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忠烈碑建立の章より

建碑準備の足跡

万雷の拍手に応へむ

 去る昭和五十二年に戦後三十三回忌といふことを記念して、九月二十五日(日)を選んで独歩第三六七大隊の合同慰霊祭を私方の荒井神社を会場として斎行いたしました。
 我々としては広大な戦場であつた為、ボルネオではお目にかかることも無かつたが、しかし我々としては忘れることの出来ぬ最後の軍司令官であり、ことに我がボルネオ全軍の第三七軍最高指揮官として責任を一身に負つて、昭和二十二年八月七日濠軍第八軍管区司令官によつて刑死をとげられた、真に痛恨、悲劇の軍司令官とも云ふべき元陸軍大将馬場正郎閣下の御遺族様が、兵庫県宝塚市に居住されてをりますので、嗣子馬場輝郎様に特別に御参列をいただきました。

 慰霊祭儀の後、席を新築なつた当神社附属保育園大広間に移し、軍司令官御令息より父を偲ぶ涙ながらの御挨拶があり、次いで尽きぬ思ひ出を語り合ふ懇親会席上では、かねがね懸案の建碑の議が起り、山本恒雄司会者によつて賛否を尋ねたところ、三百名列席の戦友、御遺族より万雷の拍手で一決いたしました。
 爾来、世話人一同は一丸となり、建碑事業を目標に施工準備が進められ、万雷の拍手に応へるべく精進して参りました。此処に約一ケ年の準備の足跡を貧しい私の備忘録より辿つて見ることに致します。
(写真:忠烈碑

準備の足跡を辿る

第一回建碑世話人会 (昭和五十二年十一月二十四日) 全員出席

 去る九月二十五日に行はれた合同慰霊祭の残務整理と反省並に同決算報告を各隊世話人承認する。
 次いで建碑会議に移り、何としても戦友各位、御遺族皆々様の熱望に応へて本妻葉を完遂せねばならないと、建碑場所、予算の概要、竣工日、慰霊祭日等について意見交換なす。施工者に就いては、元三六七大隊作業隊所属の戦友にして、宍粟郡波賀町にて応召前より、石材加工業を営む藤原広氏に施工請負せしめることに誰が指名するともなく決つていたやうなものであつた。彼は建碑の議の起つた時点、いなそれ以前から建碑に熱意を示す一人であつた。戦友間にあつて石材業を営む者は彼一人であり、ボルネオで生死を共にした戦友石工が、亡き戦友の碑を刻むことは誰しも望むところであつた。
 そこで今日の初会合に彼も同席願つて、建碑の概要金額の知識を得ることにした。
一、建碑の場所に就いては、姫路名古山陸軍墓地、護国神社等も考へられるが、戦後慰霊祭毎に会場となった当方荒井神社内建立を各位が熱望されるので、戦友であり宮司である私は善処する旨約束する。
二、経費の概要に就いては、藤原君の意見によれば、建碑工事費は百万円もあれば立派なものが出来るといふ。そこで竣工慰霊祭、雑費等を五十万円として、計壱百五十万円を必要予算と見る。
三、竣工慰霊祭を終戦記念日にあたる明五十三年八月十五日とする。
 以上の決定を見て、先づ建碑基金に就いて協議を行ふ。
 第二中隊代表世話人山本恒雄氏が趣意書文の草案を引受け下さる。

第二回建碑世話人会 (昭和五十二年十二月二十六日) 全員出席

 本年もあと数日で新年を迎ふ心せわしい時期にもかゝはらず責任を重じ集り下さる。
 前回の決定事項を織り込んで、山本氏は趣意書草案をコピーして持参下さる。此の草案につき御検討願ふと共に各位の意見を聞く。全員彼に対し労を謝し異議なし。次いで芯石の揮毫者に就いて各位の意見を聞く。兵庫県知事、総理大臣或は著名な書家、作家文人等種々意見も出たが、結局共に戦ひ、共に苦難の道を歩んだ貫兵団長閣下の「忠烈」の遺墨こそ我々にとつて最も望しい揮毫であると意見の一致を見て、必要寸法に写真拡大して用ひることにする。
 次いで年末でもあるので日頃の労を謝し、神餅撤下の御酒で忘年会のまねごとをなす。

第三回建碑世話人会 (昭和五十三年一月二十二日) 全員出席

 希望に輝く新春を迎ふ。本年こそいよく建碑完遂に精を出さねばならない。
 先の基金募集趣意書の印刷を、本部代表世話人坂越秀夫氏により、神戸市宝毛印刷所に依頼中のところ刷り上つて来たので、ここに各隊必要枚数を分配、各隊毎に発送することとする。新年のことでもあるので、神酒で寿ぎ建碑完成のための努力奉仕をお互に誓ひ合ふ。
独立歩兵第三六七大隊戦没者慰霊碑建立基金募集趣意書

