「続・あゝボルネオ」目次へ

再度、収骨慰霊にボルネオに渡る

白鷺ボルネオ会長 広瀬 正三

北ボルネオの戦闘経過要図
北ボルネオにおける残存遺骨分布図
北ボルネオ戦没者遺骨収集並びに現地追悼概況図

▼昭和五十年十月二十七日(月曜日)

 相手国の政情不安の理由のもとに、再三、再四の渡航延期に燃ゆる思の収骨慰霊奉仕も時には気のぬけた思ひもしたが、秋もようやく深り紅葉も色ずく十月下旬の今日に至りいよいよ決行となる。
 私としても、本年の秋祭(十月十日)も滞りなく終了し、不肖ではあるが跡継息子がなんとか神社のこと、その他事業(保育園、剣道教室其の他)のこともやつてくれるので、安心して二十日間の長期留守が可能で、派遣団貞の盲として奉仕出来ることは此の上もなく幸せ者だと思ふ。

 午前九時、見送人にも参列厳つて荒井神社拝殿に昇り、派遣者一行の平安祈願を行ふ。
当方神社総代、覚野、入江、梶、今井の四氏、神社青年会々長加納氏、荒井町遺族会吉田、西尾の正、副会長、高砂市軍恩連役員柳、取森、中谷の三氏、元一中隊所属の嘉納、杉田の両戦友、親族の島谷兄弟の各々の嫁両人も来て、私方家族共々私の出発門出を見送り下さる。

 我が部隊より戦友三、遺児三の六名が参加で、笹川氏は御令息が東京に在学中のため、下宿先へ我々より一日早く東京に向はれた。我々五名は今日正午一二・〇〇時姫路発と決め、私及加西市の高見君、佐用郡の衣本君の三名は姫路駅より、宍粟郡の池田君は明石駅より、淡路の福岡氏は新大阪駅よりそれぞれ本列車に予定通り乗り込んで来て車内で勢揃ひして東京に向つた。

 車中は話に花が咲き、午後四時東京着。東京駅にて遺児三名と別れる。遺児等の本日の集合場所は日本遺族会館のよし。私と福岡の両名はあらかじめ予約をしていた、明日の集合場所に近い靖国神社指定旅館雲乃井に向ふ。
 東京にもこんな静かな所があるのかと思ふ程清閑な日本的な旅館で、久方振りに福岡氏と枕を並べ、思をボルネオに馳せて午後十時寝につく。

▼十月二十八日(火曜日)

 宿より本日の集合場所たる九段会館までは、徒歩にて十分以内の近距離ではあるが、お互に大きな荷物があるのでハイヤーにて会場に行く。今度の派遣団長を務め下さる厚生省課長柏井秋久氏は既に会場に先着され靖国神社境内にて左より広瀬、福岡氏、松本参謀、笹川氏てをり初対面の挨拶を交す。私は名刺代りに前著「あゝボルネオ」一冊を彼団長に贈呈なす。

 承るところによれば、柏井団長は根からの官吏でなく、少尉候補者出身の元軍人、私等の地元姫路第十師団管下の松江歩兵六三聯隊の出身で、昭和十四、五年頃は十師団司令部勤務となり、司令部所在地の姫路に在住してゐたとのことである。
 真に近親感を覚える。
 馬奈木ボルネオ会長、松本元貫参謀達も多忙の中を我々派遣戦友の為、会場に御出席下さつて居る、有難 いことである。

 十一・〇〇時より左記の如く団結式が挙行せらる。
一、開式の辞(厚生省庶務課係官、以下司会)
一、結団宣言及び挨拶(団長)
一、行動概要説明(厚生省派遣団員)
一、乾 杯
一、閉式の辞
 次いで名放ツーリストより渡航説明あり、手荷物の検査実施、一三・〇〇時九段会館出発、靖国神社並に 千鳥ケ測戦没者墓苑に参拝を行ふ。此の間に記念の為上記写真を撮る。
 一五・〇〇時、一行は羽田空港に到着した。空港には在京ボルネオ会役員の方々、派遣団の家族、或はゆかりの見送りの人々でふくれ上つてゐる。私にも在京の姪等と甥の三名来てくれてゐる。
 空港特別待合室にて出発式を行ひ、派遣団貞の壮行を激励下さる。多謝。
 一七・〇〇時、サバB班及サラワク班、香港に向け発。一八・五五分、我々サバA班、日本を後に一路香港に向け出発した。

 ニー・三〇分(香港時間、時差ありて二〇・三〇分)無事着、直にホテルに向ふ。
ホテルには既にB班、サラワク班先着してゐる。本夜の私の同室者は、東京品川にて戒法寺住職されてゐる元船舶工兵所属の長谷川岱裕氏である。

 今より数時間前、羽田空港控室で我々が控へてゐる時元テノム補導官であつた国武老より私にさゝやきがあつた。その小声のさゝやきが既に彼の耳に入つてゐる。
 此の小声のさゝやきの内容は、戦時中憲兵ハセガワといふ者は、テノム周辺の土着民(主として華僑)から大変な恨みをかつてゐる。勿論異人ではあるが、長谷川の氏名ある者がテノム担当は不適で、万一の事が起ればどうしやうもないといふのである。

 長谷川岱裕氏が気にされるのはもつとも至極のことである。彼は言ふ、己の危険までおかして戦友の収骨慰霊にボルネオに向ふ必要がない、明日早々日本に立ち帰りたいと申されるのである。
 三十有余年を経過した今日それは信じがたい話だと思ふ、かと申して国武老の人柄を知つてゐるつもりの私には、国武老の言葉を全くのデマとも思はれない。
 私は今、彼長谷川氏と異国香港のホテ〜で同室で枕を並べて居る。本夜は既に夜もふけてゐる、明朝早々 善処を約して寝に就く、おそらく長谷川氏は眠れぬであらう。

▼十月二十九日(水曜日)

 早朝、B班戦友責任者遠藤方三氏と全般責任者、厚生省相井団長に昨日の長谷川氏の一件に就いて班替の 必要を相談した。柏井団長は「デマでせう」と軽く流して、身勝手な班の変更は全般に悪影響ありとして 難色を示さる。
団長として御意見もつともと思はれるが事の次第に依る。万一、長谷川氏に危険があつた場合その処置や如何に!

 班変更がそれ程までに困難なものであれば、何も危険を知りつゝボルネオに渡る必要がない。長谷川氏本 人も直に香港から日本に引き返したいと申してゐるので、今日只今日本に帰つていただくやうにする、と私 の強い意見に団長も折れて、彼をタワオ、ラハダット地区のB班に行つていただき、B班より矢野政美氏を A班に迎へ入れることになつた。長谷川氏も折角亡き戦友を思つて此処まで来たもの、B班所属であれば最 後まで行動を共にしたいといふ。

 又A班に来た矢野氏は、私にとつて先の昭和四十四年、収骨慰霊に行動を共にした旧知の士でもあり、彼 矢野氏にとつては、B班地区は戦中知らざる地点であり、A班担当地区こそ彼の最も熟知の土地で、彼の活 躍が期待される地区である。
 斯の如くA班B班双方了解、御両人とも書こんでボルネオに向ふこととなる。

 八・〇〇時、キャセイ航空便で香港出発、九・四〇分、ボルネオ、コタキナバル空港着。
日本では秋冷の候といふのにやはり暑い、五十度近いのであろうか、地上に降立つと眼鏡がサツトくもる。
空港での諸手続を終へて一〇時三〇分、キャピタルホテル(京都大酒店)に入る。
          ○
 派遣団より数時間おくれて、国武英太氏(元テノム補導官、現ボルネオ会役員、福岡市在住)、安達泰矩氏(元独歩七七四大隊所属、現ボルネオ会役員東京在住}並に梶井寿子未亡人(主人は一〇三野戦道路隊所属、ボーホートにて戦死、兵庫県西宮氏在住)の三名が個人の立場で、私的に収骨慰霊に参加すべくコタキナパルに到着。我々と同じホテルに投宿さる。

 上記三名様は今回の政府主催収骨慰霊派遣に、団員なることを熱望されてゐたか否かは私の知るよしもな いが、梶井未亡人は団員たることを熱望(前項、派遣団員選考参照)されたが、今回政府の派遣方針により 女性は認めないといふことで失格になられた。他の二名の方も熱望されてゐるのにもかゝはらず失格となつ たのであれば、此の両人は先の昭和四十五年、政府主催の時に団員として派遣されてゐるので、限られた人 員でもあるので今回は御遠慮願ひたいと云ふところから失格になつたのではなからうか。

 しかし団長を始め厚生省の人達は、此の三人の私的にボルネオに到着を如何様に受取つてゐるであらうか、他の団員中にも種々な思を寄せる人もあるであらう。
長期の日数と多額の私費を犠牲にして、亡き戦友の収骨に個人参加を素直に御協力有難う、と感謝の意で迎へるのであらうか。それとも予期せざる者がいやがらせにやつて来たと迷惑に思ふのであらうか、三人を熟知してゐる私だけに、いらぬ心配が私の心をゆさぶる。
 私にとつて上記三名は、ボルネオ会独自で昭和四十四年、収骨慰霊の際の同行の士で、その年帰国後の四月四日、東京に再会して以来、その年の月日に因んで「四四、四、四会(よしよしかい)」と私が名付けて、或る年は九州で、或る年は奈良で、或る年は名古屋でと再会を重ねて今日まで親睦を温めてゐる間柄である。
          ○
 己が荷物を整理して午睡をとる。

