北ボルネオの戦跡をたずねて
元テノム補導官 邦 南八
氏(本名国武英太)は第三七軍軍政時代より北ボルネオ西海州テノムにありて補導官として善政を施しそれが為現地人より厳父の如く時には慈母の如く慕われ、濠軍進攻に際しテノム周辺が第三七軍の複廓陣地として最後の抵抗線となりたる時、有形無形の功績のあったことは言うまでもない。
戦後二十数年の今日に至るも現地ボルネオに彼の徳を慕う人々多数あり、彼も又現地知人の子弟を二人まで我が家に引取り日本に留学せしめるなど真に奇特の御人なり。
本篇はボルネオ会が現地に遺骨収集実施に先だち、昭和四十二年二回に及んで遺骨埋没状況の現地調査にボルネオを訪れた時の手記を福岡市住宗教家河利到氏主宰になる月刊誌「人間創造」に連載中のものより抜粋転載せり。
昭和四十四年一月ボルネオ会派遣達骨収集に際し現地事情熟知の氏が先だちして活躍せられ同行者をして大いに感激せしめ多大の成果を収めたり。
氏は福岡市上若久町三五二-四に住し米穀商を営み傍ら私立幼稚園を経営する。 (編者)
キナパル銅山
その翌朝私は四人の日本人紳士と初めて食堂で会談した。交換した名刺には海外鉱物資源開発株式会社事業部長Yとあった。もう一人の同社の重役はS氏で同行の二人の紳士は日商の重役だった。私は昨日領事館で領事から、キナパル銅山の概要については一応の説明を聞いている。キナパルはボルネオ島第一の高山、標高一三、四五五択とある。その麓に開けた村落ラナウ及びブンドトアンまでゼッセルトンからおよそ二〇〇マイルの距離があり、現在ではジープで走行出来る程度の道路は開けている。戦時中私はこの地方を踏破した経験がある。赤道直下のボルネオにあって、この付近は標高が高いので、朝夕は相当冷涼を感じ、農作物にしたところで馬鈴薯や白菜の生産が出来るほどである。
現地人はキナパルを神山と称して神聖視し、あたかも日本人が富士山を霊山として象徴する如くこの山を崇敬し一木一草といえどもこの山を汚せば覿面に神罰を蒙むると恐れられている。スコールのあった時など七合目付近から落下する飛瀑は急転直下三千尺どころの騒ぎじゃない。おそらく六、七千尺の天空から大飛瀑となって落下しているのだろう。その壮絶な光景ほ遠く離れたゼッセルトン付近からさえ、望見することが出来るほどである。
このキナパルが無限の宝を埋蔵していることを領事は次の如く説明してくれた。
キナパルの麓ラナウを中心に付近一帯の厖大な地域は殆ど無尽蔵といわれる銅鉱を埋蔵し、国連調査隊の調査の結果頗る優秀な銅鉱たることが証明された。世界的に銅の需要は益々増大するに拘らずアフリカのローデシア問題がもつれて銅の問題が全世界の話題となった折柄、キナパル銅山が国連調査隊によって表面に浮かび上がるや世界の主なる国々は、この銅山を自国の手によって開発せんと、茲に国際的大競争が捲き起こり、キナパル銅山は俄かに世界の脚光を浴びるようになった。即ちマレーシア連邦自体、自らの手でこの銅山を開発するには、技術もなければ資力もない。従って世界の先進国、アメリカ、カナダ、西ドイツ、フランス、イギリス、イタリア、オーストラリア及び日本の八カ国は、外交的、経済的あらゆる手段を用いて、キナパル銅山の採掘権を獲得すべく、国際大競争に火花を散らしているのである。
我が日本からは半官半民の国策会社、海外鉱物資源開発株式会社がこの大競争に参加した。
「現在のところどの国が開発権を握るか全く予断を許しません。但しマレーシア連邦閣僚のうち二、三の大臣は熱心に日本の手による開発を希望しているから、日本の立場も満更ではないが、まだまだ海のものとも山のものとも見通しは全然立ちません。官民一致して必死の工作を続けているのが現状です」
領事はこう説明して深入りした事情に触れることを避けるかの如く見受けられた。
その当の海外鉱物資源開発株式会社の事業部長と今私は対談しているのである。
「世界中の主なる銅山は米、英の資本に握られている。やむを得ず日本は相当高い銅を買わされている。さればこそこのキナパル銅山の採掘権は是が非でも取りたいところ、だが世界一流中の一流が轡を並べての大競争だからなみ大抵の苦労ではありません。特にアメリカから出ている会社の如きは、日本全部の鉱山会社が束になっても足元にも寄りつけぬほどのデッカイ奴です。然し万難を排しても必ず日本の手に取ってみせますヨ」と事業部長は力強く決意のほどをこう言い切った。
「この銅山が日本の手によって開発されるとなれば、現在のラナウ一帯は様相一変するでしょう。ラナウ、ゼッセルトン間に完全な輸送路を開設する。一部落にすぎぬラナウにもやがて近代ビルが建ち並ぶでしょう。多数の日本人も入って来るだろうし、現地人の労務者も集めねばならぬ。我々は第一期工事として百八十億の予算を見込んでいます。すでに現地調査も数回やったし、今度は日商の重役二人を同道して、オーストラリアから昨夕こちらに着いたところです」
私は話を聞いている間に何だか浮々と愉快になって来た。
「あなたがここのボーイや事務員に接している態度を見ていると如何にも馴々しい様子が伺われますが、おそらく初めての土地ではないでしょう」
「私は戦時中足掛け四年この土地に居ました。戦争には負けたが私は私なりの信念をもっています。アジアは一つだ。日本は先進国の義務として東南アジアの指導者たらねばならぬ。そんな考え方から私はここで農業指導をやりたいのです。また約一万八千の英霊もこのボルネオの山野に眠ったままです。遺骨調査も兼ねて一昨日ここに着きました。戦後のボルネオは初めてですが、以前いた関係上、この土地の事情は一通り呑み込んでるつもりだし、また現在ボルネオの青年を一人福岡の大学で、留学生として世話もしています」と、私はザックバランにこう答えた。
「もし会社の事業が本格化したらまず食糧問題から解決せねばなりません。あなたのような現地の事情に詳しい人、現地人の信用の厚い人、場合によっては協力してもらわねばならぬかもしれません。何はともあれお互い大いに頑張りましょう」
部長は自信満々の言葉だった。私はこの人とスッカリ意気投合してしまった。部長との対話を終わると今度は同行の日商重役の部屋を訪れて、しばしまたボルネオ談に花を咲かした。
(註1本項ボルネオ・キナパル銅山関係の記事は私が第二回目ボルネオ旅行(昨年十月)の際に、このつづきを書くことにするが、結果を申し上ぐれば、激烈な競争の末、遂にアメリカを押えてこの銅山の開発権は日本に落ちた。海外鉱物資源開発株式会社では直ちに技術者を現地に送って、目下大々的な測量を実施中である)
戦友! 周偉飄
四月二十六日、朝起きるとこの日の私は、全く張り切っていた。それは今日こそ私の古巣〝テノム″に行くからである。戦時中二十六という日は、良かれ悪かれ私の運命を揺さぶるような出来事の起こった、不思議な因縁の日だった。その二十六日に古巣テノムに行こうとしている。思えば昭和十八年の暮れ私は、テノムの補導官として赴任した。その頃はまだ戟争に敗るるなど夢想だにせぬ時代だった。必勝の信念に燃えて大東亜共栄圏の建設に一意挺身している時代だった。さればこそ、いわば一国一城の主になってテノムの住民を相手に思う存分な政治をやってみたいと私の身も心も躍動していた。政治の対象となる者は占領地の民である。我等の背後には武力があった。武力を背景にどんな無理でも通用していた。ふんぞり