拝啓 春寒料峭の候 益々御清栄の趣大慶至極に存じます。扨、昨年九月第三回合同慰霊祭の懇親会に於て決定せられました戦歿戦友の慰霊碑建立の件につきましては其の後各隊世話人に於て協議を重ねました結果、左記要領により推進することになりましたので御諒承の上御協力賜ります様御願申し上げます。

 顧みまするに、我々独歩三六七大隊が白鷺城下で編成せられた昭和十九年七月以来三十有余年を経過致しました。当時戦局は急を告げ、門司出港以来、正に苦難の連続で、幸に敵の魚雷の難は免かれたものゝニケ月に垂々とする機帆船による進航、タワオ上陸後の椰子林に於ける陣地構築・ブルネーヘの転進作戦と世に謂う死の行軍は飢えと病魔との死闘の連続でありました。又ブルネーよりの撤退行軍に至つては、それにもまして難行苦行の毎日でありました。最近次々と発表される戦記文学により今更の様にその悲惨さが世人の注目を浴びて居ります。

 その結果、応召当時、北満国境の警備や中国大陸に奮戦、その勇名を馳せた戦友諸士も次から次へと帰らぬ人となり、遂にその数は一〇〇七名中六五三名に及び、併かも是等戦友諸兄の遺体はタワオの駐留地を基点としてブルネーヘ、ブルネーよりテノム方面へとその行軍行程壱千粁の間に三々五々として散らばって居るのが実態であります。

 政府に於てもこの惨状に鑑み、再度に亘り遺骨収集団を結成してこれを現地に派遣し遺骨の収集に当らせ、我が白鷺ボルネオ会からも昭和五十年第二次政府派遣団に参加、その収集に協力申上げた事は皆様の記憶に新しい処でありますが、その結果を見ても収集地点はタワオ・ボーホート地方に限られ、特にブルネ一等は国情・交通事情から入国すらまゝならぬ由、派遣隊員をして悲憤慷慨せしめたとか。飢えと病魔に斃れた戦友、はた亦終戦を真近に控へて戦うにも充分なる武器弾薬もなく、或は又療養の身でありながらその衰弱せる体力と高熱を顧みず敵と銃火を交へ、無念の戦死を遂げた戦友のあれこれを憶えば正に断腸の思いであり、涙なきを得ません。

 幸に是等戦友の霊を慰める為、昭和四十五年以来、白鷺ボルネオ会を結成し、慰霊に努力、大隊の合同慰霊祭も回を重ねて三回となりましたが、悲しい哉、生者必滅の慣いとか、我々生還者も死没して、回を重ねる度びに来会者の減少して行くのが現実であります。
是等戦友の労苦を永く後世に伝え、子々孫々にその功を顕彰することは我々生還者に課せられた義務と申せましょう。
 どうか左記要項を御覧の上、慰霊碑建立に絶大なる御支援と御協力を賜ります様御願申上げる次第であります。

  左   記
  一、名  称  独立歩兵第三六七大隊戦没者慰霊碑建立基金
  一、基  金  一口 五千円とす。生還者は出来るだけ二口以上をお願します。
  一、募金目標  金壱百五拾万円也
  一、募金の〆切 昭和五十三年七月末日とし、本部、各隊毎に世話人に於て取纏めるものとす。
  一、完成予定  昭和五十三年八月三十一日とし、慰霊碑除幕式並に慰霊祭を九月二十五日にとり行う予定とする。除幕式には戦友の遺家族を招待し、般若心経の一字と亡き戦友の芳名とを小石に記し、慰霊を祈念し、この小石を碑の基底玄室に納める「一石一字」の行事を行うものとす。
  一、建立場所 高砂市荒井町 荒井神社境内

 昭和五十三年二月 日
  独立歩兵第三六七大隊戦没者慰霊碑建立世話人代表  広 瀬  正 三
 世 話 人
  本  部  坂 越 秀 夫   神戸市兵庫区
  第一中隊  柏 木 竹 男   明石市西新町
  第二中隊  山 本 恒 雄   尼崎市猪名寺
  第三中隊  阿 部 辰 二   加西市西野々町
  第四中隊  坪 田 政 信   神戸市長田区
  銃砲隊   松 下 博 夫   神戸市垂水区
  作業隊   奥 平 冬 正   姫路市船津町

