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生存戦友の声

 戦友諸兄の心あたたまる音信、或は久方振りの消息等各隊世話人のもとに多数寄せられたことと思ふ。編者の手許にあるものは一部分であるが列記して各位に伝へたいと思ひます。(編者 広瀬正三)

元三六七大隊長 筒井 与市
 前略 長い間御無沙汰申して居ります。
 御健在御健斗の由何よりの事と心より御喜び申上げます。
 本日東京の馬奈木さんより連絡ありまして、貴殿の努力に依り本年八月二十三日に荒井神社に於て戦友の慰霊祭を実施される事を承りました、今迄の実施に至るまでの取纏め、準備等についての御苦労に対し深く御礼申し上げますと共に貴殿の労苦に対し何も御手伝も出来なかったことを申訳なく存ずる次第であります。
 当時の旅団長明石少将は昨年亡くなりました、旅団参謀でありました松本中佐は元気です。
 私も御蔭様にて其の後元気に働いて居ります、故郷に帰って居ります。
 今度の貴殿の神社での祭事が戦友の霊をどんなにか喜ばしめ慰める事が出来ると信じ成功を御祈り申し上げます。
 当時の戦友等の近況又二十三日の行事予定等も御一報煩はし得れば幸に存じます。
 次に私の出席でありますが事情の許す限り参拝さして戴きたいと思って居ります、出席の時は八月二十二日夕刻に御地高砂に到着するよう考へて居ります、到着の上で電話連絡申上げる事に致し度思います。
 関係者の皆様によろしく御伝へ下さい。
 附 記
 筒井大隊長は北海道といふ遠隔の御出身の為、関西方面の地理不案内では御困りと思い早速新大阪より荒井神社までの道しるべ並に行事予定の概要を記し速達便を以て御返事努々初案内を申上げましたが、御都合がつきかねた為慰霊祭前日に左の電文を受取りました。

  ツゴウニョリ ザンネンナガラユケヌ アシカラズ ゴリヨウシヨウ コウ」 ツツイ

 御本人もさぞ残念であったと思はれます、私等も実に残念に思いますが何分遠隔の地でありやむ得ない御事情もあってのことと思います、しかし今度の行事で二十五年目に連絡のついたことだけでも皆様と共に喜びに存じます。


元大隊本部 岡 崎 素 三
 今は亡き戦友の慰霊祭斎行の御通知をいただき有難うございました。
 当時のありさまが目に浮ぶようです。
 タワオからブルネイへの移駐は、山びると湿地と悪疫との行軍で、部隊長及び部隊副官を初め多くの戦友が、あの密林で亡くなられた。
 またブルネイに於ては、空襲に次ぐ空襲、その後の艦砲射撃、敵軍上陸前の真赤に燃えあがるブルネイの街、水際作戦からゼッセルトン、テノムに向っての転進命令への命令変更、夜から翌朝にかけての渡河、その間の無気味な敵軍照明弾等が、走馬灯のように想い出されます。
 渡河後の濠州軍との戦斗と、ゼッセルトン、テノムへの山越えの飢えとの行軍で、数多くの戦友と民間人が、戦死戦病死されていった。
 八月十五日を境として空襲がなくなり、敵空軍に依る日本降伏のビラに対しての疑惑と徹底抗戦を主張する一部将校、軍司令官の説得、兵器引渡し、収容所への収容、収容所を移る度の土民らの首実検、収容所内での空缶につがれた粥の食事等、想出は尽きません。
 激戦と困窮のなかで、戦歿された戦友を想ふと、ああいふ時代であったとは云ふものの、その運命の余りにも苛酷であり、余りにもはかなかったことに胸が痛くなります。
 もしブルネイで命令変更がなく水際作戦が実施されていたら、我々生存者も今頃は骨をブルネイの地に晒していることでせう。
 復員後の生活は、食糧はなく他の物資もなく、暗い苦しい時代があったが、終戦後二十五年経った昭和元禄と呼ばれる現在の世の中を見ていると、尚更に戦歿された戦友やその御遺族を、何と御慰めしてよいか言葉に窮します。
 御知らせいただいた慰霊祭は、我々生存者に課せられた義務であると恩ひます。
 予てから確定していた会議のため、当日参列できないことは誠に残念でなりません。
 僅少ではありますが御霊前への供物代を同封いたしましたので、宜敷く御取り計らひ下さいますよう御願ひいたします。
 尚末筆ではありますが当日御参列の皆様によろしく御伝え下さいますよう願ひます。