 一五・〇〇時〜一六・〇〇時 A班打合せ会。
 一七・三〇分〜一八・三〇分 団全員打合せ会。
 二〇・〇〇時頃だつたか、マレーシヤ水産庁部長、方永生(ホンユンサン)氏の招待を受く、多謝。
 扨てホン君(我々仲間で、ホン・ユンサン氏を「ホン・クン」の愛称で呼んでゐた)に就いて多少説明し ておきたい。
先の四十四年、ボルネオ会が行つた収骨の際、先の国武英太氏が向学の青年と見込んで日本につれ帰り、国武氏の家庭で約ニケ年日本語を修得し、昭和四十六年、一般受験生に混つて受験して、見事山口県にある国立水産大学に入学、昭和五十年四月、卒業と同時にボルネオに帰国、日本の大学出といふ大きな肩書により、マレーシヤ国の高級官吏として此のコタキナパルに勤務在住してゐる将来性ある若者である。
 日本六ケ年の留学中は、当然国武氏がすべての面倒を見てをられる。そればかりか、妹ショウレイまでが日本の美容技術修得に、安達泰矩氏と共に世話してをられる、国武氏が、戦時中チノムの補導官にあつて、アピー事件の際、テノム地方の総大将、周偉観を銃殺直前から救つたこと等が原因して、国武氏のテノム地方に於ける信頼尊敬は戦後三十余年の今日尚続いてをり、彼も又上記の如くその信頼に応へてをられる。
 此の様なわけでホン君にして見れば、恩人国武氏の来ボを知れば何をさておき、国武老を迎へるは当然のことであらう。私等今回の派遣団貞中、ホン君を知る私、矢野政美氏、岡良助氏の三名が御相伴にあづかつた次第。
国武老がホン君と会ふことは、孫に再会の喜びであらうし、ホン君も国武老を迎へることは、日本での六年の生活の思ひ出は実祖父以上のものを感じてゐるであらう。ホノボノとしたものを感じつゝ異国での一ときを過させていただいた。
          ○
 ホテルに帰り少しすると、隣室に部屋をとつている元独混二五聯隊所属、現在鎌倉市に御住ひの荻原正春氏が私の部屋に入つて来られ種々世間話をする。彼は尺八の名手らしく尺八のことを様々話される。
二四・〇〇時寝につく。

▼十月三十日(木曜日)

 七・〇〇時、サラワク班はクチンに向け出発。A、B班はホテル玄関まで見送る。
 九・〇〇時〜一〇・〇〇時、A班は今後の日程に付き打合せを行ひ、概ね左記の如く予定する。
 ●チノム地区(ケニンゴウ、ライヨウ、サボン、アンダヴアン)
   十一月一日〜十一月四日
 ●ボーホート地区(パパール、ウエストン、メンバクール、六〇哩地点)
   十一月七日〜十一月十一日

 午後より厚生省浜野事務官、林通訳、私を含む戦友四名同行して、私の故郷近い加古川市尾上町出身、宮本憲兵軍曹が刑死して埋没されたといふ、バトテガ刑務所横手の小高い山ふもとの森地点を探し求める。
しかしそれらしい地点がなかく判明しない。やゝそれらしいおもかげを止めてゐる処で、周辺を撮影と土少々採集することにした。同行の下里氏は此の地点は、戦時中日本軍飛行機の附属設備の一部で、飛行機を秘匿した場所だといふ。しかし現在では住宅がかなり周辺に建ち並び、領事館からもくれぐれも注意と、強い要請もあつて掘り返すわけにゆかない。是非とも弟の収骨をと令兄の願ひではあるがいたしかたない。
 次いで病院関係に詳しい矢野氏が先頭に立つて、昭和十七年、進駐当時の病院跡へ行くも、現在放送局となつて、遺体埋葬地周辺は市街地と化してゐる。

 二回目の病院跡はトアラン街道より軍司令部に通づるゴム林内の貨物廠跡にあつたが、二十年の初め二、三ケ月で、此の期間には病没者はなかつたといふ。
 三回目の病院跡はトアラン街道の日本人墓地の少し手前を右に入つた岡だつた由、此の地点も又現代民家が建設され、掘り返せる状態でない。一六・〇〇時頃宿舎に帰る。
 家庭並に山本県会議員宛無事現地到着の旨手紙認む。
 宿舎周辺の商店で、明日の為の防暑帽を買ひ求める。
 明日はテノムへ移動する為、手荷物を本宿舎に残すものと、現地に携行すべき物と分類する。本夜は元海軍第六震洋隊所属、熊本県人の白木多介氏が私の部屋を訪ね下さる。深夜まで語る。

▼十月三十一日(金曜日)

 八・〇〇時ホテル出発、マイクロバスにてコタキナバル(戦中アピー又はゼツセルトンと呼んでゐた)の駅に向ふ。ホテルよりかなり離れた地点に駅がある。
 九・〇〇時発の軌道車にてテノムに向ふ、軌道車は小さいが美しく、かなりスピードも出る。途中線路に倒木あり通過困難、全員下車して倒木排除作業なす。鈴木団員身軽く倒木に登り、用意よろしく携帯鋸にて”殊勲甲”だと冗談を飛しつゝ手ぎわよく作業下さる。

 一三・〇〇時、テノム駅に著す。
 東海岸タワオから六〇〇粁、死の行軍を続け、やつと軌道車で通過したテノムであり、ブルネ一戦から山越、河越して四十五日を要してたどり着いたテノムである。終戦も此の地点で知つた。真に思ひ出深い処である。
 貫兵団司令部も独歩三六七大隊本部も此のテノムにあつた。私の居たアンダヴアンは、此の地点より多少離れてゐたものの、毎日連絡に通つた福岡団員には一層思ひ出があらう。
 駅などは当時のまゝではなからうか、それとも三十余年もなるので、位置はそのまゝでも、建物などはその間に改修されているのであらうか、かなり民家もあり、華僑の商店もあつて、ボルネオでは都会の方だと思ふのだが、古色蒼然としてゐる。
 宿舎は駅より徒歩で数分の処で、比較的清潔な感じのする華僑経営の旅館のやうである。
 宿舎で小休止の後、厚生省柏井団長にお伴して、浜野事務官、戦友より小生、遺児より斉藤君、季、林の両通訳、計六名がチノム県庁に挨拶に行く。
 県庁と云つても日本の村役場よりお粗末な建物である。
 厚生省よりの贈物の外、私は高砂市より戴いて来た飾り扇子、伊勢神宮より戴いて来た神酒、私の荒井神社の絵馬等を贈呈して、今後の協力方をとくと御願ひして、宿舎に帰る。

 一五・〇〇時より明日の行動日程の打合せ会を行ふ。
 その結果、左記の如く二班に別れて行動することとなる。
ケニンゴウ班
 柏井団長、川俣(遺族会)、浜野(厚生省) 笹川、下里、鈴木(戦友三) 佐藤、斉藤(遺児二)
 季通訳
ライヨウ班
 広瀬、福岡、矢野、国井(戦友四) 高見、中谷(遺児二) 林通訳以上九名以上七名

 一六・〇〇時、一応解散して、私の部屋に浜野事務官を始め、笹川、福岡、矢野、鈴木、下里の各位集まつて来て戦時中の苦しい思ひ出など互に語り合ふひとときが流れる。
 一九・〇〇時、夕食。食後荷物整理。
 二二・〇〇時、就寝。

▼十一月一日(土曜日)

 昨日の打合せに従ひ二班に別れて行動する。
 ケニンゴウ班柏井氏外八名は、ジープにて宿舎出発、現地に向ふ。私等ライヨウ班七名は、チノム駅七時五〇分発軌道車にてライヨウに向ふ九時一四分ライヨウ駅に着く。駅長さんに収骨作業の旨を告げて挨拶をなし、何分の協力方依頼申上ぐ。
 矢野団員の道案内のもとに、線路をつたつて埋没予定地点へと徒歩にて前進なす。
 予定地近くに株式会社シマクラといふ木材会社がある。そこに幸ひなるかな、松本幸夫様、平井浩次様の二人の日本人が居られる。先方様も突然に見る我々同胞をなつかしがり、私等も又此の奥地で日本人が勤務してをられるとは夢にも思つて見なかつたこととて、お互に喜び合ふ。

 ことに松本様の方は東京都出身、憲兵中佐を父にもつ遺児といふことで、今此処に遺児二名が来てゐることにすごく感激して、献身的協力を誓つて下さる。小休止の後現地に向ふ。矢野氏の記憶は確かであつて、軌道線沿の小 鉄橋とドリアンの大木の間といふ地点に到る。
司令部付飛行班長山田誠治氏による情報も概ね此のの地点を指してゐる。雑草が脊丈もあり、十名足らずの我々作業員がスコップで発掘する面積は真に微々たるもの。それでも全員五十度の灼熱下に、汗と戦ひつゝ〝戦友よ出てこい″ 〝戦友よ出てこい″と発掘を続ける。

