謹啓 寒冷の候益々御健勝の事と存じます。
突然の御便りを差上げ失礼の段御寛容下さい。
吾々は、故〇〇〇〇様と部隊こそ違え、去る大戦の末期に北ボルネオ、ラハダット附近に出征して居りました部隊の戦友会の一員であります。
或は既に御承知かとも思われますが、去る十月二十八日から二十日間に亘り、厚生省主催に依る北ボルネオ方面遺骨収集に当り、吾が戦友会からも二名の代表を派遣致しました。その結果得た情報に閲し御通知申し上げます。
故人の属した独立歩兵第三六七大隊(岡田部隊、後筒井部隊)は、昭和二十年一月当時前記ラハダット附近に在りましたが、同年二月上旬、陸路未開のジャング〜を通過して遠く六〇〇粁の西海岸方面に転進を命ぜられました。その際病人等若干の残留者があり、恐く〇〇〇〇様もその一員であった事と考えられます。その後御体が回復せられても元の部隊への追及は不可能でした。偶々ラハダットの警備を交替して居りました吾が独立歩兵第三七〇大隊第四中隊より、同地北方四十哩の小寒村「トンクウ」に三原曹長の指挿する一ケ小隊を派遣する事になり、前記残留者中より健康なる兵貞一ケ分隊を選で協力せしめる事になり、同年四月六日、トンクウに到り警備に任ぜられ居ました処、同年七月十日、優勢なる敵の攻撃を受け、遂に小隊全員玉砕致されました。
通信連絡の手段とて無く、その事実を終戦間際住民情報で知りましたが、陸路はジャングルに遮られて僅かに手漕の小舟に依る交通も、海空を完全に制圧されていた情況下では、遺体の収容も不可能でした。終戦後連合軍に願い出でましたが許されず、遂に万斛の涙を呑んで帰還致しました。機会があれば必ず吾々戦友の手で御遺骨を収集し、亡き英霊と御遺族の御気持に添いたいと念願致しておりました。
この度の遺骨収集を機に厚生省との交渉の段階で「トンクウ」の遺骨は、去る昭和四十五年秋、厚生省職員四名よりなる遺骨収集団により所在の御遺骨は収集され、その内一柱は氏名迄判明し、御遺族様に御渡し済みで、他の方々は氏名不祥のため、翌昭和四十六年四月二十四日、懇なる供養の上東京千鳥ケ淵墓苑(靖国神社の近く)に合祀されて居る事が判明致しました。この様なる事情を今日まで知らざりし吾々の不明誠に申し訳なく心からお詫び申し上げます。され共積年の念願は果されたと安堵致しました。今茲にに御家族皆様と共に、吾等一同故人のご冥福を心からお祈りいたし、右ご通知申し上げます。
今後とも一層御身御大切に御過しあらん事を願つて居ります。
敬 具
昭和五十年十二月五日
岡山市〇〇町 〇〇方(電〇〇〇〇-〇〇-〇〇〇〇)
タワオ会(須賀崎部隊・独立歩兵第三七〇大隊戦友会)
会 長 井 上 明 善
副 会 長 野 上 博 三
元第四中隊長(遺骨収集団参加者) 高 畠 義 勝
十一名各遺族様宛