第四回建碑世話人会 (昭和五十三年六月四日)    坪田、松下欠席

 三月、四月は私自身の荒井神社と白兎愛育園の新年度予算並に前年度決算の時期であり、又数百名が演武奉納下さる春祭もこの間にあつて、またゝく間に打ち過ぎてしまつた。
 各隊の募金状況やいかに、世の不況と共に低調なのではなからうかと気にかゝる。此の間にあつて各隊毎に、一般趣意書の外、更に電話私信或は訪問によつて協賛方の依頼に御努力賜つたやうである。
 今日の会合は、一に各隊の募金状況の情報交換にあつた。現時点で予定募金の見通しありと見る者と、一層の努力が必要と見る者とに二分される。
 会を早めに切り上げ、かねがね施工者藤原石材よりあちこち探し廻つてゐた芯石の真に格好よいものが入手したので、見に来てくれとの要請があつたので車二台に分乗して、私方より約四十粁はある宍粟郡波賀町藤原石材に至り芯石の現物を見る。
 石材では最高と世間で評価される四国産のアジ石である。現物に当つて、文字の大きさを世話人と共に検討なし、手付金として三十万円入金なす。
 帰途、近くの道筋でもある播磨国一ノ宮伊和神社に参拝、同神社安黒宮司、施工者藤原夫妻、同行世話人記念撮影する。

第五回建碑世話人会 (昭和五十三年七月三十日) 全員出席

 趣意書記載の募金〆切の期限七月末日になつてゐることと、永久建立になる碑のことでもあるので、地鎮祭も行ひたく今日の日を選んで会合をもつ。
 気になつてゐた幕金状況は、各隊世話人の大変な御努力で、予想以上の倍額に達してゐる。それに引きかへ工事は何ら進んでゐない。一ケ月先の八月末日竣工などはトテモ考へられることでない。慰霊祭日に予定してゐる九月お彼岸に延期しても、よほど強く施行者に督促する必要があると思ふ。施工者藤原君のかつての隊長奥平氏に此の旨特に依頼する。
 建設の場所については、荒井神社の中境内が最適の場所と誰しも考へることながら、永久不変の物がいよいよ建立となると中境内の中でも、A案は中境内南側、B案は中境内東南隅、C案は中境内東側の三案考へられ、迷ふものである。

 A案は熟考すると神輿庫の真前にて、秋の祭礼の神輿の出し入れに支障が出るかも知れない。C案は多少樹木を切つたり、移植の必要と庭石の移動をせねばならない。そこでB案であればすべにて支障なく、更に碑に向へば南方ボルネオに向ふことになり、霊室の扉は南面するので、B案の位置約四坪を建設の場所として、神籬(ひもろぎ)差し立て地鎮(とこしづめ)の祭儀を世話人一同参列の上斎行する。

地鎮祭祝詞
白沙に松風颯々の荒井神社の境内の甘しき大地に神籬差し立て招き奉り坐せ奉る此乃大地を宇志波伎坐す荒井神社の大神を始め築四柱の大神等の大前に恐みも申さく
今度此の大地に白鷺ボルネオ会い亡き戦友々垣の御魂鎮め給ふ忠烈碑の建立為さむと 八十日日は有れども今日七月三十日を生日の足日と選び定めて地鎮祭仕へ奉らくと御前に海山の珍物を供へ奉り関係ふ各隊代表の真人等参列み拝み奉る状を平けく安けく諾ひ聞召し給ひて今も行先も此の工事に従ふ工人諸々に障り有らしめず風吹き雨降るとも基礎に狂ふ事無く築き立る中つ石に傾く事無く永久に美しく工事終へしめ給ひて戦友諸々、遺族諸々の願を一日片時も速に叶へしめ給へと恐み恐みも白す

第六回建碑世話人会 (昭和五十三年八月十五日) 全員出席

 戦没者追悼慰霊祭の行はれてゐる、東京武道館の方に対し遥拝の後建碑世話人会を開く。
予想以上の募金の好成績に一同感謝する。
 施工者藤原君と、更に設計監督の意味で私方の近くにて機械設計の会社を経営してゐる日本機設社長坪野重信氏も同席していただいて、施工者より仕様、工程、竣工等ともかく工事一切の説明を聞く。彼の職場に於ては既に切石、延石等加工すべき仕事は着々進んでゐて、明十六日より当方現場にて基礎工事に着工とのことである。
 此の時点に於ける施工(銘板別途)見積書は左記の如くであつた。

  一、軸石 アジ石   二七〇、〇〇〇円
  二、台石 自然石    六〇、〇〇〇円
  三、軸文字掘り    一八〇、〇〇〇円
  四、基礎 工事    四五〇、〇〇〇円
  五、小石雑費      二〇、〇〇〇円
  計          九八〇、〇〇〇円