 かくて二時間程後轟音あり、㈱シマクラの松本氏がトラックターを運転して現地に応援に来て下さる。有難いことである。人力の何倍の力があるのであらうか、大きな根ツ子も見る見る刈りとられてゆく。

 矢野団員の指示により、相当広範囲の発掘を実施したが、収骨は僅かに三体分程のものであつた。ライヨウ駅員、㈱シマクラの従業員又何事かと何処となく集つて来た現地人等に通訳を通じて情報を総合すると、まづ皆戦後育ちで当時を知つてゐる年令層が数居ないこと。
 次いでバグス河が三十有余年の間に何回か大洪水があり、河川の護岸施工のない全く自然のままの姿の河川にあつてはその度毎に水流に土砂を崩壊し、当時の水流線にかなり変化を来してゐること。したがつて線路山手はともかくとして、線路川手の方の遺体が河に流れたことも予想される。
 なほいやなことではあるが、奥地にはダイヤ族、イバン族の首狩の習俗のある人種も居て、遺体から金歯の金を驚ことぐらいさう不思議でもない行為だつたかも知れぬ。金もうけした者もあるなど耳にする。これとて悲惨な戦争行為につながることである。しかし総ての遺骸はたとヘボルネオの土と化し、或は洪水に流されようとも、御霊はなつかしの故郷に、御家庭に還つてをられる。迷ふこともあるまい。

▼十一月二日(日曜日)

 本日も二組に別れて行動をする。
ライヨウ班浜野事務官、矢野戦友、福岡戦友、国井戦友、高見遺児、斉藤遺児、中谷遺児、林通訳計八名
サボン班柏井団長、広瀬戦友、笹川戦友、鈴木戦友、下里戦友、佐藤遺児、川俣遺族係員、季通訳 計八名
ライヨウ班は昨日に引続き、矢野団員の道案内により作業続行すべく、七時三十分宿舎を出てライヨウに向ふ。

 私は今日はサボン班となり、厚生省課長柏井団長と同道して、元軍令部所属であつた鈴木、下里両団員の案内にてサボンに至る。ジープで三十分程の距離である。
サボンの地は終戦末期、第三十七軍司令部の置かれた所である。私等独歩三六七大隊の者にとつては、ブルネー撤退後少くとも百里余りの道なき道を、四十五日間を要して、飲まず食はずにやつと辿り着いた処である。

 当時の私の手記には、昭和二十年八月二日、軍司令部位置サボンに着く、長路の難行軍に中隊に一個の動く時計なし、願ひ出て時計一、陣営具カヤ、或は被服等係官より支給を受く-中略- 中隊の兵小西敏介先の横断転進に本隊より落伍せしも、此の地点まで追及して本情勢となり当地に健在に居れり、当隊に帰属なす、云々と記されている。

 地形が熟知であり、埋没地点の記憶も確かな下里、鈴木の両戦友にも、又元司令部付山田大尉の情報にも約二〇〇体遺体あり、ことに中山大尉の地点は明確とされ、サボンの収骨には相当期待が寄せられてゐた。
しかし現実は三十年の空白にすべてが変つてゐた。Y字形の大木の根元といふ中山大尉埋没地点も、Y字形と思はれる樹木が三ケ所もあり、三ケ所とも発掘したが駄目であつた。電報班宿舎、医務室、病院跡等も探し求めたがいづれもむだ掘りであつた。
 三十年前と何もかも変り果て、十名足らずの作業能力では探し当ることがなかなかの困難なことであつた。現地住民の古老の情報、道案内にて三十ケ所程試みたがどうも戦果が上らなかつた。いつしか日暮となり、二〇・〇〇時となつたので、明日を期し一先づ引き上げることとした。

 中食の時華台に引き上げて小休止したのだが、いづれの国の子供も可愛いものである。私が常日頃保育園の園長をしてゐる関係もあるのであらうか、子供の無心の感が通じるのか、私の周囲に子供等が集つて来る。勿論戦争の悲惨を知らぬ子供等である。真すぐに成人して平和を愛し、人を愛する人に育つてもらひたいものである。

▼十一月三日(月曜日)

 本日も二組に分ち行動する。
メララップ班 矢野、下里、鈴木の三戦友、中谷、佐藤各遺児、浜野事務官 計六名
アンダプアン班広瀬、笹川、福岡、国井の四戦友、高見、斉藤の各遺児 計六名
本日早朝柏井団長、川俣遺族会事務員、季通訳等は、サバB班担当のタワオ地区に廻る為、一先ずコタキナパルに向けて出発さる。チノム駅まで見送りする。
 メララップ班は林通訳を伴つて目的地に先行する。我々は林通訳の帰着を待つて、正午アンダプアンに向け出発、 行動開始した。

 アンダプアンの地は私にとつて、ブルネーより撤退軌道作戦の後、対空挺、対落下傘戦闘要地として対陣を命ぜられ、進入した二十年八月四日より、ボーホート収容所入りのため此の地を去つた同年九月二十九日まで約ニケ月ゐた処である。
この間に終戦を知り、今少し寿命があれば何とか助かる将兵が、無念にも次から次へと黄泉に旅立つた。我が第一中隊として最も悲しい思ひ出の土地である。姫路応召以来最後の最後まで行動を共にし、いたらぬ私を補佐し、戦つて下さつた佐野中尉達十四名の将兵が眠つてゐる土地である。
 私と常に戦時中行動を共にし、今此処に団員の一人として一緒に来てゐる福岡君の思ひも同様であらう。今日のアンダプアン地区の収骨には、大いに期待を寄せてゐる。又山田氏の情報によれば、テノム地区の戦没者約三〇〇名の多数を埋葬された処とされてゐるのである。
          ○
 現地に到着と同時に、先づ目標となる兵舎(古ボケた倉庫跡を利用した)位置を探し求めた。当時でさへ老朽、廃屋寸前の倉庫であつたから、現存しているはづはない。しかし土民の誰かが在つた位置を知つてゐるだろうと、通訳を通じて現住民の家を探し、たづね求めたのである。
 戦時中、此の広範囲のアンダプアン平原に、小さな農家が七十五戸程点在しており、戸長を張幹林と言つてゐた。この人物の生存の程も尋ねた。彼は今尚ほ生存してテノムに住むといふ。戦後、此の地にも住人は増加してゐる様子だが、いづれも年浅く戦時中の兵舎位置を知つてゐる者がない。いたしかたないので、私と福岡氏とで小川の流れ、山の姿の見え具合等で定めようとするも、似た地形が幾つかありなかく定め難い。しかし最後、兵舎位置を此処として、その地点から埋没地を見当つけ、発堀作業に入つたが、どうも場所が異ふのか第一日目は駄目であつた。
          ○
 私は一六・〇〇時、迎へに来てくれたジープで後を笹川、福岡氏等に托して、メララップ地区に移動した。
メララップは先の死の横断転進の徒歩による最終地点であつた。此処からは軽便鉄道が布設されており、心身疲労の極に達し、ことに患ふ者にとつては有難い処であつた。数多転進部隊将兵はこの地点まではなんとか辿り着きたい忘で頑張つたことであらう。しかしやれやれと思ふ気のゆるみと、食糧不足、医薬不足は十分の手当を受くることなく、数多将兵が昇天された処である。

 此のメララップ陸病跡を見つけるのも容易でなかつたやうだが、協力の為私的にやつて来た国武氏の現地民に及す人徳と本人の語学の堪能さで現地民に十分意が通じ、現地民の協力指摘で埋没場所が判明したさうである。現在はウツウツとしたゴム林の真ただ中である。私が現地に到着した時には、大円杷、眼鏡、小刀ボタン等日本兵所持の品々と共に、約四十体かと思ふ収骨が大きな青いバナナの葉の1に丁重に並べられてゐた。静かに黙想、御冥福を祈る。
          ○
 次いで私は一七・〇〇時、迎へのジープで、鈴木、下里両氏と共にサボンに向つた。両人がサボン現住民人夫に、引続き発掘作業を依頼約束してゐたのであつた。昨日の発掘地点から僅か十米の地点に三体の遺体を発見した。以上を確認して日も暮れてしまつたので、発掘は明日のこととしてテノム宿舎に引上る。私は今日の草臥に早く寝に就く。
          ○
 二一・〇〇時頃であらうか、ウツーと熟睡したところをゆり起される。起した者は私的に協力の為、我々団員より、日遅れてテノムにやつて来て、同旅館に同宿中の三人(国武、安達、梶井)の中の安達氏であつた。
国武老が私(広瀬)に聞いてもらひたいとのこと、就寝中起こして真に申訳ないがと言つて私を国武氏の部屋に案内する。
 国武氏が語るには『今日私等三人は、かつて安達(独歩七七四大隊所属)の駐軍していたシンパンガン(テノムとメララップの中間地区)に収骨に行き、収骨場所を発見、一部収骨をA班政府代表の浜野事務官に報告した処、浜野氏は部外者の収骨は受取れない』と回答したとか、御老体の国武氏が〝部外者″の言葉に立腹、安達氏、梶井様の両人も此の国武氏に同調立腹、女性の梶井さんの如きは立腹のあまり、大声でゴウゴウ泣く始末、私は先にも記した通り、此の三人とは四十四年以来御付合してゐる中なので、如何に取持つべきか、ともかく今宵は夜もふけてゐるので、彼等の言分をよく聞き、多少ともなぐさめの言葉を残して自室に帰る。

