北ボルネオに収骨慰霊の任を果たす
元三六七大隊戦友荒井神社宮司 広 瀬 正 三
一 はじめに
戦後ここに二十有余年、既にもう戦後でないとまで言はれる今日、今尚ほ南遙けき灼熱の山野に一万八千の英霊が、遺骨を晒し置きざりにされている。このかなしき戦友益良雄の収骨慰霊なさんと生存者戦友の悲願と御遺族の切々なる念願の使命を果すべく去る昭和四十四年二月十八日羽田空港を飛び立ちボルネオに二週間の予定をもって行って参りました。同年四月五日全国より此の日を待ちわび集い来られた約六百名の御遺族様と共々に桜花咲く靖国神社で再会し慰霊祭を斎行なし、引続き九段会館において現地報告会を開き此処にその大任を完うした次第です。
二 日本外務省の膜ぬけ
さて戦友並に御遺族様等の切々の願にもかかわらず今回ボルネオ派遣にビザ(入国許可証)の貰へなかったことでした。
厚生省は我々の趣旨企図を心より賛成して色々な形で厚意を御寄せ下さったのに、同じ日本の外務省が戦争当時日本は現地人に対し非常な迷惑をかけ恨を買っている。したがって古傷を思ひ出させる様な現地人を刺戟する様な遺骨収集は思ひ止り、慰霊祭とて人目につかぬ所を選んでコッソリ行ふ様現地の日本観事館から特に具申して来ている、との理由でガンとして聞き入れず、遂には相手国(ボルネオのサバ国、ブルネイ国)がかく申していると話が飛躍して収骨慰霊祭まかりならぬと、かたくなに態度をかへず、出発前日やっと観光といふことで許可になったものの、此のビザにはボルネオ会長始め在京世話人は外務省の事勿れ主義の腰ぬけ、非協力さに困られた様でした。
派遣団の私等はボルネオの第-歩をサバ国コタキナバル(戦時中ゼッセルトンとも又アピーとも呼んでいた)に着き先づ内海領事を日本領事館に尋ね到着挨拶をしましたがなるほどと思ひました。むつかしい顔をして役人風を吹かせ高飛車に収骨慰霊祭は一切してはならぬと命令されました。
しかし現実は内海領事や外務省の言とは全く反対であることを私等は目で見、膚で感じました。現地人が心より厚意を寄せ収骨に慰霊に心より、協力下さり所期目的を予期以上に果すことが出来たのです。
三 霊魂は戦友、遺族を呼び招く
二十一名の派遣団員は戦友十名、御遺族八名神職一名、僧侶二名でしたが、左の三班に分れて行動いたしました。
サバ国テノム班(十三名) 往復二度の死の転進通過地点で第三七軍最終攻防戦の地、他の二班に比し範囲広大
サバ国ラブアン島班(四名) 第三七軍隷下貫兵団奥山部隊玉砕の島
ブルネイ国ブルネイ班(四名) 貫兵団主力攻防戦の地
私はラブアン以外は何れも死の転進、血戦決斗の恩ひ出の地点ですがブルネイ班に所属して行動いたしました。
さて収骨は何れの班でも実に困難をきわめました。何といっても二十余年の歳月は樹木も家屋を変化し、密林も山も川も至る処近代文化に開発され目印となるべきもの何一つ残っておりません、馴れざる赤道下の灼熱の地、広範囲の戦場を三班に別れ数名の人員では何処をどう求め、どう探していいやらわからないのが現実でした。
しかし尊くも恐(かしこ)きことだと思ひます。霊魂はあらゆる形で私等を呼び続けたのです。此の奇蹟現象を科学の発達に今や月旅行も時間の問題だといふ今日如何に説明したらいいのでしょうか。
至誠通神とか神は私等の行動をあわれみ給ふて神助を賜ったのでしょぅか、戦友の霊魂は彼の地で迷ひつつ私等の来るのを待っていたのだと自問自答いたしております。
(其ノ一) テノム班 幽霊に導かる
