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合同慰霊祭(昭和45年8月23日)の記

広瀬正三

一、まへがき及び案内発送

 時あたかも昭和四十五年は、西暦一九七〇年、戦後二十五年といふ端数がなくて、まことに区切の良い年であります。人類の英知と創造力を結集した全世界の祭典だといふ万国博発会が日本でしかも我が郷土に近い大阪で開催の年でもあります。私個人にとりましても私の日夜奉仕する荒井神社が拾数年に一回輪番で廻り来る国恩祭といふ大祭奉仕の年でもありました。

 此の記念すべき年を期して我々生存戦友等、相集ひ、相譲り力を結集して今は亡き独歩第三六七大隊の合同慰霊祭を実施してはの議が二年程前から我が一中隊、本部、或は三中隊の個々の戦友会で話が出ておりました。  初代岡田大隊長は先の横断転進で戦死され、二代目筒井大隊長は何分にも北海道といふ遠方の御出身で思ふ様に連絡がとれませんでした、今度やっと全国ボルネオ会長(元参謀長)馬奈木先生の御配慮にて復員後初めて連絡がとれた様な次第です。この様なわけで部隊の合同慰霊祭をするにも中心になる人がなく各隊とも気にかかりつつも今日迄延引していたとも言へると恩ひます。

 しかし誰かが音頭をとり御世話の中心にならねばなりません、私がたまたま大隊の頭号の第一中隊長をいたしておりましたる関係上、将又神社人でもあります為か、各隊ともなんとか中心になって呉れといはれるままに不肖も省り見ず此の意義あるべき年を選び慰霊祭実施の決心をして心準備を進めて参った次第です。
 幸ひ我が大隊は何といっても姫路白鷺城下の郷土編成でありましたので各中隊の責任ある世話人の集合が容易で電話連絡で一時間前後で集合出来るといふ便利さがありました、とは申せ御互に職務をもつ多忙な方ばかりですのでそう何回も御集り願ふ訳にも参りませんがそれでも数回は集りました、お互に己の勤めや、家業を犠牲にして、やるからには完壁を期すべく努力した次第です。

 特に本部の坂越氏、第一中隊の楞野氏、第二中隊の山本氏、第三中隊東山氏、第四中隊坪田氏、銃砲中隊松下氏、作業隊奥平氏等は毎回出席大変御世話下さった次第です。
 最も困難であったのは英霊の御遺族現住所調査、生存者の住所調査であったかと存じます。各隊とも大なり小なり戦時留守名簿、又はそれに近いものを帰還に際し厳しい検査官の目をのがれて持ち帰っているものの戦前の住所では話になりません、殊に神戸市初め戦災都市は尚一層のことです。
 世話人各位の御尽力で七月中旬に至り全休の約七割程度住所の確認調査が出来ましたので各隊毎に分担して案内状を発送することにいたしました、案内状は左記のもので本部所属の坂越氏の起案文を印刷いたしました。
       ※
 拝啓 私達貫兵団独立歩兵第三六七大隊の生還者三百余名が亡き戦友六百余名をボルネオに残して奇蹟的に大竹港に帰還してから早二十五年目、全く夢のように過ぎ去りました。
 御遺族の方々!! 生還者の皆さん!! 其後御障りは御座いませんか謹んで御伺い申上げます。
 御遺族の方々には、ひたすら頼りにしておられました夫や御子息、或は又御父上を遙か彼方のボルネオの戦野に失われまして嘸かし御悲歎にくれられた事と拝察申上げると共に、戦後の酷しい状勢の下で苦難の連続であった事と心から御同情申上げます。
 扨、私達生還者にとりまして運命のまま奇しくも生還し得ましたとは言うものの、灼熱の下、下痢嘔吐やマラリアの高熱に悩まされ乍ら連日連夜叩き付けるように降るスコールに軍衣の乾く暇とてなく、道なき道を切開きつつ昼なお暗いジャングルを或は又そそり立つ断崖を数百里月余に亘り、一口の粥も啜りえず歩き通した再度の『死の行軍』と言う生涯体験することの出来ない大きな艱難辛苦に耐え、運よく生還致しました。
 そのようなボルネオを私達は忘れようとして忘れることの出来るものではありません。それ故私達生還者は運命のいたづらと言いましょうか髪一重の差で幽冥境を異にした亡き戦友の冥福を、遅まき乍ら全大隊の生還者が相寄り相集まって衷心より祈念し霊を慰めたいと願わずには居られません。

