南十字星は偽らず
元ケニンゴウ県知事夫人 山崎阿燕
本篇は昭和二十六年十一月号「文芸春秋」に登載してあるものを転載したものである。我々戦闘部隊として東海州に展開した勇士等にとっては本篇の主人公山崎県知事とは一面識もなかったことは言うまでもないことではあるが、彼の風格を知るに及び本篇に出てくる風土地名までが苦難を忘れて懐かしく思う。ここに我々部隊が一、000粁の長路の此の横断転進に彼の敷設したる道を通過したことを知るに至ってはその感を一層深くする。而して、戦後彼はアイン夫人を伴って再度南アメリカに雄飛したが彼の地にて客死されたとのことである。又アイン夫人も現在は愛児を日本に残して彼女の故郷の国、ボルネオに帰国していると聞く。
山崎アインさんは、赤道に近い熱帯の国ボルネオに生まれた。太平洋戦争当時の北ボルネオ司政官・元社会党代議士山崎劒二氏と…相携え、愛児を擁して日本へ渡ってきたために、現参議院萱・山崎道子(藤原道子)女史の離婚事件をひき起こして、ジャーナリズムを賑わした事は今なお記憶に新しい。本篇は、その山崎アイン夫人が、恋愛苦難の真相を語ったもので、東南アジアを舞台とする大口マンであり、北ボルネオの庶民生活を通して戦争の実体把握したところに興味つきざるものがある。はじめて生まれた北ボルネオの文学としても、その特異性は、注目すべきものであろう。(編者)
日本軍ボルネオに上陸す
イギリスの属領、北ボルネオの首都サンダカン市で、わたしは中国人の父と、マレイ人の母との間に生まれました。中国人との混血児はプラナカンチカと呼ばれており、わたしはその一人として温かい両親の手で八歳まで幸福に育ったのですが、この時忘れられない悲しい運命がわたしの身の上にやって来たのでした。それは父の健康が熱帯の生活に耐えられなかったのと、葉煙草栽培事業が失敗したため、父は故郷の広東省へ帰国してしまい、母もやむなく父と別れて生家のマレイ半島へ戻ってしまったために、わたしは父母が知り合いであったドスン人の養女に貰われ、養父シメンの手で、二人の義姉と共に、十五歳の時までサンダカンの市内で成人したのです。
こうしてわたしの育った北ボルネオは、常夏のいつも暑い気候なため、草木の成長も早く、娘達にもそれだけ早く花の蕾がつくのでした。
わたしも満十五歳になり、マンゴーの実が美味しく熟しだす頃になると、人並みに身も心も、浮々と張り切って、夕暮れになるのが待ち遠しく、娘友達といっしょになってサンダカンの海岸へ散歩に出るのでした。
そしてわたしはある華僑青年と知り合いになり、よく一緒に散歩するようになりました。
それが誰の口からどう伝えられたのか、やがてこの事が養母のテッパイに告げられたのです。
その話はさっそく養父シメンの耳にも入り、回教徒のわたしが若しも異教徒の中国人と恋仲にでもなっては、厳しい回教の戒律を破ることになり、その上実父の国、中国にでも逃げ去られてしまっては困るというので大変にあわて出し、イギリス人ゴム園のメララップ農園の書記の職について働いているアブドル・カリムの妻で、わたしの義姉にあたるシマの許へ、家事手伝いという理由で、嫌がるわたしを、無理に連れ出すことにしたのでした。
メララップ村はサンダカン市とはおよそ正反対な片田舎で、シンガポール通いの汽船でゼッセルトン市に行き、そこから更に薪をたいて走る軽便鉄道で九十哩も奥地に入った、淋しいイギリスゴム園の外には、何もない小さなジャワ苦力の住む村でした。
ところが、この義姉の家でひたすらサンダカンへの帰りの日を待ちわびていたわたしの前に、これはまた思いもかけぬ大事件が起こったのでした。
その大事件の噂は、木々の枝を折る大風のようにこの山奥の村へ吹き込んで来たのです。
それは突然と恐ろしい日本軍が、この北ボルネオへ侵入して来てイギリス人は捕えて全部刑務所へ入れてしまい、原住民や中国人の若い女は日本軍に暴行を受け、反抗する者は皆虐殺されるといった恐ろしい流言でした。
この話が村から村へ伝えられると、ゴム園のジャワ苦力達から華僑やムルット人までが生きた顔色もなく、急いで山奥へ逃がれたり、ゴム園の奥に用意されていた小屋にかくれるために荷物を取りまとめる騒ぎで、今まで静かだったこの村も急に恐怖の村になってしまったのです。メララップ駐在のドスン人巡警は村中を駈け廻り、昨日まで村の所々に貼りつけてあった日本を悪宣伝するポスターを全部はぎ取って廻るといったふうに、こうした恐怖は日増しに濃くなり、やがて十哩先のテノム市内にその恐ろしい日本軍が侵入して来たと知らせが来たのです。
そこでわたし達の家でも姉のシマを先頭に家族一同、コーヒー園の奥に用意してある小屋に逃げ込み、誰にも知られないようにこっそり日本軍からの危難を避けていたのです。
しかし義兄アブドル・カリムは平常のようにイギリス人ゴム園の事務所に出勤しておりました。そしてそっとコーヒー園にやって来ては日本軍の事について新しい話を知らしてくれるのです。それによると、日本軍といっても、中国人より背の低い皮膚の黄色い種族で、目がダイヤ人のように鋭く光っているとか、イギリス人のゴム園支配人達や、婦人子供達までゼッセルトン市へ連れ去ってしまったとか、見て来たままの話をしてくれるのでした。がその話の中にわたしを失神させるほど失望させたことがあったのです。
それはゼッセルトンの港もサンダカンの港も全部日本軍に占萌され、船の交通は一切出来なくなってしまったという事でした。
これを聞くと、わたしは急に目の前が黄色くなり、フラフラと後ろのコーヒー樹に倒れかかってしまいました。
こうして日本軍の侵入によりサンダカン市へ帰ることが出来なくなってしまったわたしは、やむなくメララップの家へ戻り、そこに希望の失せた不安の日々を送ることになったのでした。
しかしその後まもなく意外なことには、サンダカン市に住まっているはずの養父が、突然と日本軍の許可を得て、日本の船に乗せられ、メララップの義兄の家へ送りつけられて来たのです。
わたしは久方振りに元気な養父母と会える嬉しさで、テノムの駅まで出迎え、汽車を待ち受けていました。ところがどうでしょう、待ちこがれた懐かしい養父母が到着して、わたしがひと目二人を車室の中で見つけた瞬間、わたしはあまりにもその変わり果てた養父母の姿に、思わず「はっ」となって立ちすくんでしまったのです。
長い間の船と汽車で疲れていたためか久し振りで見る養父母は、かつてわたしがサンダカンで暮らしていた時のような元気で厳格な養父母ではなく、全く別人としか思えない程に変わっていたのです。養父シメンに手を引かれ、手さぐりにわたしの声の方へ寄ってくる養母のなさけない盲目の姿が、思わずわたしの目を見はらせました。
「養母(おかあ)さん、どうして盲目になったのですか」と涙をこらえて聞くわたしに、養父は申訳なさそうに「目が悪くなったので、目薬を買いに華僑の薬屋へ行くと、戦争で物価が上がるからと品物をかくしてしまい、目薬はないといって売ってくれない。仕方がないので、養母の親戚の者から赤葱の汁でつくった目薬を貰ってつけさせたのだ。ところが一日一夜ひどく痛がったが、到頭その翌朝この通りの盲目になってしまった」と語るのです。
養母は盲目の両眼からはらはら涙を流してわたしの頭や顔、肩なぞを手さぐりで撫で廻し、無事に再会出来た嬉しさをくどくどと語るのでした。
日本人の知事来る
義兄のアブドル・カリムの家は、義兄の先妻の娘が三人、姉シマとの間に養女が一人、それにわたしと今度新たに到着した養父母とで合わせて九人の大世帯になりました。加えてゴム園は閉鎖となり、無収入同様の今となっては、毎日毎日まるで底知れない死の谷に引き込まれてゆくように、前途はまったく真っ暗な状態だったのです。
義兄は日がな一日、不意に戦争をしかけて来た日本軍の悪口をぶつぶつ言っているかと思うと、又或る時は日本軍に自動車の運転免許証を持っている自分を使用してもらいたいなぞとも言い、そんな日には口を極めて日本軍が好きだとか、強いとか自分のことのように誇ってみたり、又その翌朝の食卓がさびしいと、この生活の苦しみはみんな日本軍が銀行の支払業務を停止したからだなどと、前よりも一層はげしく、日本軍を口ぎたなく罵ったりするのでした。
ところが一九四二年の十月早々ダヴァオ市にある日本人のマニラ麻農園から、酒井と名乗る若い日本人が、ここのイギリス人農園の管理人として日本軍の命令を受け赴任して来たのでした。
その新しい支配人の酒井さんは、可愛い女の赤ん坊を抱いた美しい日本人の妻と共にメララップへ乗り込んで来て早々に、義兄アブドル・カリムをイギリス人支配人のいないあと、以前通りの書記に採用し、イギリス当時と同額の給料を与えることを申渡したのでした。
この思いがけない朗報こそ、日本軍がここへ入って来てからの初めての大吉報で、義兄はじめ一家中、夜が明けたように大喜びでした。
さっそく義兄は家内全部を引きつれ、テノム市へ祝いの買い物に出かけましたが、市中の人々にまでその事を誇りたい気分でじっとしていられない位にはしゃぎ「日本軍は皮膚の色は黄色だが、イギリス人よりも強い」とか「中国人と長く戦争したが一度も負けなかった」とか、全く自分が日本人になってしまったような気分に見えるのでした。そして次には今度は自分が、イギリス人に代わって、メララップ農園のすべての事務を処理する重い役についた事を、宣伝するのを忘れなかったのです。
この日、わたし達の汽車がテノム駅へ着いた時、ここのプラットホームにテノム市の華僑達が大勢手に手に白い紙へ赤く丸い太陽を画いた日本の国旗を持ち、スクールの生徒までも集まって、がやがや騒いでおりました。
この様子に不審に思った義兄が人々に問うと、それは今日ここへ、日本人の知事がケニンゴウの県庁に新しく着任して来るため、こうして出迎えているのだと教えてくれたのです。義兄はこれを聞くと、自分はとうにその事を知っていてその歓迎にここまで出向いて来たのだと場当たりを言い、大得意になりました。
テノムの市中は主人や子供達が全部駅のホームへ知事の出迎えに行って、残りの女達は店の奥や、二階の窓の奥から、いつも日本人がここへやって来る時にすると同様に、ひっそりとかくれ込んで、そのくせ好奇心と、警戒心とでびくびくしながら恐ろしいもの見たさに、半分は憎しみも手伝った気分でひそかに見物しているのです。
わたし達も大急ぎで知り合いの海南人のコーヒー店に入って、そこの窓の内から日本人の知事をのぞき見していたのです。
その日の日本人の知事は、今までの日本軍の侵入して来た時とは全く違って、たった一人通訳の日本人青年と中国人の若い自動車運転手を従え、笑顔をたたえながらテノム都庁にちょっと立ち寄っただけで、再びトロリーに乗って奥地のケニンゴウ県庁へ向け、メララップの方へ走り去ってしまったのでした。
このごく短い間、日本人知事の降り立ったテノム市は、なにか冷たい風が吹いて来たような気がしたのですが、知事の乗ったモータートロリーのすさまじい車輪の響きが町はずれのゴム林の彼方に消ぇると、急に花が開いたように町中が元気と笑顔を取り戻して、人々はほっとした気分で元通りの活動を開始し出したのです。
この日わたしがコーヒー店の窓からぬすみ見た目本人の知事、あのモータートロリーの車輪の響きと共にやって来た日本人の知事に、わたしが半生の奇しき運命を託することになろうなぞとは、わたし自身は勿論、この日ここに集まった人達の誰れ一人として予期し得なかったことでしょう。運命とは思わぬ時に、そして思いもかけぬ者にひそかにしのび寄るものなのでしょうか。
魔の手をのがれて
日本人の知事が着任してから、この県内の仕事が急に増加し、今まで失業していた人達も政庁の苦力仕事が次ぎ次ぎに募集されるので、どうやら生活が立つようになって来ました。
そのためこのままこの国にいたイギリス人は永久に帰って来なくなり、日本人がこの国を握ってしまうだろうなぞと言う人々も、次第に増加して来たのです。そのような話を耳にするたびにわたしは、サンダカンへ永久に戻れなくなるのかと思われ、呪わしい気持ちになるのでした。
それよりも、わたしにとって最も困った事が起こってきたのです。それは義兄アブドル・カリムが、イギリス人のいなくなったこのメララップでは、日本人の支配人酒井さんの事情不案内に乗じて、独り勢力をはってゆき、ついに苦カの妻や、その娘達にまで絶大な権力を振るうようになってしまったことでした。
その上事もあろうに、わたしにまでその不倫の手をのばして来たのです。
この思いもかけない義兄の求めに、どうしてわたしが従うことが出来ましょう。わたしはそのたびにバナナの葉がそよ風に揺れるように、軽く身をかわしていたのですが、ついある日昼寝の時刻に、義兄のベッドを用意に部屋へ入って行くと、いきなり義兄が背後からわたしの身体を抱きかかえ、力まかせにべッドの上に押し倒したのです。わたしは丁度養父母も子供達も外に出ていた時なので、誰も見ていないこの機会をつかんだ義兄の強い腕に抱きすくめられて、危くなった苦しまぎれに、義兄の手や顔をかきむしって、高い窓から大声で救いを求め、そのまま窓の下へ飛び降りてしまったのです。