 然し募金が予想以上の好成績であつた為、人目に付かぬ所ではあるが、なんと云つても英霊の鎮り給ふ玄室が、コンクリート仕上になつてゐるところを花崗岩石仕上に模様替へ、更に六尺灯籠一本を遺族一同、一本を戦友一.同と銘記した壱対の神明型灯籠を追加注文することにした。
 次いで今日八月十五日現在で募金を打切つて、かなりの体裁をした寄進者名簿を印刷作製して除幕式当日配布の議が起る。
 私としては、趣意書に掲示する如く、募金〆切は七月末であつて、今日では既に日も過ていることではあるが、多勢の中には除幕慰霊祭日までに送ればよいと思ふ者や、或は当日参つた際に寄進は必ず収支決算報告を何かの形でせねばならぬので、此の度の印刷は二重になりはせぬかと一応意見を申したが、寄進者の此の熱意に応へる為には 此の時点で是非必要との山本世話人の強ひての意見を尊重して〝八月十五日現在″として寄進者名簿を印刷することに決定。早速記載書式を定め、各隊毎に原稿資料を坂越世話人に提出することにした。

 此の時点に於ける寄進者総数二六五名、募金総額三、九一五、〇〇〇円であり、最終的には寄進者三三名の追加あり、したがつて金額にも二〇万余円の増額を見るに至る。
 次いで本事業に対する寄進者に対し、記念品贈呈の件が議題に上り色々の品目、種々の価格が議せられたが、結局送るにも便利といふことで、風呂敷といふ品目になり、風呂敷に建碑芯石に刻した〝忠烈″の明石閣下の遺墨を染めぬくことに決定、早速此の道に明るい柏木世-話人に依頼発注することにする。
 玄室の模様替、灯寵壱対の追加、寄進者名簿の作製印刷或は記念品贈呈等いづれも募金の好成績の結果によるもので、一にも二にも世話人諸兄の御努力もさることながら、戦友並に御遺族各位が、如何に建碑事業を熱望されてゐたかといふことで、私等世話人として益々皆々様の御誠意に御応へ申上たいと思ふ。
 次いで案内状の件に入り、坂越世話人に文章起案を依頼する。

第七回建碑世話人会 (昭和五十三年八月二十七日) 奥平、坂越、山本出席

 旅費自弁で再三、再四、私宅まで集つて下さる建碑世話人各位の熱意には全く感謝に堪へない。
 今日は遅れている私の碑文草案を見ていただくために、急に会合を開くことにしたが、幸ひ奥平、坂越、山本の三氏が支障なしとして御足労下さる。
 扨て碑文は私が書くことになつてはゐたものの、さてとなると毎月の雑用に迫れてゐて、なかなか手がつかない。まして銘板所に発注の時期は刻々迫る、気のあせりと、銅板に刻することは永久に残るものなりと思へば、一層に気が緊張して尚更に気が重く、一層のことプロ文人を求めて書いていただいてはと弱腰の気も起つたが、いやいや他人の抽象的な、やたら形容詞を用ひた碑文よりも、共に戦ひ、共に苦難の道を歩んだ戦友の私が書くべきで、よしや形が整ひ無くとも、よしや拙文であつても、誠心誠意認めることこそ碑文の本旨であらう。亡き戦友への唯一の供養なりと思ひ直し、非才も省ず執筆することにした。
 先づ内容を左の如く考へ、出来れば地名が出て来るので地図も挿入したいと思つた。
一、前書き
一、本 文
  出港-タワオ防衛-横断転進-ブルネーの激戦-軌道転進-終戦-帰還
  タワオ残留者と帰還後死亡者
一、結 び
  建碑経過と祈願
ともかく上記に従ひ執筆したものの、約ニケ年の足跡を偲ぶと原稿用紙十枚の長文のものとなつてしまつた。  先の第五回世話人会(S53/7/30)席上、世話人各位に一応聞いてもらつたが、私自身が長文すぎて碑文としてどうも適切と思へず、又銘板所からも文字が至極小さくなつてしまふことも聞き、地図掲載の余白を見て、原稿用紙三枚(一、二〇〇文字)程度が適当と知らされ、改めて文字制限あるを意識して再度執筆することにした。
上記内容を重じ、熟考推敲を重ねたものの、非才のため拙いものしか出来ませんでしたが何卒お許し賜りたい。
(写真:忠烈碑々文
 本日出席世話人各位の了承を得て、直に大阪銘板工業へ碑文板を発注する。又、英霊録の型板の原稿が届いており、先の会合の時、各隊毎に氏名文字の校正(三名の誤字あり)が出来ていたので同時に送る。