元第一中隊 萩 原 義 治
 ともに苦しみ歩いたボルネオの地。
 亡き戦友の面影がむし暑い夏とともににじみ出て参ります、幸にも生き残った私は早や五十を数えて、おくればせ乍ら自分の幸福に感謝しております。
 出勤の途次ラジオに流れる軍歌を耳にするにつれ、亡き友の御冥福を祈らずにおれません、隊員の皆様、御遺族の方々いつまでも御健康でありますよう切にお祈りしてやみません。紙上をかりて。

元第一中隊 塩 崎 仁 一
 タワオ  ブルネイ ケマボン  アンダプアンと
 転進 転戦 又転進 此の間あまたの戦友(トモ)が
 若桜花と散りし あの赫熱の北ボルネオ
 今は靖国の御社の奥深く 神鎮りし吾が戦友の
 英霊(ミタマ)なごめの輪を 益々ひろげよう

元第一中隊 稲 田 吉 秋
 前略御免下さい、皆々様には酷暑の折卸元気で御暮しで御座いましょうか御伺い申し上げます。
 御便りに依れば大隊の慰霊祭を行われるとの事心から深く御善び申上げます。
 扨私事はなはだ勝手では御座いますが都合が付きかねますので欠席させていただきます。
 なお少額では御座いますが二千円同封致しましたのでよろしく御願い致します。

元第一中隊 魚 田 義 信
 当時の「ボルネオ」の灼熱を思い出す様な今日此頃の暑さに身のおきどころに苦しんで居りますが、貴兄には相変らずのお元気の由、何よりも結構な事と存じます。
 光陰矢の如しとかあの日から二十五年の歳月が全く風の様にすぎ去りました。雪を頂くわが頭を眺めて今更ながら人生の無情をひしひしと身にしみて居ります。
 何時もながら南風会、その他大変御面倒ばかりおかけ致しまして申訳なく存じて居ります。「ボルネオ」の暑さに堪えて来た吾が身も、ここ数年来夏場になるとどうも調子悪く、今回の折角の行事にも残念ながら欠席する事を何卒御容赦賜わりたく、同封甚だ些少で申訳ありませんが御納め下され度、皆々様に宜敷く御伝え願います。
 今後益々御自愛の程を御祈り致します。


元二中隊小隊長 原田 一太郎
 残暑御見舞ひ申上げます。
 久闊御無沙汰に過ぎて居りますが益々御発展の御事と御慶び申上げます。
 扨而この度は想いがけない御消息に接し暫くは夢見る心地に帰りました。
 二十五年昔の在りし日の事共が脳裡に甦って洵にに感慨無量なるものを覚えます、今般慰霊祭世話人の芳名を拝見致すにつけて当時いろいろと御厄介になったなつかしいお顔が偲ばれて参ります。
 また戦死なされた戦友の誰彼が思ひ出されて胸の痛む想いに耐えません、茲に衷心より御冥福をお祈り致します。
 当日は是非出席致し度焦燥にかられますが実は既にお聞き及びかとも存じますが、わたくしも三年前病気をしまして半歳余入院加療退院後も長らく自宅療養を致して居りました処、現在の閑職に着くこととなりました(中略)従って体調の方はまだ十分とは申せない状態にあります。
 そんなわけで甚だ不本意ながら慰霊祭には出席致しかねますので何卒事情ご賢察の上不悪御諒承の程御願ひ致します。
 当日皆様にお会ひの節は笹川様をはじめくれぐれもよろしく御鳳声下さるよう不躾ながら御願ひ申上げます。
 次に甚だ僅少ではありますが慰霊祭諸経費の一端として金五千円同封致しますから御面倒ながらよろしく御取計ひ下さい。
 皆様の御住所も判明致すことなれば不日お逢ひ出来る磯会もあると存じます。
 末筆ながら御健康と御多幸を御祈りします。      敬具