返って威張り散らすのが当たり前のように考えられていた。が私はこういう人達から見ればむしろ軟派だったかもしれん。というのは、同じアジアの同胞としてアジアの黎明を迎ゆべく、現住民と共に苦しみ共に楽しむのが私の信念だった。恐れらるる威圧の政治に非ずして、親しまれる仲になりたいと私は心掛けていた。だからテノムの住民に限っては、私の気持ちを知っていてくれるものと、密かに信じていた。
だが戦争には敗れ、時は流れてすでにあの時から二十数年になる。時勢も環境も日一日と変わっている。人心また然りで果たしてあの当時の気風がそのまま残っているだろうか。振り返ってみると時の勢いで、やむを得ぬ処置ではあったろうが、戦時中は随分と無辜の民も殺している。これら戦争犠牲者の遺族や身内の者は、今だに日本人に対し恨みを抱いているに違いない。まして華僑の対日感情は決して楽観を許さないと領事も戒めてくれた。こんな空気の漂っている田舎に向かって、私は今単身で出発せんとしている。
「日本人が来たぞ、復讐だ」と無智な現住民に襲われるかもしれぬ不安は確かにあった。比較的治安の保たれている都会地では、まさかそんなむき出しの行動はあり得ないとしても、我々日本人から見ればまだまだ野蛮と言いたいほど、田舎の現住民は民度が低い。されば時のお天気次第でどんな雲行きに変わっていくか判ったものではない。うかうか戦時中の気分で大手を振って歩こうものなら、それは彼等の心の奥に潜んでいる恨みと復讐に点火するようなものだ。ここは一つ慎重な心構えで臨まずばなるまいと、聊か怖気づいた物騒な気持ちも起こって来たが、それでも事テノムに関する限り、私とテノムとの間には今だになお血が通っているはずだと、私は信じたかった。
万が一日本人であるが故に、復讐の危害を加えられるような事態が起こったとしても、この私にだけは手を差し延べ、笑顔で迎え入れてくれるものだと自信に近い自惚があった。物騒な不安と愛情の復活と相反する二つの感情が入り乱れて私の心中は複雑なものがあったが、それでも意気は張り切っていた。この朝食堂でまた海外鉱物資源開発株式会社のY部長と愉快なボルネオ談に花を咲かせ、それから一応アピーを離れるので今迄の宿泊料等の勘定を済ませ、身廻りの品のみを手提げに詰め込んでトランクはここに保管を頼んだ。
列車の運行も日本のように時間厳守ではないらしい。予約客が揃えば時刻前でも勝手に発車すると聞いて、幾分早目に駅に乗りつけた。戦時中特別車をモータートロリーと称して精々四、五人が乗れる程度のものだったが、戦後の特別車はガソリンカーで型も大きく、十二、三人の乗客を収容出来るようになっている。十時二十六分にアピーを発車した。テノム迄の運賃が二十ドル七十五セントとなっている。
同車した華僑の青年が名刺をくれた。サンダカンで日産自動車の代理店をやっていると頗る愛想がよかった。英人経営の農園にトラックを二台届けに行くのだと言って、「日本車は優秀ですヨ」と鼻高々になっていた。私として異郷で国産品を褒められるのは、満更惑い気はしなかった。二十数年振りに見る沿線の光景は、行く程に眺むる程に飽きるものではなかった。どこのどんなものでも懐かしい思い出だった。踏切やカーブにさしかかると、この特別車はいとも奇妙な音を発して車の進行を警告するのだが、その警笛は日本でよく聞いていた豆腐売りのラッパの音そっくりだったのには、聊か滑稽の念さえわいた。パパール停車中に件の華僑青年がバナナと蜜柑を買って「どうぞ」と分けてくれた。今が蜜柑の季節だなーと戦争当時の思い出を偲んだ。やがて十二時ちょっと過ぎにボーホートに着いた。ここで列車は十五分間ほど休む。戦争に負けてテノムからボーホート迄線路伝いに三日間の行軍をして、いよいよ捕虜になって最初にぶち込まれたのが、ここボーホートだった。
そうだ、あの時私共は部隊に先行してボーホートの郊外に迄たどり着いた。おそらくあと三時間もすれば捕われの身となるのだ。これが日本食の食い納めかと、そこで握り飯の昼食をとった。熱帯の太陽がカンカン照りつける日射を避けて、木陰に暫しの休止を求めた時私は仰向けになって空を眺めて寝た。遙かな空に雲が浮かんでいる。まさに沈没せんとするこの身と、悠久静寂な大自然とのコントラストが淋しかった。ごく自然に歌が出て来た。悲壮だった。何度も繰り返し歌った。
腕叩いて遥かな空を仰ぐ瞳に雲が湧く
遠く祖国を離れ来てシミジミ知った祖国愛
友よ出て見よあの雲を
こんな深刻な思い出のあるボーホートに今汽車は停っている。私の頭の中にはあの当時の色々な出来事、数々の思い出が急速度で回転している。そして二十数年前ああだった私は今、その時の戦友の遺骨を求めてボーホート迄来たのである。
大部の乗客はここで降りて三人の華僑が新たに乗り込んで来た。汽車は十二時半にボーホートを発ってテノムへと向かった。パダスの激流が滝の如く奔流している岸に沿って、両岸の切り立った岩山の間を汽車は揺れながら走っている。ボーホートで乗った乗客は中老の夫婦とまだ三十前と思われる青年が手持ちの荷物を置き替えたりマメに動いたすえ私の隣に坐った。中老の夫婦は私と向かい合った座席に坐っている。私はこの老人の顔に穴のあくほど視線を集めた。どう見てもこの親爺私の記憶の中の人物だ。しかも私とは因縁浅からぬ周偉飄らしい。煙草に火をつけてはまた穴のあくほど眺めつづけた。ものの二十分もして遂に私は隣の青年に英語で話しかけた。
「向こう側の老人はあなたの御両親ですか」
「イヤ、家内の両親です」
「どちら迄お出ですか」
「テノムです」
「テノムにお住まいですか」
「そうです」
「私は日本人だが戦時中テノムに居ました。今、二十数年ぶりでテノムに行くところです。もしかしたらあの老人は周偉飄ではないでしょうか」
「そうです。周偉飄です」と青年は返事もそこそこに直ちに義父の側に立ち寄った。
一体世の中にこんな偶然がある筈のものだろうか。私は立ち上がった。周偉飄も立ち上がった。人目も憚らず二人はシッカと抱きついた。私の目には涙が溜まった。周偉飄も泣いていた。抱き合った二人はやがて離れたが、手と手はいつまでも握り合っていた。それにしても一体何という奇遇だろうか。全く小説にでも出てくる筋書通りの奇遇だった。不思議な因縁に操られた偶然の出来事だった。
周偉飄と私との関係は「戦塵」で詳しく書いているのでここでは大まかに留むるが、戦時中彼はテノム地方の華僑の総大将だった。キャプテンチナと称していた。彼は誠実誠意徹底して軍政に協力してくれた。私がテノムの軍政を円滑に運営し得たのも、この周偉飄が真心こめての協力あってこそで、私は彼の誠意に全幅の信頼と敬意を表していた。その彼が意外にもアピー事件の連類者として軍に逮捕され、果ては銃殺さるる運命となった。彼は進んでアピー事件に関係したのではない。否、軍に協力したい一心から暴動をテノムに波及せしめぬ防波堤になろうと、自ら同志を装い軍資金を出した迄である。然しアピー事件関係者は片っ端から銃殺する建前から、彼もその運命の直前に立たされたのだ。私は司令部に行って軍法会議の長たる西原中佐に膝詰め談判し、それこそ声涙下る真剣さで彼の助命を絶叫し至誠天に通じたか遂に彼の銃殺を救い得たのであった。爾来彼周偉飄は終世命の恩人として私に仕えてくれた。
