「あゝボルネオ」目次へ

椰子、果実、風俗

元三七軍司令部付陸軍技師  五十嵐 修作
氏は日本大学工学部土木工学科卒業、内務省勤務中臨時応召、支部事変に従軍、陸軍軍曹、昭和十八年六月任陸軍技師、ボルネオ守備軍司令部付となってボルネオの道路建設に活躍された人である。
昭和四十三年四月一日発行「ボルネオの道」の著書あり。
 現住所 宇都宮市日の出
 南方の風物には必ず榔子の林が付きものである。それほど、椰子は南方にはふさわしいものなのだ。なかでも種子の胚乳からコプラを取る椰子が一番その利用度が高く、集落のある所必ずその榔子があり、その椰子の林のある所に住居がある。その多寡によりその家の価値が左右されるといわれるほどで、原地人にとっては椰子は大きい財産で、子供が生まれるとその子供のために椰子を植えるのだそうだ。南方の風俗、習慣を考える時、その背景には椰子の風景を無視することが出来ないほど、椰子は原地人の生活の中に深く食い入っている。

その亭々と聳え立っている榔子の林は灼きつく南国の太陽を遮り快い日蔭を作り、原地人達に涼しい憩いの場と団欒の場所となるのである。幹の梢につけている椰子の大きな切れ葉が夕風 に揺れてさやさやと騒ぐ日暮れ時の哀調を誘う情緒や、夜の煌めく星空に配置された椰子の林の遠景もまた格別であり、嵐の闇夜の中に揺れ動き地をゆすらんとする厳しい荒天の中にある椰子の林もまた捨てがたく、南方ならでは味わうことの出来ないもので、その清楚な孤高な姿こそ、南方の原地人の清貧のうちに超然として自然に順応して生活している南方民族の姿そのもののような気がする。

私は道路現場の視察などで渇を覚えて原地人に椰子の実を懇望する、すると彼等の一人が高い梢に猿のようにかけ登る。それが子供である場合もある。私達には到底出来る技ではなく、それを仰ぎ見るだけでも気も遠くなるほどであった。
 その汁は少し青臭いが、冷たくておいしい。その胚乳は軟くこれまた香ばしく風味がある。原地人はこの胚乳を粉にして餅菓子などに振りかけて出すが、白くて実に上品であった。

  渇覚え榔子の実乞えば
  子供等が高く持ち上げ
  走り来たれり

  椰子の実を膜に下げたる山刀
  割りて薦めり
  いとかしこみて

  椰子の実の汁の香りよ
  汗ふきて
  裸のままに息つかず飲む

南方には果実の種類が多い、特にバナナは一番私達に親しまれ朝夕、常食したものであった。バナナは幾種類もあって、なかでもピサン・ラヤ、ピサン・アンボンは大きくて有名で、ピサン・マスは小型であって味がいい。また、長さ三十糎もあるものがあって野菜代わりで、てんぶらに揚げていた。私は密林の中に原生のバナナを見つけたが、これがモンキイバナナで種子ばかりでとても食べられたものではなかった。これを見た私はバナナも長い年月をかけられて改良されたことを知った。

マンゴスチンは色といい、香りも味も果実の王といわれ、最も珍重されていた。
ランプタンは真紅の毛に覆われ暗緑色の葉蔭に塊りなっているのは実に美しい。
パパイヤは広く栽培されている南国特有な果実でジャポンもまたパイナップルも同様その種類が多く、おいしいものもあれば水分の全くないばさばさしたものもあった。

南方の果実で最も珍しいのにドリアンがあるが、香りは強烈で一種独特な臭さがあり、刺激性に富んでいるから一度嗅ぐと数週間鼻から抜けきらない。その形は人間の頭よりもやや大きく皮には鋭い刺が多い。中身は幾つかの室に別れていて、いわゆる天然のクリームがそこに安置されていた。このクリームは強力な精力剤でもあり、その味は何ともいえない味のよさがあった。初めは胸につかえる糞臭さにへきえきしたが一度その味を覚えるとやみつきになる。この味が判るようになれば、そろそろ南方生活に順応出来るといわれていた。
その他数多くの果実があるが、年月が経つにつれて次第にその名もその味さえも忘れてくるが、総じて南方の果実はその香りも味も濃厚である。