このわたしの軽率な叫び声から盲目の養母が感づき、それから姉シマと義兄との間にはげしい口論が起き、養父や養母もその中に捲き込まれ、それ以後わたしは全く辛い立場になってしまいました。一週間ばかりもたつと、いつの間にか姉シマと義兄の仲は元通りになり、養母も姉シマの側に立ち、わたしをかばってくれる者は養父シメンただ一人となってしまったのです。わたしはあまりの辛さに、いっそパダス河の流れに身を投げてしまった方がましだとも考えました。
じっと水面に目を落としたわたしが、無心の水鏡に映るわが顔をあかず見入っているとき、いつの間にか八歳の頃、わたしをこの国へ置いてきぽりにした実の母の懐かしい面影もこうあったかなぞと思い出されて、急に産みの母が恋しい、懐かしいと思い出すと、止めどもなく、涙が湧き出してくるのでした。
わたしはその数日後、ついにそっとしのばせておいたアイデン(沃度丁幾)のビンを取り出し一息に呑み下して、一気に自殺を図ったのです。
遠くの方から、次第に近づくわたしを呼ぶ呼び声が耳元まで近寄り、はげしくわたしを呼びつけるので、はっと気づいた時、わたしは深い死の眠りからゆり起こされていたのでしょうか。
毒薬を呑んで死んだはずのわたしの胸は不思議に呼吸をしており、重い瞼を見開いて見廻せば、わたしのすぐ前に、先ず養父シメンの顔が近々と覆いかぶさるようにして大きく映っていたのです。
それはわたしを抱きかかえ、わたしの名を呼び続けていた養父の顔なのです。盲目の養母テッパイは、これもおろおろしてわたしの身体を強く揺りつづけながら、泣き声をあげているのに気がつきました。
「ああ、わたしは死ねたのではなかった」とさとった瞬間、わたしの胸は焼きつくようにはげしく痛み出しました。
このことがあってから義兄と姉シマはわたしを「死神のついた不吉な女」と罵って、到頭ゴム園の端にある苦力長屋の空室へ、追い出してしまったのでした。
こうして全く生ける屍になったも同様で、死の一歩手前まで来たわたしの情けない病床に、或る日突然何の前ぶれもなく、思いもかけない見舞い客がありました。
それは管理人の酒井さんと、日本人のケニンゴウ知事の姿だったのです。この突然の訪問に驚いた養父は二人に合掌して、その好意に感激の涙を流していました。
知事が帰ってから再び訪れて来た酒井さんの話では、わたしの自殺未遂をケニンゴウの警察署長から報告を受けていた知事が、ここのゴム園の巡視に来て、可哀想にと見舞いに訪れてくれたのだとのことだったのです。マレイ語の出来ない知事は、直接にわたし達と話が出来ないので、酒井さんを通訳にして話すのです。この時からわたしは、今まで心に描いていた、日本人は恐ろしいと思っていたこととは全く異なった感じが、病み疲れたあわれなわたしの心に映ってきたのです。
それはこうしたみじめな身の上になっている時、親切に見舞ってくれたのが大きなもとだったかも知れません。その翌々日、わざわぎケニンゴウの県庁から、知事の命令だと言って、中国人のドレッサー、チンヒンシンが、キニーネと注射器を持ってわたしの病気往診に来てくれたのでした。
運命のあかつき
わたしが養父と病気全快の御礼に参上した三日後のことでした。突然酒井さんから義兄と養父、それにわたしの三人が、御茶の招待を受けたのです。
わたしは養父にせきたてられ大急ぎで沐浴をし、髪を整え、義兄と養父の二人に連れ添われ、支配人宅に参上しました。ところが驚いたことにはその日御茶の席に、あの日の知事が白い開襟シャツ姿でにこやかに上席についていたのです。この思いがけない御茶の席がわたしに何を意味しているかをわたしは直感でさとったのでした。
そのため自然と両足に慄えが来て、心は少しも落ちつかなかったのです。
そう思うとわたしは益々固くなってしまって、とうてい知事の顔を見上げることさえも出来ず、只下うつむいたまま何一つその場の話が耳に入らないのでした。やがて会も終わりに近づいた頃、酒井さんが義兄にむかって「ケニンゴウの知事さんがしっかりした個人用の家政婦が必要だそうだが、ゼッセルトン方面を捜してもこの山の中に来る者はおらないので不自由している。しかし山の中で育ったドスン人や、ムルット人では、教養が足りなくて客の応接も出来ないので因っているから、是非ねねんを採用したいと言われるが、そちらの考えはどうか」と話し出したのです。
義兄と養父はこの話を予期していたのでしょう、即座に「ねねんさえ承知ならば自分達には異存ありません」と言い、そのことはわたしの考え次第です、と答えたのです。
「ねねん、早く考えを申上げなさい」養父はわたしの心を計り兼ねて、焦ったように促すのですが、わたしには養父に判らない不安があったのです。
「わたしの仕事は何をすることでしょうか」酒井さんに向かってやっとこのことを伺うと
「行けば判ります」と酒井さんが即座に答えたので、義兄も養父も、そして知事も、酒井さんのその答えた意味が判っていたのでしょう、高い声で笑い出してしまいました。
わたしもこの人々の朗らかな笑い声に半ば判ったような、しかし何か子供扱いにされたように感じたのですが、ともかく、今まで悲しい情けない生活を続けていたことを思えば、ずっと幸福なものに違いないと考えられ、ここでこの話を喜んで承知することが、耐えられない苦痛から解放される絶好の機会に間違いないと思われました。
「養父や義兄も同意で、知事さんがわたしを御好きでしたならば、わたしもその仕事を望みます」と養父の顔を見上げながら、わたしはゆっくりとこう答えたのです。
この短い二言の返事が、わたしの後半生の不思議な運命の波に乗る大きな船出になったのでした。
思い出のその日、一九四三年六月十日は奇しくもわたしの満十八歳の誕生日に当たる良き日でもありました。わたしは知事の自動車に迎えられ、二十哩奥地のケニンゴウ市へ向かったのです。
大きな木造の知事官舎は、この国にいるイギリス人の家としては最も素朴な山小屋風に建てられたもので、乳色の朝霧が開放した食堂の窓からサーッとテーブルの上を流れてゆく八時びったり、知事は朝食の席につくのでした。培りたてのロブスターコーヒーに新しい朝の牛乳を入れて、ポケット猿と共に食事をとった知事は、窓の外のかまびすしい小鳥のさえずりと、のどかな牛の鳴き声に耳をかたむけながら、黄色いタオル地のパジャマを脱いで暑そうな長袖の日本軍の服装をととのえ、九時びったりに県庁へ出勤して行くのです。
知事は出勤の準備がすむと、わたしに向かって、厳格な態度で小さな針金の輪に幾個かの小鍵をつけたものを手渡したのです。
この鍵の輪を渡されたことでわたしのこれからの仕事の性質と、地位が決定したのです。それは小鍵は主人か又は主人に代わる主婦が持つものとなっているからなのです。従って、この鍵を持つことが、外の使用人に対し主人に代わる唯一の証しとされているのでした。
わたくしは、ここへ来た最初の朝から、コックやボーイ達の上に、主人の代理として臨むことの出来る、特別な使用人としての地位についたのです。
わたしは早速食堂へコックやボーイ、洗濯夫等を呼び集め、今しがた知事から渡された小鍵の輪を示して、誇らし気にわたしの地位を知らせました。同じ使用人でも、わたしの地位は特別なものであることを、まず知らせておく必要があったのです。
突然とわたしがここへ来たことを不思議に感じていた使用人達も、はっきりとわたしからこの意思表示の小鍵を見せられると、その日から、すべてわたしの意向に従う人々になったのでした。
わたしの仕事は、これらの人達と仲良く毎日官舎の中の整理、清掃のことから、知事の身の廻りを見てやること、半ば手真似で、知事に日常のマレイ語の手ほどきをすること、知事の居室の机上にかぎってある日本の妻と子供達の写真に、庭の美しい花、ゴールデンシャワー、くちなしの花、それから胡蝶蘭の花を、いつも美しく飾りつけて置くことでした。
こうして、わたしはかげひなたのない楽しい毎日を暮らし、これまでの半生では決して味わえなかった、誇りの高い幸福な生活をはじめたのです。
偽りの南十字星
燃え立つ紅の火焔木の花をかむって、夕陽の美しい芝生に持ち出された夕べの食卓に、知事は酒も煙草ものめないために香りの高いアラビアのコーヒーと、よく熟した果物を楽しみながら、珍しい小動物を相手に、大きなホタルが群がって飛びはじめる頃まで夕涼みの時を過ごすのでした。二頭の牝鹿がいつもバナナを貰うためにその食卓へ寄って来る。ポケット猿は知事の肩から手をのばし、小熊は椅子の脚にすり寄って食物をほしがり、類人猿のワーワーは官舎につながれて窓からこちらへ来たいと騒いでいる夕暮れの楽しいひとときの賑やかさですが、知事のこうした夕食後の御相手がわたしがここへ来てから、わたしに移ってきて、その愛情もまたそれにも増してきたことを、はっきりとわたし自身が直感したのです。
このはっきりした知事の心の動きに、わたしの胸も激しい高鳴りを感じていたのです。
こうした宵が重なるにつれて、わたしもこの芝生の上の食卓が楽しくなってしまい、ついには知事から心の鍵を渡されるまでの間柄に深入りしていたのでした。
外に話相手もないまま、二人で夜更けまで語り合って、話のつきた時なぞ、ふと窓の外に輝く南十字星を仰いで、知らぬまに常夏の夜を更かしてしまったことに気づくのでした。お互いのベッドに入ろうとしても、広い牧場の中央に置かれたただ二人だけの夜の世界を遠ざけることの出来ないまま、運命の手にわたしの心が渡ってゆくのでした。
南十字星の横に、も一つある十字星、それを捜して、指さすわたしに「あれは偽十字星」と呟きながら、知事はわたしを振り返って「南十字星、あれはねねん」と言うのでした。
「否」とわたしは首を振って「あれは旦那(とあん)、もーつの偽十字星はわたし」と偽十字星を指さしました。しかし旦那は知らぬ顔で、三つ星のオリオン星座をわたしに教え「あの星は日本でも見られる、子供の時から見つづけたあの星は僕の守り星だ」と言ってじっと三つ星を仰いでいるのです。
「ではあの中に旦那の日本の妻もいるのですか」とわたしははっきり聞きました。すると旦那は急に逃がれるように、細い網戸の寝室へ引っ込んでしまうのでした。空にきらめく南十字星を旦那とたった二人だけの寝室で、初めて仰ぎ見たその翌朝、わたしはアスパラガスの葉にくちなしの花と胡蝶蘭の花を添え、机の上にかざってある旦那の日本の妻と子供の写真にきれいに供え、その前に脆いてアラーの神へ贖罪の祈りを捧げ、異教徒に従い、旦那の妻の許しのないのに、旦那の愛を受けた罪を許してもらうために、ひそかに手を合わせたのでした。
胸の奥にはいつも旦那の日本にいる妻を姉と敬まいつつ、偽十字星のごとく、北ボルネオの夜空の下にまたたいているわたしだったのです。
戦 禍 再 び
戦争中の日本軍政の様々な仕事は、イギリスの平和な時の政府の仕事とは全く反対に、辛い無理を原住民や中国人に押しっけるものばかりでした。
特に遠く離れたゼッセルトン飛行場の工事に、強制割付で各県から州庁員に狩り出される苦力の群れ、しかもゼッセルトンへ着いてもその苦力達を寝かせる宿泊所も満足に用意せず、その上食糧が不足して空腹に耐えられない苦力達が、遠く百哩も先のゼッセルトンから山を越えて、自分達の家のあるケニンゴウ県内に逃げ帰って来るのでした。わたしは連日炎天の下で、馬に乗って工事の現場に出て行く旦那を送り出し、どうか今日も一日無事で帰れるようにとアラーの神に祈るのでした。旦那がもしもムルット人にでもやられていたましい死体となって帰るようなことがあってはと、それのみが案じられるのでした。無事に夕刻旦那の帰邸を迎えると、わたしはほっとして、丁度わが身が命拾いしたように安心の胸をなぜ下すのでした。
こうしてどうやら、比較的に平和でなごやかな日が続いていたある日、それはアスパラガスの細かな葉と、カンナの花の取り合わせで昼の食卓を飾っていたわたしに、今までにない胸さわぎを覚えさせる気配を感じさせることが起こったのです。
その日はよく晴れた一九四三年の十月十日で、これまで中国人が双十節と呼んで毎年仕事を休む祝日の事でした。この日の午前十時すぎ、突然両頬を堅くこわばらせた牧田さんと旦那が、知事官舎へ戻って来たのです。その背後には警察署長の植村さんも、通訳の五十嵐軍属も続いて入って来て、コーヒーだけのテーブルを囲み、サロンへ人を寄せ付けずに、かなり長いこと、ひそひそと小声で話し続けているのです。わたしは今までになかった何かただならない様子を見て「敵が来たのだ」と直感しました。「イギリス人が戻って来たのだ」と考えたのです。
この予感はその後旦那から何も話してもらえないし、また、わたしから旦那に問うことも出来ないので、ひとりで胸を痛めていたのですが、県庁や警察署の動きがあわただしくなるにつれて、わたしは遂にたまり兼ねてしまいました。
旦那(とあん)はわたしの真剣な顔つきにちょっと驚いたようでしたが、やわらかい口調で「ゼッセルトン市で、中国人とバジョウ人が反乱を起こし、日本人を五十名ばかり殺したのだ。ゼッセルトンの警察署から反乱者達が鉄砲五十挺と、弾丸六百発を奪って何処かへ行ってしまったので、もしかするとこの県内にでも入って来るかもしれないから警戒しているのだよ」と語って「しかしこの県内はねねんも知っている通り、人の心が団結してはいないから大丈夫反乱はない。ねねんも安心しなさい」と真相を打ち明けてくれたのです。