こんな事もあった。戦い敗れ一部日本人が現地人から襲撃される事件があった時、彼は私にはコッソリと、私の目につかぬようかくれて、屈強の青年を私の護衛につけてくれていたほどだった。終戦後も私の健康を念じ、何度か便りを寄越している。周偉飄と私とはこんな切っても切れぬ深い因縁の間柄である。前にも書いた通り現地人が日本人に恨みを持ち復讐の危害を企らもうとも、テノムに周偉飄が居る限り私にだけはテノムの人々も笑顔で迎えてくれると、自信の程を洩らしたが、これも周偉飄とこんな関係にあるからに外ならぬ。如何に険要な事態に立ち到ろうと周偉飄は私の味方だ。遺骨調査や、その発掘に際して万一、現地人の邪魔、妨害があったとしても、彼周偉飄は必ず私の味方となって、私の願望を遂げさせてくれるに違いない。私は満々たる自信をもってテノムの遺骨調査に出掛けて来たのだった。その周偉飄と奇しくも斯の如き劇的な対面をしようとは!! 人間の運命にはどこかで神様が糸を引いているのではないかと、不思議な感さえ起こるのだった。
ボーホートを発って一時間半の後、午後二時にはテノムの駅に降り立った。駅を出てまず目についたのは、町の配列があの当時とは全然違っている事だった。駅には周偉飄の長男が車を持って迎えに来ていた。むろん私が一緒であることなど知ろう筈はない。
さて常日頃彼の一家では「戦争」が話題にのぼるたびに、この私が命の恩人だと話の種になってるらしい。一昨年私の倅がテノムを紡れた時、周偉飄の長男は倅をテノムの町中引廻して会う人ごとに「邦補導官の息子が日本から来た」と得意になって歓待これ努めたと聞いているが、今、彼の目の前に立っているこの私こそ、正真正銘の父の恩人だと紹介されて、私にめぐり会えた事が余程の歓喜感激だったらしく、その態度からも十分そうと察せられた。というのは彼の父が銃殺のため逮捕されてアピーに引かれて行った時、この長男は既に齢十二、三歳の少年に成長していたので、あの時の深刻悲惨な状況は少年の頭に焼き付くほど強烈に刻み込まれているはずだ。しかも殺されるはずのその父が殺されずに彼等のもとに再び帰って来た時に、子供心にもこの私に手を合わせたあの当時の事は忘れようとしても、忘れられるものではない。今、私と相対している彼はおそらくあの時はあんなだったと、往時を感慨深く追想していることであろう。
私にしてみれば、少年の頃の面影は今の彼に求むることは出来ない。彼とてまた白髪頭となっている今の私を、昔の私に比べる記憶もなかろう。が心の中ではお互い血が通っているはずだ。
ケニンゴウ、ビンコール、アピンアピン、そしてラヨーこれら各地の遺骨調査に当たりこの周の長男は老父に代わって、徹底して私の為に協力してくれた。特にラヨーの場合、谷を渡りジャングルを切り開いて苦労も苦労とせず、彼の義弟(汽車でボーホートから同車した青年)と共に自らの戦友を捜す如く、私の為に尽くしてくれた。将来我々の手で遺骨収集が行なわれる日が巡り来るとすれば、彼こそは万難を排して、私のもとに馳せ参ずるものと私は信じている。
周さん宅に着いたら家族全員の大歓迎で、それこそ上を下えの大騒動だった。私は日本から用意して持参したソニーのトランジスタラジオをお土産として贈った。今年高校を出た末っ子が早速波長を合わせていたら、奇しくも日本放送が入って来た。むろん日本語だ。日本の放送も大したもんだと今更の如く感心した。そのうちガンさんが在宅ならお訪ねするから外出せぬようにと使を出して貰ったら在宅だと判った。我々は町に出て簡単な昼食をとった。そしてその足でガンさん宅に車を走らせた。このガンさんと私との関係は後で書くとして、ガンさんは二十数年前の戦時中と全く同じ心やすさで、
「邦さん、私はスッカラカンの貧乏になってしまった。今度の国連立会のもとで行なわれたサバ国国会議員の選挙に立候補したので、ゴム園も何もかも売り払って選挙費用に使ってしまった」と意外な彼の発言に私はすぐ問い返した。
「選挙の結果は?」
「総員三十一議席のうち我が党から五人当選した。私は党内で十三番目だからむろん落選だ」と。実に淡々とアッサリしている。
貧弱ではあるがテノムにもホテルはある。然し周の家に泊まらねば彼が怒るので、我が家の如く心得てテノム滞在中は周さんとガンさん宅を宿とした。その夜一家挙族大勢の者が集まって来て、盛大なマカンプッサル(マレー用語の大宴会)を催してくれた。
想い出の「テノム」
私共はサボンの渡(ワタシ)に向かった。あの当時はこの渡を越すのがひと苦労だった。両岸にワイヤーを通しそれに渡舟をつなぎ、水の流れを利用して渡ったものだが、川の中程で敵機の掃射でも受けようものなら処置なしだから、向こう岸に着く迄はハラハラしていた苦い経験の場所だったが、今はエンジンを付けたフェリーボートで、乗用車もそのまま運んでくれる便利な渡となっている。サボンゴム園に着いた。ひところユニオンジャックを靡かせて鷹揚に君臨していた当時に比ぶれば、如何にも物の哀れを感じさす寂れた風景だった。科学の進歩に伴う人造ゴムの開発に押されて、天然ゴムが斜陽産業となったせいもあろうが、アングロサクソンの凋落を象徴するかの如く、一目見てサボンには寂しい風が吹きまくっていた。
エステートの売店も頗る閑散だった。その売店に集まっていた連中は多分ケマボンあたりから出て来たムルット族だろう、私共が到着するや物珍し気にシゲシゲと私を眺めていた。私はまわらぬマレー語で「日本人の墓は知らぬかね」と尋ねた。というのは第三十七軍ボルネオ軍司令部は最後にここに移って来た。移ったというより逃げ込んで来た、と言った方が当たっているかもしれぬ。その司令部の所在を敵に嗅ぎつけられ攻撃の目標となった。残念無念ながらサボン周辺では相当の戦死者を出している。私は今、その墓標を求めているのである。然しムルットの反応はサッパリなかった。考えてみると、これは尋ねる方が無理だろう。戦のさなか彼等住民は、戦禍をのがれて山奥に逃げ込んでいたため、どこにどんな墓があるか知らぬのが当たり前である。ところが一人の男が新道を造った時、道端に一基あったと言うので直ちにそこに向かったが、それらしい手掛かりは全く掴めなかった。新しい道はケマボンに通じていると聞き、一層のことケマボン迄ブッ飛ばそうかと思ったが、時間的にそれも無理なように思われたので、再びサボンに引き返し、今度はアンダバンへと向かった。
テノムの町からアンダバンの渡に通ずる道は私にとって思い出も深い因縁の道である。
すでに敵機が攻撃に飛来するようになった頃、ケニンゴウの航空隊から渡辺大尉がやって来て、アンダバンに飛行場を造る旨の指令を受けた私共はアンダバンの草原を隈なく踏査し、戦闘機に乗せられて空中からの査察もした。この計画遂行上、まずテノムの町からパダスの岸まで大きな軍用道路を開作する必要に迫られた。私は現地人に作業区を割り当ててゴム林を切り開き、荒削りながら川岸までの道を造った。その私が作った通が現在では側溝を掘りバラスを敷き詰めてジャンジャンした立派な道路に生まれ変わっている。うたた今昔の感に堪えぬというところだった。アンダバンの渡もサボン同様フェリーボートで自動車そのまま越せる便利なものになっていた。飛行場を予定したアンダバンの草原もその頃とは様相が一変している。