テノム班ではアンダプアンといふ草原地帯のジャングル内で案内役の現地人季さんが五十米先に女と子供の泣き声を聞き「日本人か」ときき返せば一層喚き叫び声ははげしさを増したといふのです。季さんは見る見る間に顔面蒼白となり派遣団員の処に駈けもどり「もう私は向うに行きません怖い怖い幽霊が出た」と連発してその場に立ちすくんでしまったのです。
テノム班員は此の異様な不思議な出来事に一瞬声を飲み眼と眼を見はり此の奇妙な出来事にともかく季さんの指す方向に行って見ると草むらに無数の白骨が眠っているのを発見したよし、直にその場で派遣僧杉田老師により仏式による慰霊祭を営み収骨作業を実施したそうです。
私は班も違ひこの現場におりませんが此のアンダブアンの地は私にとっても最後の死守を命じられた地点で佐野中尉以下十二名の部下将兵の遺骸を埋没しております。彼等の霊魂が派遣団員を呼び寄せてくれたのだと信じております。
(其ノ二) ラブアン班は白光輪が道案内
此の班では玉砕奥山部隊の只一人の生残り鳥山博志氏(当時部隊本部付上等兵現在愛知県小学校教員)が道案内役となったものの二十余年の歳月は当時の模様を一変せしめ旧陣地を覓ぎ求めるにも方法がなく、到着以来ただ毎日毎日執念を足にまかせ谷を越へ川を渡り密林内をさまようた様です。この一行は四名、一人は道案内の生残り戦友鳥山氏、一人は御遺族中田老で長男中田見習士官の御尊父、一人は角田憲兵曹長の未亡人、今一人は僧侶として又著述家として九州福岡市で活躍して居られる河利致氏の四人でした。
老人と婦人を混へた一行は灼熱の暑気と草臥とあてもなく探し求める徒労にただ呆然として道案内役の鳥山氏の顔にも焦燥失望の色濃く無言で一行が椰子の根方に休んだ時、頭上の椰子の葉に残照が鈍い光を乗せて白色光るものがあったそうです。
その白い光は段々大きくなり招くが如く呼ぶが如く立ち去るのだそうです、四人は霊感にうたれた如くその方向について参りますと先頭に立った鳥山氏が「ありました此処が部隊本部の地点です。」「此の古井戸が目印です」と叫けんだそうです。
かくて爆撃と長年月に腐食した兵舎のトタン屋根の破片、塹壕、たこつぼ(個人壕)等次から次へ玉砕前夜を偲ぶものが出て来た様ですが遺骨は無かった様です。
たこ壷の底の草むらの中に最後の突撃まで膚身はなさず持っていたであらう日本の缶詰の空缶、陸軍の水筒の遺品には一行は新な涙にむせんだそうです。此の陣地跡で河氏が仏式で慰霊祭事を行った由です。
此の島は戦後直に占領軍司令部位置となり占嶺軍によって相当丁重に遺骸は日本人墓地に弔はれ、又ボルネオ方面戦死の濠軍将兵四千余の墓地も此の島にあります。
彼我の恩仇を越へて御霊安かれと祈るのみ。
(其ノ三) ブルネイ班 猿田彦命の出現
ブルネイ班は現在第二十九代目二十三才の青年サルタン(王様)ハッサナル・ポルキア氏によってよく統治され石油国として実に豊かに富んだおとぎの国の様な王国です。
此処では貫兵団長明石少将(私は此の兵団所属でした)の率いる長路の転進に装備弱体化し兵員は病人同様の一ケ旅団が昭和二十年六月七日来攻せる物量豊かな濠軍一ケ旅団と攻防戦を展開した修羅場なのです。私にとって山も河も密林も今はかなしい思ひ出の処なのです。
戦後占領軍とブルネイ政府とによって遺体はかなり丁重に処理された為市街地並周辺は皆無は当然と察せられます。