  鈴なりのバナナの房を
  山ダイヤ
  我に贈ると肩にかつぎて

 先に述べたように大部分のブルネイ人は水上部落に住んでいる。
それは必ずしも漁業で生計を立てて来た種族のせいばかりではないらしく、陸上生活にないよさがあるように思われた。即ちそこには猛獣毒蛇にあわない、その上、酷暑も凌ぎやすい、しかも綺麗好きな彼等は水浴にも洗濯にも便利である。いやそれよりも生活しやすいのは水上交通の便利さがあるからでもあろう。
 ブルネイ市はブルネイ河湾に開けた所であるが、一般に南方の河は水面勾配が緩く、潮の干満は遠く内陸まで影響する。したがって、それを利用することによって楽に奥地まで丸木舟で運行することが出来る。しかもこの地方は一日二回潮であるからなおさら便利であった。

  夕なぎの潮まんまんと
  リンパンのダイヤ族住める
  奥地にいたる

 最近は水上生活を送っているこれ等の人達も漸次陸上に移り農耕を営む者が多くなった。また山の狩猟生活を送っている原地人も次第に農耕に移りつつある。
 これ等の雑多の種族もブルネイ人も大部分は回教徒であるが、回教は他の宗教と違って坊さんや牧師さんというものはなく、ある意味では総ての者が坊さんであり牧師さんであるわけで、それだけに回教の儀律を守ることに厳しいものがある。

 回教徒の行事は日常生活を拘束するものが多く、なかでも一日何回かの定刻の礼拝と、一カ月にわたる断食が信徒達の守らなければならない行事とされている。この断食は予言者マホメットが神の啓示を拝受した九月に行なわれるのであるが、これは大変な苦行のようであるが、実際は暁から日没までの間だけを一物も口にすることが出来ないのであるが、日暮れから翌朝までは昼の口にしない分を取り返すようにじゃんじゃん食べるのである。しかしこのようなことが一カ月も続くのでこの間の労働力は非常に支障をきたすことになる。
この他、変わっているのは少女の割礼であるが、この儀式は実際に見ないのでどのようにして行なわれるのであるか、全くその内容を知るよしもないが、エキゾチックな臭いのする奇怪な行事である。

また彼等は豚は絶対に食わないし、それを飼うことさえいけないとされていて、その上、豚の脂をつけたようなものを手に触れることさえ不浄としている。一般に彼等は生き物を食べるには生き物を殺す方式が回教徒には定められていて、その方式をふんで殺された動物でなければロにしてはならないことになっているので、宗教を異にする者によって料理されたものは食べないし、それ等の人たちと席を同じくすることも嫌っていた。彼等はまた不浄を非常に懼れていて、不浄な左手を人前に出さないようにし、水浴も本来は不浄を祓うための行事であったが、それも形式的に固定化されて甚だ不潔な条件下に行なうという全く矛盾したことを平然と行なっていた。

 私が見てきた風物や習慣は戦争という条件下のゆがめられた頃であったので、その本当な姿を見ていないのであるかもしれないが、その服装などのことを簡単に記すことにする。
 マレイ人の最も特徴的なものは男も女もー般にサロンを使用している。それはいろんなきらびやかな色彩で飾られたスカートのようなもので、足首まで届くような長いサロンを腰にまきつけている。
男は仕事をする時や歩く時には器用にひねって腰のあたりまで捲くり上げ、下にはいている半ズボンの上で捲きつける。殊に洋服を着た時でも上着の下にまくりこんでいて、町に出たり、公務がすんだ途端にサロンをおろしてズボンをかくすのである。また彼等は部室の中でも常に頭巾(ソンコ)を離さない、それは元禄時代の俳人のものによく似ているのは誠に興味深い。

女はバジュという上着をサロンの上の方に着ていて、美しい長い肩掛を肩から垂らして外出するが、この単純な衣はよく全体の調和を保っているのは面白く、時にはこの肩掛で赤ん坊をしっかと包んで歩いているが、その清潔な黒々とした髪を首筋のところで大きく結っている後ろ姿は何となくういういしくもあった。また洗濯をしたり掃除をしたりする時、上着をぬいで腋の下にサロンを捲きつけ手足の活動を容易にしているが、その小麦色の健康的な肌をちらつかせて見せるのは何ともいえない魅力さがあった。彼女等は上品で優しく、それでいて唄と踊りで陽気に騒ぐことが好きで、人を呼んでは大盤振舞(マカンプツサル)をして喜ぶのであった。その踊りはちょうどツイストを緩慢にしたようなもので、男と女が向かい合って前進と後退を繰り返し掛け合いの即興の唄で相手を負かし次々と交代させるのであるが、その踊りを囲んで皆がはやし立て夜の更けるのを忘れるのであった。


「あゝボルネオ」目次へ