「続・あゝボルネオ」目次へ
当ページの小目次
北ボルネオの戦闘経過要図
北ボルネオにおける残存遺骨分布図
北ボルネオ戦没者遺骨収集並びに現地追悼概況図


日々夜々英霊の菩提を弔う

独歩三六七大隊第二中隊戦友 笹川 隆永 (神戸市兵庫区)

 去る昭和五十年十月八日、突如「荻野氏の代理として、北ボルネオ遺骨収集団の一員に加わるように」と広瀬さん並びに元参謀の松本さんより連絡がありました。私のような者がと思案したものの、生還している戦友の一人として、三十有余年炎熱地獄のあの原野に残されている幾多の英霊のことを思えば、何をさて置いても、この際参加して一霊でも多くの遺骨を収集し、慰霊して来なければと考え、早速参加させていただくことにしたのであります。
 しかし、実際に現地を踏んでみると、その状況は内地でごく簡単に、遺骨収集ができるものと考えていた私の想像とは全く異なっておりました。異国の地である北ボルネオのこと、しかも治安の悪い国であるだけに、遺骨を探すのも土地を掘るのも、一々監督官なり附近住民なりに、許可や了解を得なければならないという始末でした。こんなことでは日限のある収集も思うようにはかどらず、英霊達や遺族の方々にも申し訳ないと思いつつ、如何にもならなかったのが事実であります。

 しかし、せっかくボルネオまで来たのですから、許された期間の間に、三十年余、内地帰還を待ち焦れていたであろう英霊を何とか探し出して、内地にお連れ申し上げなければと心に念じっつ、毎日朝六時から夜九時頃まで、原住民に聞いては彼方を探し、此方を掘るという状態を続けて参りました。特に、私達の部隊の駐屯地、転進路、戦闘地点では(出入の許可された範囲内)隈なく探し、時には三日間も同じ場所(二千米四方)を「英霊よお迎えに参りました」と言いつつ、汗と泥とにまみれながら、あの地点、この地点と探し廻ったこともありました。しかし、残念ながらこの時は、一霊すらも探し出すことができませんでした。

 何しろ三十有余年ぶりに見る再度の土地であります。治水工事もできていない恵まれない地であり、風水害対策も施されず、何度かの水害等で川は変形し、海岸線は浸蝕膚れ、まるで未開の土地となり果てていました。記憶では一本の木もなかった丘に、うっそうたる樹木が茂り、その変わり方は異状という程でした。
 戦友の記憶をたどり、住民に尋ね、ようやくにして一四七体を探し出したものの、他のほとんどの方々は湿地帯等の為に、内地の空を眺めながら、ボルネオの土になられたものと思われます。そういった地点では遺骨のないまま招魂、慰霊式を修すること数回にも及びました。
 慰霊式は、宮司の広瀬さんの祭文で始められました。遅ればせながらも、英霊各位も随喜の涙を流して喜んでくれていると思えば、思うほど眼頭が熱くなり「長いこと本当にご苦労様でした。さあ一緒に内地に帰りましょう」と語りかけては、人知れず泣いていた私達でした。思えば、尋ねる人も訪れる人もない辺境の土地では、眠ることすらできなかったでしょう。

 「さあ、共に内地へ」と、白い遺骨を抱いて帰国した時の私達は、ご存じの通り皆数キロもやせ、同様に真っ黒に日焼けしていました。しかし、これでいい英霊が喜んでくれれば、なつかしの遺族の方々が共に喜んで下さるならば、これにこしたことはないと、皆一様に考えての帰国でした。
 かえりみれば、三十有余年、あの辺地で本当にご苦労様でした。早くご遺族の待たれるお宅へお帰り下さい。英霊各位のお蔭で、日本もこんなに興隆して来ました。私達も生きながらえることができました。本当にありがとうございました。この上は、日々夜々英霊の菩提を弔って世を終わりたいと考えるこの頃です。

ボルネオに眠る友を探して

独歩三六七大隊第一中隊戦友 福岡 時夫 (淡路三原郡)

 此の度高砂市荒井神社に、元歩兵三六七大隊の戦没者慰霊碑建立され、永遠に祭祀される事となり、広瀬会長を始め、白鷺ボルネオ会世話人各位の御尽力に心から敬意を表します。
記念誌発刊に当り、昭和五十年、政府派遣遺骨収集団貞として、再び来る事が出来ないと思っていた現地の状況を御報告申上、いささかなりとも御遺族のお慰めになれば幸と思ひます。

 十月二十八日より二十日間、厚生省の柏井団長以下戦友、遺族等四十九名編成でボルネオに向ひ、三班に別れ広瀬一中隊長、笹川二中隊長、三中隊の遺児高見君達と共にサバA班に編成され、特にコタキナパル(当時のアピ)。テノム。アンダプアン。アピンアピン。ケニンゴウ。メララップ。ライヨウ。サボン。ケマボン。ボーホート。パパール。メンバクール。ウエストン等、多くの戦友を犠牲にした、想出の地を行動することが出来ました。其の中でも此の地は是非と自信を持つていたアンダプアンです。あのサンダカン死の行軍に耐へ、やうやく落着いたと思つたプルネーも、ニケ月足らずで敵進攻の激戦となり、再びプルネー河をサンパンで渡り、ジャングル内の転進数十日、出て来て草原アンダプアンで対空監視の任務で、約一ケ月で終戦、更に収容所入りまで一ケ月半、極度の食糧不足とマラリア熱と戦つて、我が第一中隊の佐野中尉殿以下十四名の勇士を埋葬した地であります。

 十一月三日、今日は文化の日、サバA班も昨夜の計画に基き更に三班に別れ、私達第一班アンダプアン、第二班メララップ、第三班サボンへと、午前七時テノムの宿舎を出発、当時水牛で渡つていたバタス河渡場も、今はジープ一台より乗船出来ないミニフェリボートで渡り、当時の草原も全く変つてゴム林とバナナ畑で、道路も巾五メートル位もあり、全く当時と状況が異つている。変つていないのは、バタス河の茶色い水の色だけであり、車で十五分位走り、現地人の民家で通訳を通じて尋ねる。記憶に残つているのは一本の大木と、其の下を流れる小川近くの印度人の牧場へ牛を撃ちに行つた事だけである。

 当時宿舎に使つて居た建物は、台湾公司の倉庫だつたやうであるが、今は其の蔭もない。現地人の案内で 倉庫跡に着く。すぐ下に小川が流れている「ヤツタ、ココダ」と心の中で叫んだ。
 当時テノムの本部へ毎日、糧秣受領に行つて居た際、全く木蔭もなかつたが、ゴム林の間は比較的涼しい今日は四十五度位のやうだ。小休止の上、先づ小川附近を数ケ所掘るも出ない。小川の上流へ次々掘る。昼食の時間となる、宿舎で作つてもらつた弁当に、内地より持つて来た缶詰、梅干、ラーメン等が副食、三十年振の小川の水で湯を沸し昼食、当時はこの水を暑さに耐へかね「ガプガプ」飲んだものだが、生水を絶対飲まぬ様出発前に禁じられて居た。午後再び附近一帯を掘り返すも一片の骨も出ない。ゴム林の間より照りつける南国の太陽、焼付くやうな暑さであります。

