と進行してまいりました。
  白鷺の群れ集ひける高砂に
    碑は建ちてあり今日彼岸の日
 掃き浄められた広く美しい、境内の朱の鳥居の間々に、緑の松の木の下、亡き大隊長夫人等の御手によりて「うみゆかば」の軍歌と共に、静々と幕は除かれて仰ぎ拝む忠魂碑、噫々立派なことと思はず讃嘆の声がほど走る。
  あさみどり澄みし荒井の式内に
    平らけき世の碑をばおろがむ
 戦終りて此処に三十有余年、朝な夕なに常に御心労を尽し頂いて、立派な碑の建立にまで御運び下さつた隊長様始め、戦友の皆々様の御心情唯々有難くもつたいないきわみでございます。
  忠魂に坐して祈れば広瀬隊
    彼岸の奥に霊光満ち充つ
 天津神国津神八百万の神々の楔祓の祝詞の儀は、荒井神社の宮司様に、十満国土【原文のまま】の奥より極楽浄土を照らし給ひて御霊流れ入る如く、聖経読誦は極楽寺の住職様より、神仏の儀の方々様はすべて皆戦友或は遺族の御方とうけ賜りまして、尚ひとしほ有難くもつたいなさに、悦びの胸打ちふるへる感じで一ばい。引続き各自が戴いた経石に、故人の名を書入れ碑の霊殿に鎮め、戦友、遺族全員で、心情籠めて般若心経を読誦する声は、境内の神木に木だまして、美事な楠花もゆらぐ中に、御霊納めの儀はとどこおりなく終了する。
  不空の二つの経石に明名し
   禊祓ひて経納めやも(戴いた石は不と空の二の石でした)
 尚重々の数々な御心情、真心こもる宴会には、心も和やかにほころびて浸る一時は、なつかしの軍歌も声高々と唄はれて、思はず心も晴れやかに、老の身も忘れて勇ましく、手拍子を打ちて人知れず合唱していた私でした。
  高砂の荒井の波に千鳥浮き
    軍歌流れて想無限
 合掌に神鎮りませる碑の宮居
   戦歌唄ひて老ひし母吾れ (九十一才)
 なつかしのボルネオの故里として、永遠に子々孫々に至る世代まで、再会の場所をなし下さり、荒井神社への参拝を続けさせて頂ける慶びを嬉しく存じます。無限の健康と、幸福と繁栄とを皆々様の御身上に御授け給へませとお祈りに変えさせて頂きます。有難うございます。     合掌再拝


鎮 魂 譜

独歩三六七大隊第一中隊所属 斎藤 蘆穂 (淡路三原郡)

碑の声蕭蕭と秋の風

身にしむや鬼哭今より鎮魂譜

露けくて一期一会の君なりし

秋天に戦友髣髴と散華かも

黄菊白菊この寂づけさに戦友眠る
                  南無合掌

感激をカメラに収めて

独歩三六七大隊第一中隊堀 強・妻  堀 富子 (兵庫県揖保郡御津町)

 昭和五十三年師走も早々と過ぎ去つて行く或る日、お懐しき広瀬第一中隊長様より一通のお便り頂きまして、書面にはお人柄をしのばせて頂く一言二言が心にしみ入りました。そして何回も何回もくり返し拝読させて頂きまして、是非御礼と思ひ、言葉すら分りません私では御座いますが、拙い文字で一筆建碑の御礼の言葉を申上げます。

 前年には『あゝボルネオ』の本を数多く綴つて頂きました際、隊長様の戦塵日記の九月二十七日のところに、今は亡き夫他十人の方々共に救助頂きましたと有りました。やはり広瀬先生始め皆々様のお骨折のたまものだつたと感謝の念に耐へません。それより早や三十四年も過て終ひました。其の間の歳月にもいろいろの日々も御座いました。でも耐へて参りました。
 他の部隊では慰霊祭のお話など聞いたことありませんのに、亡き夫所属の独歩第三六七大隊、ことに第一中隊では広瀬先生始め御一同様のお骨折によりまして、年忌毎に慰霊祭やら親睦会に会せて頂き、本当に有難う御座います。