▼十一月四日(火曜日)

 本日の予定行動は左記の如く配置、収骨作業することとなる。
七・三〇分 メララップ班 発 矢野、国井両戦友、高見、中谷、佐藤三遺児。
八・〇〇時 シンパンガン班 発 鈴木、下里両戦友、斉藤遺児。(国武、安達、梶井の三協力者)
一〇・〇〇時 アンダプアン班 発 広瀬、笹川、福岡三戦友(テノムの現地青年五名、作業員として配属)
一二・〇〇時 サボン班 発  シンパンガンより鈴木、下里両戦友廻る。
林通訳-名であり、ジープの輸送車もー台の為、どうしても時間差をつけて現地に向ふこととなる。浜野事務官は通訳と共に各班の配置を見ることになる。
昨夜立腹した三名ではあるが、浜野事務官とてまだ年も若く、我々の息子のやうな年齢、ことに国武氏から見れば孫のやうな者、そう立腹するのも大人気ないこと、浜野事務官もよくやり、よく団員の世話も見て、彼なりに一生懸命努力している姿に、我々団員高は好感を持つてゐる。彼自身の口から出さなくとも、メララップの埋葬地の困難な発見にも、国武氏の口添があればこそと心で感謝してゐる由を告ぐれば、彼等三人の御気嫌も今朝は直つてゐるやうであつた。

 メララップ班は昨日に引続き収骨成果あり、シンパンガン班も現地有力者(国武氏の口添の李通訳の父君)の助力で収骨成果あり、サボン班も昨日おそく発見した三体の遺体を発掘して帰つて来た。
アンダプアン班はテノム現地青年の助力を得たものの、一日中汗と戦ひつゝ埋没地の発見に努めたが、どうしても発見出来づ、福岡氏は残念がるがどうにもいたしかたない。明日もう一度アンダブアンの地を尋ねたいと執念を燃す。

▼十一月五日(水曜日)

 七・三〇分 アンダプアン班 広瀬、福岡、笹川の三戦友、高見遺児(チノム現地青年作業員として五名配属)
 八・三〇分 焼 骨 班 浜野事務官、矢野、鈴木、下里、国井四戦友、中谷、斉藤、佐藤三遺児、林通訳
 一〇・〇〇時 ケニンゴウ班 下里、鈴木、斉藤の三名は焼骨準備後一五・〇〇時帰着予定で、山崎剣二県知事と現地娘アインさんのロマンス(前著、あゝボルネオ「南十字星は偽らず」参照)の生まれたケニンゴウに行く。

 福岡氏のアンダプアンに対する執念には深いものがある。何とか埋葬地発見といふことで、今日も半日、浜野事務官並に各団員に了解を得てアンダプアンに行くことにした。結果的に約三日間、此処と思しき処は数十ケ所試掘を心見たが駄目であつた。
 三十有余年の歳月には御遺骨は総て土と浄化されたのでぁらう。バダス河に流れ込む支流の河筋を重きに於て地形判断したものの、三十余年間には大洪水もあつただらうし護岸施工の全くない自然の地形では、大水毎に強い水流にょり、河筋も何回となく変化したであらう。
 約三日間の作業は全く徒労に終つた。

 残念といへば残念だがこれとていたしかたない。佐野中尉外戦友の霊魂は私等の生存戦友の姿や遺児を見て「気にするな我々は既に故国の各家庭に還つてゐるぞ」と、密林の彼方から聞えて来るやうな気がする。埋葬した氏名、顔、姿が明らかであるだけに、出てくればかへつて永年参る人もなく、遙けき灼熱の地で淋みしかつたであらうと、慰霊の言葉に苦しむ我々であれば、三日間一生懸命探しに探し、覓ぎ続けて、出て来なかつた方が私自身はかへつて心安ぐ思ひがする。

 山裾のそびえ見ゆる大本を、英霊の宿る神籬(ひもろぎ)として、河の辺に小枝で祭壇を作り設け、故国より持参した品々を献じ、無名の花も供へて私(荒井神社宮司)も笹川氏(極楽寺住職)も、作業服の襟を正して、神仏両式で慰霊祭を奉仕して、アンダプアンの地に別れを告げた。
          ○
 テノムとシンパンガンの中間に華僑の墓地がある。テノム県庁の指示により、今日迄にテノムを中心とした各所で収骨した一四〇余柱の焼骨をすることになつてをり午前中より焼骨班の面々は準備、その他焼骨に当つていただいた。午前中アンダプアンにゐた我々は一たん宿舎に帰り、水浴に身心を清めて直に焼骨現場に馳せ向つた。
 A班全員して謹んで骨拾ひを行ふ。やがて清浄の広場に祭壇を設け、鈴木氏の司会により、次の如き順序でもつて慰霊祭を挙行する。



◎ 慰 霊 祭
一、開式の辞   鈴木司会
一、一同黙祷
一、班長挨拶   浜野事務官
一、慰霊詞奏上  広瀬団員
南の波路遥けき綿津見の碧に伊照る灼熱の国、此処ボルネオ、西海州テノム県の大地を厳の斎庭と選び定め、第三七軍隷下戦没の貴き御霊等の御前に元貫兵団所属、今荒井神社宮司恐み恐みも白さく。
現身の人の世は洋の東西を尋はで歴史の古今を圧はづ、武力を以て戦ひ来ぬるは悲しき定にこそあれ、あはれ汝命等はや、去し大東亜の大戦に召出され、各も各も御国の為故郷を後に、此のボルネオに伊行き渡りて、命の限り奮ひ戦ひつゝ神去り坐しし尊くも悲しき御霊にこそあれ。

つらつらに我軍の戦の状を思ひ省らば、馴れざる灼熱の風土、悪疫の病にいたつきて身去り給ひ、或は又天を覆ふ密林の内の道無き道を求めつゝ、東より西に横断転進に身も心も疲れ果て、痛ましくも草生す屍と身退り給ひ、最後にはラブアン、プルネー、ボーホート戦に厳の雄建び繰返し、良く処し好く戦ふも各戦の庭に若桜の散るが如く数多益良雄が神去り坐しぬ、口惜しきかも、痛しきかも、斯如有らば其の最後の極み、或る者は千里の遙けき母国の奥山の真清水を希き求め、或る者は垂乳根の父母、愛しの妻子の御名を呼びさけびつゝ、又或る者は君が代の苔むす悠久を祈りつゝ護国の御魂、靖国の御霊と神去り坐ししは尊くも悲しき極にこそあれ。

故此処を以て戦の矛を収めて三十年のゆかりの年を選び定めて、御国の司人相語り相謀ろひて厚生省の諸人を始め、ボルネオ戦友会、日本遺族会の諸人等之を補ひ助けて、八重の海原、島の八十島飛び越へ来りて、あちこちに草むす御遺骸を覓ぎ収め奉りて、御霊慰め悼び迫りの御式仕へ奉らむと、今し伊勢神宮より賜し神酒、美しき花、香のものたき捧け奉りて汝命等の大功績を称奉り、在りし日の御姿偲び奉らくを御心もおだひに聞食して、今も往く先も皇御国の鎮と、世界平和を朝凪の海の如く静に浦安の国と護り給ひ、御遺族、戦友諸人の上に厳の御霊幸へ給へと慧敬ひ恐みも白す。
一、弔 詞 奏 上    国 井 団 員
一、追 悼 吟 詠    中 谷 遺 児
一、読    経     笹 川 団 員
一、献 花 焼 香    参列者全員
一、戦友代表挨拶     矢 野 団 員
一、遺族代表挨拶     斉 藤 遺 児
一、参列者代表挨拶    国 武 氏
一,閉 式 の 辞    鈴 木 司 会

 テノムに於ける収骨、慰霊の諸行事は滞りなく凡て終つた。本夜の宿舎は御馳走である。協力者三人も団員一同も同じテーブルを囲み、和気あいあいとして夕餉の団楽の一時を送る。
 夜、中谷君私の部屋に遊びに来る。彼は詩吟のなかなかの名手である。今日の追悼吟も実に上手であつた。
奈良県吉野郡の出身で、北川哲水師について詩吟を十三年やつたといふ。その恩師の友人橋本哲尊といふ人が、神戸市に居住してゐるといふことであつた。遺児の中では彼が一番年長者であり、彼一人ボルネオに関係ない遺児であつたが、実に立派な若者であつた。
 他の遺児等は収骨作業に数日間、共に汗を流したテノムの青年達と仲よしになり、部屋に呼び寄せてお互の言葉を覚へたり、教へたり、夜おそくまでテノムの最後の夜を楽しくすごしたやうであつた。私等老人組は二二・〇〇時寝床に入る。

▼十一月六日(木曜日)