ただ奥地「リンパン」には、玉砕佐藤部隊終焉の地ですのでかなりの遺骨があるはずですが、交通至難と共に人食人種とされるダイヤ族イバン族の未開人種もおりブルネイ国の統治も彼等には未だ及びかね、したがって治安も惑いといふ情報に中止して、ひたすら貫兵団緒戦時の敵上陸地点の「ムアラ」の海岸線に収骨をしぼって行動をいたしました。
しかし二十余年の歳月に著しく海岸線は開発され当時のままである処は皆無に近くブルネ一国政府の協力のかひもなく、ブルネイ班は一体の遺骸も収め得ずして招魂慰雲祭のみに終るのではないか、せめて霊魂の溶けこんでいる「ムアラ」周辺の砂だけでも持ち帰らねばと収骨は全くあきらめておりました。
此の時にあたって神は!! 霊魂は!! 猿田彦命を我々の前に出現してくれました。
猿田彦こと中村幸助氏(七十才)は鹿児島県出身で戦争以前からボルネオに渡り住み現地妻を娶り、戦時中はブルネイ国「セリヤ」の油田地帯で石油会社に務め終戦時は現地妻が彼を山奥に隠しそのままボルネオに踏み留った只一人の日本人なのです。彼の子息三人はブルネイ国政府に務め或は商業を営み等して全くの楽隠居の身ですが、日本よりブルネイ進出の港湾作業の大都工業に強いて頼まれ、現地に明るく通訳は勿論現地人作業員募集監督の仕事をして現在「ムアラ」作業所に務めいる人です。
彼の顔貌は色赤黒く、まゆ太く、目は烱々として光り、鼻偉大、まったく猿田彦命を連想する和人です。此の人との出現会合は時といひ、風貌といひ、なし行ひ下さった役割といひ猿田彦の命でなくてなんでありましょう、神がさし向け下さったものであり戦友霊魂が彼を介して私等をお招き下さったものと信じております。
此の猿田彦の導きで無数にある艦砲射撃の弾痕、爆撃に焼きただれた樹林、上陸用舟艇の残がい、樹林に残る弾痕等往時の修羅激戦の跡をとどめなく流れくる涙を呑んで偲びました。
しかし収骨にいたっては周辺の現地人はガンとして知らぬ知らぬでなんだか怯へているかに見受けられます、これもこの猿田彦の説得で理由が判りました。
戦争当時濠軍は上陸以前から此の「ムアラ」浜周辺の現地人に対し物心両面の宣撫工作が十分に行はれており、強い方に味方せぬと己が生命危しと見た植民地人間本能から心ならずも白人濠軍になびき同色の日本軍に不利な立場をとったとのこと、現在ではすまぬと反省しているが。只今日本人が収骨慰霊祭に来ているといふが復讐に来たのではあるまいかと、それ故日本人来たれりの情報に戦争知らぬ子供、青年は外出しても戦争を知る年齢層の者は家に籠り、或は遠くへ逃げ隠れているとのことでした。
猿田彦こと中村氏はよく私等派遣団の本意を彼等に伝へ説得し私等も又日本より持参の品々を彼等に与へてお互に了解を求め合ふことが出来、古戦場跡より戦後連合軍の命によって死体処理した火葬地点或は埋葬地点で収骨することが出来た次第です。
四 ブルネイ慰霊祭
顧みればボルネオの征野から帰還し既に二十余年の昔になりますが私の人生にとってこれほど強烈に脳裡に刻まれている事はない。未だ春秋に富む幾多戦友益良雄を次から次に呑んだ灼熱の国ボルネオの山川、密林にすら悲憤の涙がにじんで参ります。
今度くしくもボルネオ派遣団の一員として再度彼の地をおとづれ戦友の遺骨を覓(ま)ぎ求め、且つ在りし日の勇姿を涙ながらに偲びつつ慰霊の祭事に奉仕出来たことは、幾多の戦友を失った中隊長として又神に仕える神社人として真に感激に堪へない次第です。
○
昭和四十四年一月二十五日午後四時よりブルネイ政府の厚意により街の中心にある教育会館といふ近代的建物の五階大広間を斎場として慰霊祭が斎行されました。
