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風下の国

元三十七軍司令部付き飛行班長 山田誠治
 氏は昭和十七年ボルネオ守備軍編成頭初より司令部付飛行班長としてボルネオに征き、ミリー、クチン、アピー、サボンと状況の進展に伴う軍司令部位置にありて前田大将、山脇大将、馬場中将の三代の軍司令官の下に活躍された人である。彼の著書に左の二編がある。
 ボルネオ戦記 前編 風下の国(S四四・五・二八発行)
 後編 戦闘編(S四四・九・一〇発行)   現住所 長野県・・・
(編者)

北ボルネオの地形

 私は北ボルネオの地形について、若干の説明をしなければなるまい。北ボルネオの自然と、その住民の興味深い物語りは、英国人アグネスキース夫人の著書「風下の国」によって既にその当時あまねく世に知られていた。フィリッピン群島の南に丁度東を向いた熊のような形の大きな島がある。これが、オーストラリアに続く巨島と言われるボルネオ島である。

 「風下の国」のなかに出てくる北ボルネオの原住民達は、当時英国の統治下にあって一応平和で静かな生活を楽しんでいたことになっている。そして広大な緑の大自然は、極めて豊かな資源を深いジャングルの地下に抱いたままであり、その千古不斧の美しい姿は広く世界に紹介されている。更にまた、涼しい密林のそよ風が爽やかに吹き抜けている北ボルネオの小さな町の物語りとしては、東からタワオ、サンダカン、クダット、ゼッセルトン、ブルネイ、ミリー、シブ、そしてクチン等の集落を中心に、その一つ一つが彼女のペンによって、興味深く語られているのである。

私達は、昭和十七年の四月二十日、ボルネオ守備軍の編成が下命せられ、その司令部が東京に於て組織された時、現地ボルネオの情報を知る好資料として、この「風下の国」を与えられてむさぼり読んだことがある。私は殊に、サンダカンとゼッセルトンを結ぶ脊梁山脈の中央部に、高く天に奪え立つ巨峰、キナバルの物語りを読んで、限りない南国への夢が、大きくふくらんでゆくのを覚えた。それは千古の密林に聳え立つ、熱帯の巨峰を仰いでいる原住民の信仰が、必ずや神秘な言い伝えとなって、我々を夢幻の世界に案内してくれるのではないかと、思ったからである、キナバル山は、丁度サンダカンとゼッセルトンと、クダットを結ぶ三角形の中央部に聳える四、一七〇米の高峰である。

この峰は、ボルネオの脊梁山脈の北端にあたり、これより南下する山脈が遠くボルネオを縦断してその尾根となり、東西の分水嶺となって、広大な原野を潤す、無数の源泉を擁している。その山容は峨々として、あたかも火山の如く峻嶮な岩肌を連ねているが、キナバル山は火山ではない。灘軍の黒沢司政官の説によれば、キナバルの地質は熔岩の一歩手前の、溶塊であるという。幾億年か昔のこと、地殻の弱いこの地方に、地球の中心部から、押しあげられて来た熔岩が、噴火の一歩手前で塊りとなり、奇怪な山容を形造つた。その後、長い年月の間に氷河の浸蝕や風化によって山塊はやがて七つの峰となり、又深く喰いこんで大きな谷となったのであろう。なんとなれば、地下一、000米の付近にあるべきはずの火成岩が、空中高く四、000米の高所にあって、角閃花崗岩として到る所に発見されているからだ。この例は世界にもごくまれな、地質学的な特質であるとのことである。

 ところで、赤道付近における恒雪圏は、海抜四、五〇〇米以上であるから、キナバルの山頂には万年雪はないが、峰の大池に氷が張ることはしばしばである。北ボルネオの多くの原住民達はこの山と共に生き、この山と共に栄えて来た。彼等にとってキナバルは総ての生活の根源であるといっても過言ではない。山麓地方に広く居住するドスン族は、今もなお祖先の霊はキナバルの峰にあって、常に彼等を守っているのみか、彼等もまた死ねばあの峰に登って行くものと堅く信じている。いや自分達ばかりではなく、総ての人や獣はこの山を生涯の故郷として、この山の周辺に棲んでいるものとさえ思っているであろう。

