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ブルネイ王に招かれて

元ブルネイ県知事  木村 強
氏は陸軍司政官として昭和十七年五月北ボルネオに着任、軍政に貢献された人である。昭和三十九年四月ブルネイ王に招かれ、続いて昭和四十四年一月ボルネオに遺骨収集並びに現地慰霊祭にブルネイ班の長として参加された。現在宮城県選挙管理委員長として活躍されている。
 現住所 仙台市御立場七八
 昭和十六年十二月八日真珠湾攻撃に始まった第二次世界戦争に、陸軍司政官として南方ボルネオに出征したのは、昭和十七年五月五日であった。字品港で吉野丸に乗船し、先頭太洋丸ついで吉野丸外二隻、計四隻が護衛艦北京丸に護衛されて出航した。
 当時日本は、完全な制海権も制空権も握っていなかったから敵潜水艦が時折日本の近海、東支那海等に出没することがあった。
 五月八日午後七時半頃、先頭の太洋丸は長崎の五島列島付近で魚雷攻撃を受け、約一時間燃えつづけ沈没した。
 やがて五月二十日頃船は高雄、サイゴンに寄港し、カムラン湾を経て、ボルネオのミリーに着き同地に上陸した。

 ボルネオの南部は海軍が、北部は陸軍が管理し、最高指揮官には侯爵前田利為中将が任命された。
 実は、私はブルネイ県知事という命令を受けていたが赴任しないで、五月末前田軍司令官の初度巡視に幕僚と一緒に同将軍に随行し、ブルネイ国に行き、軍司令官の紹介で前ブルネイ国王と握手したので、これが同国王および現国王が特に私に対して信頼感と親近感を深めるに至った最大の原因であると思う。
 そして、同司令官と共に一度ミリーに帰り、六月初め正式にブルネイ県知事として着任した。
 当時は輝かしい戦果を挙げている頃であり、日本は旭日昇天の勢いであったから、ブルネイ全地域の沿道に老若男女、小中学生も全部日の丸の小旗を振りかざして盛んに私の着任を歓迎してくれ、我れ生けるしるしありと自負したのであった。
 ブルネイの王様もその側近の者も丁重に出迎えられ、私も自動車を降りて挨拶をした。私と王様およびその側近の関係者との交際はその時からはじまったのである。
 幸い王様に弟があり、当時二十六歳であったし、運動家で明朗闊達かつ頭脳も極めて明噺で愉快な青年であったから、私の秘書として懇請したところ快諾して秘書になってくれ、日本人の県庁委員十人足らずの者と一緒に仕事をすることになった。

 王様をはじめ側近の人達は、我々日本人に対して、親近感を持って接触し、異国人という感じは毫もなかった。
 私としては、住民は素朴で従順であるからなるべく自尊心を傷つけないようにし、現地人の宗教は最大限に尊重し、人心を動揺させないように明朗な気持ちで、積極的に日本人の政策に協力させるよう努めた。
 一部の人からは生ぬるいとい声もあった。軍司令部参謀等は大いに私の意思を支持してくれたし、現地の人々は私の気持ちを知り、一層信頼して協力してくれたので、内心満足した。
 私は、戦争に負けることば聊かも想像したことばないが、仮に万が一期待に反するような結果になっても、日本人の行動、日本人の行為が後世に笑われ、批判されるようなことがないように、品位を維持し日本の国際的信用を高め、長く良い印象を残しておけばいつか海外に発展飛躍ができるから、好感と信頼感を保つようにしたいという信念で、異民族の統治に当たったのであった。

 ブルネイには僅か一年位しかいなかったが、サンダカンに転任した際に、送別会を催してくれた現地人の幹部が男泣きに泣いているのを見て、私も泣いた。そしていよいよ出発の日に特別仕立ての舟で約一時間半ほど、王および弟(現在の王)、政府の幹部が見送って別れを惜んでくれているのを目のあたりに見て、我れながらこれほど信頼してくれたのかと思って、嬉しい気持ち、有難い感情、また、淋しい感情を錯綜して自分も泣いたほどであった。
 私は過去一年間行なった事が、多少とも現地の為になったのかと内心満足し、ほっとした感じになった。
 その後サンダカンに一年半、州庁の総務部長、知事、海事局支局長等を兼任し、また混成旅団参謀付勤務などを経て、タワオ県に転勤したが、戦局日に悪化し、昭和二十年八月十五日終戦となり、その後二カ月ほどタワオのテーブルという所で生活をし、いよいよ船に乗せられゼッセルトンという町で捕虜生活をすることになった。
 捕虜生活中、最もいやなのは首実験で、一週間に一度一列縦隊に並び、顔を見せる時は帽子を脱いで三歩前に出て見やすくして顔を見せるので、これほどいやなことはなかった。