元第二中隊 山 本 恒 雄
軍刀が帰って来た。
私の軍刀が帰って来た。
濠州人が日本軍人の軍刀を愛する心根(こころね)を知って
二十五年前の姿のままで
      かえしてくれた。
私は愛刀を手にして
 涙が止まらなかった。
 軍刀を見ると走馬燈のやうに
 私の従軍の歴史がよみがえる
 特にボルネオ戦線での死斗
 数多くの亡き戦友の顔
        顔、顔、顔、
 一人でもよい
     軍刀の様に
   帰へらないかなー
     軍刀の様に
     軍刀の様に
附 記
 私の軍刀がオーストラリア国シドニー市のR・ハイワード氏より次の様な手紙がついて帰へって来たのです。
 「本書は私の友人である日本国海上自衛隊のKフジカ一尉に委託してお渡ししたものであります。
  日本刀一振りはオーストラリアの人々から日本の人々に心から願ひをこめてこの刀の所持者の近親者に対し返還するものであります。              敬具
     R・ハイワード

 昭和四十四年十一月十一日海上自衛艦隊練習艦隊てるづき植田一雄艦長がシドニー訪問の砌預って来られた由、感激の極みであります。


元四中隊 亀 井 正 己
前略 常日頃考へておりました事が実現し御遺族の方又、戦友に面会二十数年振りに語る喜び懐しき話はつきる事なく感慨無量でありました。
発起人御一同様の御苦労に対し衷心より御礼申し上げます。    敬具

元銃砲隊長 高 木 正 夫
 慰霊祭執行に際し種々御骨折戴き深謝致します。当日参列致し度く予定致して居りましたが不幸にして急に用事が重なり、死線を共に超越して生を維持した銃砲隊の各位と二十五年振りに再会の出来る機会にめぐり合せ乍らも欠席の破目になり誠に申訳なく存じますが何卒お赦し願ひ度く存じます。
 会費御送付致します誠に失礼と存じますが何卒よろしくお願ひ申上げます。銃砲隊の各位へよろしく御伝声賜り度くお願ひ申上げます。

元銑砲隊 小 田 勘 治
 書面にて失礼致します。
 昨日(二十三日)はなつかしい皆様とお逢出来ると思い楽しんで居りましたが、台風10号のつめ後の始末でどうにも都合が付かず残念でしたが欠席の止むなきに至りました、本当に残念でなりません。
 而し幸いにも家や田畑は無事でしたので此の点よろこんで居ります、自分の家へ帰るのにも道はヅタヅタに荒されました、早速復旧作業に精出して居ります。
今度の機会にはぜひお出会出来ます様。
乱筆乍ら一筆添えまして御送金申上げます。
 つつしんで貴台の御健康を祈り上げます。

追 私小林勘治でしたが復員後表記の姓に変りましたので何分よろしくお願い致します。


元銃砲隊 田 中  勇
 残暑厳しく御座います。
先達って大隊合同慰霊祭につきましては一方ならぬ大変なお骨折りに依りまして御遺族の方や戦友に二十五年ぶりに出会って色々の事を知り又なつかしいものでした。これも一重に広瀬隊長殿のお蔭と衷心より厚く御礼申し上げます。
 奥様にも大変世話になりまして有がとう御座いました。
 先づは御礼まで            敬具

元作業隊 友 井 五 郎
 残暑細見舞申し上げます。
 台風一過日中は殊の外のお暑さでございますが朝夕は本当に凌ぎよくなって参りました。
 過日は御疲れの処、長電話を御かけ致して御迷惑を御かけ致しました、私方主人も二十三日の慰霊祭には是非出席させて戴く心算で御座いましたが病気にて現在歩行さえ不自由で困って居ります状態にて到底出席は出来ません、同封の金誠に少額で御座いますが何かのお役の一端に加えて戴ければ幸甚でございます。
 何卒今後共宜敢く御願い申し上げます。
 末筆乍ら皆々様に呉れ呉れも御宜敷く御伝え下さいませ。

 附  記          編者
 元第二中隊長笹川満氏は当日万やむなき事情のため欠席すると、わざわざ前日の八月二十二日不肖宅まで御来駕いただき久方振りにお目にかかった次第です。
 至極お元気で宗教界は勿論のこと他方面にも御活躍の御様子です。
 その節当日の会費の他金弐万円也の多額の御浄財を此度の行事にと御寄進賜りました。
 第二中隊御遺族様並に戦友各位にくれぐれもよろしく伝えて呉れとのことです、又神戸にいらした時は是非御立寄り願いたいとのことです。又大隊の御遺族様、戦友の皆様へもよろしくお伝え下さいとのことでした。
 尚御住所は左記の通りです。
  神戸市兵庫区・・・
 御芳志を伝え紙上をかりて厚く御礼申上げます。

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