 六・三〇分起床、今日より我々サバA班はボーホートに移動するため早起して各自荷物をまとめる。
 七・〇〇時、国武、安達の両人はコタキナパルに向つて出発、梶井さん一人残り我々と行動を共にしたいといふ。彼女のご主人はボーホート地区で戦死されてゐる。
 七・三〇分朝食、八・三〇分宿舎出発。出発にさいし、宿舎玄関前で経営者夫妻と記念写真をとる。名刺をもらつたが残念紛失してしまつた。六日間の滞在中よくお世話下さつた。温和な御夫妻であつた。
 九・〇〇時発車がおくれ、テノム駅を一〇・四〇分発車、一二・三〇分ボーホート駅に着く。
 三十年前、濠軍の収容所が此のボーホートにあつた。二十年十月一日に入所せよとの命令があつたのである。テノムとボーホートの間は約二十里ほどの里程かと思ふが、今日は軌動車で僅かに二時間足らずで着いたが、三十年前は同じ鉄道線路上を徒歩で敗戦の不安を心にいだきつつ、昼は路傍のジャングル内で寝て、夜行軍を三日重ねてやつと辿り着いた苦しい思ひ出のボーホートである。

 駅前華台(華僑商店の家屋棟)西端にある、百達大酒店(HOTEL、PADAS)に入る。テノムの奥地よりむし暑い。民情も俗化されてゐるやうだ。それだけテノムより繁華な町であらう。
 一三・〇〇時中食、一四・〇〇時、厚生省事務官浜野氏と戦友代表として笹川氏が県庁に挨拶に行く、県知事より全面的協力の約束をいただく。私は多少草臥気味でその間部屋で午睡する。約二時間よく眠ることが出来た。
 夕食後、明日の日程行動について打合せ会を行ふ。 

▼十一月七日(金曜日)

 昨日、県庁に挨拶に行つた際の県庁よりの情報、宿舎の主人よりの情報、その他我々の行動を知つて申出てくれた現地人の情報を整理すると概ね左記の如くになる。
ウエストン道方面(ボーホートより南方向)
一八哩地点 戦死せる日本軍大尉を濠軍側が埋めた。
六哩地点 戦死日本軍兵士が埋められてゐる。数不詳。
二哩地点 同右
一哩地点 約五十名の日本兵遺体が濠兵により埋められてゐる。

コタキナパル道方面(ボーホートより北方向)
三哩地点 五名の日本兵が埋められてゐる。
二哩地点 華僑の老母が二人の日本兵を埋めた。
一哩地点 同右

テノム道方面(ボーホートより東方向)
六二哩地点 ボーホートより相当離れてゐるので明日の予定。
五哩地点、二哩地点 何れも日本兵を埋めた。墓標の代りに棒が立ててある。
 六・〇〇時起床、八・三〇分、上記情報にもとづき精力的にかけ廻つて発掘作業を実施したが、全く徒労に終つた一日であつた。現住民の中には、でたらめな情報を提供して謝礼金を取らうとする気配が見える。気を付けねばならない。
 情報が虚偽か、情報が確であつても、発掘地点が一米横にズレておれば不発に終る。よしや埋没地点ピタリ当つてゐたとしても、不腐の遺品のない限り、全く土と浄化されてゐたとしたら、これも肉眼ではどうすることも出来ない。目に見えぬ地下のものを発掘する作業、しかも広範囲にわたる戦場の捜索だけに収骨の困難さをしみじみ味つた一日であつた。
 本日は全員やゝ疲労の色が見えてゐる。
 前頁の写真は林通訳である。台湾出身と聞く。けつして好男子とは言へぬ風貌だが、愛嬬あり語学も確かで、始から終まで我々サバA班の通訳として活躍してくれた人物である多謝。

 上記「ウエストン道一哩地点に、約五十名の日本兵遺体が濠兵により埋められる」といふ地点は、三十年前ボーホート収容所跡のことである。
 今我々が宿舎(バダスホテル)と定めている三階の窓から真下に広がるバダス河の対岸(左岸)地区である。当時戦勝国の濠軍の命令により、二十年十月一日に入所すべしとの命に、テノム周辺に展開してゐた我が軍(三十七軍隷下諸部隊)は、此のボーホート収容所に先づ入所したのである。
 当時いかほどの数の将兵が入所したか私には知るよしもないが、ともかく我々はテノムより鉄道線路上を三日の夜行軍でボーホートに至り、バダス河に一本橋がかけられ、向ふ岸から機関銃が照準してあり、橋の手前で一人一人厳重な服装検査、所持品検査が行はれ、間隔二十米をとつて、一人づつ一本橋を渡つて此の収容所に入つたのである。

 その当時から有たであらうボーホート駅も、駅前の華台も全く記憶にない。入所と同時に、将校と下士官兵とに分類されて床もない、囲もない、屋根だけのキャンプに引卒案内された。此の収容所跡に日本兵遺体五十名が、濠兵により埋没したと現地人は言ふが、僅に五十名程度であつただらうか、もつと多くの将兵が病没されたのではなからうか。私と同村の者で、私の少年時代から共に遊んだ、三六七大隊所属であつた中島麻治君は、此の収容所に入所してから六日目に息を引き取つた。彼は入所のため、テノムから夜行軍途次既にマラリヤの重症であつた。「頑張れよ」と声をかけた、その当時の様子が走馬燈のやうに私の脳裏に走る。
 今日は全員して此処彼処と現地人の指示する処を発掘したが、一片の遺骨すら出てこなかつた。

▼十一月八日(土曜日)

 テノム方向(ボーホートより東方)を二班に分れ行動することになる。
 六二哩地点(八・〇〇時出発)笹川、矢野、鈴木、三戦友、斉藤、中谷二遺児。
 六〇哩地点(九・〇〇時出発)広瀬、福岡、下里、国井、四戦友、高見、佐藤二遺児、梶井寿子様同行、現地作業員四名。
 私は六〇哩地点に行く途中、同行の梶井様は主人戦死場所とされてゐる六一哩附近に行きたいと申されるので、女性の一人歩きも出来ず、同じ道路隊出身、戦友国井氏と同県人のよしみで、福岡氏と現地人作業員一名、計四名が国井氏の戦塵記憶と現地住民の情報をもとに別行動をとる。
だが広い戦野をわづか数名で、三十年前の収骨を求めることは不可能に近いことである。それでも何とか収骨をとそれらしき処を試掘努力したが駄目であつたやうだ。
 此処と思しき所で梶井様及同行者は、ねんごろに霊魂を弔つて帰つて来る。
 六〇哩地点に鉄道線路と道路の間に適当な空家(此の村の集会所とか?)があり、両班合流して此処にて中食、小休止する。午後全員で六三哩地点に出かける。私と笹川氏は此の空家で団員の荷物監視役として残留する。六三哩地点も、六〇、六一、六二哩地点同様成果はなかつた。

 いづれも、もつともらしい現地人情報、現地村長等の指示により発掘を心みたが、三十年の歳月がすべて土に浄化したり、或はバダス河の洪水に流されて土や水に還つたものと思はれる。謹んで彼方を拝み御冥福を祈つて帰路についた。
 夕食後、テノムの青年、讃貴方君、山今明年君、張偉順君の三名が、我々の宿舎へパパイアを手土産に訪ね来る。私の部屋で遺児達も来て談笑する。言葉は通じなくとも心は通ふものらしい。

▼十一月九日(日曜日)

 六〇哩班梶井未亡人は、亡夫への慕情やみ難く、同隊戦友国井氏、同県人福岡氏、昭和四十四年訪ボ同行矢野氏それに遺児佐藤、中谷両君、作業員五名、昨日に引続き六〇哩地点に向け八・〇〇時出発する。
団員各位の努力にもかゝはらず、今日も収骨は出来なかつたやうだが、軽機関銃座がある陣地跡の発見や、タコツボ中から防毒面の浄化タンクを採取することに成功してゐる。
 此の地点はおそらく軍直轄となつていた貫兵団隷下の独歩三六八大隊(木村部隊)が主力で、それに国井氏や梶井さんの主人の所属していた鉄道隊、それに我々の三六七大隊を始め、三六六大隊、三七一大隊の横断転進中落伍、追及中の将兵達が本情勢となり、此の地に留つて三六八大隊に編入されて戦つたものであらう。
陣地構築跡や防毒面の発掘により、六〇哩地点が現実に三十年前の激闘の位置であることが確認される。昨日の現地人の情報の如く、此の地点にはかなりの遺体があつたのは事実であらう。
          ○
 ウエストン班、浜野事務官、広瀬、笹川、下里、鈴木四戦友、斉藤、高見両遺児、林通訳、ウエストンに向け九・〇〇時出発。ウエストンは先の横断転進に鉄道輸送終着点で、此処から船輸送でブルネ一に向つた港町である。
 港の桟橋に立てば、灼熱下の青い青い海原が眼にしみる。地上には変化があつても、海はおそらく三十年昔も同じであらう。感無量である。当時の二中隊長笹川大尉と今此処に立つてゐる。彼も当時を偲ぶ。
 元桟橋の近くに華台があり、台湾出身の林さんといふ雑貨商を営む店がある。主人は真に日本語が上手で此の人より種々情報を聞く。本人は戦前は日本軍属としてパパールに住み、ウエストンは戦後からで戦争当時のウエストン周辺のことは詳しく知らないといふ。しかし三十名前後の小部隊がお寺の横に布陣してゐたが、濠軍進攻と同時に後退したので、此の地には戦死者はないと思ふとのことであつた。
 しかし他の現住民の言では、ニケ所日本軍将兵の戦死者を埋めたといふ情報で、その人の案内を乞ふて、華台一〇〇〇〇メートル山手ジャングル内の谷川の流れる所をニケ所発掘を心見たがそれらしいものは何ものもなかつた。