ゼッセルトン市の恐ろしい反乱事件は、次から次へ電話で知らしてくる州庁からの詳しい情報で意外に大きな反乱である事がわかりました。様子を知ると、今更ながらわたし達を戦慄させるものばかりでした。
この大きな反乱事件は、日本軍の討伐と、憲兵隊の活動で一応片づきましたけれども、一波が万波を呼ぶように、次から次へとその余波が発生し、もはや以前通りの平和な北ボルネオではなくなってしまったのです。
やがて、このゼッセルトン反乱事件に後援者として出資した寄付者の団休「反日会」なるものの秘密結社が発覚して、各地の有力な華僑が次ぎ次ぎと日本の憲兵隊に逮捕せられ、ゼッセルトンの憲兵隊によって取り調べが始められたのです。
わたしはケニンゴウ県内にはこうした出資者は一人もいないと、自信たっぶりに旦那と語っていたのですが、その甲斐もなくこの時が伝わって来た一週間後の或る夕刻、テノム市のカピタンチナのチュアシヨウが、突然知事官舎に駈け込んで来て、旦都に面会を求め「知事さん御助け下さい、どうかわたしを御助け下さい」と官舎の床に両膝をつき土下座の格好で旦那を三拝九拝し、額を床板の上にすりつけ、はげしく号泣しながら哀訴嘆願するのでした。
しかしあの恐ろしいゼッセルトン事件に出資した人達をたとえ自首したからといって、旦那の考えだけで、そのまま放って置くことは出来ないのでした。
わたしは旦那と共々この最も親しかったチェアショウが自首してきたことで、まるで自分達が打ちのめされたように感じ、この悲しい出来事の処置に困惑し、只々吐息をつくばかりでした。
やがて、次々と華僑の有力者達が旦那の所へ助命を嘆願し、自首して出て来ました。
わたしと旦那は、一度は暗い気持ちになったものですが、これがかえってわたし達の誇りであると思って心を取り戻し、極力減刑、助命のため出来るだけの骨を折ることを誓ったのでした。
しかし憲兵隊に呼び出されたこの自首の人達は、遂に「自首降伏者は無罪」と布告しながら、日本軍はその布告の公約を破ってこの自首の人達を、片っばしから重刑に処する処置に出たのです。日本軍が出した「自首降伏者は無罪」の布告は、一片の宣伝文にすぎないと知ると、再び中国人や原住民は不安動揺をはじめたのです。
興南の心残して
その頃わたしの生活の中にもまた大きな驚きが起こったのです。それはわたしの身休に平常と違った変調が来たことでした。
わたしに打ち明けられた旦那は、しばらく驚いた面持ちで、わたしの顔を見詰めていたのですが、やがて「ゆっくり考えてみよう」と答えました。それからの一週間旦那は夜中に転々と床の中で寝返りをつづけ、寝苦しそうに吐息をつきつづけ、深い思いに悩み、寝もやらず考え込んでいる様子でした。が到頭一週間の後、わたしの手をとって静かに語り出したのです。
「この世の中には何十万人の人間が住んでいるが、自分の血と心を分けた子供は、ここにある写真の通り男が一人、女が一人、妻はもう年を取りすぎていて子供を産むことが出来ない。この男の子供も、日本が今度の大きな戦争をしているので、僕のいない間に兵隊に採用されて、何処でどういう運命になってしまうかも判らないし、又自分としても、この戦争によって何時この北ボルネオで戦死し、この国の土になるかも判らない。万一そのような不幸なことがあった時は、僕をこの国で弔ってくれる人がほしい。又戦死せずに僕が無事に日本へ帰国することが出来たときは、この生まれる子供を日本とこの国との間のかけ橋として、新しい幸福をこの国の人々に持ち込むことが出来るだろう。日本にいる男の子供が、万一にも日本の軍隊に入って戦死をしているようなことがあれば、それに代わる子供が一人是非必要であるから、お前には気の毒だがこのまま子供を産むようにして欲しい」といつになくしんみりとして心からわたしに頼むのでした。
旦那(とあん)は知事官舎とは別にわたしの産室を作るつもりで、木材や竹材を貝い集め、知事官舎から四、五丁離れた丘続きの、牛の群れがいつも入って遊んでいる草原に日本風を加味した小さな家を建て、それに野菜畑と、鶏舎や物置、花壇までもつくり、わたしとやがて生まれ来る小さな生命の為に安産の場所を用意してくれたのでした。その家こそこの広い世界の中で、わたしがわが家と呼ぶことの出来る唯一つのものでした。わたしは、旦那から貰った何枚かの美しい日本の写真を壁にはりつけ、生まれる子供のため、わたしがまず日本の心を持つようにと、朝夕あかずにその美しい日本の美人画や彩色した風景写真をながめながら、無事に出産する日を待ったのです。一九四四年六月九日の朝早く、わたしはかん高い声ではげしく泣きたてる丈夫な男の子を、小さなわが家の一室で安産したのです。
旦那はその子に「興南」と名づけ、将来この国を幸福にする人になるように命名したのだと、わたしにその名前の意味を教えてくれるのでした。
そして旦那は興南の出産祝の祝宴を、二日二晩にわたって盛大に行なったのでした。
旦那がこの大祝宴の準備を整えながらそっとわたしに囁くのに、子供の誕生した祝宴に名をかりたが、この県内で最初最大の盛宴を張り、その磯会に飛行場工事や道路工事に努力した村長達をねぎらい、日本人と原住民との間を調和し、一層の親睦を図るのが実は僕の目的なのだと言うのでした。
牛を二頭、山羊を二頭、鶏四十羽、豚一頭、十個の酒ガメにたっぶりと満たしたドスン人やムルット人が喜ぶタパイ酒、仮設の舞台まで造り夜をとおして踊ることの為に幾個かのゴン鐘も用意したのです。わたしはこの豪勢な祝宴が、旦那の言う通り何を意味するものかをわたしの直感で推察出来たのです。それは、やがてイギリス人がこの国へ戻って来て、日本軍とはげしい戦になった時、旦那も日本軍と運命を共にして生命をかけた戦いをしなければならない。
せめて、子供の誕生祝に名をかりて、生きたまま自分の葬式をしておくのだと思いました。
そのような旦那の秘めた心を何も知り得ない県庁員達は、ただ興南の出産祝と思って乳牛一頭を祝ってくれたのでした。
祝宴の初日は日本人と中国人、次ぎの日はドスン人、ムルット人、ジャワ人、それから豚肉の料理を食べない回教徒は、別の席に祝宴を開き、心と腹が一杯に満つるまで祝宴を続けたのです。
この盛宴にはその外にもう一つかくれた意味があったのです。それはわたしがこの目まで何回も何回も旦那にせがんだのですが、そればかりはどうしても聞き入れて下さらなかった結婚祝のことです。旦那の国の慣習として、妻がある者は二人目の妻を持つことが出来ないためだったからなのです、しかしわたしはせめても今日の祝宴を、ひそかに自分の結婚の祝宴とも思いました。 結婚祝のない母から生まれた子供の出産祝は、この国の慣習では恥ずかしいことなのです。
わたしはすっかりそのつもりになって、ありったけの盛装をこらし一日一夜五回も六回も衣服を改め、真心をこめて招待に集まった人々をもてなしたのです、そのためこの盛宴には、今までとは全く異なって、県庁員や村長達の夫人子供まで招待したので、わたしの家には入り切れない賑やかさで客は芝生一杯にあふれました。
このケニンゴウ県内で最高の女王のような幸福に生きているわたしは、この目こそ集まった県庁員の夫人達には誇り高く、そして子供達には慈母のごとく、独身の人達には舞姫の軽やかさで、客の間をぬい歩いてもてなしにつとめたのです。
この賑やかな生まれて初めてあった幸福な祝宴、もしかすれば旦那の悲しい葬式ともなる意味深い夜宴、わたしはふとこう思いつくとゴン鐘につれて踊り狂う酔った大勢の客達の知らぬ間に、わたしは旦都と共にそっと手を取り合ってひそかにその場を抜け出し、奥の部屋に興南と共々「幸福も不幸も今宵一夜」と互いに外の賑やかな踊りと唄の騒ぎとは全く遠くはなれた心地で、しばしの間三人だけの静かさをつづけたのでした。わたしはこうしている間にも戦争が再びこの国にやって来て、これが最初で又最後になるかもしれない幸福の宴となるものと、お互いに口にこそ出さぬものの、胸の奥深く首肯し合ったのです。
爆撃下の北ボルネオ
この祝宴が果てた頃から今まで政府の日本人か会社員しかいなかったケニンゴウ県内へ、銃と剣を持った日本軍がどしどし入って来て到る所のゴム園の中や、ジャングルの中に竹と木の家を建て、飛行場へは沢山のベンジンのドラム罐を持ち込んで、兵隊達は付近の村から村へ食糧集めに廻り出したのです。
明らかに戦争が近づいて来たのです。
わたしはこの日本軍のあわてたような無茶なやり方から、こう感づいたのでした。
旦那は「ここへ入って来た日本軍は飛行場造りの兵士だから様々なことを原住民に要求するが、今に戦争する揃った立派な軍隊が来る。その時にはケニンゴウ県の原住民も日本の立派な軍隊に感心するにちがいない」と言っていたのです。
わたしもそれを楽しみにしていたのですが、旦那の話したその日が到頭やって来たのです。しかし旦都の言っていたこととは全く反対に、堂々と足並みを揃えた日本軍ではなく、実際にやっ来たものは、疲労しきった兵士が、日本風に重い荷物を背につけ、鉄砲をその荷物にくくりつけ竹の杖をついて二人、三人と離ればなれにとぽとぽと歩いて来る哀れな姿だったのです。
その中の疲れ切ったものは休息したなり、そのままぐつたりと倒れて再び起き上がれないまま死んだように横たわって動かなくなるもの、甘蔗や甘藷、バナナを歩きながら食べたり、やっと二、三十人揃って行軍して来るものなぞ、どうしても堂々とした軍隊とは見えない格好で、この様子を見た旦那はわたしと顔を見合わせると困った顔になったのです。この日本軍を見た原住民の中から「日本軍がサンダカンの戦争で白人に負けて逃げて来たにちがいない」と言い出し、その流言は急速に広まって来たのでした。
わたしの家に宿泊する兵士はどの人もきまったように、わたしが壁に貼った日本の美しい絵や写真をいつまでも見詰めながら太息をつき、
「日本はきれいだなあ、早く日本へ帰りたいよう」とつぶやき、しばらくうっとりと見とれるのでした。長いことジャングルと山又山の行軍を続けてきた途中、ふと出会ったこうした日本の風景、それは富士の山、京都の嵐山、三条大橋、名古屋城、美しい京舞妓、そうした日本のきれいな絵に、この兵士達は飽かずながめ入って辛かった行軍の疲労を癒やすのでした。
しかしケニンゴウの原住民や中国人達は、日本軍が敗走して来たから今に日本の軍票も無価値になると噂しだしたのです。
わたしはこの話を聞くと、驚いてわたし自身も、日本の軍票を早くイギリスの紙幣に交換したい気分になって、旦那にその相談をしたのです。
旦那は「絶対に日本軍は勝つ、そのようなことをしてはならない」といつもに似ない厳格な顔でわたしをとがめるのでした。
こうしたあわただしい生活の中に、突然とわたし達の上にも、又ケニンゴウ県内の人達の上にも、大きな驚きがやって来たのです。
それは四つのプロペラを持った大型の飛行機が、ケニンゴウの空を圧して、わたし達の上空に姿を現わしはじめたことです。
飛行機は夜となく昼となくケニンゴウ県を飛び越えて、遠くボーホート県からラブアン島の方へ向けて飛び、遠雷のごとく爆撃の響きを立てるとやがて又このケニンゴウの上空を引き返してゆくことが多くなったのです。旦那は「敵のアメリカ機だ」と夜はすぐに燈火をふき消し、昼は防空壕へ入るようにわたしにすすめるのでした。
こんな時、日本の飛行磯が少しも飛び出してゆかないで、あの大きなアメリカの飛行機が自由にこの北ボルネオの空を、我がもの教に飛んでいることに、不思議な感じを抱いたのです。その不思議な理由を旦那に聞いても、それには何も答えてくれないで、ただ一言「日本の飛行機は日本を守るためにこの方までは手が廻らないのだろう」とつぶやくのでした。
巣を失った燕
突然と旦那はゼッセルトン県知事に転任を命ぜられたのです。わたしは思いがけないこの話に呆然となり、空から落ちた程驚いて、旦那に、この時こそ政府の仕事を辞めて下さいとせがんだのでした。
しかし旦那はわたしの言葉には耳をかさず「命令だから致し方がない」と言ったまま、せっせと転勤の支度に取りかかり、あなたは死んでも帰らないつもりで出て来たメララップの義兄の家に、一応帰っていてほしいと言うのでした。
ついこの間まで北ボルネオで灘軍の参謀長をしていた馬奈木中将が仏領印度支那に転勤してしまい、昨年の暮れには軍司令官の山脇大将が日本に帰還して、軍司令部の最高首脳部が全部変わって、旦那を信頼していた以前の人達がいなくなれば、いつかは僕も今までと違った立場になるだろうと語っていた旦那の言葉が、その通りやって来たのです。
「僕のいなくなったケニンゴウ県に、変わったことが起きなければよいが」と旦那は支度を整えながらも「新しい軍司令官や、参謀長、それから州庁の人達の考えが正しいか、僕の考えが正しいか、あと二、三カ月すれば必ず判る」と投げ出すように語って、じつと唇を噛むのでした。
わたしは一年十カ月の間、旦那とわたしが幸福な生活を送った思い出のケニンゴウを引き払い、ゼッセルトンへ出発する旦那を近くの榔子林の下まで見送りました。興南を抱いたわたしに堅い別れの握手で出で立った旦那は、興南に額ずりして離れ難くしていたのですが、やがて意を決して見返り見返り、わたし達を残して、メララップ線からゼッセルトンへ向け、汽笛と共に出発してしまったのです。
