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新聞記事

私の目に止った各種新聞記は左掲の外、毎日新聞(昭和四三・六・十一)にはボルネオで大阪外大生銑持つ俄に襲撃されて殺されている。石油開発会社に通訳としてアルバイト中の学生の惨事記事である。朝日新聞(昭和四三・一〇・八)にはサバ紛争の背景としてフィリピン対マレーシアのサバ領有権をめぐる対決の足あととして大きく、図面入りで報ぜられ、又神戸新聞(昭和四四・八・二九)には「ボルネオの日本人」の見出しで五日間連載され、(1)水資源にいどむ佐沢栄一さん、(2)サラワク領事高広光さん、(3)国づくりに誇りボルハン・サブロさん、(4)カラ手革命士生良樹五段、(5)農業指導一筋逢坂新治君等六人、としてボルネオに雄飛活躍の日本人を紹介している。左に二、三新聞記事を掲載しておきたいと思う。
編者

東南ア学術調査の旅  北部ボルネオ

(昭和三十九年六月一日読売新聞より)
戦後、数えきれないほどの学術調査隊が、世界の秘境に挑んだ。
しかしたった一つ空白の島が残っていた。ボルネオである。学術的には処女地といってよい。わたしたちの目的はサバ(旧北ボルネオ)ブルネイ、サラワク三地域の湿潤熱帯林に成育する植物と、民族生活の調査である。
黒くよどんだ海
 ラワン材を運ぶ貨物船で、サバのサンダカンに着いたのほ昨年九月三十日。宇野港を出て一週間目だった。北部ボルネオの海は黒くよどんでいる。それはかつて探検したことのあるポリネシアの、明るい海の色とはあまりにも対照的で、島の古さを物語っていた。この島には熱帯を象徴するサンゴ礁がなく、島全体が泥と砂の堆積した沖積層なのである。黒ずんだ海の色は上流から流れ込だ土砂のせいであった。
 サンダカンからダグラスDC機でブルネイに飛んだ。眼下の原始林は日本とちがって起伏がはげしい。それが「ようこれだけつづきよるな」と思うほどどこまでもつづく。サバ、ブルネイ、サラワク三地域を合わせた面積は、日本の本州ほどだが、人口は京都市(百三十一万人)程度。眼下に果てしなく広がる原始林を見せられて、人口密度の薄さがなっとくできた。
町は石油ブーム
 ブルネイ・タウンは活気あふれる石油の町である。ブルネイ・シェル・カンパニーが根を下ろし利益の一部は税金として還元される。おかげで国民一人の平均所得は世界一、二を位を争っている。そのせいかどうか、ブルネイからサラワクに通ずる自動車道は、りっばに舗装されている。だがサラワクにはいったとたん、デコポコ道に変わった。
数えきれぬ木の種類
 サラワクはマレーシア連邦の一員である。海岸線の町ビンツルからボートでまる一日、タタウ川をさかのぼった木材伐採地、ミナキャンプ付近が最初の調査地域である。この周辺は典型的な熱帯降雨林で、川の近くだけはき焼畑のあとに育った二次林だが、一、二キロ奥へばいると原始林にぶつかる。
 木の種類が多いのが特徴で、伐採現場に切り倒されている十五本を調べると、十四種類あった。つまり同じ種類を切ったのは一度というわけだ。そのうえ木材に利用されるのは、大木になるもののうちの一部だから、いったい何種類ぐらいの樹木が成育しているのかわからなくなった。
 種類が多いだけでなく、日本の温帯林を見なれたものには、見当がつきかねるほど大きいのである。高さ二〇メートルをこすのはザラ。ときには五〇メートルのもまじっている。山地には六〇メートルという超キング・サイズまであって、日本のビルなど足もとにも及ばない。幹の直径一メートル前後からなかには三メートルをこえる。このように巨大なフタバガキ科植物は、ボルネオが分布の中心である。

 これらの大喬木のほかに、五メートルから二〇メートル前後の木が層をなして重なりあっているので、熱帯の強い日ざしも森林の底までとどかない。この樹木の層を専門家は「木本(もくほん)層と呼ぶ。空から見た原始林の起伏は木本層のためだった。
 木が大きいだけに伐採風景もすさまじい。ノコギリを一切使わずオノを巧みにふるってラワン材(直径一メートル)を三十分から一時間できり倒す。巨木が倒れるとき、まきぞえにされて近くの木もバタバタ倒れる。その音のすごさはまた格別で、落雷そっくり。一キロ四方にひびきわたる。
頭上からヘビが降る
 伐採直後はとても現場には近よれない。ひとかかえもありそうな木の枝やヘビが、頭上から降ってくるからだ。わたしたちはこのキャンプを中心に、プナン族の住むカクス川上流地域や、イバン族の住むカナ山地域へ調査旅行をするなど、約半年のジャングル生活を始めることになる。(京都大学ボルネオ学術調査隊々長平野実、堀田満=生物学、松原正毅=考古学、民族学)