案内状の印刷から発送に至るまでブルネイ政府が準備下さり、神籬(ひもろぎ)、玉串に必要な常磐木の採集から祭壇に至るまで日本より出張、港湾事業に従事していられる大都工業KKの厚意により準備していただくことが出来ました。又マイク、テープレコーダ等は中川造船KKに御世話になりました。
神饌については御霊がいまはの時に欲したであらう故国日本の水、或は米、塩を私は日本より持参し、殊に神酒は伊勢神宮より特別御供え下さった物を携へ用意いたしておりました。
其の他の神饌については台湾出身の陳萬円氏に調達依頼して現地果物を山と積んでお供へいたしました。
斎場施設には同行の鳥山博志氏がこまめにやって下さいました。
かくの如く皆々様の御厚意と御熱意で開始時刻までに準備万端整った次第でした。
○
やがて時刻にはブルネイ国からユソフ総理大臣以下政府要人を始め日本商社の邦人、現地人等多数の参列あり、典儀(進行)は鳥山氏と川口氏の御両名にて適宜担当下さり左記次第で進められました。
◎挙式 の 辞
先 修 祓
次 降 神 の 儀
次 献 饌
次 斎主慰霊詞奏上
次 祭 文 奏 上
1、ブルネイ班団長 木村 強殿
2、神社本庁統理 佐々木行忠殿
3、兵庫県知事 金井 元彦殿
4、高砂市長 中須 義男殿
次 電 文 披 露
1、郵政大臣 河本 敏夫殿
2、参議院議員 迫水 久常殿
3、同 右 青田源太郎殿
4、衆議院議員 渡海元三郎殿
次 玉 串 奉 奠
次 撤 饌
次 昇 神 の 儀
◎閉式 の 辞
◎団長挨拶
遺族代表として御参列になった中田少尉の御尊父中田幸次郎氏、ラブアン島で散られた未亡人角田千代様等いついつまでも感涙にむせんでいられました。
次いで一月二十九日サバ班とコタキナバル(戦時中はアピーと呼んでいた)で合流なしホテルの一室を斎場として神式と仏式とで再度慰霊祭を奉仕申し上げた次第です。
ポルネオ現地慰霊祭詞
南の波路遙けき綿津見の碧に伊照る灼熱の国此処ボルネオ、ブルネイの大地を厳(イツ)の斎庭と祓ひ清め神籬(ヒモロギ)差樹てて招奉り坐せ奉る第三七軍隷下の戦歿将兵壱萬八千余桂の英霊を始め、此の大戦に身退る濠軍将兵並に現地諸人等の御霊の御前に斎主元独混第五六旅団第三六七大隊第一中隊長陸軍大尉、荒井神社宮司広瀬正三恐み、恐みも曰さく。
現身の人類の世界には洋の東西を尋はで歴史の古今を厭はづ武力を以て戦ひ争ひ来ぬるは悲しき定にこそあれ。
あはれ汝命等はや去し大東亜戦に召出され各も各も御国の為母国を後に此のボルネオに伊行き渡りて命の限り奮も戦ひつつ神去り坐しし尊くも悲き御霊にこそあれ。
つらつらに我軍の戦況を思ひ省らば馴れざる灼熱の風土と悪疫の瘴病にいたつきて身去り給ひ、或は又天を覆ふ密林内の道無き道を求めつつ泥濘膝を没し食糧無く医療設備無き道を来る日も来る日も歩み続けて壱百数十里の横断転進に身も心も疲労れ果て痛しくも草生す屍と身退り給ひ、最后(イヤハテ)にはブルネイ浜辺に襲来る濠軍の砲弾、兵団其の数限りも有ず、我は装備劣弱亦将兵数少く善く処し能く戦ふもラブアン、ブルネイ戦に奥山大隊、佐藤大隊は痛しくも玉砕し、ボーホート戦、ミリー戦に厳の雄建び繰返し醜共を蹴散らし、又タラカン方面戦には常井大隊悲しくも玉砕なし、パリックパパン戦には仇等討懲め成すも、各戦場には若桜の散るが如く数多の将兵が神去り坐しぬ、口惜しきかも、痛しきかも。
斯如有らば其の最后(イヤハテ)の極み或者は千里遥けき母国の奥山の清水を希(ネ)ぎ求め、或者は垂乳根の父母愛しの妻子の御名を呼ひ叫ひつつ、或者は君が代の苔蒸す悠久(トワ)を祈りつつ護国の御魂、靖国の御霊と神去り坐ししは尊くも畏き極にこそ。