 翌十一月四日、前日と同様人夫を動員、更に広範囲に掘つたが残念、第二日目も駄目だつた。夕食後、班全員の情報交換、メララップ班は大成果を揚げた様だ。残念でたまらない。
 厚生省浜野事務官よりアンダプアンは、前回も苦労したがどうしても収骨出来なかつた様だから、本日を以て一応打切り、明日は午前中焼骨、午後追悼式とボーホートへ出発準備をしたいとの事だがこのまゝでは残念で帰る気持になれない。せめて午前中だけでも、最少限の人員と人夫数名にてアンダプアンを探す事を強く要請した。心良く了解してくれたが、午後一時迄に必ず引揚げる様指示された。夜ベットに横たわるも当時の状況が思ひ出されてねむれない。

 早朝より広瀬、笹川両隊長と私及び人夫五名が配置され、時計をにらみながら作業を続けたが、約束の時間が迫つて来るが一片の骨も出ない。ゴム林の間より照付ける太陽をうらんで、断念せざるを得なかつた。
一本の大木の根元で附近の木を切り、簡単な祭壇を造り、広瀬隊長の祭文奏上、笹川隊長の読経と共に黙祷を捧げ内地より持参した神酒、梅干、ラーメン等と附近にある名も知れぬ花を祭つて、冥福を祈つた。
予定の場所で車を待つていると、四、五十才位の印度人が通りかかったので、木蔭で話しかけるも、三十年振のマレーシヤ語では相手に通じない。リュックサックよりチョコレートを出し、プレゼントすると大変喜んでくれた。間もなくジープに通訳の林君が同乗して来てくれたので彼に情報を聞いたが、彼は近くの牧場の主人公である。

 彼が七、八歳の頃、父が日本の兵隊に牛を撃たれて困ると良く言つて居たとの事に驚いた。今ここに其の犯人の一人である私が居ると知るよしもないが、何だか謝罪したい気持になり、当時は日本の兵隊も食糧がなく困つて居たので、悪い事とは知りながら貴方の牛を取つて喰つたのです。今日は其のお詫びと友の遺骨を探しに来たのです。許して下さいと通訳を通じて話すと彼も戦争中だつたからと極めてあつさりと笑ひ顔で返事をされたので、ヤレヤレと安心しました。

 彼の言によると、この附近は度々大水害に見舞れ、この小川はその都度左右に二、三十米も移動して居る。当時の川はどの附近であつたのか知らないとの事であります。到底探し出せるけもありません。既にバタス河に流されて居るか、湿地帯のため腐敗してしまつているかも知れない情況です。
 各地区とも同じ様な悪条件と、三十年の歳月、私達の記憶の乏しさのため極めて困難でありました。メンバクールでは七体の収骨の外、遺品多数の成果がありました。
 御遺族の皆様には大変申訳なく思つております。今回の遺骨収集団の成果は、僅か三二六柱でありますが、まだジャングルの奥深く、落葉の下に眠られる幾多の戦友のある事は永遠に忘れる事が出来ません。謹んで御冥福を祈ります。

父眠る〝ボルネオ″ へ

独歩三六七大隊第二中隊衣本利正・長男 衣本 利美  (兵庫県佐用郡佐用町)

 政府派遣北ボルネオ遺骨収集団として、昭和五十年十月二十八日から十一月十六日まで参加致しました。兵庫県からは戦友会として、広瀬、笹川、福岡の三人様と、遺児として、池田、高見、衣本の計六名が、総数四十九名中の一員として三班に分れ、広瀬様の御配慮で父の戦死場所に最も近いサラワク班に入って行動しました。

 ボルネオとはこんな所だと父の戦友の方々から聞き、大体は想像をしていたが、聞きしにまさる昼なほ暗きジャングルの中に一歩足を入れると、ヤプ蚊、木の上からはヒルか落ちて来たり、野生動物、河にはワニや一米位のトカゲが居たり、所々には湿地帯もあり、とても一人では歩けなかったが、現地人の案内によりジャングルの草木を切りながら、父達が戦つたジャングルの奥深く遺骨を求めて捜し進み、ある所では銃撃戦の傷跡が残った直径二米はあろうかと思はれる大木や、日本軍が作った道路や橋が三十年後の今日までも残り、当時の道路跡には草木がかなりの大さに成長し、年月の長かった事を物語って居た。橋は補強しているが、今でも車が走ったり、戦時中の日本軍のプロペラが見つかったりして、蚊やヒルに食われながらも、此処まで来ると当時の姿を想像し、未だ見ぬ父に会えた様な気がして、目から熱いものが流れる。もし観光で行く機会があったとしても、此の奥地のジャングルまで、とても行けなかっただろうと思ふ。

 我々が行った班では、一体だけ氏名が判明できた遺骨があったが、他はもはや三十年の長き年月により土と化して居て、多くは収骨できなかった。
 ただ残念であったのは、父の最期のプルネ一には行けなかったが、同じボルネオの地をこの目で見たり、現地の状況を他の遺族の方々や、祖母・母に報告できたことは、一生の尊い思ひ出になろう。二十日近く行動を共にした父同様の戦友の方々には、他人とは思えない様に思はれた。
 今回の出発に際しては、色々とお世話下さった広瀬様や父の最期まで共に戦われた戦友の方々から、線香の一本も立てゝほしいと送金までして下さった方々には心から御礼申上たい。
 私の子供達には、できるだけ父親らしくしてやりたいと、五十三年の夏休みには、祖母と母に留守番をしてもらい、親子四人で淡路に一泊で泳ぎに行き、子供達には初めてフェリーに乗ったり、夕食の生造りの鯛が口を開けたとかで、タイの口の中に指を入れたり、箸を入れたりとても喜び、一夜をお世話になった父と同じ第二中隊所属の馬部様には父親に会えた様で、ついお言葉に甘え有難うございました。

 三十三年間、一度も父と呼べなかった私が、今夜も小学一年の子供が何かいたずらをしたとかで、妻や母に叱られていたが、お父さんは子供に甘くて困ると、反対に私が叱られている今日です。今日まで人に言へない戦争未亡人として苦労も多かったと思うのに、私を十六年もの長い間、学校に行かして下さった母の愛情は、並の母親以上のものがあったと感謝に堪えない。家族楽しく暮らせるのも、此の母親のお蔭と思っています。何一つ満足に孝養らしきことは出来ないままに、今なお子供の幼稚園の送り迎えをお願いしている、まだまだ元気でいてもらはねば困る私の母である。

枯木の様な遺骨を抱いて

独歩三六七大隊第三中隊高見一市・長男 高見 剛  (兵庫県加西市)

 昭和五十年十月二十八日より十一月十六日迄の二十日間、政府派遣北ボルネオ戦没者遺骨収集に遺児として参加出来た事を感謝しています。
 十月二十八日、九段会館において結団式を行い、靖国神社にて礼拝、羽田空港を二十時出発、香港で一泊翌日早朝、私達北ボルネオ遺骨収集団四十九名を乗せた飛行機は香港を出発、午前十時四十分、北ボルネオの首都コタキナパル空港に到着しました。赤道直下の島だけに、久タップを降りた瞬間、やきつく様な太陽が目を刺激する。やっと着いたんだ、写真でしか覚えていない父の顔、写真の中で抱かれていた私、しかし父親の温もりも残念ながら覚えていない。