その日一九四五年の四月二十日、この別れの日、わたしは十日後には必ず迎えに来て下さると約束して下さった旦那の言葉を信じ切って、たった十日の別れとのみ思って旦那を送り出したのでした。
然し、その約束の十日が来ても、旦那からは何の便りもなく、勿論わたしを連れにも来て下さらないのです。待ち切れなくなったわたしは再びケニンゴウ県庁を訪ねて旦那の安否を問うたのですが、すっかり入れ替わってしまった県庁では旦那の様子なぞ全く不明だとそっけない返事しかして下さらないので、取りつくすべもなくメララップに帰り、わたしが、独り心細い不安な日を送っていたのを気に病んだものか、病床にあった養父シメンが旦那が出発して丁度二十日目に、わたしの手をしっかり握りしめたまま「お前の旦那はまだ迎えに来て下さらないのか? お前はどんなことがあっても旦那から離れてはいけない。お前はどこまでも旦那に従ってゆきなさい。お前の幸福は旦那と共にある」と細い声でとぎれとぎれにわたしに言い遺して、再び起き上がれない永い眠りに入ってしまったのでした。
そしてその埋葬の日に、メララップ農園は、はじめてすさまじいアメリカ空軍の爆撃をうけたのでした。
やがて、その恐ろしかった爆撃も止み夕刻になって人々が生きかえった思いで家の中に戻って来た頃には、人々の心は恐怖で一杯になり、こんな時どうして日本の飛行機が助けに来てくれないのかと不審がって不平の声を高めはじめたのです。
義兄のアブドル・カリムはこうした人々の不安気な話に一層火をつけるように高い声で「やはりイギリスは強い、アメリカは四つのプロペラを持った飛行機が沢山あるが、日本には二つのプロペラ飛行機が少ししかない、それももう飛べなくなったから日本も駄目だ」なぞと、わたしに聞こえよがしに話しているのです。養父の葬式がすむ早々爆撃がはじまったので、余計に義兄の態度がわたし達親子に対して変わってきて、折さえあれば、日本軍の無力と日本の敗戦を予言するように言うのです。
その上「日本軍が逃げてしまった後で、イギリス人が戻ってきた時、この家に日本人の子供や荷物が置いてあることが知れたならば、どんな辛い目に会うかわからない」と一刻も早くわたしに、この家から出てゆけと言わぬばかりに、辛く当たりだしたのです。
わたしは遂に意を決して、亡き養父が親しくしていた近所のジャワ人の農家ポニラの空いた小さな部屋を借りて、そこへ手廻りの荷物をまとめ、追われる者の気持ちで移転したのでした。
この村のジャワ人達は、いつのまにか今まで大切にしまっていたジャワ人の好むソンコ帽をかむり出し、空から見ても一目で日本の兵士と違うようにと心掛けて外出するのです。こうしたソンコ帽の人達が三人寄れば「この村に日本軍が居ると、イギリスの飛行機が爆撃するから、日本軍は一日も早く何処かへ場所を変えてもらいたい」とか「村の中へば日本軍が入らないようにしてほしい」と真剣に話し合うようになったのです。
そして当然こうした村民の気持ちは、わたしの上にも冷たく響いて来たのです。
今までは好意を示していた村の人々も「回教の戒律を破って、異教徒の日本人に従って子供まで産んだ女は、村のけがれとなるから早くこの村から引っ越してもらいたい」とも言っていると、ボニラが村人の噂を聞かしてくれました。
わたしが不注意に興南のオムツを外に干したまま取り入れるのを忘れている時なぞ、村の人達が大声で罵り、飛行機の標的になると叱りつけるのでした。
日本軍が無力であると知って、急に村民の気持ちが変わってきて、そのため、頼りとする人が居なくなったわたしが、日本軍の罪を一人で背負わされたような辛い思いをする始末になってしまったのです。しかしわたしがこんなに、辛い思いをして暮らしているのに旦都からは何の便りもない、生きているのか、死んでしまったのかさえ判らないのです。義兄はじめ村の人達の話ではすぐあの山向こうのボーホート市に上陸したイギリス軍が、そこの日本軍を追っ払って、現在ゼッセルトン市に向かって進軍しているという事でした。日本軍は近くのサボン農園とテノム市内に逃げ込み、ゼッセルトン市との中間、パパール市は完全にイギリス軍が占敬してしまったとも話すのです。
もしも、その話が本当のことならば、わたしは旦那のあとを慕って、ゼッセルトン市へたずねて行くことも出来ない。そうなればここにこのままこうして居るより外に仕方がない。日本軍はメララップのゴム園の到るところに家を建てて住まい、ゴム園の中へは原住民の通行を許さなくなり、原住民の家まで片っばしから明けさして住み、どこにも住む家はない状態になっていました。
そしてとうとう、わたしが部屋を借りていた片目のポニラの家も、日本軍の将校の要求によって、明け渡さなければならなくなってしまいました。
私はやむなくムルット人の村長ドルジャバルに縋って、彼の家の空いた一室に落ち着くことにしたのです。
こんなけわしい状態の下に、しかも毎日荒れ狂うアメリカ空軍の爆撃にさらされ、何のあてもなくその日、その日を過ごしていたわたしの身体に、もしやと案じていた二度目の妊娠のことがはっきりしてきたのです。旦那と別れて三カ月目、興南に次ぐ旦那の子供を宿し、この始末をどうすればよいのかと一人で悩み始めました。しかも旦那には置き去りにされ、生活の途も、わが住む家もなく、その上信頼する日本の勝利も心もとなく、かりに日本が勝ったとしても、わたしを温かくしてくれる日本人は誰一人もいない。
しかも子供を抱えた上に再び身重になってしまっては「日本人相手の慰安婦」に身を落とすことさえかなわぬことになってしまったのです。
旦那(とあん)帰る
その悩み抜いていた日の夕刻、全く思いもかけなかったわたしの耳元に突然、家の外からわたしを呼ぶ旦那の声が聞こえてきたのです。
それははっきり、一日一刻も忘れたことのなかった「ねねん! ねねん!」とわたしを呼ぶあの旦那の声でした。
「あっ! 旦那の声だ、旦那が戻って来た」とわたしは思わず飛び起きて興南をかかえ、窓に飛びつくと、そこには懐かしい旦那の姿が立っていたのです。一度は死んでしまったのかとさえあきらめていた懐かしい旦那が、左手に軍刀一本持ったまま、ヘルメット帽をかむって立っていました。
「旦那御帰りなさい旦那、よく生きていて下さった」
と叫びながら、足を宙にして戸外へ飛び出したのでした。
「旦那! 旦那! 会いたかった。旦那! 興南が大きくなったでしょう」
わたしは抱いた興南を旦那の手に渡し、両手で旦那の肩にすがりついたのです。
「ああ旦那は生きていた、旦那が生きてわたしの家に戻って来た」わたしの全身の血が、はげしく駆け出してゆくのです。わたしは疲れ切った旦那の身休を一刻も早く回復させなくてはならないと、旦那の好きなお湯の沐浴をさせるため、ドラム罐に熱いお湯も沸かしました。
わたしが付き添ってさえいれば、旦那をこんなに痩細らしてはしまわないものを、旦那はまるで別の人のようになってしまって、どうしてわたしを旦那がゼッセルトンへ連れて行かなかったのでしょう、わたしはぐつたりとベランダに横になってしまった旦那に、ゼッセルトンへ旦那が行ってしまった二十日後に養父シメンが死んだことや、ここにもイギリスの飛行機が爆撃をはじめたことなどを、かいつまんで語って聞かせたのです。
旦那はただ黙ったまま、わたしの話に静かにうなずいていたのですが、やがてゆっくりとした口調で「僕は病気をしていたので、お前を迎えに来られなかった。今度サボン農園の軍司令部へ軍票をとりに出張して来た」と手短かにここへ来た用件を語るのでした。
「日本の軍票を取りに?」では、わたしを迎えに来て下さったのと違うのか・・・。
わたしは旦那のこの用件が判ると急に、淋しい気分が浮かんで来たのです。
ムルット人や中国人が日本の軍票を嫌いだした今となって、どうして日本の軍票が必要なのでしょう。この旦那まで少しわたしと離れていれば、もうこのようにこの国の人々の心の中が判らなくなってしまっているのかと思うと、急に口惜しくなってしまったのです。
「メララップも、テノムも、イギリス軍のために全部爆撃されて灰になってしまい、生き残って動いているものは水道パイプの水だけだそうです」とわたしが言っても、
「ケニンゴウも、タンブナンも、それからゼッセルトンも皆同じことさ」旦那は少しも驚いた様子をせずに答え、それからゆっくりした口調で五月末から七月初めまで、マラリア熱と急性の腎臓炎にかかって高い熱に苦しみ、身休の自由さえ失ったため手紙一つ出せなかったことをわびるのでした。そして、まるで死んだ人のように眠りかけてしまうのでした。
わたしはこの変わり果てた旦那の身体をどうしても元の旦那に回復させなければならない、わたしには旦那を元のような元気な身休にとり戻す確信があるのです。
わたしは農婦のアリマ一に手伝わせ、旦那の為に鶏の料理をつくり、旦那の疲労をなおす用意を一生懸命に整えました。一滴も酒を飲まない旦那の為に椰子の実の水、煙草をのまない旦部に甘いコーヒーと落花生の油いりや、やわらかなトウモロコシの甘い粥をあげなくてはと、せっせと働くわたしの身休から興南は少しも離れようとはせず、三カ月も居なかった父を見忘れてしまって旦那には、こわがって寄りつかないのです。三カ月も見ないでいたため、もう本当の父を忘れてしまった興南の幼い心はどうしたものなのでしょう。子供は今のうち母だけあれば育つが、大きくなっては父がなければ困るに違いないのに……。
親子三人揃った久方ぶりの楽しい食卓で、恐る恐る旦那に興南の次ぎの子供が宿ったことを話し出し旦那の教色を窺ったのでした。
しかし、旦那はわたしが考えていた程この話に当惑そうにせず、むしろ喜んでわたしの話を聞いてくれたのです。「一人あっても、二人あっても同じことだ。一人では話相手がなくて淋しいから二人の方が良い」と興南の顔を見つめながらこう話しかけ、こわごわしている興南に額ずりして喜ぶのでした。
「僕はゼッセルトンで急性腎臓炎が起きて病臥した時、高熱のために左の耳が聞こえなくなってしまった」と旦那はわたしの言葉にいつも小首をかたむけて聞き入るのでした。
たとえ少しの間でも、こんなに大病して片耳まで聞こえなくなって苦しんだ旦那を恨んだわたしは、旦那にすまないことをしたと思ったのでした。
旦那はここへ着いてから二日目にサボン農園に行って軍司令部財務部から日本の軍票を受け取って帰って来たのですが、わたしが今迄に見たことのない程ひどく不機嫌で、わたしが未だ一度も聞いたこともない程、怒りにみちた言葉をはき出すのでした。「何十哩も歩いてここまで出張して来たのに、御苦労と言う代わりにまるで前線から逃亡してでも来たように罵られ、どうして我慢が出来るものか」とわたしが悪いことを言ったように怒りつづけるのです。
「誰が旦那にそんな事を言いました」と聞き返すわたしに「参謀長」と投げるように言って「ゼッセルトン県庁には軍票が少なくなって、このままでは県庁の原地人に支払う給料の金もないし、巡警に支払う金もなくなった」と投げるように言うのでした。
旦那はサボン農園の軍司令部へ行って、何か口惜しいことがあったに相違ないのです。あのように今まで日本軍の為に、原住民の為に、苦心して来た旦那が、はげしく軍司令部を罵っているのです。旦那までがそのように言い出すのでは、この先日本がこれで戦争に勝てるかと不安になって来たのでした。
旦那はなおもわたしの慰めるのをきかずに罵りつづけるのでした。「もう僕はここの軍司令部の下で働くことは御免だ。僕は今日限り日本軍の軍属を辞める。こんな横暴無道な軍司令部の軍政でこの身体をつぶしてしまうことは嫌だ」
旦那は悲憤きわまりないように厳しく怒号するのでした。この有様に興南がこわくなったのか、恐れて泣き出してしまい、わたしも何と言って旦那を慰めてよいか判らず因っていたのです。しかしわたしは心ひそかに、旦那がここで政府の仕事をやめて、二人で興南を育てながら農業でも、御菓子屋でも、コーヒー店でもやってゆけば安楽に暮らしてゆけるとも考えていたので、旦那ほどにわたしは怒る気持ちがしなかったのです。しかし日本軍が戦争に勝たなくてはそれも出来ない相談です。わたしは旦那にその事をしっかりとたださなくてはならないと思ったのですがその晩、旦那は珍しく自分から求めて酒を飲んですっかり酔ってしまったためか、ぐつすりと眠ってしまったのでした。
敗 戦
朝霧が晴れて、いつものようにボルネオの炎天がこの家の上に照りつけはじめた頃、旦那の名をせわし気に呼びながら村の入口から急ぎ足で駈けつけて来た一人の下士官がありました。
旦那は早速その下士官と連れ立って外に出て二人だけになり、しきりに小声で何か語り合っていたのですが、やがて話がすむと下士官は元来た道を引き返して行ったのです。わたしがコーヒーを用意したのにもう彼の姿は椰子林の彼方に消えてしまって、折角のコーヒーも間に合わなかったくらいなのでした。
旦那は「ねねん、ちょっとここへ来て」とわたしを手招きで呼び、前に坐ったわたしに心持ち顔色をこわばらせゆっくりした調子でこう語り出したのです。その言葉は意外にも「ねねん、驚いてはいけない。日本は戦争に敗けてしまった」と言うのでした。
