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遺骨収骨資料・情報 厚生省援護局資料(昭和五十年六月)

北ボルネオの戦闘経過要図
北ボルネオにおける残存遺骨分布図
北ボルネオ戦没者遺骨収集並びに現地追悼概況図

第一 北ボルネオの概況

 ボルネオ本島は東経109度から119度、南緯四度から北緯7度にわたる赤道直下にある世界第三位の大島で、面積は日本内地の約二倍307,000平方哩、人口約3,000,000人(一九五二年推定)であって、北部及び西北部のマレーシヤ領(サバ、サラワク)及びイギリス保護領(ブルネイ)と南部のインドネシア領(カリマンタン)とに分れている。

 この島は人口密度が低く世界で最も開発のおくれている土地であり、島の北部及び中部を通じて山岳地帯で、主な山脈には、イラン及びカプアスがあり、北ボルネオの北部に最高峰キニバル山(通称キナバル山、標高4,170m)がある。全島鉱物資源に富み、殊に金・銀・ダイヤモンドの貴金属は有名であり、他に石油・石炭・鉄の産出がある。住民は、インドネシア系種族、マライ人、ブルネイ人が大部分で、他に約20万人の華僑が住み、各種の産業に進出している。また、戦前は日本人のゴム植林、椰子栽培に従事する者が多かった。

北ボルネオにおける道路網は、主として都市を中心とした狭い範囲のみで、都市相互間の交通の多くは海運と航空機による。軽便鉄道がウエストンーゼッセルトン間及びその途中からテノムに至る間にあるほか鉄道網はない。また、河川は極めて多く、水量も豊かで小型汽船の遡航できるものもある。

第二 北ボルネオにおける戦闘の概要

一、南西太平洋方面作戦の概要

ボルネオ、モルツカ、諸島及び西部ニューギニア方面に対する大東亜戦争開戦時の最大作戦目標は、ボルネオ方面攻略の成否にあったのであって、マレー及び比島の攻略作戦は、それ自体の占領よりもボルネオ方面の重油資源地帯、攻略に対する地利的戦略的価値に基づいて、その前駆戦として実施せられたものと観察するのが至当であって、ボルネオ油田地帯の攻略確保の成否は実に戦争勝敗の鍵であったが故に、連合軍の増援兵力、特に航空兵力の増援前に速やかにこれを獲得するに決し、第十二駆逐隊を基幹とする護衛船団をもって、陸軍約三箇大隊とこれに横須賀第二特別陸戦隊を加え、北ボルネオ、ミリ、クチン(サラワク)方面を攻略することとなった。

同部隊は昭和十六年十二月十六日ミリを、同月二十五日にはクチンを占領し、同月二十二日には第二二航空戦隊をミリ飛行場に着陸させた。
翌昭和十七年一月上旬には、第四水雷戦隊を主力とする護衛船団をもって、陸軍約三箇大隊及び呉第二特別陸戦隊をタラカン島(南ボルネオ)に輸送し、一月十一日払暁同地に上陸、同月十六日には台南航空隊の一部が、また、二十五日までに第二三航空戦隊司令部及び台南航空隊の主力が進出を完了した。
爾後ボルネオ方面はわが海軍の管轄下におかれ、昭和十九年春連合軍の反攻をみるまでは、占領当時の体勢を保持しっづけていた。

二、北ボルネオ作戦の経過

 北ボルネオ作戦参加部隊
 昭和十九年九月、ボルネオ守備隊を改編し第三七軍が編成された。昭和十九年末における兵力配備の 概要は次のとおりである。
タワオ       独立混成第五六旅団(歩兵五ケ大隊)
サンダカン     独立混成第二五連隊第二大隊、独立歩兵第五五四大隊
タウイタウイ島   独立混成第二五連隊(第二大隊欠)
クダット      独立歩兵第四三二大隊
ミリ        独立歩兵第五五三大隊
クチン(サラワク) 独立混成第七一旅団(編成未完歩兵一大隊半)
タラカン      独立歩兵第四五四大隊、独立歩兵第四五五大隊
 これらの部隊は、昭和二十年一月、南方軍の命令により配備の重点をボルネオ西海岸に移動させ、更にタウイタウイ島の独立歩兵第二五連隊主力及びサンダカンの歩兵一大隊をともに西海岸に転進することとした。