▼十一月十日(月曜日)

 六・〇〇時起床、六・三〇分朝食、七・三〇分メンバクールに向つて出発。但し広瀬、下里、国井の三人は宿舎に残留する。国井氏が連日の作業に足を痛め、多少歩行困難、疲労の色もある。私と下里氏は健康なるも輸送車(ジープ)が十名しか乗れないので、国井氏に御附合ひすることになる。梶井未亡人は一応御自身の目的を達せられたので、八・三〇分、コタキナパルに向つて単身出発する。残留者三名、彼女を駅まで見送る。

 さて今日の団員が向つて行つたメンパクールは、此のボーホートより車で約二時間半の距離で、ブルネー湾に臨む西端岬の位置にある。貫兵団独歩三七一大隊(奥山部隊)の第二中隊(紀谷隊)が、大隊主力が布陣のラブアン島と三七軍所在の本島との連絡任務をもつて布陣されて居た処である。その距離僅か八粁の地点である。
 昭和二十年六月七、八、九日と敵(濠軍)進攻に伴ひ、大隊長以下主力のゐるラブアン島が、コテン、コテンにやられる戦況を目前に見ていかなる心地であつたであらう。敵は十日上陸し、悲痛にも奥山部隊は全員玉砕したのである。(前編、鳥山氏手記参照)この間にあつて当然、対岸に布陣のメンバクールの攻勢も職烈なものがあつたであらうと思ふ。
          ○
 一四・〇〇時頃収骨団は宿舎に帰り来たる。成果あり、収骨七体、鉄カブト一、水筒二、朝日印の地下足袋ゴム底大小各一、三八式歩兵銃弾、敵飛行銃弾等数個等で、水筒は昭一七年製と昭一九年製で、昭一七年製の方には「松」の文字が明記されてゐる。氏名に松に関係ある者の所持品であらう。
 かく成果の上つた蔭には親切な心温い現地住民の協力があった。六名が銃撃で倒れ、続いて一名が倒れるのを目撃した現地人が七名の遺体を埋葬し、目印に径七寸程の石を置いたといふ本人の弟が道案内しでくれたさうである。

▼十一月十一日(火曜日)

 昨夜(十日)二〇・〇〇時頃現住民の情報あり、それにもとづき二班に別れて行動する。一班は矢野、国井、下里三戦友と斉藤、高見二遺児及現地作業員五名、合せて十名は八・三〇分、ボーホート一哩地点(ボーホート収容所跡)に向つて出発。
 残りの広瀬、笹川、福岡、鈴木四戦友と佐藤、中谷二遺児及浜野事務官、林通訳計八名はパパール収容所跡を収骨すべく、機動車にて八・四〇分、ボーホート駅を出発した。
 約一時間半にてパパール駅に到着。直に県庁を訪れ、県庁よりの厚意にて車や案内人をつけていただき、所跡を 尋ねることが出来た。
 私にとつてこのパパールは今より丁度三十年前、昭和二十年十月十六日より十一月二十七日迄の四十日間収容所生活を送つた所である。

 しかし町も駅も何一つの思ひ出も、見覚えも残つてゐない。ただボーホート収容所より移送(十月十六日)され、四十日後にはアピー収容所に移送(十一月二十七日)されたのであつて、その間海辺の所内にて時々部下戦友の顔に出蓬ふのが何より嬉しく思つてゐた、それもしばらくで、その多くは途中でラブアン島近くのパパン島に作業隊として移動してしまひ、それ以来所内で蓮ふ戦友も居なくなり、淋みしい思ひがしたものであつた。
その当時の私の日記に

 今はただうらみあらじ諸人の
   御霊慰(なご)めて月日送らむ

と記してある。不安と焦燥も何時しか収容所生活に馴れ、あきらめであらうが静かな心境になつてゐたやうである。亡き戦友の冥福を祈りつゝ望郷の念やみ難く、パパール収容所生活を送つてゐたのである。
 今日、三十年振りにパパールの地を訪れることが出来たことは感無量である。町の華台(華僑の商店街)の近代的建築と賑ひ、平屋ではあるが県庁の明るさと活気、駅前広場の手入の良さ等すばらしい町造りである。

 さて県庁よりの現地案内人の言によれば、パパール海岸は地変により年々海が陸地を浸蝕し、当時と比すれば三〇〇米海岸線が後退してゐる。したがつて当地の収容所位置は海中だといふ。これでは覓ぎ求めるにも方法がないとあきらめ、海岸の流木上に故国より持参の品を御供へして、海に向つて戦没戦友の御冥福を祈ることにした。私は少々パパールの砂を採取して帰ることにした。

 ボーホート一哩地点に行つた者等も何ら成果なく帰つて来てゐた。わざわざ昨夜、情報提供に宿舎までやつて来てゐながら、十名の作業が徒労に終つたわけである。現地人の中には情報提供と詐って金にしやうとする向きもあるかに見受られる、注意する必要があると思ふ。
 今夜始めて夕食の卓に各人一本のビールが上る、厚生省が我々団員をねぎらふ意味から出たとか。明夜は団員が浜野事務官をねぎらふ意味でビールを出して御礼したいとか、鈴木、福岡両氏が、言っている、別にその必要もないと思ふが、いづれにせよサバA班各位がお互に感謝し合ふ心根に感動を覚える。
多少酒を好む私は内地から持参した酒は呑みつくし、まづいウイスキーを自前で毎夜少量は呑んではゐるものの、今宵のやうに夕食時、全員一緒に呑むことは実に気持の良いもので、話に花が咲き連日の草臥も忘れる思がする。

▼十一月十二日(水曜日)

 昨夜、ボーホート県庁の役人といふ現地人の情報提供にもとつき、早朝浜野事務官、林通訳、下里戦友、遺児二名の計五名がクリヤスパルに向ふ。この情報は確実であつて、収骨は出来なかつたが日本軍の飯盒、水筒の遺品を収得することが出釆た。飯盒には「二中隊田中」の記銘があり、水筒には「山田」の記銘があつた。
 残つた者は前夜の打合せに従ひ、宿舎の向ふ岸に広がる広野のボーホート収容所跡の中程と思はれる地点に祭壇を設営し、現地花も添へて全員揃ふのを待つて、一〇・〇〇時よりボーホート地区の慰霊祭を左記順序に従つて実施した。昨夜来より遊びに来てゐたテノム青年三名も謹んで参列して下さつた。異国の彼等青年の眼には我々の行動が如何様に映るのであらうか。
一、黙 祷
一、浜野厚生事務官挨拶
一、荒井神社宮司慰霊詞奏上
一、極楽寺住職読経
一、拝 礼 焼 香
一、団員代表 (広瀬) 挨拶
 今日を以て一応サバA班の現地収骨並に慰霊任務は完了することになる。多少風邪気味だつた私も何時しか元の健康に回復する。午後のひととき全員宿舎の後方商店街に出て各々買物をする。ボーホートの最後の夜を戦友等私の部屋に集り来て語り合ふ。二三・〇〇時頃各々部屋に帰り、私は明朝の為荷物を整理して寝に就く。

▼十一月十三日(木曜日)

 六・〇〇時起床、各自荷物を作り出発準備。八・〇〇時バダスホテルの宿舎出発。
 八・四〇分ボーホート発軌動車にてコタキナパルに向ふ。
 十一・二〇分コタキナパル駅に着、直にキャピタルホテルの宿舎に直行する。B班の面々も全員元気よく我々に引続き宿舎に安着せらる。
 十二・三〇分、両班共に中食をとる。
 十五・〇〇時サラワク班が到着予定のところ、飛行機の都合によりクチン空港で七時間も待機させられたとかで、夜二一・〇〇時頃、予定より甚しくおくれて無事帰つて来た。此処に三ケ班全員元気よく各々任務を全して一堂に会することが出来たのである。真に慶賀の至りである。
 十五・〇〇時、三ケ班代表者会議が開かれる予定が、サラワク班延着の為次から次へと会議時間が延期となり、結局明朝にもち越される。ために私は足留め食つたまゝ外出も出来づ一人部屋に居た。しかし身体を休養するに最適のチャンスであつた。
          ○
 部屋の窓より(写真:急速に発展開発してゐるコタキナバル港周辺、宿舎の窓より撮影)四周をカメラにも撮つたが、戦時中との比較は論外であるが、六年前と比しても大変な速度で開発されてゐる。四十四年の時と同じキャピタルホテルに投宿してゐるのだが、当時はホテル直前は道路(巾六米)一つ置いて護岸壁で下は海であつたが、現在は海へ少くとも二〇〇米埋立てして陸上となり、そこへ病院かホテルか、或はマンションか、ともかくも幾つかの巨大な鉄筋建物が建築中である。又港の突堤も長くなり、巨船が横着になつてゐるのが見える。

 KK駅よりホテル間の道路、空港よりホテル間の道路を始め、その両側に建並ぶ建物がすべて近代都市の高層建築と変つてゐる。四十四年の時には此のコタキナパルにも車窓から水上集落(カンボン)も所々見えたが、今日では全く見られない。急速な発展開発振りに驚く。
          ○
 夜、福岡、国井の両氏私の部屋に来り雑談をなす。 二三・〇〇時就寝。