故此処を以て生残し諸人等山脇正隆大人を中つ心に相語り相謀ろひて元ブルネイ県知事木村強大人を派遣団長として八重の海原、島の八十島飛び越へ来りて御遺骸(ミナキガラ)を覓(マ)き収め奉り、御霊慰めの祭典仕へ奉らむと今し御前に垂乳根の親御、恋しき妻兄弟、共に戦し友等、及現地ブルネイ政府の司人、関係ふ諸人等、甚多(イトサワ)に参列み、故国より遥々に持ち携へ来る伊勢神宮より賜し神酒、郷里の御米、深山の真清水、種々の味物を捧け奉りて汝命等の大功績を称奉り在し
日の御姿を偲び奉らくを御心も平穏(オダヒ)に聞食して今も往先も皇御国の鎮と世界の平和を朝凪の海の如く静に浦安の国と護り給ひ、御遺族、戦友、諸人等の上に厳の御霊幸へ給へと謹み恐みも曰す。
祭 詞
神社本庁統理 佐々木 行忠
これのボルネオの大地(おほとこ)をいつの斎地(ゆには)と祓ひ清め神籬(ひもろぎ)さし樹てて招(お)ぎまつりませまつる。故ボルネオ派遣軍戦歿将兵たちの英霊また故濠軍将兵並びに故現地人の御霊の御前に神社本庁統理佐々木行忠かしこみかしこみもまをさく、あわれ汝命(いましみこと)はや去にし大東亜戦争にありて各も各も御国のため遥々と故郷を後にして負ひ持つまけの務のまにまに此ののボルネオの戦場に赴きあらゆる苦しみを乗り越え雄々しく武く戦ひて荒山に草むす屍海原に水漬く屍と天翔る御魂と散り果て給ひけるはあたらしくもいと哀しき極みになむ有りける。
かれ是に二十余年を経てボルネオ会遺骨収集団の計画(くわだて)に依り漸く汝命たちのみ遺骸(なきがら)を収めまつり斎(いは)ひまつらむとするに依りて今し御前にそのかみの戦友またかかづらふ人々たち遙けくも海の八潮路島(やしほじ)の八十島(やそじま)乗り越えてまゐつどひ心尽しの御食御酒(みけみき)くさぐさの物を供へまつり懇に慰霊の御祭仕へまつり汝命たちの大き功績(いさおし)をたたへまつりかたじけなみまつりて拝(おろが)みまつるさまを御心も隠(おだひ)にきこしめし給ひて栄え行く新しき御代の礎と今も将来(ゆくざき)も天翔り国翔り世界の平和また御国の弥栄(いやざか)のために守りさきはへ給ひとはに祖国の鎮めとしづまりませとかしこみかしこみまをす。
祭 文
兵庫県知事 金井 元彦
本日ここにボルネオ万両において散華されました日本人戦没者のみ霊をゆかりのある当地戦跡にお迎えし厳粛なる合同慰霊祭が執り行なわれるにあたり兵庫県民四百五拾萬人を代表しつつしんで祭文を捧げます。
顧みますれば過ぐる大戦において諸霊は日夜をわかたぬ激烈な戦斗のさなかにあって悪疫と戦い困苦欠乏に耐えながら、ひたすら祖国の安泰を念じつつ尊い犠牲となられましたその苦労を思うときまことに哀悼のきわみであります。この悪夢のような戦火が止んですでに二十数年遠い異郷の地において弔う人もなく長い歳月を風雨のもとに送られた、諸霊の痛ましいお姿を思うとき切々の情強く胸に迫るを禁じ得ません。かかる国民の至情を担ってもと貫兵団長明石泰二郎氏以下慰霊団一行が現地に赴き、その積極的な努力によって諸霊のご遺骨を祖国にお迎えすることになりましたご遺族はもとより私ども国民にとりましてもこの上もない喜びであります。