ミリー風景

 北ボルネオで油田地帯といえば、このミリーとセリヤの二カ所のみである。
 海軍地域の南ボルネオには、タラカン島をはじめ、バリックパパンやその付近一円など、東海岸の油田地帯がずらりと並んでいる。その点さすがに海軍さんは石油においても、当初から極めて優勢であった。
 然しミリーの油田は、その規模において東南アジアでも有数な設備を持っていると言われる。
 その特徴は、噴出油の純度がよいばかりでなく、パラフィンの含有量も少なく、殊にセリヤ地区の新油田の埋蔵量は、学者の間でも興味深い数値を示しているとの事である。
 セリヤは、その北方にブルネイ湾を臨む位置にあり、今後開発されるとすれば、この風光明媚な湾の周辺は、極めて有望な石油資源の埋蔵地帯として、重視すべきものと推定される。されば、ボルネオ守備軍の第一の任務は、まず油田地帯を確保して、その原油を内地に還送できるように、速かに準備を備えることにある。この方針に基づいて、大本営陸軍部の資源調査隊が、我々のすぐ後を追ってミリーに着陸したのも故あるかなである。
 それに次いで、南方燃料廠が新たに編成されて総軍の隷下に入り、初代廠長として、山田清一中将(後に第五師団長として、アンポン方面で作戦し、終戦と共に自決された)が任命された。よって今迄のボルネオ採油隊はボルネオ燃料支廠となり、隊長の大久保享少佐は支廠長となった。
 大久保少佐は重大な責務を負って、胸をふくらませ、当時の合言葉〝油の一滴は血の一滴〟を深く胸に刻んで部下をはげまし増産にいそしんだ。
 かくして開戦当初の英国石油会社従業員による破壊作業や、パイプのコンクリート詰めの妨害は取り除かれ、たちまち復活してしまった。大久保少佐がスマトラに転任後は、相川大佐が、次いで相京大佐が支廠長となり、油田の開発・輸送・還送などに次々と刷新が加えられたが、戦況の逼迫に伴い、遂に竜頭蛇尾の作業に終わった。

 ある日のこと、ミリーの埠頭に一人の不思議な人物が、飄然と上陸して来た。「元労農党代議士、山崎劒二」彼は私に一礼をすると、ゆっくりとそう名乗って、参謀長にとりつぎ方を申出た。これは又正に「正体不明の怪人物現わる」とでも言うべきであろう。見たところ中肉中背で、真っ黒に日焼けをした鬚面に、眼光あくまで鋭く、誠に精悼な面構えである。その服装はと見れば、よれよれの国民服風のものを着用しており、その腰には無雑作に日本刀がたばさまれていた。まるで、西南の役にでも出て来るような格好である。
 しかも、彼が乗って来た船というのが、焼津践団の山口氏を中心とした鮪漁船に便乗しており、どうみても内地を秘かに脱出して、大胆にもミリー迄密航した者としか考えられない風態である。私は少々まごついたが、まず順序として、矢野参謀にその処置を聞く事にした。「そいつは弱ったな……又妙な奴が舞い込んで来たものだ。然し追い帰すわけにもゆくまい」と呟く参謀から、承るところによると、労農党と云えば当時アカの急先鋒と称せられ、国内の到る所にもぐり込んで、ストライキを扇動している張本人だということだ。さすがの私もこの処置には判断のしようがなかったが、結局のところ、参謀長の断を待つより外に方法なしと考えて一応取り次ぐことにした。