 そんな息子が三十年ぶりに、父の眠っているこの島に会いに来たんだ。いや違う、故郷に帰っていただくために迎えに来たんだ。こんな事を考えながら、入国手続や私物の整理を済ませ、バスに乗りキャピタルホテルに正午に着く。ホテルで班別の打合せ、道具の整理を済せ、コタキナパルにある日本人無名戦没者墓地に参拝、四十九名は三班に別れ、それぞれ収集目的地に散って行きました。
 私達A班は、班長に厚生省の浜野さん一名、戦友会七名、日本遺族会一名、遺族四名、そして通訳のリンさんの十四名で結成、収集目的地ボーホート、テノム地区である。
 十月三十一日午前九時、コタキナパル駅出発、途中小さな駅に立ち寄り、十一時ボーホートに到着、父の戦死場所はボーホートと聞いています。私は何とも言えない心の高ぶりを押へ、先の収集目的地テノムに向いました。

 十一月一日、テノム地区の遺骨収集作業始める。戦友会の矢野さんが、ライヨ一に埋葬場所を覚えているとの事で、さっそくライヨ一に行きました。ライヨ一には木材合弁会社、シマタラ運輸があり、そこに日本人の松本さん、平井さんがおられ、お二人の協力で、プルでかきならし、ユンボーで深さ一・五メートルまで掘ったが土の色も変らず、遺骨は出て来ません。戦後三十年のカベは厚く、地形も変わり、遺骨はボルネオの土と化してしまったのか、増水に流されたのか、作業は困難、発掘を断念しました。
 十一月三日、メララップのゴム林の中、情報を聞き現地人の協力で、五メートル四方、深さ四十センチ位掘ると土の色が変り遺骨が出て来た。折り重なる様にまるで骨の層である。枯木の様になった骨、「よくぞ迎えに来てくれた」と、その一つ一つが叫んでいる様に思えた。大きなバナナの葉の上に一つ一つくを並べ、我々は必死で掘り続けた。約百柱にのぽろうか。

 十一月四日、シンパンガン、アンダプアンと二班に分れ、私は広瀬さん福岡さんらとアンダプアンに出かけた。しかしアンダプアンの収集は埋葬場所すら確認できず、収集をあきらめた。
 十一月五日、テノム地区の焼骨、追悼式を終え、十一月六日、テノム駅を後にボーホートに向います。今私は汽車に乗っていますが、三十年前、父たちはこの線路上を歩き行軍された事でしょう。疲労とマラリア等におかされ、多くの戦友が線路上に倒れ、ある者は自爆、川に身を投げた者も少なくなかったと、戦友会の話を聞きました。
 十一月七日、ボーホート市内の収骨、さらに六〇マイル、六四マイルと線路上を歩き進んだが収骨えられずホテルに帰る。翌日、情報を聞きジープでメンバクール行き、やし園の中から七柱を収集、焼骨を済せホテルに帰る。
 十一月十二日、ボーホート地区の追悼式、私達遺児はテノムで現住民の青年達と友達になり、ボーホート地区での追悼式には、なんのためらいもなく、青年達が参加してくれた事に感謝している。一様の収骨作業を終え、一緒に作業をしてくれた現住民、テノムでは夜中の二時、三時までも歌い、踊りあった青年達ともボーホートで別れ、コタキナパルへ午前十時三十分到着。
 十一月十四日、午前十時より、コタキナパルにある日本領事館にて、マレーシアサバ・サラワク戦没者合同追悼式がしめやかに行われた。
 A班一四七柱、B班一七三柱、C班六柱、計三二六柱の遺骨を持ち故国日本へ、戦後三十年もの長い間、母が、兄が、妻が、子供がいる郷里をどんなに待ちかねた事でしょう。
 安らかにお眠り下さい。


厚生省の収骨慰霊に参加して

独歩三六七大隊第四中隊池田正瑞・長男 池田 恵瑞  (兵庫県宍粟郡山崎町)

 この度、厚生省主催、日本遺族会協力による北ボルネオ戦没者遺骨収集に、兵庫県を代表して二十一日間の作業日程をすべて消化し、全員無事帰国しました。厚生省職員、情報を提供された戦友会諸氏、そして私遠道族代表合せて四十九名が、サラワク班、サバA班、サバB班と三班に別れて、灼熱の赤道直下、果もなき大ジャングルでの必死の作業により、三百二十六柱をお迎えし、千鳥ケ渕日本戦没者霊園に納骨させて頂きました。
 日中の外の温度は五〇度近かく昇ったでしょう。作業する私達も、私達が掘った穴にこのまゝ倒れてしまうのではないかと思う程の暑さでしたが、この異境の地で、水も米も塩もなく、家族の私達子供のことを思いながら、死んでいった父達の無残さに思いを馳せたとき、私達も歯をくいしばって、シャベルで大地を十文字に掘り続けました。

 戦友の方々の指示で、毎日毎日作業を続けましたが、すでに三十年の歳月が流れています。小さな木々がすでに巨木に成長し、巨木はすでにきりとられ、地平線の向こうまで続く大農園に変化しています。掘っても掘っても何も出てこないところがほとんどでした。
 陸軍軍医、看護婦が逃れたというジャングルの中の隠家も諜報により、無惨に機銃掃射を受けて、無数の穴をあけられたまゝ私達日本人の迎えを待っているかのように、さびしくひっそりと、原形をとどめていました。
 北ボルネオで戦死した兵士は、一八、〇〇〇柱にのぼるそうですが、そのほとんどがすでに、ボルネオの土と化しているようでした。父が死んだラハダットに於ては、ひとかけらの骨もでてきませんでした。がそれでも長年の悲願であったボルネオの地に、足を踏み入れることができただけでも、顔も知らぬ父に逢えたような気がしてとても満足でした。私が大きな声で読誦する声を、きっとと祖国の父達も聞いて下さったと思うのです。

 現地での作業や慰霊祭をするに当り、在コタキナパル日本領事館の方々はもとより、今日まで暖く遺骨を見守って下さいましたマレーシア政府、そして大戦に於て多大の御迷惑をおかけしているにもかゝわらず、友好的でしかもほがらかな現地の方々に、深く深く御礼を申し上げなければならないと思います。
後になりましたが、何かと遺族に対し、暖いお言葉や励ましてくださる広瀬さんや坪田さんに対し、厚く御礼を申し上げ、今後ともどうかよろしく御願いいたします。               合 掌

サバB班 収骨団に参加して

独歩三七〇大隊(須賀崎部隊)戦友  高島 義勝
仝  神崎 子市

日 程  昭和五十年十月二十八日 (羽田発)ーーーー 十一月十六日 (大阪着)
編 成  団長柏井秋久、厚生省援護局業務第三課長          
  サバ州A班 (西海岸 テノム、ボーホート方面)       八 名(戦友会)
  サバ州B班 (サンダカン、ラマグ、ラハダット、タワオ方面) 十一名( 〃 )
  サラワク班 (西海岸 クチン、ミリ、ビンツル方面)     八 名( 〃 )
以上の外遺族会十六名、厚生省役人六名、計四十九名