当時私は五十町歩の水田をこの草原の一部に用いて米の増産を強制した。台湾拓殖の広田君が「どうしても水が乗りません」と言って来たのを火の出るように叱り飛ばして、通水を強行させた苦い思い出もある。その後ここには貫兵団の一部が入って、被爆による犠牲者も出した悲憤の土地である。私がアンダバンに来たのもその遺骨調査のためだった。
「私の隣りのゴム園がまだ草原だった頃、約三十基の墓標がありましたが、ゴム園造成の時ブルドーサーで掘り返したため、今ではどこにどうなっているか判りません」と周偉飄は説明したが、私は調査したかった。二十数年過ぎた今日でも私はこの付近の地理には明るいはずだ。草原に続いた小山をめぐって小川が流れていた。この小川を堰き止め草原に潅漑水を導入したのもこのあたりだし、情勢不利となった頃、瑞金等が仮小屋を結んだのもこの付近だ。貫(ツラヌキ)の兵隊が屯した場所も地形上山小屋を根城にこの付近一帯だったに相違ないことは容易に想像される。周偉飄が「遺骨の手掛かりはありません」と言うのも開かず、私は小川に沿って、それらしいものはないかと捜し廻った。が一望遥か彼方まで茫々たる大草原だったこの付近一帯は、行けども行けどもゴム幼樹のゴム園と化して周が申した通り遺骨の手掛かりを掴むすべなど全く出来なかった。仕方なく諦めて周偉瓢の二男坊が住んでいるゴム林の家へと引き揚げた。ここで周が次のような話を聞かしてくれたので幾らかくさっていた私も気分を取り戻した。
「草原を開いて水田に稲を植えさせられた当時は、ロにこそ出さなかったが実際苦しかった。戦後になるとこんな離れた所に留まる者はなかったが、私だけは辛抱してあの耕地を続けた。邦さんこれも因縁であなたのお蔭ですヨ、あの水田を続けた実績を認められて私はここに三百エーカーの土地を払い下げてもらいました。お見かけの通りこんなに見事にゴムが育っています。三百エーカーのゴム林が出来たのも元をただせばあなたのお蔭です」
と、成程私は米の増産を強制した。現地人の一部に不平もあったかもしれぬ。が二十数年を過ぎた今日、思いがけなくも功徳のお礼を受けようとは皮肉となっても仕方ないのに、世は様々でどんな幸運が待ち構えているか全く判らぬものである。
家の側に素晴らしい大きな実をつけたパパイヤがあって四、五果は色づいている。それをもいで暫らくすると、今迄カンカンの日照りだったのに大粒の雨がパラつくと見るや、滝を流すような土砂降りとなってスコールが襲って来た。スコールの止むまでおよそ一時間、さきほど採ったパパイヤやバナナを食べながら晴れ空を待った。スコールの過ぎた後は実にすがすがしい。がゴム林の中には所々水溜りが出来て歩いて通るのは困難だ。我等の乗って来た車は道路に停めてある。
「トヨタなればこそ無理が利きますヨ」と周の二男坊がゴムの木の間を縫うて道路まで送ってくれた。満更お世辞でもなく日本製の車が余程気に入ってるらしい。
そういえば都市村落を問わずアメリカ、イギリスの車と競争して日本車が三台に一台は割り込んでいると聞き、特にトヨタが断然幅を利かしているとの説明で日本の自動車産業も大したもんだと今更のようにボルネオで感心した。
その日の夕方心を尽くして私を待ってくれている瑞金の店に、大勢連れだって出かけて行った。周やガンはむろんのこと、私を主客として盛大な歓迎の宴を催してくれた。豪勢な珍味を並べ、ビール、葡萄酒、ウイスキー何でも御座れの大振舞に、日本流儀を真似てか、瑞金が私の側に坐って「もう沢山」というのに次々と酒をついでもてなしてくれた。そのうえ偶然にも私が山の上の官舎に居た当時炊事万端を世話してくれていたアモイが近所に居ると聞き、彼女もこの宴席に呼んで来た。
「五人の母親となって裕福にゴム園を経営している」と聞いて私しも嬉しかった。二十数年振りにテノムで私に会おうとは全く夢のようですと何回も繰り返していた。私共は飲む程に酔う程に夜の更くるも忘れ周偉飄の家に帰ったのは十二時近くだったろう。
私は床の中に入って今日一日を振り返って考えた。戦時中軍政の責任者として、テノムの人々と直接相接するようになった私は、権力を振り廻して彼等の上に君臨するでなくて占領者、被占領者の立場を超越した、彼もアジア人、我もアジア人、アジアは一つだの信念に立って、軍政の局に当たったはずだった。恐れられる軍政でなくて、親しまれる仲になりたいと心がけた。二十数年を過ぎた今日なおテノムの人々の心の中には、私の信念が消え失せずに、まだ残っていると私は感じとった。さればこそかくまでに私を懐かしがって迎えてくれるのだ。人間はいつ、どこで、誰に会うやもしれぬ、決して決してその場限りの無責任な振舞はなすべきでないと、自らを深く戒めて眠りについた。
華僑の内では客人の部屋に握り柄のついた、口の開いて広い壷型の便器を備えつけるのが礼儀らしい。夜中に屋外にある便所まで行かずとも部屋の中で用を達するためだろうが、余り大きくもないこの壷に照準を合わせて粗相のないように目的を達するのはひと苦労である。まして妙音を殺さんとする作業に到っては難中の難に属する。奇妙な習慣もあるものだ。
憶い出尽きぬ「メララップ」
私がテノムに到着するや周偉飄は、当時郡長だったリンガム宛、私がテノムに来た事を電報した。リンガムはパパールに居住しているとの事だった。そのリンガムがテノム三日目の一番汽車で弟のラジャー夫妻を伴ってわざわざテノム迄やって来てくれた。
「今日のうちにサンダカン迄飛んで明日またパパールに戻らねばならぬので、時間がないがとにかくあなたに会いたかった」と元気に姿を見せてくれた。私共は抱き合わんばかりに互いに懐かしく手を握り合った。
リンガムは印度系現地人で戦時中現地人職員としては、最高の地位である郡長として、私の直属部下だった。頭もあれば度胸もあった。爆撃の最中華台の屋根に登って危険を冒し、消火に努めていた彼の勇敢な姿が、昨日の出来事のように私の脳裏を去来した。徹底した親日家だった。私は彼が終始一貫日本軍政に協力した故をもって、或は戦後の彼の地位に影響があったのではなかろうかと、心配していたがそれも杞憂にすぎず、彼は最後にはサンダカンの知事となり、裁判長となって官吏生活を完うし、定年で職を辞し現在パパールに居住していると、一別以来彼の身の振り方を説明してくれた。そして在職中にキナバタンガン上流に広大な面積の原始林伐採権を得、弟のラジャーを現地の支配人として、木材会社を経営している旨、その後の彼の活躍振りを聞かしてくれた。
陸上の交通路がないため東海岸のサンダカン迄舟航すれば二日もかかるが、航空路が開けてアピーーサンダカン間を一時間余で飛んでいる。朝の一番でテノムに来たものの、今から急ぎパパールに帰り、アピー迄自家用車で走り、飛行磯で夕方迄にサンダカンに到着し、用件を済まして明日再びパパールに戻って来るのだと、誠に一刻千金の旅をせねばならぬ。貴重な時間を割いてわざわざテノムに来てくれた彼の友情が身にしみてありがたかった。おそらく私がテノムに来た電報を見ただけでは、テノム訪問を終わればすぐにでも日本に帰国するものと思ったに違いない。私共は簡単に食事を共にした。そして私がテノムからアピーに帰る途中必ずパパールの彼の家に立ち寄って二、三日滞在する事を約束し、その際ゆっくりと話の出来るのに安心して、リンガムは急ぎパパールに帰って行った。