ボルネオの山奥をたずねて

(昭和四十二年十月七日朝日新聞より)
自然の変化に育んだサバ州
一昨年からひきつづいて、学術調査のためボルネオの土をふんだ私は、このたび、やっと本格的な調査地として、ボルネオの東北端にあるマレーシア連邦のサバ州を選んだ。その理由はいくつもあるが、一つは北海道ほどの面積をもつサバが、サラワク州にくらべて南シナ海、スルー海、セレベス海の三つに囲まれ、山岳地帯も多く、自然の変化に富んでいるとともに、そこに住む住民の種族や生活様式の変化も多いといわれているからである。
 東南アジアの最高峰であるキナパル登頂という最初の仕事を終えた私は、植物担当の立花吉茂さんと井上、木原の二学生とともに、ふもとに住むカダサン族の部落をたずねた。サバ州全人口の七〇%近い土着原住民のうち、半数を占めるこの種族は、州政府にも議員を出すほどの勢力をもっている。カダサンという名称は、この種族全体を一括した呼名であって、住む場所によって、言語や固有の服装なども少しずつ違っている。キナパルのふもとの主要地であるラナウの町に滞在中、その東北にあるナラワン村をたずねた。今回の調査の目的の一つは、熱帯土着民には高血圧症がみられないと一般的にいわれているので、それを自分の目で確かめることであった。
ナラワン村は、西海岸にあるコタプル町のカダサン族の部落タムダラと同じように部落は一つの共有広場をもっていて、それを取りかこむように家が立ちならんでいた。
哀調帯びた歌、夜空にこだま
 われわれはオラン・トアン(首長)の許可を得た。タムダラ村では、オラン・トアンはドラを鳴らして村人を集めていた。ナラワン村では伝令を走らせる。公会堂をもつ村では、そこに集るし、ない村はオラン・トアンの家につめかけた。
 ラナウの別の部落、マタン村では、女連中がカダサン族の服装に着替えてわれわれの行くのを待っていてくれた。固有の服装、歌や踊りをみせてくれる。単純ななかに哀調を帯びたカダサンの歌は、ボルネオにいることを忘れさせ、われわれを日本の山村の盆踊りか民謡の世界に引きずりこんでいった。それは、キナパル頂上を目前にひかえ、ポーターのカダサン娘が歌ってくれた一夜に似ていた。彼らは自分たちの歌がテープに録音され、海をこえた日本という国に紹介されると聞くと、次々とマイクの前に立ち、歌声は夜空にこだましていった。

 西海岸線に並行に走るクロッカー山脈をこえて内陸部の調査に向う。このあたりから南は、カダサン族の分布は減って、ムル族が多くなる。むかし、勢力のある人間の首を狩り、そのされこうべを入口にぶらさげることによって自分の威力を示した習慣も、いまはない。彼らのとっておきの頭の骨は、センスラン村では一つの納骨堂におさめられているが、年一回のお祭は、今なおその前で盛大におこなわれるという。

 内陸部の大きな町ケニンガウからジープで、北方のタンブナンにあるムル族の部落をたずねた。この部落は三百戸以上もある大部落で、三つの小部落に分れ、それぞれにネーティブチーフと呼ばれる首長がいる。訪問日の朝、レストハウスに電話がかかり、ジープを駆ってやってきた五十年配の男が、なめらかな英語で案内してくれた。私は、教育局か行政庁のお役人とばかり思っていたが、なんとそれがネーティプチーフの最高責任者だった。
伝統の踊りができぬ若い者
 高床式の首長の家には電話もラジオもあった。その床下で、私たちのためにゴングが奏でられた。そしてゴングにあわせて二本の鉄木をかちあわせるその間に、足をふみ鳴らす伝統の踊りが、チーフ夫人たちによってはじめられた。
 「いまの若い者は、この踊りができない」とチーフは嘆いた。こんなボルネオの山奥にも、若者にとっての新しい時代が来ているのであろうか。
 ムル族の客人となる認証式のようなものがはじまる。私は、最高チーフのトヤグ氏の見つめる前で、タパイという米で作った地酒を、カメにつっこまれた竹の管で吸いこむのだ。それは、きめられた量を一息で飲みほさねばならない。まわりにすわっている連中も見つめている。一大決心でぐつと飲みこんだ。歓声があがる。私はムル族の仲間として、いま正式に認められたのだ。ゴングが鳴り、踊りがつづく。タパイに赤らんだ顔は、ランプの光を受けて輝きを増す。