サバ州B班の行動の概要
 十月二十九日  コタキナパル(アピ・ゼッセルトン)空港着、同地西部一帯を視察
 十月三十一日〜十一月一日 サンダカン附近の調査発掘
 十一月二日〜七日   ラマグ、コヤ川合流地点(作戦道路)調査発掘、サンダカンにて追悼式
 十一月八日〜九日   ラハダット附近の調査、セガマ河渡船場近くにて追悼式
 十一月十日〜十一日  タワオ奥シンパンーテーブル三叉路にて収骨(一七三柱)
 十一月十二日     タワオ日本人墓地に於て収骨の遺骨を火葬し合同慰霊祭を行う
 十一月十日      タワオコタキナパル空輸
 十一月十六日     大阪空港着

 愈々三十年来の悲願であったボルネオ各地に、今尚眠る多くの戦友をお迎えに、温い皆様のご声援を背に受けて岡山駅を出発したのは、十月二十七日、十時三十分でした。翌二十八日、九段会館で結団式を行い、打合せのあと靖国神社並に千鳥ケ淵墓苑に参拝し、直に羽田に向い壮行式に臨み、益々責任の重大さを痛感致しました。
途中香港に一泊、十月二十九日十一時三十分、思い出深いコタキナパル(旧アピ・ゼッセルトン)空港に降り立ちました。この地は、終戦の際の収容所あった港町で現在の州都ですが、近代的建物が建ち並び驚くばかりの変化です。当時使役に出た海岸では、一同感慨無量でありまし。宿泊は内地の上流ホテル並みで冷房もあり、これがボルネオかと思う位いでありました。同日は各班の編成と全般の行動予定の打合せを行い、その後市庁舎前の各国戦没者慰霊塔に参拝、市内の戦跡を見学、日本人墓地に参拝しました。

 十月三十一日、同地からマレーシヤ航空機で一時間でサンダカンに到着しました。同日はサンダカンーベルラン街道七哩の弾痕の家と十三哩附近の旧陸軍病院跡を調査しましたが、本道よりの入り口が発見出来ず帰りました。十一月一日、班を三組に分け行動す。私達二名は、前記十三哩附近を再度調査に赴きました処附近の茶屋で老人に会い、昔四名の日本人を埋葬したと云い、案内してくれ、一哩位い入った農家の裏を示されましたが、土地の持ち主が不在で許可が取れる後日を約して帰りました。また十六哩地点で、当時日本人の炊事を手伝った老婦や憲兵隊の使用人だったと云う人にも会い、昔の事を懐しがり軍歌など歌ってくれました。附近は埋葬の情報はかなりありましたが、現在の道路開設のため、遺骨は殆んど不明でした。

 十一月二日、予定を繰上げ、旧作戦道路の重要な兵站基地であったサンダカン南西、九十哩位いのラマグに到り作業基地としました。十一月三日、二班に分れ神崎は、昨日通過した四十二哩よりルマング附近に向い途中ニケ所で追悼を行う。別班はテルピット附近まで調査に行く。十一月四日、ラマグを出発、キナバタン河を長さ五米、巾一米位いのモーターボートで下航約四時間で「ビリット」に到着、一泊。翌五日同地を出発、上流のコヤ河合流地点に到る。同地はラハダット地区のセガマ農園から北上する転進路の途中で、河の渡河点に当り患者収容所もあった所です。当時こゝを通過した戦友も二人居りましたが、川幅が当時より大変広くなり、地形も変って自然の力の偉大さを知らされて驚いて居りました。目標の地点を発掘しましたが既に現地の風土と化して、遂に一柱の御遺骨も収集出来ませんでした。

 現地の人々は対日感情も大変良く、昔を知る人々が次々に訪れて話し合いました。当時に比べ蚊も少く助かりました。またマレーシヤ政府が教育に力を入れ、小・中学校もあり、早朝から登校する子供も多く見られました。同日、どリットに帰り同夜柏井団長の慰労の宴があり、吾々両人は、是非トンクウに赴き慰霊したいと申入れました処、ラハダットで郡の快速艇を出してもらうように確約を得ました。十一月六日八時、ジープで出発、十時サンダカンに帰着しました。

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 午後放送局下の海軍震洋隊洞窟陣地跡を慰霊し、日本人墓地を回向して帰る。
十一月七日、先の十三哩地点の農家の裏の発掘を地主の許可を得て行ったが、遂に発見出来ず慰霊して帰る。サンダカンは商都で邦人商社も多数進出し、主として木材の積出しを行って居ります。夜も九時過ぎまで店を開けて、かなり歓楽の街となって居りました。十一月八日、空路二十五分でラハダットに到着、早速厚生省の係官は郡役所に出向き、トンクウ行きの船を依頼するも、土曜日にて郡長不在のためその手配がつかず誠に残念でした。

 午後セガマ農園渡河点附近の調査に向いましたが、三十年の歳月は川巾を三倍位いに広げ、左岸地区はジャングルとなって居り、附近には無人の住居が二、三軒あるのみで、旧日産農林の農園は戦後華僑に売却されて、そのまま放置されジャングルとなっており、たまたま通行中の老人に会って聞いて見ると、この人は日本軍と共にシンガポールから進駐したジャワ人で、終戦まで農園で働いていたとの事で、当地は野豚も多く遺骨は荒されているし、河にはワニが非常に多く居るとの事でした。尚同地は、三年に一回位いは洪水に見舞れるので地形が変化すると云っておりました。第四中隊西沢善吉君の埋葬情報に依る地点も整備されて牧場となり、位置すら確認出来ませんでした。

 十一月九日、ラハダット地区の慰霊のため、セガマ河渡船場にて携行の祭文を奏上して慰霊を行いました。
その後第四中隊の宿舎跡を求めて廻りましたが、附近は広く開発され、地形が変り建物は見当りませんでした。ラハダットも各地と同様、ヤシ林、ゴム林は殆んど伐採され、住宅地と化し、桟橋附近も新しい市街地になり、昔の姿は全くなく、ただ海岸の崖下に防空濠の横穴一つだけ見つけました。

 十一月十日、僅か二十分の飛行でタワオ空港に到着。この空港は当時の飛行場を三倍位いに拡張したもので、滑走路は一本だけです。街から飛行場に入る途中の旧大隊本部の跡も建物はなく、樹木の切り株でその位置が判りました。上空から見てタワオの街も、ゴム林、ヤシ林は少なく、住宅団地等に開拓され発展して居るのが見られました。従って部隊の陣地附近の様子も一変し、各中隊長より送られた陣地配備図に基く埋葬地点の確認も得られず残念でした。ただタワオ奥のイマム地区のシンパンーテーブル三叉路に在ると思われる他部隊の遺骨の埋葬地点の確認に成功しましたが、土地所有者の許可がないと発掘出来ませんので、一応翌日に期待して引返しました。