リンガムを送り出して私共はガンの家を訪ねガン同乗のうえケニンゴウ方面へ車を飛ばした。テノムからメララップ迄、元は汽車が唯一の交通機関で、自動車の走れる道路など全然なかったが、現在では素晴らしい自動車道が開通している。テノムを発って間もなく元貨物廠のあったゴム林の前を通った。ガンが日本語で「貨物廠」と呼んだ。私はこのゴム林の中で終戦を迎えたので感慨無量というか、ここを通った時には懐かしい場所といったような気持ちでなくて、むしろ悲壮感さえ呼び起こすのだった。メララップゴム園にさしかかると老樹を切り倒して幼樹を植えているのが目についた。
やがて華台の前に下車すると、例によって例の如く用事もない連中が華台の周辺に集まってワイワイ騒いでいる。ここはケニンゴウ方面より下って来てテノム沃野にさしかかる入口に当たり、交通の要衝となっている、ここにあるメララップ・エステートはその昔サボン農園とその規模の大を競い、互いにライバル視して英人経営のゴム園ではボルネオに於ける双壁と称えられていた所。テノムからメララップ迄の汽車もこの農園の為に延長したようなものだった。がひところの威勢はどこへやら、今ではサボン同様ここにも寂しい風が吹き荒れていた。そしてあれほどに競争し合ったこの両ゴム園は戦後合併して一会社の下に経営されていると聞き、うたた今昔の感に堪えなかった。
当時此処には野戦病院が設けられていた所で遺骨も相当数ある筈だと思われるが、現地人は一向にその所在を知らぬ。と一人の華僑が「私は日産農林に居た者だが、この先に将校の墓がある」と言う。彼に伴われて約二、三百米も行くと道端になるほど心もち土の盛り上がった場所があり「ここだ」と言う。私は黙礼してこれを写真に収めた。再び華台の前に戻ると人たかりの中から駈け寄って来た一人の華僑が「トアン」と呼びながら私の前に現われた。忘れもせぬこの華僑はチュンタンに紛れなし。然し彼は終戦のドサクサの中で殺されたと聞いているし、現に「戦塵」でも殺されたと書いている通り、すでにこの世を去って二十数年になると信じ切っていたのに、忽然として私の前に現われた彼こそは、本物のチュンタンに間違いなく、私もビックリした。テノムの華台の端に住んでいたブリキ屋で、狂信的と言ってよいほど極端な日本贔屓だった。少なくとも彼の言葉や行動には強烈にそんな表現があった。従って軍政の協力者でもあった。
私がテノムにクラブを作った時にもこのチュンタンが奔走してくれたし、ゴム林の中にP屋を始めた時も彼の肝入りだった。役所前広場で毎朝行なう国旗掲揚の朝礼には必ず出て来て、頼みもしないのに現地人に対し日本語で「敬礼」の号令をかけるし、映画館を開いてからは私が入場すると「起立。補導官殿に敬礼」とこれまた一般観衆に日本語の号令をかけるのを得意になって一人で受け持っていた。出しゃ張り屋の世話好きというのか、いずれの時代、いずれの社会にもこの種の人間はありがちなものだが、私としては特に彼を号令者として指図したわけでもないし、いわんや「補導官殿に対し敬礼」に至ってはむしろ迷惑至極、歯の浮くような思いさえしたものだが、彼としてはムズムズしてじっとしておれなかったのだろう。それが一部現地人からは「思い上がった奴」と確かに怨まれていたに違いない。そこに日本の敗戦となって彼の神通力は急転直下した。
同じ華僑仲間から殺されたと聞いたのも満更宣伝とは受け取らなかった。が目の前に現われたチュンタンは決して幽霊でなくて本物のチュンタンだった。周偉飄の説明によればなるほど同じ華僑仲間から迫害されたが殺されはしなかった。然しテノムに居たたまらずに遁れて今メララップで薬種屋をやっているが、その後の彼の生活は頗る不如意だとのこと。戦時中日本軍の威力を笠に着た末路が斯の如しとあっては、私も気の毒でならなかった。彼を思い上がらせるように仕向けた覚えはないが、時と場合では軍政の協力者として彼を利用した事は確かにある。とすれば彼の現在の境遇に対し一部の責任は私にもあるように思われる。もし彼を激励すべく何等かの手を打つことを許さるるならば私としては敢て躊躇するものではないが、今の日本人としての私には手の出しようはない。ただ彼の境遇に同情するばかりだったが、彼としてはそんな事には一切お構いなしに、二十数年振りに健在な私に会い得たのをただ喜ぶばかりだった。私は彼の手をシッカと握って勇気を振るい往時のように元気を出せと励まして別れた。
盟友・リンガム
パパールでは周偉飄の娘婿鄭君の実弟が駅に出ていてくれる筈だったのに、一向にそれらしい男は見当たらなかった。テノムから電話連絡をしてくれたのだろうが、おそらく不在だったに違いない。テノムで貰った鹿の角は大小併せて八対にもなった。相当な荷物だ。私は駅長にこれが保管を頼んだ。そしてレストハウスへと向かつた。リンガムとの約束で、彼の新居を知らぬ私はこのレストハウスで待ち合わせるよう打ち合わせていたからだ。
さすがここのレストハウスは相当なホテルに匹敵するほど立派に整っている。何はともあれ汗ピッショリの身休をマンデーした。そして湯浴(ユアミ)の後パーラーに出てビールを一杯やった。折から猛烈なスコールが襲って来た。待つほどにドイツ製高級車を駆って雨の中をリンガム夫妻がやって来た。私はその妻君を見て途端に戸惑った。戦時中彼の妻君とは顔見知りの間柄だったのに、今車から降りて来たリンガム夫人は全く別人の、まだ二十七、八歳位な若奥さんだった。リンガムはもう六十近くの年配なのにと、不審に思っているとリンガムがこう説明した。数年前、前妻を亡くした。二人の間には十一人の子供があったが、子供を残して妻に先立たれたので今の妻を貰った。今度のにもすでに三人の子供があると。私はリンガムの精力絶倫なのに一驚を喫した。
その若きリンガム夫人は流暢な英語で朗らかに私を迎えてくれた。かねがね私の事についてはリンガムから色々と聞いていたとみえて、周偉飄からの電報を受け取るや、是非パパールに連れて来るようにと、熱心に私に会いたがっていたとの事だった。同じ印度系の美人でオシャレでもあるが如才ない。そして私には親切にしてくれる。私共はレストハウスで豪華な料理に乾杯した。私共の話には冗談を交えても一向に不自然でないほど、お互いは打ち解けた間柄だった。次から次と話題の尽きるのも知らず語り合った。がややあつてスコールのあがった涼しい夜道をリンガム邸へと帰路についた。
パパールからアピーに通ずる街道を約三哩半ほど走ってリンガム邸に着いた。街道に面して広大な屋敷に堂々たる邸宅を構えている。一体熱帯の建築様式は床下の柱の高さが三米も四米もあって、その上に部屋が造られている。日本流儀でみれば二階建の一階を払つたような格好である。私等が車から降りると、上の広間からはサクラ、サクラの日本の歌が陽気に聞こえて来た。二十三年頼りにボルネオに来てリンガムの珍客となった私が、彼の邸宅に一歩踏み入るや、この艶でやかな、心の古里を歌ったサクラサクラの日本の歌を聞こうとは!!