 カダサン部落でもそうだったが、戦後はじめて訪れた日本人を、昔からの友のようにもてなしてくれる。そこには、国をこえ、人種をはなれた一つの友情があった。熱帯の太陽にやかれて褐(かっ)色になった私たちだから、カダサンやムルの人たちに抵抗なく受入れられるのかも知れない。しかし、私には、これまで歩いた東南アジアのどこの国よりも、ここボルネオの住人の万が、より日本人に似ているように思われる。それは、彼らの遠い祖先が、台湾や海南島からやってきたことに起因しているのであろうか。
一日二食主義、ストレスなし
 さて、高血圧症だが、たしかに彼らはその症状は見られなかった。米とタピオカを主食とする彼らは、多くは一日二食である。栄養源の乏しい食事は、労働時間の少ないことと相まって、中国系マレーシア人に多い高血庁症から、彼らを救っているのだろう。あるいは、体質的なものもあるかも知れない。だが、それより、文明病的な高血圧症の原因には、ストレスが関連していることが多いのだ。太陽の動きとともに毎日の生活をくりかえす彼らが、ストレスによって病気を引きおこしているとは思われない。結核、マラリア、皮膚病などが彼らからなくなったとき、彼らの中にも高血圧症が問題として起ってくるかも知れない。
(大阪市大東南アジア第五次学術調査隊ボルネオ班長 吉川公雄)




経済で日本と深い結びつき

(昭和四十三年十月八日朝日新開より)
 サバはボルネオ島の最北端にあり、面積は七万六千百十五平方キロ、北海道よりやや小さい。人口は約六十万、ドゥスン族、バジァウ族、ムルト族、その他の原住民が住み、華僑の数も多い。経済面ばかりでなく、政治面でも華僑系の活躍が目立っている。州都コタキナパルは旧名をジュセルトンといい、日本の領事館も置かれている。
 主な産物は米、ゴム、ココナツ、コプラ、タバコ、マニラ麻など農産品のほか、豊富な森林資源に恵まれ、木材の産出が多い。木材は大きいラワン材が主で、輸出の六、七割は日本向け。日本はサバにとって重要な貿易相手国となっている。
 サンダカンの港を見下ろす小高い山の上には、旧日本軍兵士の墓地がある。これと隣合わせに、戦時中日本軍に徴用されて死んだ中国人の慰霊塔が建っている。中国人の死亡事件は、シンガポール、マラヤ本土などで、いわゆる「血債間題」を起こしたが、ここでは、そうした問題は起こらず、むしろ、日本軍の墓地がきれいに手入れされて残されている。これは住民の対日感情がよいためで、その最大の理由は、むかしから日本との経済的な結びつきが深いせいだといわれている。

 サバ全州に住むフィリピン系住民はおよそ二万人といわれ、ほとんどがゴム園や木材の伐採、道路工事などに従事する出かせぎ労働者である。このほかインドネシア系住民も多く、かつてインドネシアの〝マレーシア対決政策〟が盛んだったころには陸続きのインドネシアからのゲリラ潜入も多く、国境付近ではものものしい警備陣がしかれた。サバはスルー海をへだてて、フィリピンに面しているが、この海域はむかしから海賊の横行したところ。最近では香港、シンガポールなどからサバに入った品物が、密輸でフィリピンに流れ込む事件が多い。その金額は年間五千万マラヤドルに上るといわれ、フィリピン側は取締りに手を焼いていた。昨年一月、両国の密輸取締り協定が仮調印され、十二月から発効したが、こんどの紛争 でマレーシアは同協定を破棄した。


黄金ずくめの戴冠式

1日、ボルネオの英保護領ブルネイで新しいサルタン(土侯)の戴(たい)冠式が行われた。写真は父親の前土侯から金の王冠をかぶせてもらうハッサナル・ボルキア氏(22)。石油が豊富な国だけに何もかも黄金ずくめの中で、戴冠式は4時間続いた。(昭和43年8月5日朝日新聞より)


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