わたしも、さっき下士官と旦那のひそひそ話し合っている態度で、何か変わった事が起ったか、と直感していたのですが、それが「日本は戦争に敗けてしまった」と旦那からはっきり話し出されると、全く打ちのめされたように心がくじけて「そうーー」と答えたなり呆然となってしまったのです。
「これでなにもかも終わりだ」旦那はじっと見詰めたわたしの顔に強いてつくり笑いでまぎらせながらわたしの肩に手をかけ、顔一面に笑顔をつくることに努めているようなのですが、見る見るうちにその笑顔は瞳一杯にあふれる涙にかき消されてゆくのでした。
この旦那の顔を見上げていたわたしは「日本は戟争に敗けた」と知ると急に口惜しくなって、われ知らずはげしい口調になって旦那に向かって、「旦那! それは本当の話ですか? 日本は決して敗けないと、あれほど旦那はわたしに誓ったではないですか」
「本当だ、敗けてしまって、何もかも終わりになってしまった。僕達の働きも何の甲斐もなくなってしまった」
「嘘です、そんなはずはない、日本は強い、一人でも生き残っていれば戦争を止めないと、旦那があんなに言ったくせに、嘘だ、わたしを偽って日本軍を辞めるために、旦那はわたしに嘘を言っているのでしょう」とわたしは強く否定したのです。
「怒らんでくれ、ねねん、本当に日本はこの戦争に敗けてしまったのだ」旦那はわたしがいつまでも強情に否定するのを持てあまして、困ったように一生懸命でわたしを納得させようと説きつけるのでした。
然しわたしはどうしてそれを信ずることが出来ましょう。もしそれが本当だとしたならば一体この先、わたし達はどうすればよいのでしょう。何も知らないこの興南、身重になってしまったこのわたしは、とこう思った瞬間「旦那の嘘つき! わたしをだまして、日本は絶対に敗けないとあんなに口ぐせのように言っていたくせに」とわたしは急に口惜し涙がはふり落つるのを止めも出来ずに旦那にくってかかったのです。
「自分もそう思いたいのだが、敗けたのは本当なのだ。今の下士官がそれを教えに来てくれた」
急に勢いがなくなって今の今まで強いて笑顔を作ろうとした旦那も、全く別人のように変わってしまって、話す声までが変にしわがれてしまい、こうつぶやくように言ったなり音を立ててごろりとそこに倒れるように横になってしまったのです。わたしも思わずコーヒー茶碗をころがしたまま、その前にペったりと両手をついて面を伏せ竹の床にぬれかかる両眼の涙を指先で押えたのでした。
「ああ、取り返しのつかないことをしてしまった」と思うとわたしは「日本はこの戦争に敗けてしまったのか」と力抜けがした手に興南を抱き寄せ、その無心な顔に、じつと瞳を落とすと、胸は次第に鉛のように重苦しくなってゆくのでした。この子の幸福も、わたしの幸福も、これで全部がおしまいになってしまった」義兄アブドル・カリムが日本はきっと敗けると言ったあの言葉の方が本当だった。旦那がわたしをだましていた。そう思いつくとわたしは急に目の前にいる旦那が無性に憎らしくなってしまったのです。
「旦那の嘘つき、旦那はわたしをだまして、わたしと興南の幸福を失くしてしまった。旦那は日本が敗けると知っていたならばなぜ、イギリスの紙幣を日本の軍票に取り換えさせてしまったのです。あれほどわたしが、日本が必ず勝ちますかと念を押したのに、旦那は絶対に日本が勝つから、全部日本軍票に換えてしまえと言ってわたしをだまして、イギリスの紙幣をなくさしてしまった。旦那、これからわたし達はどうすれば生きてゆけるのです。日面!旦那! それを聞かして下さい」
わたしは口惜しさのあまり、つよく旦那の肩をゆすりましたが、床に面を押しあてたまま、旦那ははげしく背を波打たせているのでした。
心持ちがはげしくこみ上げて来て、わたしはその場にいたたまれなくなり、火のついたように泣き出した興南をそこへ放り出したまま、家の外に逃げるようにかけ降り、裏の小川のあたりまで夢中で走り出したのです。
「畜生! 旦那の嘘つき、日本の動物!」はげしく慄えるわたしの胸は、旦那と旦那の国の日本に対するはげしい憎悪に燃えさかって、止まらないのです。じつとその怒りの胸を両手で押えたまま小川の流れに見るともなしに目を下すと、そこには昨日に変わらぬ清流が、サラサラと小石の上をとっているのです。何も知らなかった昨日まで何心なくここで髪を洗っていた流れ、その流れの底を小さなメダカが、スースーと泳いでいました。
いつか独り物思いに沈んで、パダス川の川岸に半日たたずんで死を考えたあの日、ふと産みの母を想い浮かべ、実の父を慕う心に、われにかえったあの時の思い出がさっとわたしの脳裏に湧き上がって来たのでした。
わたしがじっとこの小川の流れを見つめているうちに、不思議に今まで昂ぶっていた胸が、次第に平静を取り戻して来たのでした。あきらめなければいけない、すべては成り行きにまかせなければと思う心になっていったのです。
「悲しんではいけない、ねねん」
とわたしの顔を見るなり旦那は強く言うのでした。
「この戦争に日本が敗けることは僕にはずっと前から判っていた。しかし、ねねん、日本軍に勤務している日本人として、たとえどのようなことがあったとしても、それをお前に話す訳にはゆかなかったのだ。もし僕の口からお前に日本がこの戦争に敗けるといった話が伝わり、お前がそのため用心して少しでもイギリスの紙幣を集めたり、純金の指輪なぞを集め出したりしたならば原住民や中国人に影響して、県内の民心が日本人から離れるにちがいない。そしてもし日本軍に対し反乱を起こされたならば僕達の生命は勿論お前はじめ多くの人達が、口で言えないほどの残虐なことになってしまったにちがいない。ねねん、許してくれ、それもこれも皆この県内が平和であってくれさえすればと心でわびながらお前に嘘を言っていたのです。しかし、その嘘の効果でこの県だけは僕が知事でいる間は反乱一つ起こらなかった。戦争のための悲しい人は作らなかった。ねねん、それがせめてもの僕達の心を慰める唯一のものだ。お前をだましたことは悪かったが、人々の幸福を失わせなかったということで、こうした嘘の罪もつぐなえると僕は信じていたのだ。許しておくれ、ねねん、僕が悪かった」
わたしはこの旦那の言葉を聞いているうちに全くその道りだと思えてきたのです。
旦那はわたしに、このままここに止って一、二年の間旦那からの便りを待ってくれとの事でしたが、わたしはどうしてもここの冷たい人々の中で生きてゆくことは嫌ですと言い張って、せめて旦那が日本へ帰る日まで、旦那と一緒に、ゼッセルトンへ行きたいと主張しました。
亡き養父が「旦那はお前の頼る只一つの杖だ。どんな事があっても旦那に縋ってどこまでも従ってゆきなさい。この子供とお前の幸福は、旦那の為に生命ある限り従って行くことだ」とくり返しくり返し言った遺言、その遺言の通りに旦那に従って行くことに話を決めたのです。
胡蝶蘭倒れし木と共に
たとえ旦那がイギリス軍に捕えられ、刑務所に入れられても、よしまた死刑にされようとも、わたしは興南ともども旦那と共に死刑にされよう、わたしの行く先は、ただ旦那と生死を共にすることのみと、わたしは堅く覚悟をしました。
「ケニンゴウにいる頃から、いつかこうした悲しい日が来ると思って、夜中に興南のオムツをそっと取り替えてやって、せめてこうして同じ家に住むうちだけでも、わが子への愛をつくしてやる心でいたのだ。到頭その別れの日が来てしまったか」と旦那は興南の顔を見つめて面を上げないのでした。しかし、しばらくしてわたしを見上げた旦那は、
「もう誰に遠慮もいらない。三人連れ立ってゼッセルトンまで帰ろう」と言い出しました。
そこから旦那は日本へ帰り、その海からわたしはサンダカンへ行ける。三人がこのまま行けるところまで、お互いに離れずに行こうと言うのです。この話がきまるとわたし達は大急ぎで此処を引き払う準備を始めました。旦那の伝言を農婦のアリマーを使ってドルジャバル村長に伝えたので、早速村長と巡警が駆けつけて来る。そのあとからジャワ人も中国人も旦那とわたしに別れに集まって来たのです。その人達はてんでにわたし達が分配して与える品物を喜んで家に持って帰り、荷造りの出来たものから先にムルットの人夫達が揃って背負い、ケニンゴウへ向けて出発したのです。
義兄アブドル・カリムの家に別れの一夜を過ごし、義兄とも仲直りをしました。また、盲目の養母テッパイは別れの悲しみに号泣していつまでも名残りを惜しむのでした。そして、スコール降りしきる八月十八日の朝早くケニンゴウ行きの軍用トラックに乗り、亡き養父の眠る回教墓地の丘に長い別れの祈りを捧げながら、再び此処へ戻ることは測りがたい旅をめざして、メララップ村を出発したのでした。
ケニンゴウの町は、全部爆撃で焼けてしまい、懐かしい思い出の知事官舎は、何百何十となく上空から機銃掃射されたため、まるで蜂の巣のような廃屋となってしまい、あわれわたし達の夢のあとは荒れ果て、白く美しく咲き誇っていた気高い花も、今は無残に散りしいてあえなく泥にまみれているのでした。
その夜は久方振りにわたしの家に、一家揃って泊まることにしたのです。この家を出てからちょうど四カ月振りに、ここからの別れの一夜を泊まったわたし達は、ここでメララップから来た三十名のムルット族の空力を交代させ、途中の橋を爆撃されてトラックの通わなくなったこの直線道路を生まれて初めての馬の背に乗って興南を抱き、旦那は腰に日本の古い方式で軍刀をさし込み、わたしの乗った馬の手綱を取り、その前後にはケニンゴウで交代した十五名ずつ合計三十名のムルットの人夫が背にボンゴン籠に入れたわたし達の荷物を背負い、肩に吹き矢の槍を担ぎ、腰に山刀を下げ、一列に並んでゆっくりとアピンアピン村に向かって行列を進めたのです。
つい数日前までは、この県内で只一人、淋しい捨て小舟の運命に置かれていたわたしが、今日は三十名の原住民を供に連れ、旦那に手綱をとられ、この一直線の大道路を堂々と練り歩いて行くのです。この直線道路の上は、数日前までは勝利の国日本の軍人として大手を振って通行していた日本軍が、今は将校達まで泥ネズミのようにそわそわしてうろうろと彷捏しているのです。日本軍敗戦の報と共に急に権威を失った人達と、その反対に原住民がにわかに肩身を広くしだし、こうしてわたしのこのすばらしい行列がそのさまを物語るのでした。
二日がかりで、直線道路の終着点、アピンアピン村について、ここで土民郡長のアンドラークの息子、アンギャンの出迎えを受け、彼の家に二泊、アンギャンは父のアンドラーク郡長が日本の憲兵隊に反日言動によって捕えられるところを、旦那の手で救ってもらったお礼に、心をこめてわたし達をなぐさめ別れを惜しんでくれたのです。
広いケニンゴウの平原がここで終わり、アピンアピン川を渡るとすぐに高い河岸段丘を境にして、切り立ったような急坂の九十九折の山路にかかるのでした。
旦那はその段丘を七回りして登りつめた所の一本の大木の下に馬を止め、はるかにケニンゴウの大草原を見晴らし、わたしを顧みて、見渡すかぎりの大草原の中央に、真一文字に白く引かれた十二哩半の直線道路を指さし「あの大道路がここの県民に残す僕の土産だ」と語りながらしばらくはただじっと立ったまま見とれているのです。
思えば十カ月の長い間、この工事に従った旦那が炎天の下で熱射を受けたのも、この道路工事の時でした。
「ここの工事が出来上がって、この大草原をアピンアピン川とバヤヨプッサール川の水を利用して、大水田地帯にし、ドスン人の楽園を造り、あの大道路はここで収穫される産物を自動車で、ケニンゴウを経てメララップ駅のホームに結びつけようとしたのだが、今はそれも一片の夢になってしまった」と旦那は思い出を追うようにいつまでも此処から立ち去ろうとしないのです。「日本には平らな土地で耕さない所は一呎平方も残されてはいない。しかしこの国には、こうした大草原が遊んでいる。あの広い土地を、稲の稔る水田にし、ここの水で電気を起こせば、ドスン人も立派な生活が出来るのだが」と夢見るように、わたしに話して聞かせるのです。
「この大道路の建設に一生懸命に努力し、スコールの暴威と戦って完成にまで努力してくれた原住民の人達の努力は永久に、あの直線道路の中に沁み込まれている。今僕がここを去っても、あの道路は永久に男子の誠を打ち込んで大地に刻みつけた記念として長く残ることだろう。しかし日本の敗戦と共に、僕の夢は破れてしまった。だが、いつの日かこの国に生まれたこの興南が大きくなってこの土地にやって来て、この父の意思をつぎ、ここの大草原を立派な水田に、すばらしい牧場に、落花生の豊かに収穫される畑に、チーク材が繁茂する美林に、そして学校も、商店も、ゴルフ場も、水浴場も、何もかも整った理想境にしてくれることをたとえ夢でもよい、一度見たいものだ」と興南の頭を撫でながら語りつづけるのでした。わたしも旦那が戦争でこの国に侵入して来た人でさえなければ、と思って、旦那と共にケニンゴウの大草原を眺め渡しながら旦那の心が判る気がして心の底から同情されるのでした。しかし、目に見えない強い力が旦那をいつまでもここに止めて置くことを許さない。それは敗戟の悲しい綻だったのです。