性来私はこの歌が好きなのだ。しかもこの歌には忘れがたい思い出もある。シンガポールのキャセイビルで前線慰問団がやって来た時、現地人の一女性歌手が、いとも鮮かにこの歌を独唱して、ヤンヤの喝采を贈った事が私の胸裏には、懐かしく焼き付いている。はからずも今、ボルネオに来て同じこのサクラサクラを聞いていると、指先から足の爪先までこの歌の持つ妙音が滲み通って来て、心の古里を思い起こす感動さえ覚ゆるのである。そればかりではなかった。リンガムに導かれて階段にかかると今度は京の都祇園小唄の優美な旋律が柔らかく流れて来た。この若きリンガム夫人の仲々の気の配り方も念が入って行き届いている。召使に命じて日本の歌のレコードで私を迎えてくれるのである。私は今ボルネオに居るのだが懐かしい祇園小唄を聞いていると博多のどこかのバーにでもいる錯覚を起こすのであった。
「リンガムさんこれは一体どうした事か?日本のレコードを」
リンガムは頭のよい男だった。さればこそ戦時中現地人としては最高の郡長にまで抜擢されたのだが、あの当時覚えた日本語を、今なお忘れずに、おかしな発音ではあるが日本語での話が出来るほど彼の頭はシッカリしたものだった。
「クニサン、キニイッタカ、コンド、グンカ、カケル」幾らかの哀調を込めた勇壮な「同期の桜」の吹奏楽が快調に出て来た。
リンガム邸での第一歩は、明らかに日本とボルネオとを完全に結びつけてしまった。
リンガムが又まわらぬ日本語で話しかけて来た。
「ワタクシ、一サクネン、ニッポンノ、オリンピックニイッタ。フーフフタリデ、イッタ。二十ニチ、ニッポンニ、タイザイシタ。トゥキヨウスパラシイ。フジサンキレイ。キョウト、オーサカニモ、イッタ。ニッポンダイスキ。ニッポンノレコード、タクサン、カッテキタ」
これは初耳だった。彼が東京オリンピックを機会に、二十日間も日本に滞在して各地を観光したとは、今初めて聞くのである。それにしても、もし私が終戦この方リンガムとの間に、文通を続けていたならば、必ずや彼等夫妻はこの福岡に私を訪ねてくれた筈だのに、不幸彼との連絡が杜絶えていたばっかりに、彼等の日本訪問の好機にも、私が彼等を迎える事が出来なかったのは残念で残念で仕方なかった。それから私共の会話は彼の日本訪問が主題となった。お互いの言葉は英語だがリンガムは適当に日本語を織り混ぜて、それがチットモ不自然でなくその彼のロから出てくる日本及び日本人観は月並みなありふれた表現ではあるが、殊更お世辞とも受け取れず私を共鳴させた。
豪華なオリンピックの成功もさることながら、関西旅行では京都、奈良の古代文化に接し、日本民族の深味ある偉大さに、今更の如く驚嘆した。大阪など近代産業がいやが上にも発達して、旺盛な生産力を漲らしているに拘らず半面奥床しい日本古来の文化が脉々と続いているのが、うらやましかったとも言っていた。一億の日本人が純血を保って、同じ血、同じ文字、言葉、同じ国民性に固まっている日本の将来は、どこ迄発展するか。洋々たる前途にはむしろ恐ろしささえ感ずると目を見張っていた。日本でも指折りの貿易商、某商社とは材木の取引上、特別の関係があるが、その商社では案内役として社員二人がつきっきりだった。京都の格式ある料亭に招待されてゲイシャガールの舞を見たのも初めてで珍しかったし、その時の日本の着物の優美さには、たまらぬ印象を受けて、リンガム夫人は派手な振袖の日本着物を買って来たのを自慢にしている。
彼女は大げさなゼスチュアでそれを私に披露するのが得意だった。ただお茶の要領だけはどうしても合点が行かぬ。コーヒーのようになぜガプガブ飲めないか、廻したり、捻ったりして飲まねばならぬか、こればかりは了解出来ぬと言っていた。奥さんが(リンガムは自分の妻君を日本語で奥さんと言う)三味線を買って帰ろうと言い出したのには弱ったと笑っていた。
私は戦時中テノムで、リンガムを中心に大東亜共栄の理念を吹聴した。戦に勝つ為には現地人に対し苛酷な態度もしたし、無理も強制した。そして戦争を乗り切れば日本とボルネオが一体となるのだと強調しつづけた。ところが惨々な目にあって日本は敗戦した。みじめな醜態を彼等現地人の目の前にさらけ出した。おそらく現地人の大部分はこの日本敗戦の現実のみを見て日本とは、如何にも尾羽打ち枯らした、みすぼらしいあわれな国だとの印象だけが残って、戦時中に我等が高揚した真剣な言動も、あれは空しい一片の夢であり、ホラであり、強がりに過ぎぬと受け取って軽蔑に近い感情を抱くようになったと思われぬでもないが、今リンガムは敗戦後の日本の姿をその目で見、日本の物凄い発展振りに驚嘆し底知れぬ日本民族の底力に一種の恐怖感さえ抱くと日本をたたえている。我等の主張が駄法螺でなかった事を、日本旅行によって身をもって休験しホントの日本の姿を突き留めてくれていることが判って私はうれしかった。総体的には遠慮気味で幾らか引け目を感じていた私だったが、リンガムと対談していると満更肩をすぼめずとも、明朗に談笑出来るのが愉快だった。
それから私共は、私共の直属長官だった稲川さんに、寄せ書きの手紙を書き送ることにした。稲川さんは当時最高検察庁の刑事部長だった後仙台の高等検察庁の長官で官を辞し今は早稲田大学で憲法を講義している-----あれやこれやとリンガムとの話は夜を徹しても尽くるところを知らぬありさまだったが、夜更けて私はこのボルネオの盟友の家に心地よい夢を結ぶ床に入った。
南洋材の伐採
リンガムの邸宅にやって来たのは昨夜の事だったから周囲の状況が判らなかったが、今朝起きて見るとなるほど屋敷も素晴らしく広々としている。リンガムはもう池の側に出て私を手招きしていた。街道に面した方は芝生と花壇になっているし、反対側はまばらな椰子の古木が亭々と聳えていて、その一隅に養魚池を作っている。
「内で食うだけ位養魚しようと思って」とかなり広い長方形の池一面がおよそ百坪位なのを二面並べている。
「水は大丈夫か」と問うたら、地下から噴き出しているので大丈夫という。
「朝の散歩の代わりに今から水田を見に行こう」と私等は車を駆って、約十五分離れたリンガム所有の水田に行った。現地人、主として女性だが、早朝なのにすでに田植のため二十人ばかりが集まっていた。
一体ボルネオの稲作は一定した季節に田植をする日本の考えとは全然違って、年中いつでも気の向いた時に田植をし、それに応じて収穫の時期も異なるといった具合である。だから稲穂が垂れている田甫の隣りでは田植の最中で各人各様まちまちである。総じて時間的にみれば、一カ年に二回半の収穫が出来る。それほど恵まれた稲作環境でありながら、ただの一回さえジプシブと田植するのが一般現地人の習慣となっている。ことほどさように現地人は怠惰で労働意欲が欠如している。だからいったん本田に定植が済めばそれから先の作業、手入れなど一向に振り向きもせず、いわゆる典型的な略奪農業で出来ようと出来まいと、運を天に任せて収穫期を待つ、実に幼稚な農業経営である。従って品種の攻良とか、施肥とか中耕除草などそんな気の利いた作業は一切御免、年を追うて地力が衰え作物が育たぬようになれば、荒れ放題に棄ててしまう。まず日本の農業から見れば勿休ないやら馬鹿らしいやらでとても比較になるものではない。
そこに行くとリンガムはさすが頭がある。
「今植えているのは台湾種とフィリピン種を掛け合わせた新種で、在来種に比して倍の増収だと政府は奨励している。今年初めて作るのだがある程度の施肥も考えている」
「全部でどれだけの耕作面積があるのか」
「家の前が二十エーカー、茲が五エーカー、合計二十五エーカーでこの土地は昨年手に入れた所です」
「収量は?」
在来種は一エーカー十五俵(粗で百キロを一俵)程度という。私は頭の中で日本流に換算してみたら反当たり玄米にして二百四、五十キロまず四俵見当とみた。
「ところが新種はうまくゆくと三十俵とれると政府は指導している」
「それだけの広い田甫を一体何で耕作しているのか」
「水牛だから仲々能率が上がらぬ」
「日本の耕転機は相当発達している。乾田の鋤き起こしも出来れば、水田の整地も出来る。是非日本の耕転機を使ってみたら」私は熱心に中農型の農業機械利用をすすめた。
リンガムもこれには乗り気になって、その耕転機二台を導入したいと私に依頼した。朝の散歩のつもりで見学に来た水田を見て、耕転機の利用を奨め得たのは大きな収穫と思った。
これは後々の事だが、私は日本に帰るや直ちに東京の井関本社に行き、将来日本農器具の輸出販路をボルネオに開拓する意味においても是非送って貰いたい旨希望を述べた。同時に現地トアランの農事試験場には、日本の平和部隊で、二人の青年指導者がいるから、そちらに連絡して器械の操作、あるいは簡単な故障の直し方等は、この平和部隊に指導してもらうよう手続をすすむることもつけ加えておいた。
井関本社でも非常に喜んでくれて、直ちに送りますと返事していたが、それは単に口先ばかりに終わったらしい事が私が二回目にボルネオに行って判明した。私もガッカリした。日本の輸出商とはこんなものだろうかと、不平も並べたくなった。少なくともこれこれの理由で送られなかった位な連絡はしてくれてもよさそうなものを。例えば代金の支払いに不安があるならとにかくだが、リンガムはいつでもL・C・を組むと言っていたしまたリンガムの人物、財力からしてそんな心配はないはずなのに、私はとんだ不信を蒙って赤面する一場面さえあった。