 翌十一日、班をA、B二班に分け、A班は前記の遺骨の発掘に、私達はB班としてモステンに自動車で出発しました。当地に来て初めて道路がある事を知りました。道はタワオ市街地東より山に入り、クオーンヒル等盆地を通り、「バロン」農園北方よりモステンに北上する昔の転進路よりはずれて山の中に入り、約八十哩、二時間三十分でモステンに到着しました。途中シンボルナ行きの交叉点を見ましたので、今は道路が開通して居る様です。途中はゴムや昔のヤシの代りパームヤシ(油ヤシ)と云う背の低いヤシに変り、製油所もニケ所にありました。モステンの日産農林の建物は全く無く、病院跡は郡支所となり、新しいホテルが建ちまたクナックと云う町が出来て居りました。この日本人墓地で遺骨を収集する予定でしたが、相当古いので発掘は止め、慰霊のみにして十六時四十分タワオに帰着しました。A班は前記のシンパンーテーブル三叉路附近で、埋葬に立会った本人の指揮で発掘し、百七十三柱の収骨に成功しました。

 十一月十二日、八時三十分出発、日本人墓地に到り、前記収集した遺骨の焼骨を行い、タワオ地区戦没者の合同慰霊祭を行いました。同地の日本人会代表も参列し、高島は戦友会代表として祭文を奏上、同行の団員の僧侶の読経の内に厳粛に進められ、ありし日をしのび思わず目頭の熱くなる思いでありました。携行した部隊長並びにタワオ会の弔文及部隊戦没者名簿、内地から持参したきび団子、御酒、お米、煙草を供へ、心からの供養を致しました。さぞかし亡き英霊もお喜びでしょう。

 以上でB班の予定を終り、十一月十三日、タワオより空路コタキナパルに帰着、派遣団貞一同の参集を見て、翌十四日、日本領事館々邸に於て、在留邦人参加して北ボルネオ地区戦没者合同追悼式を実施致しました。
 省みれば三十年の歳月は思い出の地をすっかり変え、埋葬情報の確認も殆んど不可能で、雨露にさらされた御遺骸は完全に現地の土と化して居られる様ですし、旧作戟道路は跡方もなく新しい経済発展の波は、南のボルネオにもひしひしと押し寄せて居る様であります。遺骨収集の成果は、サバA班一四七柱、サラワク班六柱、サバ州B班一七三柱でありました。この御遺骨を胸に抱いて吾々は十一月十六日午後一時三十分元気で大阪に帰着致しました。
 終りに私達のために絶大なる御支援をして下さった戦友の方々に厚く御礼を申し上げてつたない報告文を閉じます。ありがとう御座いました。

サラワクの遺骨収集を終えて

独歩五五三大隊(有谷部隊)戦友  岡 良助  (大阪市東淀川区)

はじめに
 政府派遣の遺骨収集団として総員四九名(戦友二七、遺族関係一六、厚生省関係六)で編成され、昭和五 十年十月二十八日、東京発香港経由で北ボルネオのKK空港に着陸、予定の収骨行事を終え、十一月十六日全 員無事帰国した。その間の遺骨収集記録をまとめ、収骨は本当に難しい仕事であり、そしてその真の意義を 一人でも多くの方々にご理解して戴き、亡き戦友のご冥福をお祈り致したい。

十月三十日
 柏井団長やA、B班(サバ組)の見送を受け、午前六時、KKキャピタルホテル出発。KK空港六時五〇分、双発五二人乗りローカル機で快晴に恵まれた東支那海を一路ミリー空港へ、八時着陸。次の予定行事準備のため、越智、須江、衣本の三名をミリーに残留し、途中ピンズル、志布を通過、十一時十分クチン空港に着陸。ホテルオーロラに入る。

 昼食後行事打合会を開き、班員の組合せを決め、行動することとなる。
 上田班 村瀬(厚生省)、市川(遺族会)
 岡 班 河田、近藤、新房、島田
 三好班 古屋、岡田
 ▽本日の行動
 上田班 官公庁に表敬訪問
 三好班 宿舎待機
 岡 班 クチン奥地の情報収集及び調査
 情報収集のため七哩地点の中国人市場内、親日家蔡雑貨店を訪喝参考資料を集め、更に三合興港公学校の劉道建校長を訪問、日本よりの慰問品を渡し、学校施設を見学、意見交換した。
 続いて一七哩部落(シャランスリヤン)部落長を訪問、更に二一哩ブウツト部落農耕現場を訪問、カンポンエポロ(空港隣接部落)で日本軍上陸当時の犠牲者、戦死者調査をする。何れも参考的情報のみで直接収骨につながる情報なし。六時ホテルに帰着。

十月三十一日
 七時三〇分〜一〇時三〇分まで全員で、前日の情報交換及びこれからの行動計画の打合せ、クチン在住国際協力隊、田沢隊員より収骨に関する貴重な情報を受ける。
 ▽本日の行動
 本部班 村瀬、三好、市川(官公庁への諸手続)
 岡 班 河内、近藤、島田、新房、岡田、古屋
 三台のタクシーに分乗し、七哩空港附近にて(開戦時及び終戦時、戦没者が多数あつた処)遺骨収集不可能のため、ジャングル内に於て現場慰霊祭を行い、全員黙藤し犠牲者の冥福を祈つた。帰途バトリンタン日本墓地の下調査のため、一〇時到着情報調査の後クチン病院に向う。同病院には近藤氏が戦時中勤務した事があり、そめ時現地人看護婦オーロラレモンドコモロも勤務していたので、戦後の情況を尋ねるため本人を捜したが、既に十年前に転宅し所在不明であつた。
 午後は台湾人長島さんを訪れた。当人は戦時中高砂族部隊に属し、従軍した経歴もあり、日本語も達者で然も終戦後はクチンで時計店を経営している関係で、事情もよく判ると思い会つて見たが、戦没者の処理は充分出来ているとのことであつた。

十一月一日
 午前一〇時より、厚生省村瀬係長以下隊員全員が日本墓地に公式参拝し、日本から持参した線香や食物を供え戦死者の冥福を祈つた。諸霊永遠に安かれと。
▽加納勇氏のこと
 十八哩ジャランスリヤン中国人美江号蔡張氏宅を訪れた。加納氏が終戦間際に捕虜になることを恐れて脱走し、飛行場附近の雑草の中に潜むこと数日、それこそ飲まず食わずの逃避行。夜中ばかり行動し、十八哩のスリヤン部落まで半月がかりで到着、中国人で農園経営者基氏に救いを乞うた。彼は心よく迎え入れ、それから六年間偽名で農耕に従事した。処が誰から洩れたか、脱走兵らしいという噂が飛んで、遂に豪軍に蔡氏と共に逮捕され処分を受け、加納氏は強制送還され、蔡氏は釈放された。

 岐阜市在住の加納氏もそれ以来二十余年間蔡氏の事が忘れられず、再会を希つていた処今回の収骨行事の記事を新聞で見て調査方を依頼して来たが、現地調査に当つても異国であるのと、二十数年前のことであるために難しかつた。然し熱心な捜索の結果、生存が判明し、加納氏に代つて謝意をのべ、蔡老人(八四)も又日本人の危機を救つた事を今更の様に思い出し感無量であつたのが、声もなく只泣くばかりであつた。