 去る九月二十三日には、神々しき荒井神社御庭に、天にそびゆる立派な慰霊碑撃止して、沢山の方御参加の中盛大に碑の下で本当に筆舌には表はされない感無量の思ひで終始祈る思ひで参列させて頂きました。
 そして其の時の一場面ではございますが、私のカメラに収めさせて頂き、只今アルバムに張り、永久にしのばせて頂くつもりで御座います。広瀬様始め御一同様に幾重にも御礼を申上げます。本当に有難うございました。末筆になりましたが、広瀬先生の奥様は誰によらず、何時も笑顔で御親切に話して下さいますお心を本当に嬉しく思ひます。
 何時までも名残りのつきない思ひをあとにおいとまさせて頂きました。広瀬先生始め御一同様には何時何時までも御健勝であらせられる事をお祈り致します。今後共どうぞ宜しくお願い申上げます。


和 歌 二 首

独歩三六七大隊第一中隊所属  塩崎 仁一 (姫路市)

  磯の香も 清き荒井の 御社に
    ゆきし戦友(とも)を まつり鎮めむ

  御社の み庭に建てし 慰霊碑(いしふみ)に
    とはに鎮れ 戦友の御魂は


来世は百年(ももとせ)添はむ

独歩三六七大隊第一中隊 美原伴一・妻  美原 静江 (広島県竹原市)

 早朝の新幹線を利用して荒井駅に着く。以前には前日に家を出なければ、式に間に合はなかつたのにと思ひながら荒井神社に向ふ。同じ遺族の方だらうか、四、五人歩いておられた。受付で小石を頂き亡き主人の名前を書く、主人の名前を書くことは久しく、感無量。控室にはいつもお見えになる浅原様の奥様の姿がどうしてか見えず、どうなされたかとさびしく案じられる。

 戦友同士の方が再会を喜ばれて談笑してゐられるその姿が嬉しい。以前なれば亡き主人の事を考へ、情なくて涙がとめどなく流れ、全身の力が抜けていくやうに思はれたのですが、やつと皆様のお元気を心から喜べるやうになりました。役員様の案内で式場に並ぶ、立派な四国産の石で作られた忠魂碑を仰ぎ、これまでにして下さつた中隊長様を始め、戦友の皆様の御苦労が大へんだつたでせうと感謝の心で一ばいになる。戦友、遺族関係の方々でとり行はれる祭典、読経を頂き記名した小石を供へる。悲しさと感激でこらへても涙が流れる。この戦争で亡くなられた方は多いと思ひますが、こんな立派な忠魂碑を戦友の力だけで建てて頂けたのは少ないと思ひます。永へに残されることは、外地で散つた英霊も安らげるでせう。

 式後会食で主人の最後を見とつて下さつた岸様に始めてお蓬ひ出来、お話を聞かせて頂き心やすらぎました。主人最後に「僕は死んでも、この家に帰つて来て守るから、子供を大きくしてくれ」と残した言葉通り度々の大空襲の火の粉をあびながらも、家族五人怪我もせず、戦後見しらぬ土地に移り、苦しい生活に、生まれつき病身の私が、長女の大病、老父母の長患にも耐へて生きられたのは、主人が守つてくれたからと思ひます。
 中隊長様、戦友の皆様どうか英霊の分まで長生きされて、忠魂碑を祭つて下さいませ。生活にゆとりの出来た今日、静かな平和に感謝し、英霊を拝むでをります。
外国(とつくに)に 散りしみたまが 家族(やから)恋ひ
  夢みし里に 忠魂碑(いしぶみ)ぞ建つ

ボルネオに 向ひて建てる 忠魂碑(ちゆうこんひ)
  身もて守れる 御国(みくに)栄える

吾子(あこ)の顔 見もせず逝きし わが夫(せこ)に
  孫のかわいさ 語るもいとし

来世(らいせい)は 戦(いくさ)なき世に 生まれきて
  百年(ももとせ)添はむと みたまに祈る


開眼法要に奉仕して

独歩三六七大隊第二中隊長・極楽寺住職  笹川 隆永 (神戸市兵庫区)

 今度慰霊碑建立記念誌を発行するので、何か書くやうとの山本君よりの連絡で、何か書かねばと思ひつゝ性来の筆不性に加へて眼が弱く、遅れ遅れになりました。お許し下さい。
 先づ世話人の皆様、特に広瀬会長並に之をいつも内助されて居呈す奥方の御心労に対し、心から御礼を申上げたいと思ひます。今まで慰霊祭は何回となく行はれましたが、寺院の行事と差合ひ、何時も御無沙汰して申訳けなく思つて居ります。