(以下、忠烈碑の竣工、盛大な除幕式、慰霊祭へと続きますが、項目のみ引用)

第八国建碑世話人会 (昭和五十三年九月十日) 全員出席 

 独立歩兵第三六七大隊戦没者慰霊碑除幕式並びに慰霊祭御案内

第九回建設世話人会(昭和五十三年九月二十二日)  二名欠席 

 洗宮に忠烈碑竣工す

 工事は昭和五十三年八月十六日よりいよいよ着工の運となる。宍粟郡地元より型わく師をふくむ五名の作業員により、見る見るうちに型わくは組れ、厚いセメントが流し込れる。馴れた手付きに一まづ見て居て安心した。しかし次からの施工が延び々々になつて、結局は式典の前日九月二十二日夕刻暗くなつて、やつと念願の碑が高々と兵団長の墨痕も鮮かに洗宮の斎庭に竣工するに至る。

 一ケ月余の工事期間は、一段、一段と積み上つて行く工程を見る嬉しさと、片方では工事が延び延びになる心のイラ立ちが同居してゐた。職人といふものは石工に限らず、このやうなものと十分承知しながらも、私にとつて〝ハイ、明日は参ります″ 〝明日こそ行つて仕事します″といつて、延び延びにされることは、たまらなく腹立しい思ひであつた。
 せめて五日前には竣工して、心静かに周囲の清掃したり、心おきなく当日の祭儀準備万端を調へておきたかつたが、それが出来なかつた事を残念に思ふ。しかしこれとて多勢の戦友、地元有志者が応援奉仕下さりすべて前日に清掃、整理がなされた、有難い次第である。
 施工者藤原君としても、お盆の時期、お彼岸の時期は、世間一般に墓石建立の時期であり、彼の地元宍粟郡の方で、あちこち墓石の注文を請負つていたやうで、こちらから如何なる督促があらうとも、彼自身はよそ吹く風で、九月二十三日の慰霊祭に間に合せばよしと腹をきめ込んでゐた様子、イライラして何回も督促する方が馬鹿であつたやうである。

 工事途中に於て、玄室のコンクリート仕上を花崗石仕上に変更したり、或は寄進者板の追加はめ込み等の模様替があり、初期工程に比し工事手間が加はり、複雑化したことも了解せねばなるまい。殊に玄室、石扉の取付は相当の技術を要し、なかなかの苦労があつたやうである。
 当然支払金額も初期見積額に比すれば、多額の支払となつてゐるが、総括的に見て決して高くは無く、最上の石材を用ひ、手の込んだ玄室或は碑文板、英霊録板、寄進者名板の三面のはめ込み等には、かなりの手間仕事であり、安価で良心的施工であることは、現物の碑を見れば一目瞭然のことである。
おそらく彼藤原君としても、生き残りの戦友として、亡き戦友の碑を精魂こめて築き上げたことであらう。 彼の労を心より多謝する。

除幕の儀と慰霊祭 (昭和五十三年九月二三日) 快晴

三百名近い方々が一堂に会して下さる。
神式次第(十時〜十時三十分)
一、修  祓
一、除幕の儀(海ゆかば斉唱)
一、鎮魂の儀
一、献  饌
一、慰霊詞奏上(斎主)
一、追悼電文披露
  明石閣下未亡人、高砂市長、山本県議
一、玉串奉奠
  斎主、遺族代表、戦友代表、来賓代表
仏式次第(十時四十分〜十一時十分)
一、開眼洒水
一、読  経
一、祭  文
一、納  経
   経石を各自納め焼香
 般若心経

奉仕住職 導 師 極楽寺住職・元第二中隊長 笹川 隆永
     脇導師 薬仙寺住職・元大隊副官遺児 堀尾 茲一
     役 僧 極楽寺住職・元戦友子息 笹川 祐通
慰霊碑懇親会次第(十二時〜十五時)
一、開会の辞(坪田)
一、会長挨拶(広瀬)
一、元参謀挨拶(松本)
一、懇親会
一、閉会の辞(荻野)

第十回建碑世話人会 (昭和五十三年十一月三日) 全員出席

「あゝボルネオ」追録(建碑記念号)の出版原稿募集

第十一回建碑世話人会 (昭和五十四年一月二十一日) 全員出席

建碑事業の最後の締めくゝり及び、監査報告
寄進者総数 二百九十八名、 寄進総計額 金四、二二三、〇〇〇円也



 忠烈碑 平成25年10月荒井神社慰霊祭にて


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