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山田誠治氏資料

 元灘軍(第三十七軍)司令部付飛行班長、陸軍大尉山田誠治氏より、五十年七月十四日付にて資料が広瀬の所に寄せられた。
前略 今般北ボルネオの遺骨収集に就いては、兼てから御配慮を賜はり愈々実現の運びとなりましたこと誠にありがたく厚く御礼申上ます。小生も健康が許せば是非参加を致したく希望して居りましたが、昨今の状況では残念ながら御辞退を申上た様な次第です。
今回は今迄と異り東海岸に重点をおかれ、又ミリー、クチン地区まで足を伸される由承り、最後の収集となるものと存じ、成果を期待して居ります。
就きましては、広瀬様の担当地区サバA班の方々に是非とも司令部の所在地サボンの発堀をお顧ひ致したく筆をとりました。

御承知の如くコタキナバルの近くには、少くとも五〇〇体位の遺骨がある苦ですが、既に建設が進み殆んどコンクリートの地下に埋没して今では手のつけようがなく、今回もおそらく慰霊のみに終るものと存じます。
然しテノムの渓谷にはまだまだそのまゝの地域が多く残されて居り、就中バダス川の右岸、ライヨ附近の鉄橋を渡つた右側には三〇〇体以上がそのまゝになつて居り、又サボン地区の約二〇〇体(内五〇体位は位置確実)テノム河向アンダブアン地区の約三〇〇体などはいずれもまだそのまゝになつて居る状況だと思ひます(別紙略図参照)サバA班の各位は、今回それ等の三点に就いては自信を以て発掘されるように切望する次第であります。

ライヨは山守氏も御存じの苦、又サボン地区は鈴木松治君がよく承知して居り、アンダプアンに就いては個人の資格で協力される国武氏がよく知つて居ります。
以上の如く奥地はともかくとして、明確に地点が指示される処に重点をおかれて成果をあげられるよう切望する次第です。
先は右御連絡努々御願ひまで申上げます。     不一
  七月十四日
山 田 誠 治
広瀬正三様

其の他資料、情報

 昭和五十年七月七日(月曜日)付神戸新聞に〝月曜インタビュー″として、下記写真の如きスタイルで「御霊を早く故国に」「遺骨収集は私の使命」の見出で大きく掲載された。
その為でもあらうか遠近思はぬ人々から情報、資料が寄せられた。
 (写真クリックで拡大)
 私の今回の担当地区と当部隊に関係あるものを記載しておきたい。

 岐阜市、山田幸之助様からボーホート戦におけるバダス川沿ひ、軽便鉄道、ボーホート東方五七哩周辺の陣地見取図に戦死者約三十名の埋没地点を示したものを御送付下さる。

 加古川市(編者の隣町)の宮本利勝様は、実弟の憲兵軍曹宮本久氏が戦犯となり、昭和二十二年四月二十八日、ゼツセセルトン(コタキナバル)にて刑死されてをり、宮本軍曹と同様、憲兵の戦友が二十年の刑を終へて無事日本に帰還して、加古川市の宮本様を訪ねて墓参なし、埋没場所を詳細に図示したものを持参され、「是非収骨を願ふ」との依頼を受く。私としても隣町の方でもあるし何とか努力したい。

 我が三六七大隊にとつても今回の私の担当地区は、先の死の行軍の最終コースの地点であり、ブルネ一戦を経て撤退後四十五日目にたどり着きボーホート戦と終戦を知つた地区で、のこぎりの如く往復した地区であるので、概要の地図地形は頭にしみ付いてゐる地区であつた。したがつて、我が部隊戦友を多く失つてゐる地区である。

メララップ一九、アンダヴアン一四、テノムー五、パパル九、ボーホート五七、ケマボン一九、ウエストン三、計一三六柱は此の周辺で無念の戦没をとげている地区である。心して収骨慰霊に奉仕したいと念願する。

岡山市タワオ会副会長野上博三氏(独歩三七〇大隊=須賀崎部隊所属)より左記御手紙を後日いただく。
 謹啓 寒冷の候御清祥の事と存じます。
 過般は厚生省主催の遺骨収集に御参加賜り大変御苦労様で御座いました。御体に変調はありませんか御伺ひ申上ます。吾々の戦友会タワオ会からは〝サバB班″で高畠義勝、神崎小市両氏を派遣致し、何か と御貴殿に御世話に相成つた事と存じます。
 扨て、独歩三六七大隊第四中隊所属者で、東海岸トンクウでの戦没者が判明せず八方手段を尽して居りましたが、貫参謀松本幸次様の格別の御尽力に依り、去る十月上旬、派遣団出発前にやつと判明致し、吾々としても責任のある事とて、同氏の御力添へに心から感謝すると共に大変喜んで居ります。
就いては今般遺骨収集完了を期に、貴部隊所属御遺族十一名様に対し、別紙(同封)の通り御通知申上ましたので宜敷く御願ひ申上ます。
先は甚だ簡単でありますが為念御知らせ致します。
尚、寒さの増す事とて御自愛の程祈ります。                 敬 具
  昭和五十年十二月五日
タワオ会事務所(岡山市〇〇町)
野 上  博 三
広 瀬 正 三 様
(同封別紙)
謹啓 寒冷の候益々御健勝の事と存じます。
突然の御便りを差上げ失礼の段御寛容下さい。
吾々は、故〇〇〇〇様と部隊こそ違え、去る大戦の末期に北ボルネオ、ラハダット附近に出征して居りました部隊の戦友会の一員であります。
或は既に御承知かとも思われますが、去る十月二十八日から二十日間に亘り、厚生省主催に依る北ボルネオ方面遺骨収集に当り、吾が戦友会からも二名の代表を派遣致しました。その結果得た情報に閲し御通知申し上げます。