 今回は戦友年来の悲願である慰霊碑の竣工にあたり、神仏両様による開眼の式典をやるからと、仏式法要の導師を仰付かりました。戦友であつたと謂ふよしみによつて、其の光栄をお与へ下さつた事に対し、ほんとうに感謝の外ありません。
 私は先づ碑の前に立つて、よくも立派に出来たものと、其の壮麗さに感慨無量でありました。遺族の方々の協力、戦友の奉仕の心の賜であります。

 開眼洒水、読経、納経と仏事を進めて参りましたが、あの灼熱のボルネオ・タワオでの壕掘り、プルネーへの転進行軍、ブルネーの戦闘、サエ山の戦闘、撤退行軍と食ふに糧なく、飢餓と悪疫に斃れて逝つた戦友の面影が脳裡を去来し、自ら読経の声の乱れを禁することが出来ませんでした。戦友たりしよしみによつて此の記念すべき法要の導師を勤めさせて頂きまして、重ねて御礼を申上げます。
 般若心経を納経されましたが、ほんとうに意義の深いものがあります。皆様にこんな事を申すのは、釈迦に説法かとも思ひますが、般若心経は、正に我々凡夫の日常の心行の要を示されたもので、祭文でも申上げましたが、私は次の六項目をお祈り致しました。
一、奉 為三世覚満 十方賢聖 浄仏国士 成就衆生
一、奉 為日本国中大小神祇祀 特ニ当荒井神社 勧進諸神 威光倍増
一、為 日本国興隆 人心安穏 世界平和
一、為 奉安七百余英霊 離苦得楽 増進仏果、証大菩提
一、為 遺族並戦友等各家 家内安全 家運隆昌 子孫長久 息災延命 六親眷属 如意円満
一、為 三界六道有縁無縁貴賤霊等及至法界 平等利益
右唱へ挙くる所 件の如し
 来春には碑の周囲に植えられたサツキも立派に花をつける事と思ひます。あのボルネオの炎熱下、カンナ等の原色の花しか見られなかつた英霊達が、このサツキを眺めてどんなにか喜ぶことでありませう。寄進者の思ひやりが偲ばれ心嬉しく存じます。これで英霊も憩ひの場所が出来たと喜ぶことでありませう。又遺族の方々も満足して下さつたことゝ思ひます。
 重ねて申上げますが、こゝまで漕ぎつけられた世話人の御苦労に対し御礼を申上げます。当日は彼岸の中日で、当寺にも行事があり、先を急ぎました御許し下さい。
 この歳になつて思ひまするに、何事も世の中の事は「体験して初めて他の心労が解る」ものだと、しみじみと考へさせられる日々の多いこの頃です。
 最後に遺族、戦友の皆様の御健康と、一回でも多く此の碑の前で、語り合へる機会の多からん事をお祈りいたします。



春   燕

独歩三六七大隊第二中隊所属  山本 恒雄 (尼崎市)

-慰霊碑の除幕式を司会して一

 昭和四十五年八月二十三日、第一回合同慰霊祭が行はれてから、早くも十年の歳月が流れようとしている。何時の日か建てたいと、お互に心に秘めて来た戦友の慰霊碑建立の議が、昭和五十二年、三十三回忌を記念して開催された合同慰霊祭の懇親会で採択せられてから一年、茲に立派に完成した。
「高砂の松の春風吹きくれて、尾上の鐘も響くなり、波は霞の磯がくれ、音こそ汐の満干なれ」是は謡曲高砂の一節であるが、斯した名勝高砂の地、荒井神社の神域の一角が、同社広瀬宮司の御陰徳と氏子の皆様方の深き理解と御好意によつて心よく提供せられ、建立の運びとなつたことは、誠に遺族の皆様方と共に、生還者一同の喜びこれにまさるものはない。