 二人の会談は、長々と続いていたが、やがて私は参謀長に呼ばれると、陸軍省宛に緊急電報の起案を命ぜられた。
 「元労農党代議士、山崎劒二、本日秘かに当地に到着、現地に於て軍政に協力致したき旨熱望しあり、彼の心情を聞きひとかどの人物と判断す。よって現地軍臨時の傭人として当分使用し今後の動向を見たい意見である。御指示あらば至急承りたし」
 やがてその返電が来た。
 「山崎劒二は、思想上極めて危険な人物につき断じて採用できず、速かに内地へ還送せられたし」
 これを見ると、参謀長はカンカンに怒った。
 「何を馬鹿な!! 陸軍省のチンピラ共に、何がわかるか。己むを得ん奥の手を使うか」今度は陸軍大臣宛に、親展電報となった。
 「前電申請の件、山崎劒二は転向者として、小栗前警視総監よりの推薦状も所持しあり。同人の行動監視については現地軍が責任をとる。よって本件に限り当人に対する処遇は、この際灘軍に一任せられたし」
 とまあ仲々強硬だ。それはまるで「貴様等に、現地の実情がわかるものか。いちいち余計なことを言うな」と言わんばかりの電文である。さすがの陸軍省も、この強硬措置には遂に押し切られたものと見えて嫌々ながら返電が来た。
 「前電山崎劒二の件、今回に限り、現地軍の判断に一任す。但し当人は、強力な活動家につき、なるべく海岸地方を避けて奥地にその任務を与え、よく監視のうえ使用せられたし」
 参謀長はこれを見ると、大声をあげて笑った。こうして密航者山崎劒二氏は、見事に採用が決定し「西海州付、ケニンゴウ県知事」という、特別条件づきの肩書が発令され、遂にその初一念を達成したのである。彼は意味あり気にニヤリと笑いながらこの大任を謹んで拝命した。そしてその夜は、私の部屋に泊まることになった。私はその夜なんとかして、現在の彼の心境を知りたいものと考えて、あれこれと質問をしてみたが遂に彼は笑って答えず、ただ過去の苦しかった時代の思い出話を少しばかり語り聞かせてくれただけだ。それは当時、同志でもあった道子夫人と共に、組合運動の先頭に立った頃の、勇敢な闘争の物語りであった。その時の山崎道子夫人が人も知る参議院議員藤原道子女史であることは言うまでもない。

 これは勿論、後日談ではあるが、この大胆不敵な県知事は、やがて単身でキナバル山麓のケニンゴウ高原に分け入って、自ら県知事として現地に着任すると、旧英嶺当時の行政機構をそのまま一〇〇%に活用して県下に大号令を発し、西に東に縦横無尽の活躍を開始した。そして、この広大無辺なジャングルに蟠踞する最も剽悍なムルット族、イバン族、ドスン族等の群落をしっかりとその手中に収めて、物情騒然たる周囲の情勢下にもかかわらず、終戦の最後の日まで、吾が意の如く原住民を統率するという、離れ業を立派にやってのけたのである、おそらく北ボルネオ軍政史上最も魅惑的な威力を発揮したのは、実は彼山崎県知事であったかもしれない。
 もっともこのような実績については、熊野西海州長官や、稲川総務部長などの報告に基づいて判明したもので、ある時期にはアピーの州庁に転任するとよいとの風評も流れるほどであった。事実軍は、山崎氏につき実情を具して、陸軍省に申請した結果、晴れて司政官四等に叙するとの朗報に接した。その彼が参謀長の前で、涙を流して喜んだ事もあったという。
 私はこれを聞いた時、彼の転向は本物であったのではないかと、そう思ったのである。その時の彼の言葉は、真実に溢れていたようだ。
 「私もお蔭で、陽の目を見ることが出来て漸く親不幸のつぐないをしました。故郷の父は、私の為に村八分となってやむなく御殿場にちっ居をしていましたが、今回の採用により晴れてその父に喜びを報告できます」彼はその時はじめて、内地を脱出して、ボルネオまで密航した当時の真相を参謀長の前に語ったそうである。