故人の属した独立歩兵第三六七大隊(岡田部隊、後筒井部隊)は、昭和二十年一月当時前記ラハダット附近に在りましたが、同年二月上旬、陸路未開のジャング〜を通過して遠く六〇〇粁の西海岸方面に転進を命ぜられました。その際病人等若干の残留者があり、恐く〇〇〇〇様もその一員であった事と考えられます。その後御体が回復せられても元の部隊への追及は不可能でした。偶々ラハダットの警備を交替して居りました吾が独立歩兵第三七〇大隊第四中隊より、同地北方四十哩の小寒村「トンクウ」に三原曹長の指挿する一ケ小隊を派遣する事になり、前記残留者中より健康なる兵貞一ケ分隊を選で協力せしめる事になり、同年四月六日、トンクウに到り警備に任ぜられ居ました処、同年七月十日、優勢なる敵の攻撃を受け、遂に小隊全員玉砕致されました。

通信連絡の手段とて無く、その事実を終戦間際住民情報で知りましたが、陸路はジャングルに遮られて僅かに手漕の小舟に依る交通も、海空を完全に制圧されていた情況下では、遺体の収容も不可能でした。終戦後連合軍に願い出でましたが許されず、遂に万斛の涙を呑んで帰還致しました。機会があれば必ず吾々戦友の手で御遺骨を収集し、亡き英霊と御遺族の御気持に添いたいと念願致しておりました。

この度の遺骨収集を機に厚生省との交渉の段階で「トンクウ」の遺骨は、去る昭和四十五年秋、厚生省職員四名よりなる遺骨収集団により所在の御遺骨は収集され、その内一柱は氏名迄判明し、御遺族様に御渡し済みで、他の方々は氏名不祥のため、翌昭和四十六年四月二十四日、懇なる供養の上東京千鳥ケ淵墓苑(靖国神社の近く)に合祀されて居る事が判明致しました。この様なる事情を今日まで知らざりし吾々の不明誠に申し訳なく心からお詫び申し上げます。され共積年の念願は果されたと安堵致しました。今茲にに御家族皆様と共に、吾等一同故人のご冥福を心からお祈りいたし、右ご通知申し上げます。
今後とも一層御身御大切に御過しあらん事を願つて居ります。
敬 具
昭和五十年十二月五日
岡山市〇〇町 〇〇方(電〇〇〇〇-〇〇-〇〇〇〇)
  タワオ会(須賀崎部隊・独立歩兵第三七〇大隊戦友会)
会   長 井 上  明 善
副 会 長 野 上  博 三
元第四中隊長(遺骨収集団参加者) 高 畠 義 勝
十一名各遺族様宛

 元来は姫路編成独歩三六七大隊第四中隊所属の前田正勝軍曹(津名郡)、中野義正伍長(津名郡)、磯部善吉兵長(津名郡)、長井一三兵長(佐用郡)、梅辻義光兵長(神戸市)、小山利一兵長(相生市)、崎木定夫兵長(宮城県)、宮原善六兵長(赤穂郡)、吉井清春上等兵(西宮市)、寺内利夫上等兵(赤穂市)、菊井実上等兵(神戸市)以上十一名が上記文中にある如く、転進中に病気のため共に行動出来づ、健康をとりもどした時点では、兄弟大隊である岡山編成の独歩三七〇大隊第四中隊に所属となり、昭和二十年七月十日、優勢なる敵の攻撃にあつて、同中隊三原小隊として小隊長以下壮烈悲痛にも玉砕されたのである。

 先の昭和四十六年編纂「あゝボルネオ」第六章英霊録第四中隊の項に上記十一名の戦死場所は、東海州トンクーとなつてゐても、戦死年月日が白欄になつているのは、編纂時にしてなほ不明であつた。
それが独歩三七〇大隊=タワオ会の御熱意の通報によつて初めて判明した次第です。お知らせ賜つたタワオ会役員の方々の御厚意を心より感謝申上ます。
後日談でありますが、折角十一名の御遺族にそれぞれ御丁重に御通知下さつたものの、三、四通は住所不明で返却があつたよし承けたまわってをります。おそらく戦災地阪神聞出身の方々であらうかと察せられます。

なほ四中隊は中心であるべき山中中隊長が戦死され、その後、先任将校の永井茂雄氏が中隊長代理を務められましたが、帰還後、九州佐賀市に御住で遠方の関係でどうしても他中隊に比し、戦後長い期間まとまりが悪かつたやうに思ひます。
しかし、元々四中隊出身であつた坪田政信氏が、非常に熱心に四中隊をまとめて下さり、只今ではほとんど他中隊におとらぬまでにまとめて御世話してゐられる。       (編者記)


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