三、東海岸より西海岸への転進

南方軍の命令による東海岸配備部隊の西海岸への転進は、昭和二十年一月中旬から行動を起し、二月下旬までに行なわれた。この転進は西海岸方面が連合軍により海上交通を遮断されたため、海上機動を断念し、北ボルネオ中部の標高二、〇〇〇米以上の背稜山脈を横断し、五〇〇粁にわたる瞼難な山岳地帯を通過する陸路行軍によらざるを得なかった。

時あたかも雨期で降雨と増水になやまされ、糧秣は不足し、飢餓と疾病のため多くの兵員を損耗した。また、転進部隊の先頭は二月下旬、西海岸ゼッセルトン(現在コタキナバルと改称、以下同じ)付近に到着し、後続兵員の集結につとめたが、六月上旬連合軍の上陸するまでの間に目的地に到着したものは、全兵力の約半数に過ぎず、これらの兵員の多くは疲労とマラリア等のため戦闘にたえられず、しかも行軍間兵器、資材等の大部を途中に残置したため、その戦力は極めて微々たるものであった。

四、北ボルネオ西海岸方面の戦闘

北ボルネオ東海岸より転進した各部隊は、昭和二十年二月下旬以降逐次到着し、在来の部隊とともにゼツセルトン、ボーホート、ラブアン島、ブルネイ、ミリー付近の防備強化に専念した。この方面には六月以降、連日連合軍のB24数十機の爆撃を受け、その航空勢力は日を逐って強大となった。
六月七日、船団を護衛した連合軍艦船約七十隻が、ラブアン島及びムアラ付近海上に現われ、連日猛烈な艦砲射撃を行ない、九日一部の兵力をもってムアラ海岸に上陸したが、わが猛烈な反撃によりこれを撃退した。

続いて連合軍は優勢なる兵力をもって、六月十日早朝よりラブアン島に、また同日夕刻ムアラ海岸全域にわたり上陸を開始し、各所に熾烈な戦闘が展開されたが、優勢な連合軍に逐次圧倒され、わが第一線各部隊は甚大な損害を受けた。

① ラブアン島守備部隊の玉砕
 ラブアン島守備部隊の独立歩兵第三七一大隊は、六月十一日未明、かねて準備した主陣地の配備についたが、連合軍は戦車を先頭に逐次主陣地を包囲する態勢をとり、猛烈なる砲爆撃の援護のもとに、主陣地各所に侵入したため、大隊は六月十四日未明、最後の複廓陣地に拠り反撃し、六月二十一日、大隊長以下最後の斬込みを決行し全員玉砕した。

② ムアラ方面の守備に任じた独立歩兵第三六六大隊は、その正面に猛烈な連合軍の攻撃をうけ、戦闘は逐次熾烈となり、六月十二日にはその頂点に達した。この頃連合軍の一部は、ブルネイ河を遡航し、独混第五六旅団主力の後方を遮断する態勢となったので、十二日零時を期し、旅団主力はブルネイ河を渡河し、南岸添いにテノム方面に転進した。
 一方独立歩兵第三六六大隊は、当面の連合軍に対し斬込みを行なってこれを撃退した後、ブルネイ河南岸に転進し、大隊長以下全員が斬込み、翌十七日未明に至るまで銃砲声が聞えたが、遂に主力との連絡がとれず、同日夜に入り銃砲声も絶えたので全員玉砕したものと判断される。