▽バウ地区のこと
 クチンより二五哩奥地バウは元陸病のあつた処で、今度の派遣員の近藤氏(衛生准尉)が一時勤務した事があり、多少の土地勘もあり情報収集に当つた。此処には周囲二㌔位な池があり公園になつている。この池は元露天掘金山のあとに地下水が噴出したもので、終戦時日本軍が戦車や重火器類を多数投入した処であると、通訳代りに同行したクチン時計屋の長島さん(高砂族准尉)や自動車運転者の話である。戦病死者の遺骨処置については定かでないので、収骨出来ず例の通り慰霊祭を行つた。

 丁度その時病院敷地の所有者である中国人が通りかかり、終戦後の情況を詳しく話してくれた。内地から持参の供物の一部に、僅かの線香代を添え、この地の戦没者の供養を寧に依頼して別れた。
更に奥地情報収集のため、パシバンイックKK選磺所(日マ合弁会社)マネージャ北島氏(元陸軍大尉佐賀県出身)を訪れ情報の提供を依頼したが、やはり三十年経過した現在では確実な情報も特に受けられなかつた。
 パルサの商店「少綸発号」よりの情報で、マレシャバウ兵舎附近に戦死者埋没地点あり、以前は数本の墓標が建ててあつたが、数年前兵舎拡張の際除去したので確実な場所は不明であつた。予想される場所を捜したが遂に収骨は出来なかつた。又彼の話によると、バウより更に二〇哩地点マレシャとカリマンタンの国境の峠の処に、四人の日本兵を埋めてある処がある。戦争中同地を通過部隊(工兵隊)中川健一郎氏が同店に対し言明した由、既に時間もなく又同地附近は共産圏境界であるため、治安が悪いので捜索行動を中止してバウを引揚げ、ホチンのホテルへの帰路についた。

十一月二日
 クチン地区の行事は一応終了し、六時三〇分オーロラホテル出発クチン空港に。七時五〇分離陸、途中シブ、ピンズルを経由ミリー空港に十時十分着、パークホテルに入り残留組三名と合流する。
▽ミリー地区遺骨収集行動
 調査収集のための班別を次の様にした。
 岡班(A組) 河内、近藤、越智、市川、衣本、岡田、新房、植村(厚生課員)
 三好班(B組)上田、須江、古屋、島田、村瀬(厚生課員)
 A組 ミリー、プシット、リヤムロード、ルトン地区
 B組 コーラプラトよりバラム河を朔上し、ブルル、マルデー方面でモーターボートをチャーターして調査捜索予定
▽A組岡班の行動
 約一時間ミーティング実施、情報再確認のため自動車二台に分乗し、ミリー市内プジツト地区を経由してルトンに入る。市内の家屋は殆ど改築され様相一変し、僅かに製油所や採油隊宿舎跡の一部が残されているだけである。ミリーからルトンに通ずる街道脇の戦死者埋葬地点も殆んど変り、記憶にある目標も見当らずルトン渡場附近の激戦地、高射砲陣地跡等も埋没地不明。只ルトンカンポンの村長の屋敷裏の壕の中に零式戦闘機のエンジン二基が、半分土に埋れかかつて無惨な姿を残しているのみ。
 ルトンよりバラムに通ずる豪軍上陸地点のコンクリートのトーチカは依然として残り、物寂しく三十年の昔を物語る様に名も知れない虫の音が聞えた。この附近でも収骨可能と思はれる様な場所もなく、例によつて現地慰霊祭を全員で行ない、ミリーホテルに引揚げた。

十一月三日
 村瀬、市川、上田組は官公庁へ表敬訪問に
 岡班の一部、河内、越智、岡田、衣本の四名は現地人の通訳、ジャッキー氏と共にミリー周辺の情況視察に出発、残る八名は七〜一四哩附近の捜索情報の収集に出発。三時頃より大スコールに遭い、中国人経営の製材所に一時避難、当製材所の監督ハシラマー氏の情報により、一四哩地点のジャングル内より鉄帽及び歩兵銃各一を発見したが、残念ながら収骨は出来なかつた。

十一月四日
 早朝より大降雨。九時三〇分諸準備を終え、自動車二台に分慄し出発。
ホテルより約二哩ミリー神社跡に、隊員市川氏の実父(軍属)を埋葬してあるという情報によつて、越智、岡田、市川、衣本の四名が収集作業に当つた。故市川氏の戦病死体を終戦時に直接埋葬した関係者の図面入りの情報を参考に作業に当つたが、それらしいものは遂に発見することは出来なかつた。
 岡、河内、近藤、新房等数名で、これから先の前線基地予定の約九哩地点ランプルカンボンに宿舎設営のため出発。今夕より当地に宿泊することになつたが、食糧の準備も充分でなく、寝具も電灯の設備もないので、ランプの用意や燃料準備に大変だつた。
 警戒心をもつて遠目に伺う様にしていた現地人数名を集め、宿泊の諸準備の手伝の協力を求めた。最初はダイヤ部落のロングハウスの竹を割つて敷いた表廊下の一部を借用する心算であつたが、盗難予防(相互に)病気、食事の用意等、種々不便な点が多いため、遂に独立一戸建て小屋を使用することになつた。これから数日間前線基地として、野戦同様な生活が始まる訳である。

 イバン族と思われる現住民が数人来訪し「四ケ月前、林の中で日本人の頭骸骨が発見された。若し望むならば二千㌦(一マレードル=百二十円)を出すならばそこに案内し引渡してやる」とのことである。金稼ぎの芝居かも知れないと思つたが聞き流す訳には行かないので、一応本部にこの由を通じて返事をすることを約して帰したが、結局は断ることにした。二時頃より宿舎を出発、予てより情報のあつた六哩地点ジャングル内の捜査に出かける。
 岡、河内、衣本三名は、製材所ハジマラリー親子同行で一六哩地点より旧軍用道路に入る。雑木繁茂して歩行困難なり。防空壕や陣地らしい処各所を捜索、戦争当時の爆弾の跡が大樹に残る弾痕を所々に見受ける。五時半頃ジャングル内を引揚げ帰所。
 一方ミリー神社跡の捜索も予想より困難。埋葬者の情報では地下一㍍の深さに埋めたとか。市土木部よりブルドーザーを借入れ相当広範囲に徹底して作業したが、結局発見出来ず、只遺品と思われる毛布の一片のみで、収骨困難さを今更の様に痛感した次第である。

十一月五日
 カンポンランベル宿舎において、午前五時より本日の作業について打合せ会を催す。
 八時三〇分、案内人と共にー四軍地点よりジャングル内林道沿に入る(旧軍用道路)日本陸病跡と思われる処、同行の衛生准尉近藤氏の言によれば、病院は道路近くに河があり、然も平坦地で遮蔽樹木の多い所に設定するのが定石であるとのこと。その附近には防空壕もあり、当然戦病死者も多い事を予想し、綿密に徹底して捜査したが遂に収骨出来ず、例の通り現地慰霊祭を行ない冥福を祈つた。ジャングル内には軍用トラックの残骸や弾痕の当つた樹木も各所に見受けられた。現地住民(ダイヤ族)の話では、相当激戦のあつた処で、戦死者もあつたが終戦以来三十年もの間に度々の大降雨があり、雨水の為地形も変化しているので収骨は困難であるのは当然であると。