「さようなら、ケニンゴウ」と旦那は幾度か見返り見返りこの大草原と、そこに一筋天に連なるごとく、遠く十二哩半直線にケニンゴウ県庁の正門前まで引かれている大道路に向かい、高く手を振って別れを告げ、再びジャングルの山路に行列を進めたのです。
絶 望 の 谷
さていよいよこれから、最大の難所クロッカー山脈越えにかかろうという時でした。
ここのスンスラン村で三十名の人夫を十名に減らし、荷物もすっかり整理し、この村の土民郡長アンピンの応援で人夫を集め、勢揃いを整えて、いざ出発となったところへ、ケニンゴウの警備隊からの通達だと言って大急ぎで一人の軍属が、わたし達の宿所を授し当て、駈けつけて来たのです。
その伝令の伝えるところによると、旦那に即時ケニンゴウの警備隊長の許へ引き返して来るようにと言うのでした。
旦那は不審そうにして、いつになく不愛想な顔で伝令を帰したのですが、伝令の軍属はその上、スンスラン駐在の日本兵站部の、旦那とわたしの荷物全部を差押え、これから先へは運搬してはいけないとの命令を伝えて帰ったのです。
「僕が戻って来るまでは、どうせ出発が出来ないから、このままで待っているより外に仕方あるまい」
旦那はわたしと興南を二哩も離れたスンスラン土民郡長アンピンの住む村の中央の家に移らせ、わたし達のこと一切を頼みました。やむを得ずわたし達は旦那の戻るまでここで待っていることにしたのです。
しかし、折悪しくその日からわたしが旦那のケニンゴウ行きに驚いたためか、急に久しく出なかったマラリアが再発し、毎日きまって、正午からはげしい悪寒が襲ってきて、ありったけの毛布をすっぽりと頭からかむっても、身体全体ガタガタ慄え出して止まないのでした。
この悪寒がくると、旦那は大急ぎでゴムの水枕に熱湯を入れガタガタ慄えているわたしを温めて、悪寒が去るようにしてくれるのでした。
わたしが妊娠さえしていなければ、キニーネ薬をのむことが出来るのです。しかし、もしキニーネ薬をのんだためにこんな所で流産でもしたなちば、それこそ大変なことになるのでキニーネ薬をのまずに、ひたすら悪寒の去るのを待つより外に仕方がないのでした。
旦那は日本軍の命令に従いマラリアの病苦で苦しむわたしと、がんぜない興南をこのスンスラン村に残し、五日間で往復出来るから二日の用事の日を見ても一週間たてば必ず帰って来られるからとわたしを慰め、今度は来た時と反対にわたしの乗って来た馬に跨り、スンスラン村の椰子の林を縫って駈け出してしまったのです。
旦那が呼び返される理由が一休何の為であるのかわたしには判らない、旦那にも判らないのでしょう、旦那はしきりに不審がりながらたった一人で、ケニンゴウへ引き返してしまったのです。
ここのスンスラン村にはクロッカー山脈を越えてゼッセルトン市から日本軍に従っていたジャワ娘や、日本人の慰安婦が逃げ込んでいるのでした。
その中の二、三人がわたしの病床を見舞いに寄ってくれては、興南を可愛がり、旦那の帰りを共々に待つ慰めの言葉をかけてくれるのが、何よりも嬉しかったのです。
この娘達の中に一人、ユーラシャンで五歳位の男の子供が混じっていて、娘達はその子供を本当に大切に可愛がって連れているのです。
「この子はわたし達の可哀想なお友達が産んだのです。くれぐれも子供のことを頼んで死んだその遺言があるので、この子供を大切に育てているのです。わたし達は日本がこの戦争に敗けた今日になっては、イギリス軍に依頼する時、この白人の子を育てていたことで非常な利益を得られると思っている」と聞かせるのでした。わたしの枕元へ連れて来たその混血児は、どう見ても白人の子と同様にしか見えないのです。
日本を敗かしたイギリス軍が、戦争に勝った白人の子供を大切にしてくれるだろうから、わたし達の幸運のマスコットはこの子供だと喜び合うこの慰安婦達は、戦争に敗けた日本軍に従って、日本人の混血児を抱え、しかも二度目の身重になっているわたしを同情深く哀れんでくれるのでした。
然し、何も知らない幼いそのユーラシャンの混血児は、年少の興南の手を握ったり、子供は子供同士仲よく遊びはじめているのです。
これを見守るわたしは運命のいたずらのように思われて淋しい気持ちになるのでした。
しかも、わたしが一刻千秋に思い、指折り数えていたその七日目が来ても、旦那の姿はわたしの許へ帰って来ないのです。
それのみか、日本の兵站部員は、
「旦那は悪いことをして、憲兵隊に捕えられてしまった。あなたがいくら待っていたところで、此処へ戻ってなんぞ来るものか」とあざけるように言っていたと、ドスンの中年女が聞いて来てわたしに教えるのです。
「旦那が悪いことをして憲兵隊に捕えられた? そんなことはない。旦那の事はなんでもわたしが知っているのに、絶対にそれは嘘だ!嘘だ!旦那はキット戻って来ます」とわたしはわが胸にこう言い聞かせるのでした。然しもし旦那のあのような悪い噂が本当で、旦那が憲兵隊に捕まってしまったとしたらば、わたしは一体どうなるのか。
しかし、七日たち、八日たち、九日がきても旦那は帰って来ない。その間にラナウ部から入って来たイギリス軍の先発隊がタンブナン部の入口のキロコット部落まで進んで来て、途中に病臥していた日本兵を片っばしから追い立てていると、アンピン郡長が教えに来てくれたのです。
わたしは慰安婦達や日本兵が山越しでゼッセルトンへ向け、どしどし出発して行く後ろ姿を見るたびに独り取り残されて、興南を抱えたまま、じつとしていられない淋しさに泣き出してしまうのでした。
トコドン峠を越して
アンピン郡長が旦那は帰らぬものとして、人夫を集め、わたしを出発させようと話していた時、待ち焦れていた旦那がタンブナンの土民郡長タリバンの息子と共に、右手に藤の鞭を高く振りかざして、馬を鞭打ちながら、水田続きの道路を勢いこんで駈け込んで来たのです。
「もう安心しなさい。僕が帰って来た以上、もう大丈夫だ。明日はゼッセルトンへ出発出来る」
と旦那は喜びに雀躍りする心を鎮め、わたしを慰め、興南の小さな手をとって無事に戻れた喜びを語るのでした。
「僕がひとりで馬を引き返した時、興南の泣き声が僕の頭にしみ込んでいた。椰子林の中を馬を走らせていると、降るような蝉の噂き声が、どこまでもつづいていて、それが興南の泣き声に思われて、たまらなかったよ」
と旦那は言いました。
「僕が呼びかえされたのは、つまらない事なのだ。僕がケニンゴウ知事の時、軍司令部の財務部長から預かった金塊をゼッセルトンへ転勤の時に、後任の知事が着任しないまま、臨時の代理知事に引き継いでおいた。後任知事が着任した時、そいつがそれをすっかり失念してしまったのだな。イギリス軍から金塊の引き渡しを命ぜられたが、知事は記憶になかったのでそんなものは引き継ぎを受けないと軍司令部に回答したのだ。その上僕が女子供を連れ、三十名の人夫に荷物を運ばせたから、その荷物の中へかくして持ち逃げしたのだろうとまでつけ加えたと言うのだ。それでここの荷物を動かしてはいけないと、命令して来たことが判明した。馬鹿々々しいにも程がある」と旦那は口惜しそうにこう言って舌打ちをするのです。
アンピン郡長は旦那の出発にあたって「この方面のドスン人達にも不穏の気配があります。それはあのゼッセルトンの反乱事件で死刑にされた巡警の遺族や、山の中に逃げ込んでいた当時の巡警達がこの頃になって、かくれ家から出て来て日本人を襲撃している話が伝わって来ています。もうラナウ郡のキナバル山麓の道路では日本人は危険で通れない。この辺でも日本人は早くゼッセルトン方面へ集結するようにと知らせて廻っているが、すでに今までに相当多くの日本人が殺されたそうです」と話すのでした。
旦那は荷物の中から、この人達に自分が使用していた衣類をそれぞれ記念に分けて与え、アンピンの持って来たヤシ酒と鶏を料理しお互いの無事を祝し合い、この村での最後の訣別の宴を開いたのでした。
いよいよクロッカー山脈越えの旅に出発したのは、その翌日の朝早くでした。しばらく休養したとはいえ、わたしはひどいマラリア熱で苦しんだため両脚がふらついて、とても人夫達と同じ速度では歩けないのです。しかし興南がドスン女の人夫に抱かれるのをひどく嫌って、初めの二哩ほどずっと泣き通したので可哀想になった旦那がサロンの布で興南を肩から吊るようにして胸にかかえ、たどたどしいわたしの足をいたわりながら、スンスラン村から峠の登り口までの五哩を全く道らしいもののない河原づたいに何十回となく人夫に背負われて河を渡り、やっとその日の夕刻、スコールの猛烈に襲ってきた峠への登り口の河原にたどりついたのでした。
此処は大きな石がゴロゴロしている谷川のほとりでこの川一つ越えると、急坂というよりむしろ梯子登りに二哩ほど直線に登る嶮しい急坂の道になっているのです。
その夜は河原の小屋に一泊しましたが、水びたしの冷気におそわれ、わたしのマラリアがまた再発したのです。
旦那は困りきってしまい、人夫達を先に進ませこの先の宿泊予定地になっている四十二哩地点の山小屋に荷物を置き、男の力の強い人夫だけ二、三人迎えに戻って来てくれるようにと依頼するのでした。四、五人ずつ組になってこの嶮しい山を登ってゆく日本兵達は、へこたれて因っているわたし達を面白そうに眺めながら、どんどんわたし達の休んでいる所を追い越して行くのです。
わたしと旦那はこの兵隊に追い抜かれながら五歩登っては休み、十歩登っては尻を落ちつけ、汗びっしょりになり、一寸ずりに登っていたのです。こうして困難しているわたし達の目の前に、突然、何処から降って湧いたのか、遥ましいドスン人の壮漢が仁王立ちに立ちはだかったのです。
その鋭い眼光、浅黒く盛り上がった肩、太い両腕、素跣足のまま懐から長く下がった山刀をひねくるようにしたその大きな男は、わたしと旦那を等分に見比べたまま、じつとして動かないのです。この物凄いドスン人の出現に、旦那はこれも黙ったまま、じつとそのドスン人に身構えたのでした。然し、旦那はもう長い筒の銃は荷物の中につけて人夫に持たし、ここには一本の軍刀の外には何一つ持っていなかったのです。旦那の身体が、左手の軍刀を握ったままじりじりとわたしをかばうようにこちらの方へにじり寄って来るのでした。
わたしは瞬間「殺される?」と思って、全身がさっと冷たくなり、両頬がこわばって声も出ないのです。然し、咄嗟に思わず、ドスン語で「助けて!」と叫んだのです。するとそのドスン人は「ドスンか?」といぶかったロをきくのでした。「プラナカンチナ」とわたしはそれを早口で答え「布が要るか?」と問い返すと、ドスン人はわたしの身の廻りを見廻してから「着ているものか?」と問い返すのでした。「ちがう、この先へドスン人の人夫が持って行ってわたしを待っている」と答えるわたしに、大きくうなずき、今度は旦那の方を向いて「この人は夫か?」と訊ねるのです。「元ケニンゴウのレシデント」とわたしが力一杯に答えると、ドスン人は急に顔色をゆるめ「ケニンゴウの元レシデントか」と言うなり急に顔面をほころばし、今度は正確なマレイ語で話しかけて来たのです。
「あなたのことはアンピン郡長からよく聞いています。わしはゼッセルトン事件の時にコタブルト都庁にいた巡警長だが、あの事件で日本軍に追われ、故郷のこのタンブナン郡へ逃げ込んでいたのだが今度日本が敗けたので、今からゼッセルトンへ行ってイギリス軍に御目にかかりに行くところだ」というのです。
旦那はこの話にほっとしてこのドスン人に手を差しのべ、
「この坂路は妊娠しているこの女ではとても登れない、頼むからこの女を背負って上まで登ってもらえまいか」と交渉しはじめたのでした。
気がついて見るとそのドスン人の後ろに、十歳位の少年がついていたのです。
「その子供は貴男の子供か?」とわたしが問うと「そうだ、わしが逃げている間に妻が死んでしまった。一人残されたこの子供を連れてゼッセルトン迄行くところだ」と答え、少年を見返ったのです。「子供用の布地もあるからあげましょう」と言うわたしに、ドスン人は黙って背中を出してくれたのです。こうしてわたしはこの逞しいドスン人の背におぶさって、二哩の梯子登りを無事に登り切ってほっとしたのでした。旦那もわたしもこれはきっと亡き養父が、姿をかえて助けに来てくれたのでしょうと話し合って喜んだのでした。
四十二哩地点の山小屋は、小さな谷間にのぞんだ深いジャングルの下に、中央を通路にし両側に区切った部屋をつくったもので、そこには先に着いていたドスン人の人夫達の外に日本軍の病兵達が十五、六人呻いて寝ているのでした。濃い山霧が細かい雨となってジャングルの木の間に降りかかり、豆粒ほどのランプに照らし出された病兵達の鬚は長く伸び、半ば死人のように見える寝顔が恐ろしくて、とてもわたしは寝つかれませんでした。
トコドン峠のジャングルの木の間越しに遥かの西方を見下ろせば、遠く南支那海が広々として眼下にひろがり、ゼッセルトン市が白い海岸線に沿って見えてきました。その真向こうには小さいガヤ島が浮かんで見え、ラブアン島までが望めるのです。「ああ海」とわたしは苦しかった今までの旅路のことも忘れ、汗を拭きながら天とも海とも判らないほど広々とした大海原の色に見入ったのです。