 時に昭和五十三年九月二十三日、秋の彼岸の中日を卜して、慰霊碑の除幕・開眼の儀式は神仏両様で執行せられた。神式には元第一中隊長荒井神社宮司広瀬正三氏、仏式は元第二中隊長極楽寺住職笹川隆永氏が夫々斎主・導師として、入魂・開眼に当られた。
 当日は前夜来心配された天候も回復し、荒井神社境内の松の緑も一層美しく、夏の名残を思はせる法師蝉がホースホースと鳴き、今日の儀式にふさわしい雰囲気をかもしだしていた。此の日集つた遺族・戦友は、其の数約三百名に及び、来賓として兵庫県知事(代理)、荒井神社氏子役員等多数参列せられた。  式は定刻午前十時、先づ神式により行はれ、修祓の儀により諸々の穢が払はれ、除幕の儀に入る。除幕は
  遺族代表 故岡田大隊長夫人 岡田満代様
  戦友代表 元貫兵団参謀  松本幸次殿
のお二人によつて、参列者一同が「海行かば」を斉唱する裡に執り行はれ、白布はスルスル除かれ、丈余の碑石が参列者一同の見守る中に、壮麗なる姿を現はした。

 碑石には故明石兵団長閣下の筆になる「忠烈」の二字が彫りも深く刻まれ、英霊の栄誉を永へに語り伝へんとしている。此の一瞬参列者の中から感歎の声が漏れる。つくつく法師が境内の樹々より聞える。
 次いで鎮魂の儀・献饌と神事は進み、斎主広瀬隊長の慰霊詞が奏上された。あの灼熱のボルネオで、英霊と共に幾多の労苦を重ね、あの死の行軍の体験者たる斎主の奏上される慰霊詞は、今更のやうに参列者一同の胸を打ち、式場は寂として声なく、法師蝉の声もこのときはすゝりなくかに聞える。
 終つて兵庫県知事の祭文が、援護課長により代読せられ、遺族・戦友・来賓の各代表が玉串を奉奠して、神事による除幕式は了へた。

 続いて仏式による開眼法要に移り、笹川住職以下奉仕の方々が碑前に進まれ、開眼洒水に入り、キンケイを打ちならし、法力による開眼入魂が祈念せられ、読経が続けられる。

  開眼の 読経始まり 鉦叩

 次いで祭文が献げられ、納経する般若心経の教義が説示せられ「願はくは、遺族の捧げる誠心と、生還戦友の感謝報恩の心を納受して、此の碑の許に安住されんことを祈る」とこれ亦ボルネオで、死の行軍を体験された笹川住職の祭文は、参詣者の胸を打ち、国土安全・国中大小の神祇・特に荒井神社勧進諸神威光倍増・世界平和・六五三名の英霊の冥福・遺族、戦友各家の罪障消滅・家内安全・家業繁昌・子孫長久等々切々と祈念が続けられ、終つて納経焼香に入る。
 納経は、予め用意された般若心経の一字の書かれた小石に、夫々縁故者の名前を記して碑前に供へ焼香を続けた。因みに元貫兵団松本参謀は、故明石兵団長閣下のお名前を記して納経された。
般若心経は本文二六六文字、題字十文字を合せて二七六文字より成つているが、納経に用ひたる小石二七六ケを以て、般若心経一巻を写経したことゝなる。古来写経の功徳は「弟子法界の衆生とともに、無始巳来の三業六根の罪障を皆悉く消滅し云々」と謂はれる。

  納経の遺族黙せし彼岸花

 心経の読諦は何回となく繰返される中を、遺族・戦友の納石・焼香は打ち続き、参詣者のたむける香煙は碑を覆ひ、荒井神社の神域はお香の薫りでつゝまれた。
 或人は自らも心経を唱えつゝ、老の身を嫁や孫に支へられて焼香し、其の眼には光るものが見られた。
ハンカチーフをそつと眼頭にあてゝ焼香する遺族の姿も見えた。
 噫!!
父母・兄弟は亡き英霊の三十年にも満たない短かつた生涯を想起し、妻子は両三年にも満たない余りにも短かつた、互に睦み合ひし愛の日々と、愛の結晶たる遺児の育成のため、三十有余年に亘る苦斗の日々を想起し、遺児の方々は瞼の父の面影と、母なる人との三十有余年に亘る労苦の日々を思出し、母への孝行と将来力強く生きぬき、父の栄誉を汚すまいと決意を新にされたことゝ思はれる。
 納経は順調に進み、いとも厳粛の裡に終了した。