ブルネイ王国

 ブルネイ警備隊と県警察の一隊に先導されて、参謀長はゆっくりとサルタンの居城に向かって歩を進めて行った。ブルネイは河のほとりにある小さな町ではあるが、とにかく一通りの施設を整えた一国の首都である。さすがにそう思って見ると、どことなくさっばりとした一種の威厳のようなものが感じられる。住民はその殆んどがマライ人で、我々を歓迎する態度にも、何やら親しみやすいムードが漂っている。その点はミリーなどよりか、確かに気持ちがよい。
 サルタンの王城は町の中央部の丘の上にあって、王宮の構えに近い建物ではあるが、極めて質素な館である。私は少しばかりアテがはずれたような気がした。
 サルタンは城門の所まで我々の一行を出迎えて、参謀長に対して極めて丁寧に挨拶をした。小なりと雖も、これは一国の元首のお出迎えである。私は心の中で、恰幅のよい丸顔の王様の姿を想像していたが、我々の前に進み出たこのマホメットラヂャーは、中年の小柄な体格で、細面に色眼鏡をかけた、割合に貫録とか重昧というよぅなものを感じさせない人柄のように思われた。表現を変えるなら、一見したところ丁度時の満州国皇帝を一とまわり小さくしたよぅな感じの王様である。彼の僅かな威厳といえば、鼻下の八字髭と黒眼鏡だけが、その面目を僅かに保っている程度である。然し伝え聞くところによれば、この王様はボルネオでは、最も名高い富豪の一人ということになっている。
 参謀長は最初のうち一応の礼をもって挨拶を交わしていたが、やがて席につくと毅然とした態度ではっきりと物を言いほじめた。日本軍の宣言は、矢張り勝者のくだす断の感じで、極めてきびしいものであった。

 「ボルネオ守備軍は、明らかに此の地を占領して茲に軍政を施行する」ことを宣言すると共に「セリヤの油田は勿論全面的に接収され、作戦用にのみ使用される。従って、サルタンの所有していた今までの権利に対しては、一応は補償されるも従来のような訳にはいかない」旨をはっきりと申し渡したのである。
 彼は青ざめて小さくうなずいていた。私は何だか妙な気持ちになって、何となく彼のしおれた姿に同情をしていたが、そのうちにサルタンは次第におちつきを取りもどしてくると、前以て予想していたものとみえて、むしろさっばりとした態度であっさりその旨を諒承した。勿論それは、一種のカムフラージュであったのかもしれない。

 やがて彼は我々一行をもてなすために、昼食会を催してくれることになった。心の中ではさぞかし〝泥棒に追銭″とでも思っていたことであろう。食卓は、洋食の方式に飾られ、食器はすべて銀製のものが揃えてあった。これは英国から取り寄せたものだということである。その味は兎も角として次々と出される料理の数は、一応順序通りに揃っていた。食卓での話題は専らサルタン自身の身の上話に終始され、その大半は英国に対する悪口でしめられていた。彼はかつて、英国の石油会社との間に結ばれた契約を説明しながら、言外には参謀長に対して、ブルネイ対策を若干でも緩和しょうと考えているらしく、盛んに温情主義をふりまわしていた。参謀長はただ笑ってうなずくのみで、遂に答えなかった。

然し最後になってから、ブルネイに対する軍の方針として「王家の生活は困らぬように出来るだけ善処をする」「軍政はすべて県知事を通じて実施し、警備はすべて守備隊がその責任を持つ」「但し宗教的な行事については従来通り、王家と国民との間で自由に実施してもさしつかえない」等の各種事項を明確に伝えると共に、国民の生活を安定させるために「まずラブアン島の飛行場が完成するまで、なるべく多くの労務者を同島に送ること。更に引き続いて、ブルネイ付近にも連絡のための空港を造る計画があること。それ等の労賃は、必ず今迄よりは優遇することを約束する」よってサルタンはこれ等の事項を広く国民に伝えて、進んで協力をするよう、強く要請したのである。
 宴会が終わってから、宮殿の前庭で、参謀長と共に記念撮影に収まったサルタンの表情は、心なしかほっとしたような安心感が現われているように思われた。

ポンチャナック

 我々は、このレドの飛行場に準備された自動車でポンチャナックへ向かうことになった。
 道中は、小さな丘陵が断続する谷間を縫って海岸近くまでたどり着き、そこから坦々たるアスファルトの街道を走ること二時間余り、沿道はすべて榔子の林が連なっている。オランダの植民地政策が如何に徹底していたか、この光景は正しく驚異に値するような広大な農園風景である。ただ、戦争の為に熟した果実がそのままになつており、至る所に山積みにされて、すでに芽を出しているのを見ると、全く惜しいものだと思った。何等かの方法で内地へ還送出来ぬものかと、語り合ったのである。ポンチャナックの町はずれに着くと、支部長の和泉中佐が出迎えてくれた。今私達の目の前にポンチャナックの町が見えて来た。