 昭和二十一年三月二十五日、引揚船涼風丸(文部省所管)で帰国することになり、四月八日大竹港に上陸、十日仙台に帰った。
 戦時中、ブルネイ王およびその側近と書簡交換ができなかった。その後も王様をはじめ側近の人達に書簡を出そうと思ったが、マレイ語または英語で書くことが不得手なため、消息動静が如何かと常に思い浮かべていたし、また家族等と語り合ったことも幾度もあった。
 その後、仙台地方検察庁で副検事の欠員があるから来ないかと勧められたので、仙台地検に入り、にわか勉強で刑法、刑訴法を読みはじめた。捜査については全然経験がなかったから、次席検事やその他先輩検事の取調べているそばへ椅子を持ち込み、その要領を見習った。
 それは昭和二十三年十一月頃で、年齢はすでに四十八歳だから文字通と五十の手習いというわけで、爾来検事官生活をし、仙台、福島両地検管内で十四年半過ごし、昭和三十七年六月十八日定年退職、仙台家庭裁判所、簡易裁判所の調停委員をしていたが、翌三十八年三月二十三日偶然に、宮城県議会で選挙管理委員に選任せられ、さらに同月二十七日選挙管理委員会で委員長に互選され、現在選管委員長として多忙の日々を送っているが、これより先三月五日晩、炬燵で茶呑み話しにブルネイ時代の思い出、王様の消息、ブルネイの戦後の状況など話し、一度ブルネイに行ってみたいなどと夢物語りをしていたが、測らずも翌六日、元日農産林株式会社におり、ブルネイにも戦時中勤務したことのある上野辰郎という人から の書簡は私の夢物語りを現実化した。

 ある日本の有力な商社の幹部が商用でブルネイに行き王様を訪れた際、戦時中木村という知事がいたが、彼はいまどうしているか、会いたい。ブルネイに是非呼びたいが何とかならぬかと頼まれたとの文面である。東亜港湾株式会社で旅費、滞在費、手続き等は一切負担するから是非行ってもらいたいと懇請され、三月二十九日羽田空港を発った。
 税関の査証を経て、二十二年前の恋人に会うような種々の感情、空想を胸に抱き心臓の鼓動を抑え機上の人となった。
 私ども一行四人のうち三人は何回もブルネイに行ったことのある人であったから、私は大舟に乗ったつもりで安心していることができた。極めて快適な空の旅を続け、午後三時香港着。
 翌三十日午前九時香港を発ち、いよいよ思い出の多いブルネイ王国へ。途中、捕虜生活を送った最も悪い思い出の地ゼッセルトンに立ち寄った後、ブルネイ飛行場に着いた。
 ブルネイは、日本ならば京都か奈良に相当する所で落ちついた古都という感じのする街で、ボルネオで一番早く開けた歴史の古いところ、人情は厚く、人々も素直で言葉も丁寧な品のいい王城語を使っている。税関の検閲を受ける時、トアン、トアン(旦那さんと敬意を表していう言葉)と手をさし出した。この人は私がブルネイにいた頃税関の仕事をしていた人だとのこと、そのほか王様の使者、華僑等の出迎えを受けブルネイホテルに着いた。
 その晩、東南アジアの港湾視察に出かける前の多忙な時間をさいて総理大臣から会見の申し込みがあり、いろいろともてなしを受けた。

 翌日は、副総理、官房長官兼大蔵大臣、建設大臣、行政長官等と会見、いずれも非常に好感と親近感をもって心から歓待してくれた。
 異国人とは思えない親しい感じで二十二年ぶりの旧交を温め得て大いに満足した。
 その翌日、王様と逢うことになっていたので王宮に行くと、王様は二階の上り階段の所で待っておられ、にっこり笑って手を差し出し「二十二年の昔になりましたね」と堅い握手をし、いかにも逢えて嬉しい満足そうな表情をされた。
 王様は四十八歳、二十八代目で十七歳の男子を頭に男四人、女六人の家族で、長男は英国に留学している。前述の通り、この王様は戦時中は私の秘書をしていた人で、行政上各方面の経験も豊富で、政治的にも卓越した見識を持ち、民主的感覚を身につけて、同国の発展を図ろうと献身的に働いている。