諸霊が命運尽きるその瞬間までひたすら思いをはせられた祖国日本はいまや先進諸国が驚異の目を見張るほどめざましい繁栄をとげ、国民総生産世界第三位の実力を誇るまでに至りました。私どもの兵庫県も西日本経済圏の中核として急速に発展し明年大阪に開かれる世界万国博覧会を控え経済文化の伸長は著しいものがあります。この輝しい現状を祖国に帰る諸霊にまのあたりご覧いただけないのはまことに残念でありますが、これもひとえに護国の礎となられて遠く南冥の空からご加護を垂れ給ふた、たまものと信じここに深く感謝のまことを捧げる次第であります。私どもは諸霊が身をもって強い祖国愛を示し人類の平和のために尽されたご献身を深く肝に銘じ豊かな国土と共存共栄の世界をつくるために精進を重ねることを誓うものであります。
またご遺族の援護につきましても国の施策の充実とともにできる限りの力添えをしてまいりたい所存であります。み霊よ安らかに鎮まりまして一路平安に懐しの祖国にお帰りになりますようお祈り申しあげ祭文といたします。
昭和四十四年一月
慰霊のことば
高砂市長 中須 義男
つつしんでこの南海の果てボルネオ島で尊くも散華されました高砂市出身の十四の霊に申しあげます。顧みれば諸霊はあのはげしい太平洋戦争のさなか、いとしい家族を残し日本を離れること幾千里のこの南海の果てで華々しくご活躍されましたが、ついに祖国必勝の雄図成らず武運つたなくも不幸護国の鬼と化せられました、まさに痛痕きわまりありません。
終戦以来すでに二十有余年祖国日本は、諸霊のまことに尊い犠牲によってここに全く平和に立ち返り、人々のおもざしは明るく輝いております。しかしこの間、海上はるか南の島で諸霊の遺骨は祖国への帰還を夢み激しい望郷の念にふるえながら異国の雨と風にさらされて参ったのでありましてただただ断腸の思いでございます。
今般諸霊のもとへ参りました遺骨収集団の献身的なご努力が実り祖国へのご帰還が実現しご遺族との姿なきとはいえ今ひとたびのめぐりあいが実りますようにただただ祈るばかりでございます。諸霊の郷土高砂もこの間着々と発展をつづけてまいり、なつかしい山河も大きく変貌をとげております。
この今日の繁栄も悲しや諸霊遠く去り一日たりともお目にかけ得ないことはかえすがえすも残念に存じます。しかしながらわれわれは諸霊の残された尊いご教訓を体し、さらに住みよい郷土実現に努力することを固くお誓い申しあげます。ここにひたすら諸霊のご冥福を祈り慰霊のことばといたします。
五 ボルネオの対日感情
日本出発にあたり耳にした日本外務省の現地人の日本に対する悪感情或はボルネオ到着早々聞かされたサバ国在任内海領事官の言とは似ても似つかぬ心あたたまる親日感情であることを、二、三列記して見たいと思います。
○
サバ国テノム班では日本帰国にさいし官民の別れのパーティを開いた際代表の国武英太氏(七十一才)の謝辞に対しテノム県長トーマスコラー氏は
国武サンは只今戦時中迷惑をかけて済まなかったと謝っておられるがあれは戦争だ、戦争は喰うか喰はれるかの瀬戸際だから決して迷惑とは思っていない。現在吾々は日本人に対し何等の恨を残していない。そして戦争によって受けた犠牲よりも日本人から学び取った教訓の方が遙かに大きかった事をむしろ感謝している。
私自身あの戦争で弟と妹の二人を亡くした、しかし私はこの不幸よりも戦争の結果永い間の英国の植民地から解放されて独立を勝ち取ったことを誇りと思いこの意味において日本に感謝している。
と答辞をしている。
引続きテノム郵便局長が「海行かば水漬く屍山行かば」の歌を日本語で堂々と壮重に歌いこなし真に和やかな雰囲気であった様です。