この町は、クチンの雰囲気にとてもよく似かよったところがある。人口約四万五千、過半数はマライ人であるが、華僑、印度人、タイ人、及び日本人と頗る多彩で、まるで人種の展覧会のような町だ。それにこれ等の混血児も混じって、雑然としている有様は甚だ国際的である。殊に日本人の進出はその昔から極めて積極的で、かつて天草や長崎から南へ出て来た日本の婦人連が、いつの間にか原住民のなかへ融けこんで、同化している者が数多くいるようだ。然し、たとえ今我々が彼女等と出会ったとしても、一見しただけでは、それと見分けることは極めてむずかしい。彼女等は今では、ボルネオの人になり切る為に、遠く離れたかっての故国を、強いて忘れようと努めているようである。

 軍政支部に到着して、和泉中佐の報告を承ることになった。そのなかで特に私の心を唆ったのは、サルタンの長男いわゆる王子は、第二夫人から生まれたもので、その外にも四名の子女があるが、いずれも同腹とのこと、第一夫人には子宝がない。この第二夫人こそは、正しく日本の婦人であって、玉の輿に乗るまでの数奇の物語りがあるとのことである。私はその第二夫人に会いたいものだと思った。幸いにしてその日の午後、カプアス河の対岸に居城を構えているサルタンを訪問することになり、河岸の桟橋に準備された差し廻しのボートでこの河を渡った。カプアス河は、ボルネオ随一の大河である。向う岸には、侍従武官と名乗る人が出迎えて案内をしてくれたが、整列した軍楽隊が当時流行の軍歌ーー〝見よ東海の空明けて″ーーを奏しながら先達をつとめて行くのには、少々くすぐつたい感じがした。三〇〇米ほどの両側には王宮の番兵が堵列して、捧げ銃をするといった案配である。

 途中で右折をしてだらだら坂を登ると、目の前に王宮が見えて来た。構造形式は小規模ながら仲々立派で、その遠景はあたかも京都の御所をほうふつとするものがある。私はこの意外な光景に思わず目を見張って驚いた。左近の桜、右近の橘に似た樹も茂っている。その樹の側に、サルタンが二人の夫人を伴って待ちうけていた。和泉中佐は参謀長にサルタンを紹介して、二人の夫人にも引き合わせた。その一人が第二夫人であろう。色はやや浅黒い感じであるが、態度は落ち着いていて、さすがに王妃の貰録は十分である。
 私はここで、先に訪問したブルネイのサルタンと比較して、目の前の彼のことを考えてみた。ブルネイはマライ人の王国として、政治的な力と、宗教的な意味とを兼ね備えたいわば独立国であった。然しポンチャナックのサルタンは、専らこの町の周辺に居住する多くのマライ人達を集めて、宗教的な中心となっているにすぎない。即ちこのサルタンの場合は、心の故郷のような役割を持っているのである。更にまたブルネイ王国は、セリヤの油田から上がってくる多額の税金で賄われていたはずなので、当然大金持と考えるべきであろう。然しそれにしても、ブルネイのお城も彼の生活も、何だかとても貧弱に見えたのは、一体どうした事であろうか。それに比べると、今我々の目の前に聳えているポンチャナックの城廓は誠に立派である。カプアス河の三角州には、小高い丘がこんもりと隆起しているが、その丘がそのままサルタンの居城になっているのだ。この王宮には、小さいながらお伽話に出てくるような綺麗な城門もあり、竜玉の飾り絵がいくつも並んでいて、支那風の朱が美しくちりばめられてある。我々の一行が更に歩を進めて行くと、正面階段の両側には、王子をはじめサルタン家の人々や、司教を勤める男女の群れが居並んでいる。婦人連はきらびやかな盛装で、あたかも竜宮の絵巻物をでも繰りひろげたような光景である。今日は我々五名だけで、宣伝班を伴わなかったのが甚だ残念である。