 心経のくり返へされて法師蝉

 斯くて仏式による開眼法要は滞りなく終了し、次いで
 遺族代表として
 故岡田大隊長夫人 岡田満代様
 来賓を代表して
 荒井神社氏子総代 安井 忠殿
の両氏より挨拶があり、各方面より寄せられた電報披露があり、感謝状の贈呈に移り、今回建碑に当り、奉仕して頂いた次の三氏に対し、白鷺ボルネオ会広瀬正三会長より、別記の通り金一封をそえて感謝状が贈られた。
  石  工  藤 原   弘殿
  設計監督  坪 野 重 信殿
  銘  板  大阪銘板工業株式会社殿

 最後に世話人を代表して、元作業隊長奥平冬正氏より、建碑の経過を詳細に報告せられ、式は滞りなく終了した。時に十二時。
 式後碑前で各隊毎に記念撮影を行ひ、休憩の後懇親会に移り、午後三時過ぎ又会う日を互に約しつゝ、碑前に別れを惜しむのであつた。
          ○
 思へば我々がタワオに上陸したのは、昭和十九年十月六日であつた。内地では秋爛と謂ふ処だが、彼の地では陽が落ちると螢が飛び、雨が来ると蛙がなき、椰子の葉の間をスイスイと燕がとび交ひ、内地では全く思ひもよらない風景だつた。
 此の燕は日本より来たのか、そうして戦争の如何にかゝわらず、春には日本に帰つて行くのだと思ふと、私は此の燕に特別の愛着を抱くやうになつた。
 あれから三十有五年の歳月が流れ、燕等も三十有五回往復して居ることゝなる。今年の夏はほんとうに暑かつた、福岡地方では断水騒ぎが今猶続いて居る。然し秋が来て、燕は又南の国へ帰つて行つた。

 灼雲や噫〝忠烈″と慰霊塔
 秋燕や此の碑の便り托してん
 戦友の霊つれ帰へれ春燕

 冬来りなば春遠からじ、どうぞ此の春には燕らと共に、桜咲く故郷に帰つて、此の荒井の里で安らかに眠られんことを心から祈つてやまない。

   附   記
各隊とも同様と思ひますが、第二中隊に於ては後日、戦友、御遺族より礼状が数々参りました。紙数の関係もあると思ひますので、その中から御遺族様方々の声として、二、三紹介させていただきます。

遺族(妻)渡辺房子様は、この度は笹川隊長様の御出席下さいまして、三十余年変らぬ心を感謝され、
遺族(兄)小倉甚市様は、愚弟佐市は地下で喜び居ると、
遺族(兄)小林久次様は、同じ戟争体験者として感慨無量だと、
遺族(妻)田中良子様は、広瀬様始め世話人皆様の謝礼を述べ、皆様の功績が荒井神社に残ると、私は只今何不自由なく、松口月城作〝英霊南より還る″の詩吟の稽古をしつゝ余生を過している由、申添てありました。

-建 碑 之 譜-
其の一括州音頭
一、時は昭和も十九年 戦火も激し其の中で アドツコイショ
 招され集ひし丈夫は 独歩三六七大隊 アヨイトサノマカセ ドッコイセ
二、いとしき妻や子を後に 進軍ラッパも勇ましく アドツコイショ
 白鷺の城を後にして 出征三十五年前 アヨイトサノマカセ ドッコイセ
三、噫無念、あゝ無念 戦ひ敗れボルネオで アドツコイショ
 多くの戦友を失ひし 死の行軍と人は謂ふ アヨイトサノマカセ ドッコイセ
四、残りし者の悲願なる 慰霊の塔を建てんとて アドツコイショ
 君がいとしき父母や 愛する妻や子に頼み アヨイトサノマカセ ドッコイセ
五、幸茲に悲願成り 松は緑の高砂や アドツコイショ
 尾上の鐘の響く地に あゝ〝忠烈″と竣工す アヨイトサノマカセ ドッコイセ