因みに国武氏は九州福岡市で米穀商と私立幼稚園の経営者で戦時中軍政宮として北ボルネオ「テノム」にあって第三七軍最後の攻防戦を展開するにあたり食糧確保現地人治安に功蹟のあった人です。今尚現地人から慈父の如く尊敬をうけております。又御本人も実に見上げた方で現地人の子弟を二人まで引取って日本の大学に留学さしておられ、彼の国の発展弥栄を心より願っていられる民間人として積極親善外交の第一人者とでも申すべき、なかなか敬服すべき御人です。
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ラブアン島班にあっては昭和十七年ボルネオ初代軍司令官前田利為中将が不幸飛行機事故で此の地に散華せられその殉難碑(碑文は東条首相)がラブアン島庁の美しい芝生の前庭に今日尚ほ存置建てられている事実です。
普通ならば撤去されていなければならぬにもかかわらず外国の役所内の一番目につく美しい処に飾られていることです。
日本軍が善政をほどこして呉れた、我々の手本だと此処の島民は信じてくれている様です、実に心の温まる思いがいたします。
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又ブルネイ班にあっては慰霊祭終了後席をあらため、ブルネイホテル別室において直会(ナホライ)(お別の感謝招待パーティの意味も含む)を催しました。ブルネイ国からユソフ総理大臣(広島文理大にニケ年留学)宗教大臣、厚生福祉大臣、国連派遣経済顧問ゴールド博士、オマール教育長等政府要人十名、日本商社代表八名、ラブアン班合流して派遣団八名の出席者です。
開会にあたりブルネイ班代表の木村強氏(六十九才、戦時中ブルネイ県知事数年前、前ブルネイ王に招かれブルネイに来る。現在宮城県選挙管理委員長)拶挨に答へてブルネイ宗教大臣は
時代は刻々として新たなる世紀に向って変革し発展を遂げつつある現在二十年前に発生した悪夢のような戦争の傷痕を繰りごとの様に想い出しても、つまらないことだと思う。
日本軍はわが国に損傷を与えたというけれども吾々に民族独立の機会を作って下さったのは貴国日本人であった、そればかりでなく勤労意欲に欠如している吾が国民に勤労精神を培い生活に改善と工夫を教へてくれたのは日本人であり、更に吾が民族にも産業と文化のフロンティア精神を植えてくれたのは実に日本人であった。今こそ日本とブルネイ両国は相互の信頼を深め此の国へより多くの日本人が移住してくれることをお待ちする。
本席はお招きにあづかりブルネイ国出席者一同に代り厚く御礼申上ます。
と拶拶されたのです。
次いで撒饌の伊勢神宮の神酒を一同につぎ私はブルネイ政府勤務の森通訳を通じて説明して杯をあげ、やがて会も和やかさを加へてくる頃、私は再度森通訳をわづらはして拙作の漢詩を朗吟披解いたしました。
海遙飛母留根雄(わたつみはるかにボルネオにとぶ)
戦友遺骸欲覓収(とものなきがらまぎおさむとほっす)
忠烈輝如十字星(ちゅうれつはじゅうじせいのごとくかがやく)
奉献故国水与酒(ここくのみずとさけささげたてまつる)
又同行の角田未亡人は新潟の出身なれば「佐渡おけさ」を美声で唱いその他団員も邦人も各々かくし芸を次から次へと披露しました。ブルネイ国総理大臣も「白地に赤く日の丸染めて、ああ美しい日本の旗は」の唱歌を日本語でうたひ、同じふしでブルネイ国歌の作替歌を披露して下さり、その他大臣達も日本語で軍歌を歌ふ等して南十字星の輝く夜の更けることも知らず和やかに南国の一夜をおくりました。