参謀長は王宮の宮殿に招じ入れられて、正式にサルタンと対面をした。この行事は短時間ですんだが、いよいよ夜に入って招宴ということになると、これは又仲々大がかりな大夜会が催されることになった。白と赤のブドウ酒に、ジャンパンが抜かれるという豪華な感じである。又、この夜会での第二夫人は、先程とはさらりと変わって見事なホステス振りを示した。その態度も堂々として立派である。私は目の前の王妃を見ているとその人柄にうたれるような感じがした。夫人の日本名は「木原はな」といい、出身地は長崎とのみ伺ったことを覚えている。

 その夜のもてなしは、心から我々を歓待していることが、よくその表情に現われていた。思えば今頃は果たして、サルタン夫妻はどのような境遇でおられるだろうかと、考えることがある。
 翌朝になって支部長から意見が出て「これ程のもてなしはいまだかつてないことで、日本軍としては何等かの謝意を表する必要がある」とあって、参謀長は取り敢えず、要望された一万ギルダー(当時としては決して少額ではない)を目録にしてサルタンに贈与することを決めて、その面目を立てる措置を講じたのである。
 ところで私が感心したのは王子が非常に立派な若者で、我々に対しても殊の外に親密な態度であったことだ。その容貌も日本人と少しも変わらず、彼は日本人を母に持っていることを心から誇りにしている様子であった。仕事に対しても頗る積極的で、自ら進んで軍政部とよく連絡して協力するので、支部長は大切な人物として将来はこの王子に、軍政部顧問の地位を与えて民心の把握に役立てたいと考えているようである。けだし当然のことと思われた。彼はこの時すでにオランダのハーグ大学を卒業して、メッカへも参座し、所定の修業を終わって帰って来たとのことである。現在のサルタンにとって、立派な後継者が育っている事も、彼のゆったりとした気持ちに十分プラスしているように思われた。

 さて、翌日は市内の視察に当てられていた。この街は、今から十数年程前に大火にあい、全市の大半を焼失して、当時死傷者数知れずという惨状を呈した。商店は倒産する者が続出して、一時は壊滅するかに見えたのであるが、現在では勿論立派に復興して、街並みも綺麗に整っている。またこの街は、その中央部に赤道線が通っている事でも有名である。
 また街頭には、アポタン売りの女達が灯影に店をひろげて「さあさあアポタンを召しませ…⊥としきりに通りすがりの客を呼んでいる。アポタンは薄桃色をした刺のある果実で、味は竜眼に似て甘酸っぱく、仲々美味しい風味を持っている。この女達の情熱的な眼差しや、露わな班拍色の腕はあくまでも健康的で、我々を悩ますような風情に溢れている。娯楽といえばポンチャナックの街には、映画館が五つもあるという。
 我々が移り住むことになったクチンでさえも、映画館はただ一館あるだけだ。しかもその五つの映画館は、毎夜のように満員であるという。マライ人がいかに享楽的で、遊び好きな性格であるかがこれを見てもよくわかる。確かにその頃の彼等の生活は、その毎日が遊惰な時間割で組まれていた。しからば彼等の働く目標といえば、それはただ回教徒の聖都と言われるメッカヘ、一日も早く参拝に行くことである。そのメッカで洗礼を受けて帰って来ると、彼等は現地でハヂの称号を授けられ、白いトルコ帽を被り、幅をきかせる事ができるのだそうだ。当時のマライ人にとってはそれが唯一の人生であったのだ。

 ともかく彼等の全生活は、総て回教の教義によって支配されている。
 「まず豚は絶対に喰べない。酒は表向きは飲むことができない。また金を貸しても利子を取ってはならない」となると、自分達は一休何の欲望を目あてにして生きているのか、時々訳がわからなくなることがあるそうだ。そこで彼等は、勢い享楽的にならぎるを得なくなる。彼等はなるべく楽をしながら、その日その日を事なく暮らして、うまいものを腹一杯食べて、金がたまると金歯でも入れて、あまり苦労などはせずに官職にでもついたら、やがて位階勲等を身につける事位が、唯一の成功と考えているようである。勿論ポンチャナックでも、街の経済は総て華僑の手に握られている。マライ人の怠惰な生活意欲に比べると、華僑の勤勉さば全く違った世界の人達のように思われる。例えば、ボルネオのどんな奥地へ行っても、必ず華僑の店がある。その逞しい生活力は、いつの間にか原住民の中へ深く融け込んでいて、総ての物資は、必ず彼等の手を通って流れて行くようになっている。それにしても、この浸透力と、粘着力と、創造力を民族的な性格とした彼等の行く処には、日本人など到底及びもつかないような繁栄をもたらしているのを見ると、全く驚き入ったことであると言えよう。