 夜は三好班とミリー神社跡作業組隊員全員が久し振りにランプル部落に集合することが出来た。今日までの収集についての総まとめ、収骨についての反省をもとにこれからの行動予定について、ミーティングを約一時間に亘り行う。給食を担当した河内、近藤両氏を中心に、ランプル組は夕食準備をしたが、何分にも全部に亘る食器もなく、大世帯を賄う食事をこしらえる鍋も釜もない。洗面器や金盥まで総動員し、缶詰の空かんを食器代りにという始末。兎に角戦争中の延長の一夜であつた。それでも今度の収骨、戦死者の現地巡拝といぅ尊い行事の意義から、食堂付のホテル住いよりこの様な苦労の生活の方が、如何に意義深いかを痛感した次第である。

十一月六日
 七時三十分、三好班一行は朝食もせずミリーに引揚げた。
岡班は情報に基き、村瀬係長、近藤、岡田、新房の五名、十五哩附近旧病院跡を再調査に赴き、昨日以外の場所を捜索したが、三十年の日時の経過と高温で湿地帯の密林中、例え有つたとしても腐敗や風化し、木の皮か骨か判明もつかない状態で遂に収骨出来ず。

 村瀬係長等は宿舎に引揚げ、岡と通訳ジャッキー氏の二人は同地より更に密林中を入ること数哩、北への細道をカンポンリヤム、ナカットのダイヤ部落を求めて入つた。大スコールの後で道らしい道はなく、密林中一面が沼になり、処によつては急流と変り音をたてて流れ、何とも形容のしようもない有様。通訳ジャッキー氏は馴れたもの、水の流れで細道のある場所をよく知つておりドンドン進む。自然木を倒した丸木橋で小川を渡り、その度にもうこれが最後だと断念した。でも今更引返すことも出来ず生きた心地はしなかつた。
 こんな情況で密林中を約一時間余、密林の彼方に他所者が侵入したことを知らせる様に、鶏や豚、犬が一斉に鳴き出した。近づくに従い益々さわがしくなつて来た。ジャングルの間よりニッパ椰子で葺いた屋根も見え出して、人もざわざわし奇声も挙げている。三十年前アピ事件当時に経験した討伐を思い出した。通訳と二人と雖も彼はダイヤ族であり、もし襲われれば、日本人の頭蓋骨が二千㌦するという話を思い出しひやりとした。

先づカンポンの男数名が偵察に、その後に大勢の子供が列をなして出て来た。婦人連は家の中に入り、小さな窓からのぞき見の状態である。只三十年前に当カンポン附近で警備隊として一時駐屯した事があり、或意味での懐しさも感じ、若し当時のことを覚えている者が居れば、収骨も或は可能かも知れないとも考えた。
 いよいよ部落に近づいた時、五十才前後の一人の原地人の男が、トワン、トワンと呼びつつ急に飛びかゝる様に抱きついたのでビックリした。私としては思いもよらない出来事であつた。よく事情を聞いて見ると彼は有谷部隊が駐屯の当時、敗戦色濃い十九年頃、食糧調達や物資集めのため苦力の責任者として協力したとのことで、ナカットロングウスの前酋長息子であつた事を思い出し懐しさを感じた。現在の村長に面会を申出、来訪の主旨を通じた処、代議員制になつているので重要な事項については合議しなければならないとのこと。

情報によれば確かに遺骨はあるが、代議員合議の上、代償を要求する、と通訳に伝えて来た。その条件は、大豚-頭、鶏三羽、他に礼金として現金一万五千ドル、日本円にして百八十万円と書類で要求して来た。余り多額なのでその算出の根拠を聞いた処、次の様な説明があつた。ナカット部落(約四〇世帯)が毎年一回、全員休んで供物をして戦死者の慰霊祭を約三十年間続けて来た。その間の謝礼だとのこと。然も日本は金持の国であるから、少しは高くても仕方ないとの理由である。

 この要求には応ぜられず「迷惑をかけた賠償金は日本政府として、マレーシア政府に多額に支払つていて、それにより病院や学校を建て道路を作つたりしている。私達は戦没者の慰霊に来たので、収骨だけが本当の目的ではない旨を通訳を通して説明し、長い間に亘り戦死者のために慰霊祭をしてくれた事に対しての謝礼はするが、今私の一存では決められない。収骨に協力してくれる労力代として実費は支払う様にしよう。
金額は又明日来訪のとき通知する」と告げて、夕刻せまるジャングル内の湿地の細道を通訳と二人で帰りかけた処、迎えに来てくれた村長の息子ら四、五人が私達の商物を持つてくれ、そして長い杖までこしらえて、その上深 い水溜りの処は背負つて渡る程の心のこもつた親切な見送りを受け、涙の出る様な気持で別れた。三十年前に可愛がつた恩義を今尚覚えていて親切にしてくれた事は、日本人としても見習いたいものだ。
 又別れる際に彼が言つてくれた事は、収骨の条件は大変難しいが、私も代議員の一人であるから、帰つてよく話し、皆に了解を求めて実行出来る様に努力するから安心して下さいという心のこもつたものだつた。

十一月七日
 午前五時半頃宿舎の前で現地人の騒がしい声がしたので眼を醒まし、出て見るとダイヤ族数名が私を尋ねて来ている。勿論昨日送つてくれた村長の息子もー諸で私を迎えに来てくれた。昨夜中代議員会議で話合つた結果、息子の助言もあつてか、希望も充分入れるからぜひもう一度来てくれとのことであつた。早速私達は近藤、新房とジャッキー通訳と四人で、迎えに来てくれた彼等とナカットカンポンに向かつた。昨日と同じくカンポン近くになると例の通り犬や鶏、豚も騒ぎ出した。
 ロングハウスの前庭では運動会かお祭の様に、女子供ら部落中の人々が三百人位集まり、火をたいてのろしを挙げている。私達四名をロングハウス中央の村長の部屋に案内し、アンピラ敷の広間で代表と話合う準備が出来ていた。迎えに来て呉れた村長の息子もその一座に加わつて呉れたので少し気強く思つた。息子の助言もあつてか、昨日の話の様子よりずつと打解けた雰囲気で話が進む様に思われた。

 先づカンポンの風習に従つて、一通の儀式を終えた上での協議となつた。その儀式には先方は村長やその家族と部落代表を含めて二十名余り、私達四人を囲み先づ身を清める意味か屋内に置いてある壷から水を汲んで来て布きれに浸ませ、全員に振りかけ呪文を唱えながら、次は陸稲を煎つてボン菓子の様なものを座敷一面に播き散し、厄除け魔除けの行事が終ると鶏の首を蕃刀でぶち切り、吹き出す生血を器に受け、血のしたゝる鶏の両脚を持ち儀式に加わつた者の頭の上で呪文をとなえて奇声を挙げ、振り回し祈りを捧げるのであるが、この様な行事が何時まで続くかわからないので気が遠くなる様である。暫くすると先に受けた鶏の生血を村長が先づ呑み、次は当方の代表である私に差出しこれを呑めと勧める。儀式の内でもこれが一番むつかしい事である。仕方なしに呑むまねだけして返そうとしたが、彼等はその様子をじつと皆んなで見守つているので呑直し次の代表に渡し、順々にまわされ一応儀式が終る。そして頭蓋骨を数個吊し、吹き矢や投槍を掛けてあるうす暗い部屋の奥の壷から椰子酒を持ち出し、どんぶりに入れお互に呑み回し、和らいだ雰囲気になり、交渉も次第に順調よく進んだ。