 当時のあのボルネオと同じ酷暑の侯を選び左記の通り慰霊祭を斎行致したいと計画一致しましたので、私達有志の微意を御汲取り下さいまして御遺族の万々と共に生還者の皆さんも萬障御繰合せの上是非とも御参列下さいますよう御願い申上げます。準備の都合もありますので同封の返信用ハガキに参不参につき来る八月十日迄に左記旧所属隊の世話人ままで御回報下さいますよう御願申上げます。
 萬一御遺族の方で亡くなられた方の所属隊の判らぬ方は大隊本部世話人まで御回答下さい。

・・・所属隊毎の連絡先表 省略(当ホームページ管理人)

    記
一、日 時 昭和四十五年八月二十三日(日曜日)午前十時斎行
一、場 所 兵庫県高砂市荒井町荒井 荒井神社(広瀬隊長宅)
  明石・姫路方面よりは「山陽電車荒井駅」下車西へ四百メートル。
  マイカーで来られる方は第二神明道路の「神吉」インターチェンジにて下り、
  真直ぐ南へ一直線に山陽電車「荒井駅」前迄出て西へ四百メートル。
一、会 費 二、000円也(生還者のみ)当日御持姦願います。
一、御願い
  万一生還者の方で御参列不能の方は慰祭霊諸経費として御浄財を御寄附頂ければ誠に有難く存じます。
  御浄財を頂いた御不参の方には追って各隊世話人より「英霊録」と「生還者名簿」を御送り申上げます。
一、附 記 ご遠方の方には宿泊準備を致しておりますので、返信用ハガキにて御遠慮なく御申出で下さい。
                昭和四十五年七月二十五日
                独立歩兵第三六七大隊慰霊祭世話人一同
              殿

二、慰 霊 祭

 八月二十三日の朝がやって参ります。
 前日から泊り込みの静岡県燐津の遠方より、わざわざいらしている銃砲隊所属(一時仮編成のため一中隊転入)の故石橋昭一氏の御両親様、第一中隊所属故森角蔵氏の未亡人森らく様の三人を始め当日早朝宮崎県より到着の本部所属故田中正一氏の令兄田中正平様等と我が家族も共に朝食にする。
 八時には各隊の世話人始め当荒井地区戦友集り来て各隊毎に受付の準備を行ふ。
 私方職員(保育園保母)八名、地元戦友加島、嘉納、中山の妻君等三名も続いて来て清掃、湯茶の準備にかかる。
 九時頃には続々と御遺族、戦友等集合してくる様子。
 今日の斎員等も九時頃には勢揃して下さる。

 奉仕神職 斎主 荒井神社宮司 第一中隊長    広瀬正三
      斎員 筒井八幡宮司 二中隊所属遺族  小野雄士
      〃  姫路護国神社弥宜 作業隊所属  大部満男
      〃  荒井神社祢宜          広瀬明正
      伶人 四名
      巫女 四名

 十時迄に兵庫県知事代理、高砂市長来賓として参列、朝日新聞、神戸新聞、NHKTV記者等も取材の為来たる。

 休憩室に当てた保育園園舎も社務所座敷も、境内の木陰も参拝の為集ひ来られた御遺族と戦友で一パイである(御遺族約一七〇名、戦友一三〇名の計三〇〇名)
 やがて定刻司会者の発声に各隊案内係の指示に従ひ横笛の斡の道楽に導かれ昇殿なす。司会は第二中隊出身の山本氏である。
 私は祭儀に先だち暑さの苦しさも、狭き場所に正座の足のいたさも、亡き戦友を想ひ、灼熱のボルネオを偲び、輸送船の狭さを忍びて御幸棒いただきたいと御許しを乞ひ、今日の斎員は此の三六七大隊にゆかり深い私或は御令兄をボルネオに失はれた御遺族の人々であることを紹介する。