 ところで最後に私は、サルタンの財源は何かと質問をしたところ、彼はその昔から広大な農園を経営しているとのことを知った。またその副業としては、この地方から産出するダイヤモンドの採掘権を所有しているのだそうだ。その主要産地はカプアス河の各支流であって、我々が先に着陸したレド飛行場から椰子畠農園に到る谷間の地域もまたその一部と聞いて成程と思った。そう言われてみると、あの山間の小流に沢山な裸ん坊が、腰まで水につかって、流れのなかに点々と突っ立っている異様な姿を見たことを思い出す。総勢およそ二〇〇人以上もいたであろうか、時々首まで水につかって暑さをしのぐ者があるかと思うと、中には河へ首を突き込んで頻りに足元を掻き回している者もいる。見たところでは何をしているのかさっばり見当もつかぬ風景であるが、それが原石の採取作業であったのだ。この連中は流れの中に両足を構えて、悠然と立っている。それは素足の足型が流れて来る小粒のダイヤを一カ所に集めるのに、最も適していると信じられているからだ。一時間に一遍位河に首を突っ込んで足元の砂を掬い上げ、そのザルの中からダイヤを探し出すのが、彼等の採石方法である。全くもって呑気至極な商売だ。私はこの河で拾い上げられた何個かのダイヤの原石を見せてもらったが、その大半は殆んど工業用のダイヤであった。
 然したまには、良質の極大物もまじっているそうだ。現に、世界有数の名ダイヤとして知られている逸品もあるということであった。

クチン風景

 クチンは河の町である。干満の差の極めてはげしいこの河岸にある港町は、今朝から入船と出船がひきも切らず、桟橋には野戦倉庫の軍需品が山のようにうず高く積まれている。おそらくこの静かな町が、今日のようにざわめきだしたのは、灘の軍司令部が設置され、軍令軍政の中心地となったためであろう。
 クチンの桟橋に接岸できる船は千屯までで、それ以上の船は、三粁ばかり下流のプトンガンで荷役をしなければならない。桟橋と並んでいる工場は、近代的な設備を持った唯一のもので、主として船.舶の修理用として建造されており、そのドックは干満の差を利用して満水と排水とが、容易にできるように設計されてある。桟橋付近の水深は極めて深く、水は気味の悪い程よどんでいて、褐色のうねりがゆったりと流れている。サラワク河は南方特有の大きなSの字型の彎曲が、いたる処でくねくねとして、熱帯地独特の豊かな河波が、両岸のマングローブの根元を洗っているあたり、何がひそんでいるのか、油断のならぬような風景である。
 此処クチンは、サラワク河口から遡航すること約一時間、その両岸一帯のジャングルは、猿や鰐の多いことでもまた有名な地域である。桟橋に立って向う岸の丘を見上げると、旧サラワクの「アスタナ」王宮が緑のなかに美しく構えている。今やそれがそのまま軍司令官の官邸である。王宮の周囲は全く緑一色に塗りこめられて、あたりを取りまく衛兵隊の兵舎などは、丘陵のかげに巧みにかくされ、この建物の美しさを損じないように配慮されてある。