▽収骨のこと
 いよいよ埋葬現場に案内し収骨することになつた。ジャングルの細道を奥へ入ること約三哩、男は褌一枚女は原色花模様のついた儀式等に着る特別のサロンをつけ、奇声をあげたり呪文を唱えたりして長蛇の列は進む。その列の先頭には現場で儀式に使う大豚の四足をくくり、逆に吊して長い棒を通し、数人でかついで運んでいるが、豚は大きな悲鳴を上げている。
 現場に近い式場の広場には一面に木の葉が敷かれ、ここでかついで来た豚を血祭に挙げる式が行われる。代表の一人が蕃刀で心臓を一突、吹き出す血を大きなホーロの器に三、四杯受け、更に首を切り、四足も次第に小さく切られ、カンポンの夫々の世帯に分配される。儀式の一部か、平等に分配するためか分配を待つ家族の人が長い列を作つている人々に、村長が一家族に木の葉を一枚宛渡し、これを引換券代りに分配現場では豚肉と生血を交換して貰つている。

 一方埋設場所では収骨の作業が行われるが、骨の有る場所を探すため、長い杖の様な棒でそれらしい箇所に突差して手応えで探している。ここだというので掘つて見ること数ケ所、遂にそれらしい処に当つたので現地人達は大喚声。始めに出て来たのは、木の皮か骨か判別し難い様なものであつたが、次第に掘つている中に確かに遺骨であることがわかつた瞬間、私達三名は抱き合つて暫く泣き伏した。今まで騒がしかつた大勢の現地人も私達の様子を見ており、式場は一瞬ひつそりとなり、近くを流れる小川の水音のみ耳に入つた。
他も徹底して捜したが、一体だけと思われる遺骨しか収骨出来なかつた。

 その場所から約三十メートル西側の台地に埋めてあるという現地人達の情報により、その場所附近の収骨作業に移つた処、又人骨らしいものを発見した。次第に作業を進めている中に数体を収骨することが出来た。

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ここは前の処と違つて、少し粘土がかつた処であつたが、事もあろうに遺骨(特に頭蓋骨の部分)に赤蟻が巣を作り目も当てられない状況であつた。収骨出来てよかつたと遺骨に対し、掌を合せて戦友の冥福を祈つた。遺骨の数体を木の葉に乗せ、用意して持つて行つた白布に包み、固く胸に抱いて六時頃カンポンの人達に見送られ、暗い密林の細道を前線基地七哩のランプル小屋まで帰つた。

▽尾田少佐のこと
 遺骨収集団出発の前に、戦友石田氏より情報で、ナカット部落に尾田隊長の遺骨がある筈だと連絡があつたので、同地区を重点的に捜索した処、遂に発見することが出来た。尾田少佐(当時大尉)の遺骨があるという判定の資料は次の通りである。
一、尾田隊の生存者の証言(ナカットで埋葬した)
二、尾田隊長の寄せ書の日の丸の旗と着物が発見出来た。毎年一回の祭典にこの日の丸の旗を掲げ、酋長が日本の着物を身につけ儀式に参加していた事。
三、名刺及紙幣を尾田隊長から貰つて持つているダイヤ族が現存していた事。
四、金星三ツの隊長をこの場所に埋めたと証言する現地人が二名在住している事。
五、義歯についての遺族の証言。
 これは厚生省の認定資料でもある。数ヶ月後、兵庫県知事を通じて正式に遺骨を返還された。数多い戦没者の中でも本人であると確認された事例は、きわめてまれ。その中に尾田少佐の遺骨が入つていることは、故人にとつては勿論、ご遺族も不幸中の幸で、その御霊は郷里の神戸の墓地に心安らかに、護国の神としてまつられた事と思う。
 同日河内組は激戦地、六〜八哩地点の捜索に重点を置き、数名の人夫と共に防空壕や陣地跡等熱心に実施したが、軍用自動車の残骸、銃弾に射ち抜かれた鉄帽等を発見した程度で、収骨は出来ず残念ながら宿舎に引揚げた。又、ランベル部落に近い森の中に、彼我不明の飛行機の部品を発見、ここでも収骨は出来なかつた。

十一月八日
 前進基地であるランベル部落を午前中に引揚げ、次の予定地であるロバン高地、プジツト高地(武勇山、忠節山、信義山)の旧警備隊陣地の捜索に当つたが、ミリー市街地に接近している関係上開発が進み、新興住宅、工場等の建設が多く、当時の様相は一変しており、遺骨の発見困難のため、各地で現地慰霊祭を行ない、ホテルに引揚げた。

十一月九日
 サラワク班全員で、午前九時よりロバン岬海岸に於て焼骨を行ない、日本から持参した遺族からの供物を捧げ、現地慰霊祭を実施した。
  ボルネオはるか山青く 朝霧燃ゆる赤道下
    軍靴はやぶれただぶるも 死線を越えて戦いし
      我等のきづなきれるなし
  ドリヤン匂る丘の上 きらめく南十字星
    夜明けを知らず散りゆきし 戦友しのぶいつしかに
      露のやどりて虫ぞなく
とテープに吹き込んだ南星会(五五三大隊戦友会)の歌が静かに流れるまゝに、亡き戦友よ永遠に安らかに眠り給えと冥福を祈り、黙藤を捧げる間、南支部海の波音も心なしか我等と共に慰霊の合唱をしてくれる様に耳の底に消えて行く。

十一月十〜十三日
 ピンズル海岸に初代軍司令官、前田大将の遭難慰霊碑の撤去作業を実施、又ギズロング地区戦没者の遺骨収集に当つたが、遂に収骨出来なかつたので現地慰霊祭のみで終つた。

十一月十四〜十五日
 十三日、ピンズルでの行事を終り、コタキナパルに引揚げ、十四日、領事館公邸において合同追悼式を行ない 十五日、北ボルネオKK発一路香港経由で故国日本に帰った。

むすび
 戦友や肉親、同胞の遺骨を一体でも多く、故国に帰そうという思いは、国民の一致した願であるはずなのに、実際に収骨に従事して見ると、なんと困難の多いことか痛感した。
わずかしか収骨できなかつたというだけでなく、これに対する熱意、慰霊の精神が、戦後三十余年の間に風化し、収集団の中にさえ、一丸となつて協力する姿にややもとるところがあるという、心労がつのつている。
 私たちは、戦火の中にいるのと同じ真剣な気持で収骨に当つたが、見当はついていても、遂に収骨できなかつた戦友も数多く残つた。日本から海上遠く離れた異国の地であつても、はるか敷島の故国から、南冥の地に散華した英姿を一ときも忘れることのない戦友、肉親、同胞に代つて、英霊よ、永遠に安らかに眠り給えと、冥福を祈つてやまない次第である。
合 掌


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