▼十一月十四日(金曜日)

 今日はいよいよ日本政府主催ボルネオ収骨慰霊派遣の締め括りとも言ふべき追悼式が十時より行はれる日である。
斎場は日本領事館公邸に当てられてゐる。派遣団全員服装を正して九時宿舎出発、バスにて式場に向ふ。日本領事館は宿舎より徒歩数分の処だが、今日の式場となつてゐる本間領事の居住の公邸は空港近く、宿舎よりかなりの距離があつた。
 広大な屋敷にスマートな洋館で、園庭の芝生もよく手入が出来てゐる。故国を偲ぶよすがであらうか石燈籠壱基配されてゐるのが心にくい。数ヶ月前(五〇年三月)に、私が伊勢神宮、徳川宗敬大宮司と共にローマ法王表敬訪問の際、前夜バチカン駐在、猪名川大使より招宴にあづかつた館邸と感じがよく似てゐる。

 公邸一階の大広間を斎場として中央に日の丸の国旗を掲げ、向つて左側に「マレーシア・サバ・サラワク戦没者之霊」と墨書が懸垂され、今回収骨された私等A班の一四七柱、B班の一七三柱、サバ班の六柱、計三二六柱の遺骨が十箇の白布で包んだ遺骨箱に分納されて、五箇づつ二段に安置され、下段に供物が献ぜられ、団員が個々に故国より携帯した供物が並べられてゐる。私の伊勢神宮より賜つた神酒もその一つである。両側には何れから取り寄せられたのか、すばらしく美しい日本の白菊、黄菊が飾られ、現地花も添へられてゐる。臨時の祭壇としては清楚で心こもる最高の祭壇が布設されてゐる。

 式典次第は敗戦後、占領政策の大きな柱であつた政教分離(政治と宗教)、更に占領軍の最も恐れた日本固有伝統の神道に対する”神道指令”の立場から、占領軍の命ぜらるまゝに今なほ公の立場の者が好んで実施してゐる無宗教方式とかの式辞方式によつて開始された。
(現在日本政府乃至は公立学校教育が、此の無宗教による宗教軽視の思想が、青少年教育白書につながるものとして憂る者である)

 厚生省柏井団長の式辞、次いでボルネオ本間領事の追悼の辞、次いで遺族代表として私等三六七大隊第四中隊出身遺児池田恵瑞君の追悼の辞、次いで関係来賓、派遣団貞順次正面に進んで拝礼なし、厳粛の裡に式を閉ることが出来たのである。
 式典終了後、式場内外で個々に記念撮影などして宿舎に帰る。何れの御人の顔にも任務を完了した満足感があふれてゐる。思ふに日本古来の伝統を無視し、占領政策の亡霊が日本独立して三十数年を経た今日尚ほ生き続け、靖国神社の国家護持もまゝならず、天皇陛下を始め公人の公式参拝出来ぬとは何事か、諸外国を見よ! 国に一命を捧げた尊さを何故同胞がかくまで理解しないのであらうか。母国の国振り、歴史伝統を 何故究めやうとしないのであらうか、物で栄えて心で亡ぶ国となつてはならぬ。

 柏井団長とて少尉候補者出身の将校として長年軍隊で飯を食つた人、教へた兵隊に靖国神社で会ふと誓つて来たはづ、にもかゝはらず今立場が厚生省の役人であるからと言つて、我々団貞の意見を無視するは腹が無いと思ふ。
団員には神主の私はともかくとして、笹川、長谷川、池田の三人の僧職の者が居る。日本古来の伝統にしたがつて、式次第に読経の場を何故に与へぬのか。参列者団員の感情を取り入れやうとしないのか、今少し巾をもつた式次第にしていただきたく思つた。柏井君の立場もわからぬでもないが、ボルネオまで来て杓子定木な言動に不満であつた。所詮彼は永年の軍隊生活が身について融通もきかぬ堅さ一徹の男であらふか、現憲法下の政府御役人であればこれが忠実なことで、私の願ひが間違つているのであらふか。
 せめても池田君が遺児代表として追悼の詞を奏上してくれたことが私として最大の喜びであつた。

 私は故国よりボルネオに於ける全国各府県で最大の犠牲を出してゐる兵庫県知事に五〇〇万県民を代表して弔詞を依頼して書いていただいた。又私の地元高砂市長、神社本庁総長の弔詞も用意して携へてゐた。個々の拝礼の際、声高らかに御三方の氏名を唱へて霊前に奉奠した。その日の晩餐会の時本間領事は、私の出身県を知つて、金井元彦前兵庫県知事の安否を尋ねられた。私は色々な関係でよく金井様を知つてゐるので近況をお伝へした。
 左に三氏の弔詞を本書に掲載して公私御多忙の中をわざわざ御芳情を御寄せ下さつた至誠に対し、せめても御応へしたく思ふ。
          ○
追悼のことば             兵庫県知事 坂 井 時 忠
本日、北ボルネオ戦没者追悼式が厳粛に執り行われるに当り、この地に多くの戦没将兵を出した兵庫県を代表し、つつしんで追悼のことばを捧げます。
顧みれば、過ぐる大戦において、諸霊は遠く本土をはなれ、ひたすら祖国の栄光を念じながら、ついにこの北ボルネオの土と散華されました。帰らざる諸霊、一八、〇〇〇余柱。私どもにとつて永劫に忘れることのできない悲しみであり、痛恨のきわみでございます。
戦後三十年、私たちは今日、享有する文化の恩恵が、諸霊の献身と加護の上に築かれていることを思いをいたし、再びかかる大きな不幸を繰り返えすことのないよう、民族の発展と永遠の平和のため、一層の努力を傾ける決意でございます。
こい願わくば、諸霊天上安らかにお眠りください。そして肉親の至情につながるご遺族のうえに、郷土兵庫県の進運に、さらに限りなきご加護を垂れ給わらんことを。ここにご列席の戦友とご遺族のかたがたとともに、諸霊のご冥福を心からお祈り申しあげ追悼のことばといたします。
なお、このたびの遺骨収集に際して、マレーシア政府の深いご理解と終始遺骨収集作業にご協力くださいました地元関係機関のかたがたに対して、衷心より感謝の意を表します。
 昭和五十年十一月十四日
          ○
慰霊のことば高砂市長 足 立 正 夫
謹んでこの南海の果てボルネオ島で、国の御楯として散華されました独歩三六七大隊の霊に申しあげます。 顧みれば、英霊はあの激しい太平洋戦争のさなか、いとしい肉雫懐しい郷里を遠く離れて、南海の島に華々しくご活躍されましたが、武運つたなく赤道直下の戦陣に倒れ、痛ましく散華されました。まことに痛恨のきわみでございます。

光陰まさに央のごとしとか、あの悪夢のような悲惨であつたあの死の横断転進行軍から、早くもここに三十年の歳月が流れ、祖国におきましては、戦いに敗れたりとはいえ、征戦に従事され尊い犠牲となられた英霊の心を心として、二度とあの悲惨な戦争を繰り返さないよう人類の恒久平和を希い、祖国の復興に励みました。今や日本は平和国家として、また経済大国として世界に伸び、国民も世界恒久平和をめざしてその面差しは明るく輝いております。しかしこの間、南十字星の輝くもとに今だ眠る完余柱の英霊が、海上遥かな南の島で祖国帰還を夢み、異国の風雨にさらされていることを思うとただ断腸の思いでございます。