 また、その権限は統治者として、内政、財政その他重要政策について最終の決定権をもっている。
 会見は約三時間(英国その他の国賓の接待は二時間を限度としている)にわたり、ブルネイに来られることを望まれるなら希望する地位と職業を用意すると、実に友情厚い有難い言葉まで頂き感激した。そして滞在中は毎朝早く自動車を廻して頂き十分に見物することができた。
 王宮で種々歓待を受け、さらに土産としてブルネイ製のサロン、銀の煙草セットなどを頂戴し、記念撮影の後、再会を約して辞去した。
 そして四月四日懐かしい南十字星輝くブルネイ飛行場を多くの旧友に見送られて帰途についた。
 羽田からブルネイまで往復六千三百哩、訪問遊覧計八日間の旅であった。
 なお、帰国後、このブルネイ訪問に関して、NHK(私の秘密」(四月十三日)をはじめ地元のテレビ、ラジオ等に出演した。

ブルネイの概観

◎ ブルネイは北ボルネオにある英国保護領で、人口九万余、回教徒が多い。
◎ この国の最も主要な資源は石油で、特にセリヤ油田は東南アジア最大で、その採掘権は英国が所有しているが、輸出による税金収入が二億七千万ドルもあり、この収入が全収入の九七%に相当し、そのうえ七千万ドルの剰余金が出るため、国民は税金の負担もなく、物価も安く、生活は安定している。
◎ このように財政が豊かであるから、教育政策にも熱心で、二十戸位の部落にも必ず学校があり、戦前の植民政策とは全く反対に教育の向上に大いに努力している。
◎ 工費十億円の巨費を投じて建設した東洋一のモスク (回教寺院)が金色さんぜんと輝いている。
◎ 熱帯生活にとって最も恐ろしいマラリアも二週に一度のDDT空中撒布によって、すっかり影をひそめてしまった。
◎ 医療施設については政府直営の立派な病院があり住民は無料でしかも安心して治療を受けられる。後進国とはいえ、日本よりは社会保障が行き届いている。もちろんこれは石油輸出税の関係で、石油様々である。

◎ 政治は東南アジアの国々は一般に政局が不安定で殊にブルネイ国周辺のマレーシア、インドネシアは動揺しているが、ブルネイ王国は極めて安定している。政局の安定している事はこの上もない強味である。現在港湾の改修、飛行場を整備するなど国の発展の基礎を固めている。現在の総理大臣はユソフという人で広島文理大を卒業した政治的手腕もあり大の親日家である。
 ユソフ総理は、このたび幼いご子息(九歳)を一九六九年に東京へ留学させるご意向とのこと、両国の親善の為にも実現させたいものである。
 国会議長はインチ、イプラヒムという人で戦前戦後を通じて親日家で日本に戦時中非常に協力した稀れにみる有能な人物であり現地の人からも信望が厚い。戦後日本に二度位来られ私もホテルオークラ、ミカドで食事を共にした事もあり、戦時中ミリーの兵粘ホテルで一緒に泊まった事もある。戦時中日本人はかなりこの人に世話になったと思う。
 年齢は七十に近いと思うが壮者を凌ぐ健康体の人、希くはブルネイと日本のかけ橋になって、両国の親善のために働いて頂きたいと思う。

◎内地から同国に行って活躍している第一人者として中川さんは、目下造船所を造り造船事業に貢献している。
◎漁業方面では九里尚志という豊田自動車前副社長の御曹子がブルネイに深い理解と親しみをもって彼の地の若い人と友好を深め漁業の指導をしている。エビ漁業が有望だとのこと将来が期待される。
◎ブルネイには水上家屋が多いが、衛生上の見地から近い将来陸上に移る事になるらしい。従って南方独特の風物もしばらくの間である。住宅については国庫から低利で貸付けるから、日本の住宅難より遥かに緩和され明るい気持ちだ。水は朝晩二時間の給水だったが今ごろはダムが完成して豊富に水が使えるようになったと思う。
◎ 道路は整備され、車も交通規制を守り快適なドライブを楽しめる。
◎ 回教徒が多い関係から一夫多妻が多かったが、現在では王様をはじめ一夫一妻に変わりつつある。これは一夫四妻を実行するには四妻を平等に取扱わなければならないので実際には負担が大きいこと。また倫理的にも健康上からもよくないことが認識されて釆たからである。

 この国の平均気温は二十八度位で、最も暑い日でも三十二度前後しかも適当な風やスコールがあり凌ぎやすい。また町の中も紙屑が散らばっていたり、酔っ払いがわめいているなどということが全然なく快適な生活が楽しめる。
ブルネイはマレーシアの真ん中にあって中立を守っている三重県位の小国であるが王様をはじめホテルのボーイに至るまで日本に対し親近感を持っている。同じアジアの民族として益々発展繁栄することを心から念願している。


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