 先づ修祓(シュハツ)の儀
 次に招魂の儀で
  海山の幸或は御遺族が個々に御持参の御菓子等、雅楽の音と共に献じる。
 次いで斎主慰霊詞奏上
  柱を失ひ二十五年の風雪に耐へ来た、御遺族様にはたまりかねてむせび泣きの声が静かな殿内にもれて来る。
  戦友等も当時が走馬燈の様に恩ひ出されるのであろうか、大つぶの涙を流している者もある様子。
 次に祭文奏上
  県知事、高砂市長、祭文順次に奏上され、敬虔の誠を捧ぐ。
 次に本部所属の故牛尾菊一氏の厳父牛尾仙太翁が慰霊の詩
     日の本の御楯異国の露と消ゆ
         安らかに眠れふるさとの土
     たぎりたち命の限り戦ひし
         君の勲や永久(とわ)にかぐはし
     うら若き英魂ここに安置して
         功たたへん苔のむすまで
   遙けきボルネオのかなたまで届けよと願はれたのであろう、声高らかに奏上され、
 次に司会者より慰霊電文披露
  ○英霊二感謝シ」御遺族ノ御安泰ヲ祈ル」   元三七軍軍司令官 山脇 正隆
  〇三六七大隊ノ慰霊祭ニアタリ、亡キ戦友ノアリシ日ノ勇姿ヲ偲ビ」謹ンデ御冥福ヲ祈リマス ボルネオ会々長 馬奈木敬信
  ○ボルネオ派遣三六七部隊ノ慰霊祭ノ盛儀ヲタタエ諸霊ノ御冥福ヲ祈リマス。」 参議院議員 青田源太郎
  ○独立歩兵第三六七大隊ノ英霊二対シ衷心ヨリ御冥福ヲ御祈致シマスト共ニ、本日ノ慰霊祭ヲ挙行シテイタダキマシタ各位二対シ、遺族ノ一員トシテ厚ク御礼ヲ申上ゲマス」  松江ニテ岡田満代(註、初代大隊長夫人)

 次に神楽を奏上
  白衣の舞ぎぬに緋の袴 高校二年生の清純な早乙女等が、
  笙、ひちりき、横笛の三管、楽太鼓にかなでる手振も清々しき豊栄の舞である。
 次に玉串奉典
  斎主、来賓に引続き遺族代表、戦友代表二名が一緒に本部、各中隊、作業隊と順次に奉奠、一般参列者は自己中隊代表者が奉奠の時自座に於て列拝をなす。


 次に会場を保育園教室に移し、ボルネオ収骨慰霊の現地撮影を観賞、境内神殿前で各中隊毎に記念撮影を行ふ、ただし混雑中のため各隊多少入り乱れて撮影してしまったこと、専門の写真屋に願へばよかったのに素人の為出来ばえ悪く申訳なしとは撮影者坂越氏の言、あしからずお許しを乞ふ。

 会場の配置指揮は我か家の如く勝手のよく知った第一中隊出身の元曹長楞野利夫氏である。
 次いで会場を講堂大広間に移す。

 先づ開会の辞
   坪田氏懇ごろに多数参列の感謝の辞と共に開会を告ぐ
 次に代表者挨拶、元広瀬隊々長
   独歩三六七大隊のボルネオに於ける作戦行動の概要を地図に於て御伝へ申し上ぐ

 次に来賓挨拶
  県庁係官民生部援護課長広瀬忠氏わざわざ御参列下さり、遺族年金、軍人恩給の手続等につき詳細説明下さる。

 次に収骨慰霊現地報告  岡 良助氏
 ミリー地区警備の任にあたった元独歩五五三大隊(佐合部隊)所属の人、昨年私と共にボルネオ派遣の一員、今度の我が大隊の行事を知り大阪より同行の遺族代表の梶井寿子様と共に馳せ来て現地報告をして下さる。
 次いでその場で戦友、御遺族入り混じって懇親会となる、なごやかなうちに、いついつまでも語りのつきることを知らない有様。
 午後四時頃一まづ元作業隊長奥平氏立って閉会の辞をいとも雄弁にのべていただく。
 それより各隊は御遺族も戦友も去りがたく、保育園の各教室や、あちこちの座敷に分散占領して又々各隊毎に車座になって語りがつきない。
 各隊戦友の中には御酒のすきな者もいて二十数年若返ったのか大虎、小虎も出るうれしい状況でした。
 世話人並に地元戦友等の引き上げたのは夜も深くふけておりました。

 英霊(ミタマ)!! 心をおだひに、皇御国(スメミクニ)を浦安の国と護り給ひ、御遺族の上を恵み給ひ、私等戦友の上をも導き給へ。
 又生存戦友の皆様、又会ふ日まで御健康で御奮斗下され。 御遺族皆々様の御多幸を祈りつつ。
   昭和四十五年葉月末の日認む                        編  者

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