この度、英霊のもとへ参りました戦友並びに遺児の方々の献身的なご努力が実り、祖国へご帰還され、懐しの郷土の土にて安らかに眠り給うこととなりますが、どうか今後ともご遺頂のご安泰と郷土高砂の繁栄にご加護あらんことを念じ、ここにひたすら英霊のご冥福をお祈り申し上げ慰霊のことばといたします。
 昭和五十年十一月十四日
          ○
ボルネオ慰霊祭詞    神社本庁総長・熱田神宮々司 篠 田 康 雄
しきなみの    うちよするくに  たまきはる    みなみのはてに  おほきみの
みことかしこみ  みいくさに    いでたちたまひ  にぎびにし    いへすてたまひ
むつびにし    うからをおきて  うつしみの    みもたなしらに  いたつきて
やそとものをの  しきしまの    やまとをのこら  いきのをの    いつのをたけび
ふみたけび    たけきいくさを  うみゆかば    みづくかばね   やまゆかば
くさむすかばねと いかづちの    ほむらをなして  ふるひたち    かちさびけむを
ゆくりなく    はやてにちれる  はなのごと    をのこさかりを  つれなくも
いくさのにはに  ちりしきて    つひにみまかり  たまひたる    ここはゆかりの
ところとし    うなじたれつつ  きくがかなしさ  
いくさはてて   かきかぞふれば  としつきは    ただにへさかり  みそとせを
このあらつちに  ふしたまひ    いはねしまきて  そらわたる    かぜのとのみを
きかしっつ    ねむりたまへる  みことたち    いまいかさまに  おぼしめすらむ
ひつきはも    てるとはいへど  くにたみは    さかゆといヘど  もののふの
いくさばにちる  なきがらを    ひろひまつらむ  すべをなみ    かくしつつこそ
つきひさがりぬ
たまくしげ    ふたたびここに  むらぎもの   こころをいたみ   たまだすき
かけのをとりて  かかはれる    もろびとつどひ あまさかる     うなばらこえて
まゐできて    たままつりすと  きくからに   うれしみまつり   ささげもて
きこえあげてむ
たまなごめの   このたまづさを  あまがけり   くにがけりして   みたまはや
かんさびまして  きこしめしたまへ
 昭和五十年十一月十四日
          ○
 一三・〇〇時、明日の日程に就き打合せ会あり。
 一四・〇〇時、ホン君に案内を乞ふて商店街に出て買物をする。こゝ数年もすれば、コタキナパルはボルネオの観光地になるであらう。商店にも立派な店が軒を列ねてゐる。私も福岡君もイバン族の出陣姿の木彫を土産にと買求める。
 -八・〇〇時、本間領事、田久保豊副領事を宿舎のホテルにお招きして晩餐会が開かれる。副領事より来月(十二月)六日、兵庫県より青年の船にて五〇〇名男女青年が当地に来るので、話相手に当地青年五〇〇名集めるのに妄労との話を聞く、又当地ボルネオの青年も兵庫県に行くよしにて兵庫県知事宛の手紙を預る。
 約二十日間のボルネオ滞在も今宵をもつて最後の夜となる。二十日間の不在の家のことなど多少心配で気にかゝる。他班にあつては多少人間関係に面白くなかつたことなど小聞したが、私等サバA班は全員健康で、和気あいあいであることが何より嬉しく思ふ。
(附記)昭和五十一年八月付で副領事田久保豊様より音信あり、コタキナパル在勤を終へ、三年十ケ月ぶりで帰国、本省勤務いたしをる由の御挨拶状に添へて五十年末の青年の船の件につき、御高配有難うの礼状と近況が認められてゐた。

▼十一月十五日 (土曜日)

 荷物造りが気になつた為か早朝四時に目がさめる。直に起きて荷物をまとめ、荷造なして航空関係者の指示に従ひ宿舎玄関前まで荷物を出す。航空はコタキナパル出発、十一・三〇分である。
空港には本間領事奥様、田久保副領事御夫妻、それに十才ぐらいの可愛いお嬢ちやん、その他邦人商社員の方々御見送り下さる。多謝。本間領事はラナウ鉱山から産出する銅を積んだ第一船がコタキナパル港より日本に向つて出船とかで、祝賀に行つてゐらつしやるよしであつた。大勢の方々に見送られ、コタキナパル空港出発、快晴で空路も安全で静かであつた。午後一時すぎ香港啓徳空港に無事着す。

 私は昭和四十一年、丁度十年前初めて香港に観光に来た。先の四十四年の往復、今回の往復で前後六回此の空港を利用したことになる。国際都市の啓徳空港はゴチャゴチャしてゐるが活気がある。午後の二時間程商店街を案内されたが別にもの珍らしいものも無く、又ほしい品も無く、ただ団員各位の後をブラくついて廻つただけであつた。
 今少し厚生省も親心を出して、若い遺児等の見聞を広める為に、香港の観光場所の一端であるビクトリヤ 公園の急角度の登山電車とか、アハディーン湾のジメジメした蛋民の水上生活、それに比し同湾に浮ぶ龍宮 城を夢見るが如き豪華な水上レストラン、又胡文虎氏の宝玉にうづまつている別荘、同じ山はだにある貧民 家屋の群等の貧富の差の甚しい香港の一面等を短時間でも見学させる配慮をしていただきたいと思つた。 二十日間の汗を流した遺児への政府の親心と思ふのだが、一向にそのやうな計画は無かつたやうである。

▼十一月十六日(日曜日)

 今日はいよく全ボルネオ戦没者の御霊が残ることなく、三二六柱の遺骨に宿り給ふて我々四十九名の派遣団と共に、母国日本に帰国の日である。宿舎の窓より九龍が手に取るやうに見える、今日も快晴である。
神社である吾が家は今日は日曜日でもあり、七五三詣りで朝から息子等いづれもいそがしくしてゐるであらう。香港啓徳空港より十時出発、日本航空により日本に向ふ。
 午後一時ごろ大阪空港着、関西勢二十名は同行各位と別れて下降する。御互に再会を約し、挨拶を交して大阪空港で解散して各自家路に向ふ。思ふに何等事故も無く、全員無事大任を終へての帰国はやはり英霊の御加護であらうか、慶賀の至りである。
 帰宅と共に神前に進みて帰国奉告をする。常夏の国から紅葉映ゆ晩秋の日本に帰つて見ると、やはりすばらしい国だと思ふ。
 二十日間の旅装を解くに当り、御芳情を御寄せ賜つた関係各位に謹んで厚く御礼申上ます。 完

追記
▼昭和五十年十一月十九日
 とりあへづ左記の如き書面を以て関係各位に対し報告挨拶とする。
 今度び政府主催による北ボルネオ収骨慰霊派遣団員の一員として、去る十月二十八日羽田空港を出発、十一月十六日無事大任を終へて帰国して参りました。概要の一端を御報告申し上げ、御協力御援助賜りました 感謝の辞といたしたいと存じます。

 派遣団は厚生省職員六名、各部隊選出戦友二十七名、遺族遺児十六名、計四十九名がサバA班(西海州)、サバB班(東海州)、サラワク班の三ケ班に分ち行動いたしました。私はサバA班に所属して行動いたしました。此の地点は私にとつて忘ることの出来ぬ苦闘、血闘の地点で、私等姫路編成の独立歩兵第三六七大隊が、死のボルネオ横断転進の後半足跡の場所であり、ブルネ一戦撤退作戦に引続いて、ボーホート戦で彼我相対して終戦を知つた場所で御座ゐます。

 収骨作業は厚生省の立案計画に従ひ、戦友等の綿密な資料と現地住人等の各種証言に基き、現地作業員の協力等も得て、毎日赤道直下の灼熱と戦ひながら、数十ケ所の地点で収骨作業を行ひましたが、なんと申しても三十年の星霜には尊い遺骸も、静かに彼の大地の土と水に浄化されたものと思はれ、地質の条件の可能な地点から僅かに左記の如く収骨を見たに過ぎません。
 ライヨ四体。メララップ約一〇〇体、シンパンガン約三〇体。サボン六体。メンバルタ七体。計一四七体、その他遺品には眼鏡二、水筒二、飯ご二、鉄カブト二、防毒面一、地下足袋大小二、銃弾などでした。しかしながらよしや収骨の数は少くとも、数多戦友の霊魂は此の数少いなきがらの御骨と遺品を宿にして、母国日本に帰つて下さつたものと信じております。ともかく収骨は先方国の指示により、更に焼骨して母国に持帰つた次第です。

 慰霊行事は私の班にあつては、前半のテノム地区と後半日程のボーホート地区のニケ所で、母国より携へた御酒、御米を献じ、神社人である私と僧侶である元二中隊長笹川氏が中心となつて斎行なし、十一月十四日、コタキナパル(アピー)にて三ケ班全員集結の上、日本領事公邸広間に於て、在留邦人等も列席して厳かに追悼式が挙行された次第で御座ゐます。

 以上とりあへづ御報告努々御礼申上ます。
 昭和五十年十一月十九日

関係各位殿
白鷺ボルネオ会長・荒井神社宮司 広 瀬 正

▼昭和五十一年五月十五日

 厚生大臣招待にて、今回のボルネオ収骨を納め奉る千鳥ケ渕納骨式挙行せらる。
 今回の派遣団貞約三十名、前日より東京日食会館に集り一泊、再会を喜び和気あいあいの中に当時を偲び 語り合ふ。当日全員揃つて式典に参列なす。
 我がサバA班は小生、笹川、福岡、矢野、鈴木、下里、国井氏の戦友全員と遺児佐藤、中谷の両人が出席、高見、斉藤の両遺児は支障あつて欠席であつた。

▼昭和五十一年八月十五日

 三木総理大臣の名において、日本武道館に於ける全国戦没者追悼式の案内をいただく、小生支障ありて欠席。派遣団各位の出席は幾人であつたか、不詳。正午、荒井神社より遥か東方に向ひ謹みて遥拝なす。

▼昭和五十一年八月五日

 東京に於けるボルネオ会、総会の決議により解散となる。

 私は永年親団体として御指導も願ひ、親しんできたボルネオ会ではあるが、在京の役員同士の闘争の場となるやうなボルネオ会であれば、我々地方ボルネオ会への指導力も失つてをり何等意味がない。解散した方がよい。明石兵団長閣下などは泉下で嘆いてをられるであらう。
 我々白鷺ボルネオ会には何ら関係なきこと、他山の石として益々手を取り合つて、英霊顕彰と戦友遺族相互の親睦に努めたいものである。

▼昭和五十一年八月八日

日本ボルネオ友好会、発足。
 事務局 〒530 大阪市北区天神橋筋三-二三 (片桐忠信方)

▼昭和五十一年十二月一日

北ボルネオ戦友協議会、発足。
 事務局 〒189 東京都東大和市清水一四三二-六二 (松橋政敏方)

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