リンガムの田甫から帰って上品な朝食を済ませた。そして二人でパパールの町に出かけた。パパール河に架っている鉄橋は鉄道全線中ここのが一番長い。この鉄橋は汽車が進行する外に、人間の歩行も出来るように両側に通路が作ってある。鉄橋を渡って河向こうに行った時はもう朝の市が済んだ頃だったが、大勢の人々はまだ残っていた。闘鶏が今から始まるのだとも言っていた。
一体我々にとってこのパパールは、印象の芳しい町ではない。というのは戦敗れていよいよ敵軍に捕われの身となり、はじめ我々はポーホートに収容されたがボーホートは僅かな期間で本格的に捕虜として虐待されたのが、このパパールであった。パパール河の河口砂丘地帯に収容所があって食糧が少ないうえに牛馬同様砂の上に寝せられる酷な待遇を受け、河口から上陸用舟艇に乗せられて鉄橋下まで運ばれこのパパールの町で各方面の苦役にこき使われたものだった。私は直接の苦役には廻されず、毎日使役部隊と濠州軍との間に立って通訳を受け持っていたが、それでも随分と嫌な目にあうたのがこのパパールである。
私はリンガムにせがんで、元収容所のあった所迄行って見たいと車を走らせた。が、あちこちと曲がりくねって行った先は、到底車の通れるような道ではなかったので諦めて途中から引き返してしまった。
中食をレストハウスで済ませて午後はゆっくりとリンガムの家で休養した、奥さんが色々と日本のレコードをかけてくれた。リンガムは二十五エーカーの農業をやっているほどだが、彼の本業は材木屋である。官吏生活の最後はサンダカンだった関係で、在職中にキナバタンガンの上流に広大な原始林伐採権利を得、同志Willieと共同で Willing Wood Timber Co,(ウイリング ウッド チンバーコンパニー)を組織し、多い時には月産一万トンもの伐採をやるし、日本円にして月平均六、七千万円の材木を出していると言う。初め三井物産と契約していたが最近は岩井産業に渡していると説明していた。
「邦さん、もしあなたが材木が欲しいなら、私の所で伐っている材木は全部あなたに差し上げてもよろしいですよ」と愉快な事を申し入れてくれた。然し船一杯積むとして月一億円もの資金は到底私共の手の届く所ではない。が彼は本気で私に南方材の貿易をやれと熱心に勧めるのである。日本の一流中の一流貿易商が二十社もサンダカンに支店を設けて、日本人同士が材木の奪い合いをやっている。
三井、三菱、住友、丸紅飯田、日棉、日比、岩井、日商その他トップクラスが互いに競争して材木の取り合いをやっているところを見ると南方材輸入は余程利潤が大きいとみえる。是非私に思い立てと言うのである。そしてこれは私が第二回目、昨年十月にボルネオに行った時の事だが、キナバタンガンの伐採事業地に案内するから伐木現場の状況を見てくれという。南方材の伐採現場を見るのは私も初めてだから頗る有益な経験になるだろうといよいよ彼の事業地に出かけたのであった。まずサンダカンからキナバタンガンの大河へ、それこそ目の廻るほど猛烈なスピードを出すスピードボートに乗って河を遡った。おそらく時速六〇キロ位は出すのだろう。四時間余走って支流に入った所に事業所の本部があった。真の太古の大森林の中でこの事業所が出来る迄は何万年の昔から人跡未踏の地だったはずだ。鬱蒼と林立する原始林を僅かに切り開いて一条の鉄道線路を九哩の奥地まで敷設している。
その沿線の大木を機械鋸で切り倒し、切り倒した個所迄ブルドーザーが道を造りながらその伐木を線路まで運んで来る。線路に集まった伐木は適宜の長さに切られてこれをディーゼル機関車が川端に集積する。そこで約百本を一組の筏に組んでこの筏を大型ランチが三日間もかかってサンダカンの貯木場迄曳航する。我々が日本で使っているラワン材等の南方材は大体こんな作業を重ねて日本に輸入されているのである。私はリンガムの事業所に一夜を明かし、伐木の実態を見学し得たのは確かに貴重な体験だった。南方材に対する知識を得せしむるために、ワザワザ事業所迄案内してくれたリンガムの好意がこのうえなくありがたかった。私共は次の日の夕方サンダカンに再びスピードボートで帰った。これは余談になるが、本誌の読者でこの拙文を読んで下さった人のうち、もし真面目な材木輸入に携わらんとする希望者があるならば、私は共にボルネオ迄お供しリンガムに交渉するに何等その労をいとわぬ事をつけ加えておく。
農相・ケロアクの来訪
「邦さん、あなたは農業指導をやりたいと口癖のように言っているが、農林大臣と教育大臣に会ってあなたの意見なり計画なりを直接話し合ったらどうですか。実は少々先走ったやり方だったかもしれぬが、あなたが領事館に行っている間に両大臣を訪ねて交渉したところ、今晩両人共ここに来てくれるそうですヨ」
ガンさんのこの突っ飛な出し抜けの計らいにはさすがの私も面喰った。なるほど我々から見ればまだまだ未開の、独立したばかりの新興国家とはいえ、苟も厳とした一国の大臣が、何の係わりのない一外国旅行者の私に、かくも簡単に会ってくれるとは、しかも向こうからこちらに訪ねて来てくれるとは、どうしても信じられぬし、ガンさんがいい加減にからかっているのではないかとさえ私は思った。
「選挙には落選したが、今の閣僚諸公とは皆知り合いの間柄ですヨ、あなたの事を話したらホテルで会おうとあなたを相当評価しているようですヨ」
はじめ冗談ではないかと思った私だったが、ガンさんは矢張り本気で私を大臣に引合わせようと、気を配ってくれているのだと判ると、ガンさんの好意がありがたかったし、このうえは大臣連に会って日頃私が抱いている農業指導の件を十分話し合い、出来得れば具体的な計画の糸口でも掴みたいと、私も急に緊張した気分となった。まずボーイを呼んで空いていた一室を片づけてもらい、最上級の宴席を設けてくれと頼んだ。ややあって八時頃やって来るとの電話があった。まだ相当時間があるのでガンさんと二人で軽い食事をとり待つほどにカウンターから今大臣が着いたと知らして来た。
ガンさんが迎えに出て入って来たのは随員なしで農林大臣のサイド・ビン・ケロアク氏と教育福祉大臣のダトー・ヤシン氏だった。一応私は懇ろな態度でお出でを感謝する旨挨拶をした後、戦時中テノムにあって現地人とは頗る密接な間柄であった点等を説明した。そして第一に、先程リンガムに伴われて会った前首相のドナルド・スチブンス氏に訴えたのと同じ趣旨の『是非ボルネオで農業指導をやりたい』旨を熱心に説いた。これに対する両大臣の意見は次のようなものだった。
「サバ国が未だ幼稚な農業国であり、主食の米さえ輸入米に依存しているのは、何としても情けない実情だから、まず自国の消費米だけでも国内生産で賄いたいと、稲作農業には特に真剣に取り組んでいる。あなたの主張するように、小型農業機械の導入等によって、耕作の改善を図らねばならぬ事は判りすぎるほど判っているが、現住民の習慣は一朝一夕に改むべくもない。そこで中堅青年を養成してこれを地方に送り出す計画は誠に時宜に適した施策であるが、さていよいよ実行の段階となれば、日本国政府も指導援助のため、全面的にバックアップしてくれねばならぬし、自分の国としても相当の施設をせねばならぬ、それには国会の議決を必要とする。こんな事情で右から左に今直ちに実行に移す約束は出来ないが、あなたのようにサバの事情を知っている人、そして我国を同情と熱意をもって指導してくれる人の意見は大いに尊重せねばならぬから将来是非共その実現を目標に進むことに致しましょう」と。
私はこの言葉を単なる外交辞令とは受け取らなかった。むしろよく吟味し大臣の企図を実らすべくハッパをかけねばならぬと思った。現にアメリカはサバ国に対し三百八十人の平和部隊を送り込んで、産業の方面には一切差し出がましい事をせず、ただ教育一点張りでどんな辺郡な田舎にも米人の先生が現地人の教育に当たっている。二十年、三十年の将来を思う時、これは大した結果を生むに違いない。カナダ、フランス、西ドイツ、オーストラリア等の諸国からも、それぞれ平和部隊を送って各種各界の指導に当たっている。欧米白人に於てすでに斯の如し、然るに我が日本に至ってはトアラン、コタブルトに僅か四人の平和部隊が農業指導者として派遣されているにすぎない。
日本が名実共にアジアの先進国を以て任ずるならば、そして彼らボルネオの現住民と我等日本人とは同色同種のアジア人である同胞愛に目覚むるならば、今こそもっと真剣になって、この独立したばかりの新興国に援助と指導の手を差し延ばすべきではなかろうか。この両大臣の言葉には、日本政府のより積極的な態度を要求する不平も含めて日本よ本気でやってくれ、アジアは一つだと戦争まで仕掛けた手前もあるではないかと言外に意があったとさえ私は受け取った。こんな観点に立って、私は機会あるごとにボルネオの農業開発を叫びつづけている。何とか実現の緒につきたいと真剣な願望に燃えている。よい知恵はないものか?