しかし次の瞬間、わたしはあの海が、やがてわたしと旦那を引き離す悲しい所かと思うと、急に旦那との別れのことを思い出して心細くなってしまったのでした。あの海を渡って旦那は日本へ帰ってしまうのだ。あの海は、わたしの実の父と本当の母さんを連れ去ってしまった海であり、今またわたしの頼る旦那を連れ去ってしまう海と考えると、わたしの心を熱くさせて来るのでした。
トコドン峠を西に下りかかると、その一歩一歩が旦那との別れに近づくように思え十歩行っては立ち止まり、二十歩あるいてはそのたびに「旦那、わたしを忘れないで下さい」と念を押すように旦那にせがみつづけたのです。小川一つ越し、草原一つ通り抜けるごとに、わたしは旦那にしっこいまでに繰り返して「旦那、決してわたしを忘れないで下さい」と言いつづけたのです。
重い足を引きずり、旦那が日本の女がはく白い足袋を二足も用意して下さったのに、もうその二足目も底がなくなってしまい、足の裏が痛み出したのです。
坂道につかれ、路傍に腰を下ろし、しばし休んでいる間にも、この別れの時が、かさこそとわたしの身辺に忍び寄って来るかと思われ、わたしはただ旦那と一時間でも一刻でも余計に、こうして一緒に暮らしている時の多いことを願うように心が変わってゆくのでした。
降伏のおきて
やがてわたし達はゼッセルトン市外六哩東方のイナナム町に向かい、そこに予定された宿舎に落ちつくことになったのでした。
イナナム町はゼッセルトン反乱事件の中心地トアラン市や、メンガカル町に連なる反日会の存在した地帯でしたが、ここにはバジョウ人の土民郡長ガサンがすでにケニンゴウ刑務所から解放されて帰宅しており、再びこの地区の土民郡長として復活し、この地方一帯のバジョウ人達をその手に握っていたのです。
再び土民郡長の地位についたガサン老人はバジョウ人達の露天市の立つ日に従者に沢山の果物を持たせ、盛装して、旦那のところへ御礼の挨拶に来て、旦那が日本へ帰ったのちには、わたしの世話も引き受ける等とも約束してくれるのです。こうしたガサン郡長の好意に、わたしは闇の中に一道の光明を発見したように喜んだのでした。
ところがわたし達の仮宅に近いゴム園の中に、印度人のGHジェームス老人がゼッセルトン市外の飛行場付近からここへ疎開してきていて、その日本人の妻が度々わたし達の家を訪ねて来るのです。そして「わたしは子供がないもんでね」とジェームス夫人イチ婆さんは語るのでした。「長男も二男もみな養子ですが、長男のピータースは日本名を土山一郎とつけました。日本人の女とドスン人の男との子供ですが、シンガポールからここへ来て末の楽しみに貰って育て、日本人の籍に入れて置いたらいいと思い、わたしの生まれ故郷の九州天草のわしの兄さんの籍に入れてもらい、日本の小学校で勉強さしに日本へ少しの間やった事もあるのです。そのため今度の戦争になってから日本人の籍があるばっかしに、日本の兵隊にとられて入営することになり、現在も日本軍から帰してもらえず、ついこの先の俘虜収容所の中に居るのですが、どうしても帰してもらえないのです。嫁も結納金まで出した華僑の娘プアケンという良い娘が決まっているのです。もしもこのまま長男のピータースが日本へ連れてゆかれてしまうようなことになれば本当に困ります。あなたの力で何とかならないでしょうか」
わたしはこうした悲しみに泣くジェームスの家の一室で、星のように小穴があいた破れ屋根の下にささやかな産室を整えてもらい、そこへ旦那も俘虜収容所に入る前のしばし、わたしと同居しながら入所する日を待つことにしたのです。
一九四五年の十一月十三日の早朝、いよいよイギリス軍からの命令が出て、旦那はリュックサック一つに身の廻りの必要品をまとめ日本軍俘虜収容所へ入る事になったのでした。
日本が敗けたと知ったとき以来、わたしが一刻も忘れることの出来なかったこの嫌な別れの日が、到頭やって来てしまったのです。
旦那は、わたしにはお産がすんだならばサンダカンの姉の所へ帰り新しい幸福を求めるように、子供達には日本から送金出来次第送金する。何処へ移転しても通信を忘れないようにと何回も繰り返して約束し、朝霧がゴム園の樹の間を乳色に流れている中を、今度こそ本当に長い別れとなる出発の第一歩を踏み出したのです。興南は無邪気に父に抱いてくれと、その小さな両手を差し出すではありませんか。
もうどんなに、泣けど叫べどわたしの心のままにならぬこの朝の別れに、未練なわたしの手は旦那にすがりついたまま、どこまでも旦那に食いつくようにして歩いていったのです。
やがて旦那が収容所に入る人達と集合する場所に近づいたため、どうしても離さないわたしの手を旦那は強く振り切ってしまいました。
その後ろ姿を見詰めてじっとたたずんだわたしに旦那は手を振り振り、ゴム園の彼方へ曲がってしまったのでした。たった一目でよい、生まれ出る子供の顔を見てから行きたいと口ぐせのように言っていた旦那も、遂にその日まで待つことが許されずに、今わたしと興南の目の前から目に見えない強い力に曳かれて連れ去られてしまったのです。
「日本や中国、そして何処の国にも戦争中こうして生きながら母や子供と別れた人々が何百万とあるのだ。戦争の終わった今日となって生きていての別れならば、やがて又会う日もある」と何回となく旦那から聞かされていた言葉なのですが、しかしいぎその別れとなると、どうしてもあきらめる気になれないのです。
わたしは急いで家に引き返し、外出の仕度を整え、興南を抱え、再び急ぎ足で日本軍の俘虜収容所へ入所する門の所まで駈けつけ、せめて旦那の顔をもう一目見てと夢中になって旦那の姿を捜し求めたのです。
しかし、そこには、重い荷物を背負った何百人かの日本軍俘虜が元気のない隊列で、イギリス軍に人数をかぞえられて、次ぎ次ぎに収容所の門へ入って行くのですが、その人達の中のどの顔をのぞき回っても、そこではすでに旦那の顔は見つからなかったのです。日本軍俘虜の入所するありさまを遠方から見物している大勢の華僑や、原住民達は、高い声で日本軍の悪口を言っているのがわたしに聞こえるのです。然し日本軍の俘虜もイギリス軍も、ただ黙々とこんな悪罵も聞こえぬように入所手続きを行なっているのが、何か別の世界の人々のように見えるのでした。
がっかりしたわたしが、一人トボトボとジェームスの家に戻って「これで総ては終わってしまった」と小さな部屋に倒れ込んでしまうと、涙が止めどもなくあとからあとから流れ出し、はり裂けるほど胸がこみ上げてくるのです。
わたしは旦那が今しがた脱ぎ捨てていった肌着のシャツを顔に押し当てて、旦那の汗の臭いにつつまれ、しばらくは身動きもせずにむせぶ心を静めることに努めたのでした。
地に伏して哭く
旦那が収容所へ入ってから二週間ばかりすると近くの日本軍全部が俘虜収容所に入れられてしまって、急にその辺一帯が、自由を取り戻したように、原住民や華僑達が通行を始めて戦争前の賑やかさがかえってきました。ジェームスの二男バンドセン青年も毎日自転車でゼッセルトン市に出かけ、さまざまなニュースを聞き込んで来てわたしに聞かしてくれるのでした。
夜に入ると、ゼッセルトンの市中はチラチラした灯が破壊された家の間にまたたき始め多数の夜店も戦前のように店を並べ、破壊された市中の整理に、トラックに乗った日本軍の俘虜が毎日作業に来ているとも話してくれるのでした。
わたしは旦那と同じ日本人で、長く印度人と夫婦になっていたこのイチ婆さんが、外の友達が皆日本に帰るのに、イチ婆さんだけは日本の為に戦禍を受けて苦しみながら、夫のジェームスや二男のバンドセン青年の前には自分が日本人であった為に、こうした結果になったと全く頭が上がらないでいるのが気の毒に思えてならないのでした。ジェームスは友人の印度人が三人の子供を残して妻が爆死してしまって困っているから、わたしにその印度人の後妻として結婚してはくれまいかと、旦那が収容所へ入ると早々に切り出したのでした。
この話をジェームス夫妻が真面目にすすめるので、わたしは急に情けなくなったのです。まだ旦那がここを出て、わずか二、三哩先の収容所に入ったばかりで、旦那の足跡がまだこの部屋の中に残っており、旦那の子供がまだこの身休の中に宿っているというのに、どうしてわたしがそのような気になれるでしょう。わたしはいずれ「お産がすんでから」とジェームス夫妻にその返事を待ってもらうことにしたのですが、イチ婆さんから「旦那は、一日も早くあなたを嫁入らせてくれとわしに頼んで行った」と話されたので、わたしは急に冷水をかけられたほど驚いたのです。
旦那の心がそんなものであったとほどうしても思えない。もしそれが本当としたならば全く情けないと、口惜し泣きに泣けてくるのでした。わたしは是非一度、旦那が日本に帰ってしまわないうちに、一度その事を確かめたいと思いはじめたのです。
イギリス軍が、まだ収容所に入らないでかくれている日本人を捜し廻っているからと、イチ婆さんは毎日小さくなって家の中に引っ込んでいて、何もすることがないためか毎日のようにこの嫁入り話を持ち出すのでした。
クリスマスのすぎたある日の夕刻、わたしの耳に、バンドセンとジェームス、イチ婆さんの外に聞きなれない男の声と、もー人若い女の声、それはピータースの婚約者で華僑の娘のアケンの声が、隣の部屋で、ひそかに話し合っている物音が聞こえて来ました。
そっと様子を覗いて見ると、日本兵の服をつけた一人の青年をイチ婆さんが泣きながらいたわりつつ、湯を沸かして沐浴をさせる用意をしていたところでした。そこへそっと顔を出したわたしに気づいたアケンがすぐに飛び出して来て、
「わたしの夫ピータースが帰って来たの、たった今。すっかり疲れ切っているのです」と聞かすのです。不思議そうに、よくこんなに早く帰れたものと思ったわたしが「どうして戻れたの」と問うと急に顔を曇らせたアケンは「それが困ったことに俘虜収容所から逃げて来たの」と心配そうに答えるのでした。
「逃げて?大丈夫かしら」と心配して聞き返すわたしに、ジェームスやイチ婆さんは、この長男ピータースが何とかして、このまま家に居れるようにしたいものとくどくど話し出したのです。ピータースは痩細った身体をイチ婆さんの用意したお湯ですっかり清潔にし腹一杯食事をすませたのちに、ようやくと元気づいた様子で、別人のようにはっきりした口調をとり戻して語り出したのです。
「僕は現地召集で入営すると新兵のためひどくこき使われて、とても辛いことばかりが続いた。終戦になって収容所に入ってからは、空腹に耐えかねたのと、すぐ目と鼻の先に自分の家があり、毎日ゼッセルトンの市中に作業に出るたびに、幼な友達の中国人からは悪口を言われて随分辛かった。それからこのアケンにも会いたいと思っていたのに、いったん収容所へ入った以上どうしても家に戻してくれないし、このまま日本まで送り帰されては因ってしまうと思っていた時、僕のいた幕舎の中で食糧が一人分盗まれた事件が起きた。それを僕が盗んだと疑って、そうでないと言い張る僕を大勢寄ってたかって散々打ったり、蹴ったり、殴ったりひどい目にあわせ、そのうえ減食の罰で僕を苦しめた。これでは殺されてしまうと思い、いっそ自分で死んだ方がましだとさえ思ったのだが、一目でよいからこのアケンや、父さん母さんに会ってから死にたいと、監視兵のすきにゴム園の中に逃げ込んで、丸一日一夜かくれ通してやっと家へ戻って来た」と辛かった入営以来のことを涙ながらに語り、その際に打たれた傷だと身休中紫色になっているその叩かれたところを見せるのでした。
ジェームスはこの話を聞いて、ゼッセルトンのイギリス政庁に交渉し、日本とこの国との両方に国籍があるこの子供は早速この国の者として認めてもらって即時解放してくれるように嘆願すると、わが子の悲惨な姿に激昂していつになくはげしく言いっづけるのでした。わたしはこのピータースに聞いたならば、少しは様子が判るかもしれないと思い、旦那のことを問うてみたのです。しかし、わたしが期待した旦那の在りかはピータースからは聞けないのでした。
その翌朝、ジェームスがゼッセルトン警察署を通じ、ピータースを即日解放していただきたいと願い出たのですが、結局、一応イギリス軍の軍法会議にかけた上でなければ決定出来ないからと言い聞かされ、可哀想にピータースはジェームスやイチ婆さん、愛人のアケン達の泣きの涙ののちに再び捕われの身となってイギリス軍のジープに乗せられ、日本軍俘虜収容所に連れ戻されてしまったのです。
ジェームスはピータースの脱走事件から、めっきりと健康状態が悪くなり、一日中ベッドの上に横になり、力のない咳をしつづけておりました。
わたしはこのジェームスのひっきりなしにせき込むしわがれた咳を聞きながら、お産の手伝いもない淋しい部屋の中で、二人目の男の子を出産したのでした。ケニンゴウで興南が生まれた時は、中国人で北ボルネオ政府の正式な免状を持っている助産婦が立会い、旦那まで初産のわたしに付き添い、両手を握って力づけて下さり本当に幸福なお産だったのですが、この不運な二男の出産には、お産の経験もないイチ婆さん一人が付き添っていただけの淋しいものだったのです。
産後のやつれで床に横になりながら、母乳が止まったのを幸いに、早くこの赤児を人手に渡し身軽になって、生活の途を立てることにしたいとまで思うようになったのでした。