③ ボーホート付近の戦闘
 ボーホート方面においては六月二十四日、連合軍の上陸にともない、同方面守備の独立歩兵第三六八大隊は防戦これにつとめ、転進途中の部隊患者等も加えて陸路口付近に連合軍を阻止して終戦となった。

④ ミリー付近の戦闘
ミリー付近においては、連合軍は六月十日頃から連合艦砲射撃を行なうとともに二十日ミリー北方ルトン付近に上陸した。同地守備隊は極力その転進を阻止していたが、遂に海岸付近の保持が困難となったので同方面部隊主力はミリー東側地区を確保して終戦を迎えた。

⑤ 北ボルネオの戦闘経過は、別紙第一のとおりである。

第三 北ボルネオにおける遺骨の状況及び遺骨収集

(1)北ボルネオにおける日本軍の戦闘の概要は前述のとおりであって、死没者の大部は、西海岸における戦闘によるもの及び転進途中における山岳地帯で糧秣の欠乏による飢餓と疾病によるものである。
なお、ゼッセルトン、ボーホート、テノム間は、終戦後の死亡者も多く、各々集結地付近に仮埋葬されている模様である。
 北ボルネオにおける残存遺骨の状況は別紙第二のとおりである。

(2)政府は、昭和三十一年七月及び昭和四十五年十一月十七日より十二月十五日の間、この地域の遺骨収集と現地追悼行事を実施した。
 その状況は、別紙第三のとおりである。

(註) ボルネオ会は、昭和四十四年一月十八日より三十一日の間、この地域の遺骨収集と現地慰霊祭を実施した。しかし、収集の遺骨は日本に持ち帰りは許されず、日本領事館に明細を附して預けて来る。
翌昭和四十五年収骨派遣政府団は此の時の遺骨を携へ帰り、昭和四十六年四月二十六日、ボルネオ会派遺者も共に列席して千鳥ケ淵墓苑に納骨を行ふ。

 前編「あゝボルネオ」-第五章ボルネオ会の歩み-乞参照



第四 北ボルネオ作戦参加部隊人員及び戦没者数







◎付記 上記厚生省援護局資料について、誤と疑問を申述べたいと思ふ。

①東海岸より西海岸への転進=文中に「横断五〇〇粁にわたる」云々とあるが、我々部隊のタワオよりブルネーまでの横断転進距離は、五〇〇粁をはるかに越へた里程である。又サンダカンあたりの部隊にあつて、プルネー迄行つていない部隊にあつては五〇〇粁以下である。

別紙第一図にあつては、転進矢印(キナバル山右下方)に「五六族団の一部」の符号が示されているが誤りである。五六旅団の一ケ大隊(須賀崎部隊)をタワオに残して「五六旅団主力」が転進したのである。したがつて符号も「主力/56B」とせねばならない。

③同図中にプルネーよりテノムに転進、到着が「二〇、八、末」となつているが誤りである。我々がテノム周辺に展開している三十七軍のケマボンに到着したのは、昭和二十年七月二十七日である。したがつて「二〇、七、末」と記すべきで一ケ月異つてゐる。

④今までボルネオ戦死者約一八、〇〇〇名と聞かされていた。しかし本資料による戦没者は総計一〇、五四九となっている。これは北ボルネオの数であつて、南ボルネオ海軍も合すれば約一八、〇〇〇となるのであらうか。

⑤同表中、独歩三六七大隊欄では、我々部隊によつて調査したものと左記の如く若干の相違がある。

総人員転属人員帰還者戦没者
厚生省援護局資料(昭和51年)1,05321362670
あゝボルネオ資料(昭和46年)1,007354653

 タワオに於て三六九大隊に転出者があり、ブルネ一に於て現地入隊者があつたので、総人員に於ては、何れが正確なりや判断しかねる。戦死者にあつては私方が正しいと思つてゐる。

⑥同表中の転属人員欄には各部隊とも記載され、三六九大隊にまで数字が出ている。何処への転属か、判断しかねる欄である。



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