六、乞ひ願はくは、願はくは 神去りましゝ我が戦友よ アドツコイショ
 荒井の里に帰へり来て 愛する妻子と語れかし アヨイトサノマカセ ドッコイセ
七、あゝ我が戦友よ、我が戦友よ 神去りましゝ我が戦友よ アドツコイショ
 荒井の里に帰へり来て いとしき父母と語れかし アヨイトサノマカセ ドッコイセ
八、あゝ満座の皆さん方よ 神去りましゝ我戦友と アドツコイショ
 何時いつまでも、何時までも 語りあかそう碑の前で アヨイトサノマカセ ドッコイセ
九、さても遺族の皆様方よ ほんとに今日は御苦労さん アドツコイショ
 どうぞ身体をいとはれて 何時いつまでもお元気で アヨイトサノマカセ ドッコイセ
十、おーいおいでの皆様方よ 私はココラでおいとます アドツコイショ
 どうぞ身体を大切に 又会ふ日までサヨーウナラ アヨイトサノマカセ ドッコイセ
  附   記
 私は揖保郡揖保川町キビタの生れです。  小供の頃にはよく盆踊が夏になると各地で開かれ、特に山陽線の網干駅前にある太子山で開催される盆踊は有名でした。私の家から直線で一里余りありますが、其の電飾の灯が見え、夜がふけると音頭の声も聞えた様に思ひます。世にいふ播州音頭です。私の地方のお百姓衆は、田の草取りしながらもよく歌つたものです。
 時には田舎に帰りますが、其の田圃も只今は少くなり、宅地になつてしまひました。

其の二 熱い潮路
一、熱い潮路を 南へ下る
 北斗星(ほし)も代りて 十字星
 月よ映せよ 此のひげづらを
 故国(くに)の妻子に見せてくれ

二、命(さだめ)厳しく、熱地を歩く
 歩きつかれて 兵は死す
 風よ雲に 此の戦友の
 最後の遺言(ことば)を乗せて行け

三、月日流れて 流れて三十年
 今も瞼に 戦友の顔
 燕帰へるか 故国の便り
 戦友の臥床(ふしど)に届けてよ
 附記
 此の歌詞を田端義夫の〝かえり船″のメロデーに乗せて歌つて見て下さい。



偲  び  草

独歩三六七大隊第二中隊 沼田教導・妻 沼田 元栄 (西宮市)

 私共は短かい結婚生活でございましたのでままごと遊びの如き毎日でございました。折柄の戦時下、一しょに外出したこともほんの数回、誠に束の間の幸せでしかありませんでした。戦争という恐しい峠を境として、夫は征きて還らず、世間しらずの愚かな妻の一人旅が始つたのです。若くて健康で、仕事にも恵まれて、二十六年一ケ月、幼稚園(公立KG)で働かせて頂きました。
上司、同僚、部下、多勢の御父兄や園児に支えられて、朝星、夜星の明暮れに、亡夫を忘れるともなく忘れ、仕事に専念出来たことを現在も仕合せだつたと思ひこそすれ、私のようなものをも生かして育てゝ下さつた大いなるものに感謝申上げます。

 幸か不幸か病気のため職を去りましたが、神仏の御加護により、大難を小難にお守り頂いております。今年は入院、手術などの試練の毎日でございました。亡夫は入院中、夜毎私の枕許に戻り看病してくれました。それは不思議と申すより説明のしようのない体験を致しました。
その話を昨日昔の上司の宅で話しましたら「あんたら、ええ夫婦やったんやなア、日頃忘れたふりをしとるが、ようお祀りをしているしようこや、雫ましい」と申されて赤面致しましたら「おぼこいなア、いとしい奴や」と冷かされました次第でございます。
 亡夫生前は、幼なくして世間知らずだつた私を、遠いあの世とやらから見守つていてくれたのでせうか。
骨もかえらず、テレビや新聞には色々と珍しいニュースが目につきますが、何時もいつも亡夫は私を支えてくれたんだと、今回の体験で実感として味合はせてもらいました次第、靖国神社宝物遺品館部御一同様にも御報告申上げました。拙句申添へ駄文を結びたいと存じます。
 つたない筆の跡お笑ひ下さい。亡夫が生前色々とお世話になりまして深謝致します。
届けたや 南の島に菊の香を
白鷺忌や 無情の風が秋を分け
慰霊碑の子の名をさする 老ひし母
戦友の 歌とぎれつゝ 涙 酒
いとしきは 銅板の文字 亡夫の名
               元栄合掌

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