かくしてブルネイ滞在中に会った市場の親父陳万圓さん、鉄工所の主人ヘンリウォン氏、自動車の運ちゃんイデレス、ソイレの両君、中学校長葉清華氏等いずれも異口同音に吾々の今日の発展は日本人に教ったと申しその親日的な彼等の感情はひしひし膚身に感じます。
やがてブルネイを立ち去るにあたりわざわざ国会議長イブラヒム氏(六十九才)を始め官民多数が空港まで御見送り下さり、空港貴賓室で時間待ちに彼国会議長の話が面白い。
神様が人間を作り下さる時、窯に入れてなま焼きで早く取り出したのが白人で、これでは失敗だと次は念を入れすぎて焼きすぎたのが黒人、これでは又失敗と次に慎重に念を入れて作り出したのが吾々黄色人種です。
とユーモアに語る。
彼国会議長も膚色から来る親しみからこの様な話がつい出たのであろう。私は彼と確い握手を交しブルネ一国の弥栄と御多幸を祈りつつ機上の人となった。
六 む す び
私は昭和十九年七月再度の召集にボルネオに出征して以来一ケ所に留ることなく、軍の作戦命令のままにふり廻され、二回の道なき道の大転進は通算実に二百五十里を踏破している。九死に一生を得て帰還したものの常に思ひ出されるは共に転進し、共に戦ひて武運つたなくもボルネオの地に神去ります戦友益良雄の勇姿です。
それ故に私宅の神所には功魂社と命名した、一社にボルネオ関係の戦歿英霊を鎮祭し、日毎祭祀し、毎年欠けることなく生き残り戦友相集って慰霊祭を続け今日に至っております。
又、荒井神社境内にも復員後荒井町出身戦歿英霊を斎祀する美雄弥(みおや)神社を創設いたしおります。かなしき英霊の顕彰慰霊は戦友として将又神社人として私の生涯の務めだと常に心に念じおります。
○
今度はからずもボルネオ会より派遣の使命をうけ二十余年振りに現地におとづれ、収骨作業並に慰霊祭奉仕なし心おきなく大任を果し得たことを心より感謝感激しております。
今度の派遣団実施にあたり、山脇名誉会長、馬奈木初代会長、明石二代目会長、或は城所氏を始め在京各位の有形無形の大変な御尽力御世話に対し地方の私等は心より感謝申し上げ厚く御礼申し上げます。
而して生者必滅は此の世の常とは申せ明石会長の帰幽は私にとって此の上もなく淋みしく存じます。
明石閣下とはブルネイの凄惨な血戦苦斗に引続きテノムの軍司令部の位置を求めつつ再度の死の行軍ともいうべき悲痛な転進となり、行動を共にした直属の上官なのです。
当時私は剣道四段で幼年より剣で鍛えられた脚力と精神力が幸か不幸か転進にあたり、兵団の最先頭を命ぜられ、密林内を伐開しつつ前進して四十五日目に任務を完了いたしました。
途中明石閣下は私の先頭まで来られ階級ぬきの人間、明石としてお互に全知全能全霊をしぼって後続部隊、軍政、婦女子等の生命を案じつつ道なき道を探し求めて前進した思い出は忘るることが出来ません。
謹んで本稿を併せ明石閣下の霊前に捧げ冥福を御祈り申上げます。
終筆にあたり今回派遣にさいし独歩三六七大隊の戦友各位、地元民各位、はもとよりですが神社本庁、伊勢神宮、県神社庁、加古支部各神社、生田神社、長田神社、海神社、厳島神社、県敬神婦人会等神社界より御協力種々御指導御配慮賜り、或は御見送りいただき厚く御礼申し上げます。
又河本郵政大臣、迫水、青田両参議員、渡海代議士、兵庫県知事等地元或は旧知の政界の方々から激励電文を御寄せ賜り御厚志有難く御礼申し上げます。
昭和町十四年弥生一日認む 以 上
・・・遺骨収集及び慰霊祭写真集が続きますが略させていただきます(当ホームページ管理人)