サンダカン遺骨調査
五月三日、今日は午後の飛行機でサンダカンに飛ぶ予定にしている。十六時三十分の出発となっているので、少し早目に空港に着いたら遅れて五十五分の出発となった。マレーシア航空の定期便はアピーーサンダカンを一日四往復している。思いがけなく昨夜は材木山を買ってくれと相談を持ちかけられて苦笑を禁じ得なかったのに今日もまた空港の待合室で休んでいると、サンダカンに出かけるという一人の華僑が(材木の仲買人だが)材木がいるなら買ってくれと言う。この分だとこの種の仲買人は相当のさばって、勢力を奮っているなと私は感じた。またそれだけサンダカンの日本人材木業者は、これら華僑の仲買人に振り廻されて、甘い汁はみな華僑に吸われているのではなかろうかとさえ思った。サバの人達は日本人さえ見れば材木買付けに結びつけて、金儲けの踏み台にしようとでも思っているのだろうか。
機上の人となるや上空から見る下界のジャングルは、樹海が果てしなく続いて、なるほど森林資源は無尽蔵だと実感が湧く。そのジャングルの間をうねりうねった大きな河が悠々と流れているのをいくつか飛び越えて行く。途中スコールに出会して、雷雨の中を暫らく飛んだ。天空に轟く雷鳴がプロペラの轟音を乗り越えて聞こえて来たりした。僅か四十五分の後にはサンダカンに着陸した。サンダカンはまだ午後の陽がカンカン照っていた。
私はどのホテルに泊まるともきめてなかったが運転手がドアを開けて「お泊まりになるでしょう」と車の中に誘い込んだ。サバホテルの車だった。飛行場からサンダカンの市街地迄およそ三十四、五分かかってホテルに入った。構えも相当大きくしかも静かだ。アピーに比べて数等上級だと思われた。マンデーの後食堂に出る前にサロンに寄ってビールを一杯やった。
その時このホテルには日本人が常宿していると聞いたが明朝訪ねたがよかろうと教えられた。翌朝上田さんの部屋をノックした。ボルネオ水産の支配人である。ボルネオ水産は遠く戦前からサンダカンを基地として、周辺の豊富な漁場に活躍していたのだが、戦後も再びここに根をおろして操業を続けている。エビ漁一点張りで外の魚は獲れても捨てると言っていた。私は遺骨の所在調査に来た者だから御協力を頼むと挨拶したところ、戦後目につく遺骨は日本人墓地に改葬したので、散在した遺骨は一向に見当たらぬとの返事だった。上田氏に同車してボルネオ水産の事務所を訪れた。二人の日本人社員と挨拶を交わして、そのうちの一人が車を出して案内してくれるのでまず日本人墓地に行った。
墓地はサンダカンの市街を見下ろす絶好の高台にあって、その向こうは旧総督官邸に続いている。サバ政府から正式に日本人墓地として貰ったもので、入口には朽ち果てて倒れた門柱が地面に横たわっていた。およそ二、三十基だけ墓標が残っているがむろん記された文字は跡方なく消えている。大部分およそ三分の二程度の墓標はすでに朽ちてなくなっている。然し埋葬の場所は整然と区画されて、雑草が覆い冠さっているような荒れ放題の状態ではなかった。
私は黙礼の後何放かの写真を撮った。日本人墓地の登り口と反対の場所に華僑の記念碑が建っている。近づいて行ったら大きな石の表面に『千九百四十五年五月廿七日殉難華僑記念碑』と大書して刻んである。一九四五年なら終戟の年昭和二十年五月の出来事である。案内者の説明によれば、サンダカン在住の華僑百五十人、一説には百七十人が集団的に日本軍に殺されたのを悲憤の余り、この碑を建てて、反日憎悪の記念としているのだと聞いている。どんな理由で、どの部隊が殺したのか詳にせぬが、エライものが後世に残るものだと、秘かに眉をひそめ、これまた数枚をカメラに収めた。
ボルネオ水産の帰路、市街地へおりる坂道の降り口の所にJUDO CLUB, の看板が出ているのが目についた。ボルネオ水産の社員、及び船員達が中心となって始めたところ、現在では現地人が多数稽古に参加するようになったし、中には女性も数人混じっていて、ここでの柔道の普及はすばらしいとの事だった。これは両国親善の為にも好結果をもたらすものだからなお一層発展させたいと一同張り切っているとの意気込みだった。
ボルネオ水産の親切な協力に礼を述べて今度は三井物産支店を訪ねた。というのは僅少な金額ではあるが領事館では三井物産を代表に墓地管理費を出していると、領事から聞いていたので、特に墓地に関係が深いところから墓地以外に散在している遺骨の所在もあるいは判っているのではなかろうかと察したからである。
「サンダカンは貫兵団が通過した道筋に当たるので多数の遺骨が散在しているものと想像される。あなた方は現地人と常に接触されておいでだから、それらの情報を得るのに都合よい立場だろうと察し、お手数でしょうが遺骨の所在が判明したら連絡して下さい」と私はねんごろに依頼した。ところが支店長の返事は私をして意外な感を抱かしめた。
「正直のところ遺骨の調査などにはかかわりたくありません。現地の華僑が戦時中、いわれなく多数殺されたのを今なお遺恨に思っている事は、現地で生活している我々には、ヒシヒシと身に感じて判ります。華僑の対日感情は決してよい方ではありません。そこに遺骨の調査など表面に現わるる行動をとれば、彼等の感情を刺激するは必至です。この不幸な記憶は長い年月をかけて、自然に忘れられる時を待つより外方法はありません。それなのに当時の苦い記憶を呼び起こさしむるような調査を始めたら、彼等の感情を害するはもちろん、その結果は両国の親善関係をも破壊し、あるいは両国の貿易等にも重大な影響を及ぼします。申し訳ない事だがこの際我々は遺骨調査などに協力出来ません」と、私はピシャリ断わられてしまった。
私はその当時同じ日本人でありながら、これは情けない事を聞くものだと、心中甚だ淋しい感情を持っていた。むしろ怒りに近い感情さえあった。然しその後静かに考え直してみると、現地で常に華僑に接触している人々が両国の親善を保つため、殊更彼等が怒るような振舞いを慎しむのは当然な事ではなかろうか。あの時のあの言葉は決して英霊をあなどり軽んじた発言ではなくて、もっと広い国際的立場に立っての考えの発露だと私自身反省するようにさえなった。現に日本人墓地に葬られた英霊は在留邦人によって鄭重に祭られているではないかと自らを慰めている。
サンダカンはアピーに比べ確かに活気横溢している。人口五万のこの町はサバ国第一の商業都市として輝かしい将来の発展を約束されている。町が明るくて賑やかだ。奥地で切り出される材木はここサンダカンに集積され、日本はじめ各国に輸出されて、いわば丸太変じてビルとなると称すべきか、十階、十五階の近代建築のビルが建ち並び、往時の様相を一変して近代都市へと脱皮しっつある。殷盛な材木の輸出港で私が見物して廻った時も沖には材木を積みに釆た日本船が八隻もあちこちにかかっていた。日本でも指折りの貿易業者は一様に支店を設け、その数二十社にも及び主として材木の買付けをやっている。一体サバ、サラワク、ブルネイの北ボルネオ三カ国にはおよそ二百人の日本人がいるが、その半数の百人はこのサンダカンに集まっていて、主として材木に関係ある貿易に従事している。こう見てくると同じボルネオの中でも日本とサンダカンとは特に密接な関係の深い場所柄であることが判る。