イギリスの旗の下に
何日待っても義兄は迎えに来てくれない。いつ旦那の乗る船が、ここの港へ着くのか、それすら判らないままこうしてここに暮らしてゆく不安に、悩んでいたわたしは、この先どうすればよいのかとそれのみを考えあぐんでいた時、急ぎ足で桟橋をかけながら、わたしの部屋にアケンが飛び込んで来たのです。息せき切ったアケンは、
「あなた早くいらっしやい、たった今、イギリス軍の人がフィリピン人の通訳を連れて、日本人の関係者で、日本人に面会したいものは、早速願い出るようにと知らせて来たのです。さあ早く行ってその人達に頼みましょう」と、せきたてるのです。
わたしは、こういうアケンの迎えを受けると取るものも取りあえず、アケンの後について興南を抱え夢中で駈け出したのでした。
日本軍の武装を解除して、俘虜収容所へ入れたイギリス軍は、最初オーストラリア軍だったのですが、この頃はすでに交代してネパールのグルカ兵の多いイギリス、インド軍なのでした。
そのグルカ兵の下士官と、フィリピン人の通訳とが、収容所の隊長、メージャ・スパークスの命令で、アケンがわたしに伝えてくれたような日本人との面会を許するという命令を、伝えて廻って来ていたのでした。
「もう少しすれば、日本人達は此処から去ってしまうから、面会したいものは許可する」というのです。
その翌朝アケンと二人で興南を連れ、グルカ兵の下士官が迎えてくれたトラックに乗って婦女子収容所に至り、下士官と、フィリピン人通訳に伴われ収容所内のバラック建ての面会所に待たされて、わたしの目の前に旦那が現われるのを待ちこがれていたのです。
待つことしばらくして、わたしの目の前にグルカ兵に伴われて旦那が全く別の人のように痩細って、そのうえ熱い砂原の上で暮らしていた為なのか、顔や手足が陽焼けして、目ばかり白く光り痩こけた頬に、笑いはたたえているものの、着ている上衣とズボンは労働したためか両膝が破れみすぼらしい姿になって現われたのです。旦那はグルカの下士官から「この婦人と子供は君の関係者か?」と問われ「然り」と簡単に答えてわたしに微笑みかけました。
「君と共に、日本へ行きたいと希望しているが君の考えは」と極めて事務的に旦那に質問するのです。わたしはこの下士官に旦那が何と答えてくれるかと心配しながら、アケンの通訳を待ちました。
「日本に行かなくてもこちらで暮らしてゆける手筈をつけて来たのですが」
「旦那! わたしは日本まで旦那に従ってゆきたい」とバラックの中からいきなりわたしは強く旦那に向かって呼びかけたのです。
「どうしてか?」旦那は外の強い太陽の下から、バラックの中のわたしに問い返すのです。
「わたしはとても辛い」と返事して戸外に出かかると、旦那は急に下士官に向かって、
「一時間彼女と話す時間を与えて下さい」と椒むのでした。「よろしい、四十分間許します」と下士官が旦那とわたしの間でゆっくりと相談出来る面会時間を与えて立ち去った後、旦那はわたしのいるバラックの中へ入って来ました。強い熱帯の太陽光線の直射する外から急に暗い家の中へ入った旦那は、しばらくあたりの様子がはっきりするまでじっと立ったままあたりを見廻していたのですが、ようやく中の様子に馴れると、わたしの膝に抱かれている興南に両手を差し出しながら「赤児の方はどうしたの」と訊ねるのでした。
「旦那、この中は辛いでしょう」と元の姿はどこへか失せて全く見るかげもなくやつれ切った旦那の姿は、わたしがまだ一度も見たことがない情けない姿なので、まるで半病人のように見えるその旦那の格好に、わたしは泣きたいほど情けなくなってこう話しかけたのです。
旦那は思ったより平気に「僕等はまだここへ入れたから幸福の方だ。ここへも入れずに途中で病死したり、原住民に殺されてしまった者が大勢あるから、それにくらべてここはまるで極楽さ」と答えるのです。
「どうして外へ出なかったのです、わたしは毎日アリイーの家の前で、英軍のトラックで旦那の通るのを、待っていたのです」と聞くと、旦那は笑いながら「僕は仕事に出なくてもよい地位だったのと、身休が弱いから仕事には出なかった。しかし、ピータースからお前達の丈夫なことは聞いていた。いつか彼が脱走したと聞いた時、きっとお前の居るところへ戻ったなと思っていた。するとニ、三日後に捕えられ再びここへ入れられてしまい、日本軍から二週間の重営倉の処罰を申し渡され、この収容所の中の営倉から出る日を、指折り数えて待っていた。そして出た日に早速行ってピータースに会い、お前達の元気な様子を聞いたのです」
わたしは旦那の顔を見つめながら、
「旦那、どうかわたしを日本へ連れていって下さい」
旦那は静かに視線を外へそらしました。
「敵であった僕達まで、こうして保護しているイギリス軍が、ここの国に生まれたお前や、この子供達を辛くするようなことはない筈だ。少しの間辛抱していて、僕が日本から金を送るか、品物を送るまで待っていてもらいたい」
「嫌です、金や品物ではない、わたしはこの子供に本当の父がほしいのです」
「この子にお父さんを持たせるために?」
驚いたように旦那は、わたしの顔をのぞき込んだのです。
「そうです。わたしは自分の不運をこの子供達にまでさせたくないのです、せめて一人で働けるまで、子供達をお父さんの所で成長させたいのです、日本人を恨まない国で」
「ーー」旦那は興南の顔を見つめ、黙ったまま答えず、わたし達母子を見守っているのです。
「ここ、しばらくすれば、日本とイギリスが再び仲よしのお友達になるから、お前達の辛いことは長く続かない」こう言ってわたしの願いは、仲々聞き入れられそうもないのです。
わたしはこの言葉でふと、旦那の日本の妻のことを思い浮かべたのです。
「旦那、わたし達を連れてゆく、日本の妻に怒られるから嫌なのでしょう」わたしはこうはっきりと言い切って、旦那の顔を見上げました。
旦那はわたしのこのきっばりした言葉を聞くと、じつとわたしに目を落としていたのですが、しばらく考えてからゆっくり首を振って「違う」と答え、「わたし達のことを日本の妻は知っていますか」と問うたのに、「知ってはいない」と言ってからすぐ言葉をつぎ、「戦争中は、こちらから日本へ出す手紙は、全部日本軍が検査をするので、ねねんのことや、子供のことなどは日本の妻に知らせてやる自由がなかった。日本の妻は、ねねんや、子供のことは少しも知らない。しかし、日本へ行って、妻と、僕と、ねねんと三人でよくこちらの事情を話し合えば、日本の妻は良い人ですから、きっと判ってもらえるとは思うが、僕の心配しているのは、ねねんが日本の寒い気候に生活出来ないと思う。ねねんがせっかく日本へ行っても、この国で生まれたねねんは向こうでは生活が出来なくて又すぐ戻らなければならない」と言うのです。
「旦那、それは違います。本当の父の国へこの子供を届け、わたしがもし日本の空気に慣れなければ、イギリスに頼んで、再びこの国へ戻って来てもよいのです。旦那の子供は受け取って下さるでしょう。旦那、本当に日本の妻は良い人ですか?」
「本当に良い人だ。他人の子供さえ世話して育ててやったことがある」
「では旦那の子供を可愛がって育てて下さるでしょう。日本の妻の写真を見れば、その二人の子供は大きいから、小さいこの子供が行ってもいじめないで、この子供を可愛がって世話して下さるでしょう、旦那!」
わたしは日本の妻が良い人だと言う旦那の言葉に心から嬉しくなったのです。その上、他人の子供まで育てていたことを聞かして下さったので、どうしても旦那に従って、日本へ行き、この二人の子供を旦那の家に送り届け、日本の妻に可愛がってもらえれば、この子供達も幸福になれると考えたのです。
然し、もし日本の寒い気候にわたしが生活出来なければ、日本とイギリスが仲よく友達になった時、この国へ帰って来てもよいと考ぇていたのです。旦那はどうしてはっきりとわたし達を日本へ連れて行こうと返事して下さらないのでしょう、わたしはそれが口惜しいのです。
「旦那!わたし達をここへ捨てて行くのですか、判りました、-もう日本へ行くとは言いません。わたしは旦那に従ったばかりに、回教の戒律も破った、義兄の家も飛び出した、そして旦那の子供を二人まで産んだのに、旦那はわたし達三人がこれから、ここの国で生きてゆくために何の力をわたしに残して行ってくれるのです。この子供達は母さんを恨むでしょう、そして母さんと自分達を捨てて日本へ帰ってしまった旦那と、旦那の国日本を恨むでしょう、日本軍に虐殺された人々の遺族と共にこの興南達も日本を恨むでしょぅ、わたしも恨みます。日本は悪い、日本人は悪魔だ、日本のために不幸になったこの国の人々といっしょに、わたしは日本人を死ぬまで恨みます」
「待ちなさい!旦那はわたしの興奮した頬を両手でしっかりとつかまえ、
「静かに! 黙りなさい、喋ってはいけない、僕は連れて行かないと言ってはいない。ただお前達を日本へ連れて行ってからのことを考えていたところだ。少し静かにして僕の言うことを聞きなさい」この声に圧され、恐る恐る見上げた。わたしの額に、旦那の熱い涙がはらはらと降りかかって来たのです。
「日本はこの戦争に敗け、食糧もない、住む家もない、杖とも柱とも頼む父や夫、子を戦死させた人達が何百万と泣きの涙で暮らしている。そこへ死んで帰ると思った僕がねねんと子供を二人も連れて帰国したならば、日本の妻や子供が怒るよりも、生きて行く事に困難するだろう。それで僕はねねん達をここの国に残しておいて、せめてこの国で死んだ日本人の墓に花の一つも手向けさしたいと願ったのに、そのねねんが、僕を恨むあまり、この国の土となり、日本の為に死んだ人々の墓までもさげすむような気持ちになったのでは、誰もこの国の日本人の墓を弔ってくれる人がなくなる。死んだ人達には罪はない、たとえ戦争には敗けても、あの人達は日本のために、死ぬのだと堅く信じていった人達だ。ねねん、僕はこの国の人達が日本人を再び友達として堅く手を握り合う日が来る日まで、ねねんと子供を日本へ連れて行こう。そして立派に成長した子供をこの国に戻して、この北ボルネオの為に働かせ、日本人達の墓を弔い、この国で悲惨な戦争の禍いによって死んだ多くの人達と、その悲しい遺族達の幸福を図るために、この国の人となって尽くさせよう。興南、お母さんと弟の栄楠とこの父さんといっしょに日本へ行こう。日本へ行って立派な人になって再び兄弟でこの国へ帰ってきて、お母さんと楽に暮らせるために、日本とこの国の平和なかけ橋になるために、さあ皆して日本へ行こう」わたしの両頬を押えていた旦那の手は、いつか興南を高く差し上げ、晴々とした笑顔をしきりに興南の頬にすりつけるのでした。わたしはこうして始めて笑顔になった嬉しそうな姿に、
「旦那、ありがとう、旦那、大変ありがとう」と嬉しさのあまり旦那の胸に顔を埋めて、何回も何回も繰り返して礼を言いつづけたのです。
興南は、ただけげんな顔で、わたしと父の顔を見くらべているのみです。無心の子供は神のようですが、しかし一寸先の運命も知らないのです。わたしはこの子のために、幸福を握ってあげた嬉しさのあまり、旦那の手に差し上げられている興南を受け取って抱きしめたのでした。
一九四六年三月二十三日の十五時、あこがれの帰還船「鹿島」はゆるやかに三千余人の引揚者を乗せて、ゼッセルトンの桟橋を離れたのです。まだ荷物の片づかぬままの甲板上には、この船出を見るために集まって来た人々が、次第に離れゆくゼッセルトン港を眺めていつまでも甲板に立ち続けているのです。
大砲を下して船脚が早くなった帰還船「鹿島」はちょっとの間に、港の建物や点々と続く火烙木の並み木、その先に見えるゼッセルトンの市街を小さく遠ざけてゆくのでした。
甲板に立ち続ける慰安婦達も、またタワオ農園の日本人達も一人増え二人増え、次第に多くなって、じつと押し黙ったまま、遠ざかってゆく北ボルネオの山々を眺めているのです。その静かな甲板の、どこからともなく湧き上がってきた歌声、誰の口からともなく歌い出され、次第にそこの人々の中にひろがってゆく日本の歌、それはタワオの日本人農園の女達と子供等がいつも歌いなれていたあの悲しげな日本の別れの歌でした。
さらばボルネオよ
また来るまで
しばし別れの涙がにじむ
黒く雄大に波打つクロッカー山脈の上にひときわ高く聾ゆるキナバル山、それはあたかも南支那海にのぞんで北ボルネオの表現のように思われました。じっとその山々を見守っていたわたしの胸には、さまざまな思い出が浮かび出ては次から次へと走り去るのでした。
あの峯に連なるトコドン峠、峠の彼方の村スンスラン、直線道路のケニンゴウの大草原、芝生の丘の楽しいわが家、メララップのパダス河の流れ、クチンガンの花に覆われた養父の墓、いま故郷を捨てる別れの悲しさにひくく面を伏せたわたしは、ふと肩におかれた手に、はっとなって顔を上げると、きっと唇をむすんで涙にうるんだ旦那の瞳とばったり視線がかち合ったのです。
両類を涙に輝かしてただ一心に歌いつづける人々の中に、旦那もまた、じつとりと汗ばんだ身体をわたしの肩に寄せ、はるかな空の死者の霊魂が集まってゆくと伝説に語られるキナバル山の霊峯を仰ぎ、身じろぎもせずいつまでもいつまでも、じつと見入っているのでした。