 古典で壮重なこの王宮の姿は、原地の伝統をそのまま生かしてあるので、周囲の風景のなかにすっぽりと溶けこんでいて、クチンの町とも実によく調和している。これはおそらくボルネオ中で、最も上品な建物の一つと言ってもよい。さればこのすばらしい王宮の住み心地は、前田軍司令官もさぞかし、満足しておられることであろう。
 クチンは新しい軍都となった。埠頭の前の旧政庁の建物が、今や我々の軍司令部である。墨の色も真新しい、灘軍司令部の表札が、正門の石柱にどっかりとかかっていて、何もかもが今はじまったばかりのような、あわただしさだ。クチンの町には、今新しい軍部としての活気があたり一面にみなぎっている。私はその真新しい軍司令部の表玄関へばじめて足を踏み入れて行った。この建物は丁度クチンの町の中央部にあって、昔からサラワク政治の中心であったのだろうが、今では北ボルネオの心臓部となったわけである。熱帯の政庁らしく真っ四角な構造で、白塗りの簡素な建物である。
 大本営の高樹参謀宮殿下(三笠宮)が、南方戦線の視察に出張され、その一日をクチンで過ごされることになった。著名人で、此処ボルネオに足跡を残した人は極めて稀れであるが、そのなかでも屈指の人としては、東条総理、青木大東亜大臣、盟邦ドイツのスターマ一大使、ビルマのバーモア、印度のチャンドラボース位のものである。それなのに、直宮様が危険も意とせず、このボルネオの戦場を視察されると承って、軍民をあげて感激したものである。

軍司令官は、殿下の御旅情を慰めるためにあれこれと心を砕いておられたのであろう。私に向かって、鰐を一匹生捕りに出来ないかとの御希望を承った。こういう事になると、飛行班の連中は、本職などは放っておいても、すぐ夢中になるような連中ばかりである。早速下里曹長や小林忠君などがまっ先に立って、近くのダイヤカンポンへ出かけ、鰐狩りの名人からその妙法を教授してもらうことになった。
 彼等は元来、鰐を害獣とは考えていない。否むしろ河の親爺と称して、尊敬している位であるが、一度家畜や人間を襲うと、その鰐には悪魔が乗り移ったものとして、村をあげてこれを退治する習慣がある。折もよく飛行班の宿舎に近い屠殺場で豚が三頭程襲われたので、それを理由にしてこの河の主を退治しよう、という相談がまとまったらしい。鰐の習性は、一度獲物を頂戴した所へは、必ずまた現われて来るのだそうだ。この老人から、鰐釣り用の特殊な釣り針と、強い釣り糸を譲り受けて、屠殺場の流れ口へこれを仕掛けることになった。餌は生きた鶏を使って、数本の釣り針を仕掛け、鰐がこれをバクリと喰え込むと、釣り糸がするすると伸びて行く仕掛けである。これで準備はすべてOKで、あとは鰐君の食欲を待つばかりと相成った。かくしてサラワク河の怪物鰐は見事に我々の手によって引き揚げられ、参謀宮殿下に供覧を賜わったのみか、その日の夕食にはビフテキとなって、一同に試食されることになったのである。これらはまだよき時代における、クチンの町の風景の数々である。

ゼッセルトン

 ゼッセルトンは何となくあっさりとした町である。ここは旧英領北ボルネオの西海岸に位置する要衝であり、また良港である。港の前面に散在する数個の島々が丁度防波堤のようを役目をしている。桟橋は小さいながら水深は極めて深く、大きな船も接岸出来るのでいわゆる天然の良港といえよう。この町の地形は日本の神戸によく似ている。町のうしろには小高い丘が迫っていて、その山麓が細長い一本道の町並みになっている。港に近い付近に三〇〇ケ程の華台が群がっているが、その外は道筋に沿って家がまばらである。そして白人達の家や政庁関係の官舎は、殆んどすべてが背後の山腹に点在している。

 この山腹から見下す港町の風景は仲々美しい。港の景観も町の性格も丁度神戸を小さく縮めたような感じである。参謀長は州庁舎の広間で状況報告を聞いてから、裏山にある州長官の官舎に案内をされた。それはかつての白人達の生活を物語るような立派な構えの建物で、眼下には広々としたボルネオ海が果てしなく広がっていた。この町の空気はクチンに比べると幾分乾いた感じがする。ゼッセルトン飛行場の予定地は、町の中心から三哩程南へ離れた「バトーテガ」と呼ばれる海岸地区が選ばれてあった。このあたりは一面の湿地帯である。おそらく此処の工事もまた砂地のためにミリーと全く同じような工法で、舗装をする必要がありそうだ。付近の地形は矢張り小高い丘が間近に迫っているので、この山に沿った草原には全長一、二〇〇米の滑走路が一本取れる程度であろう。ゼッセルトンはその奥地が極めて深く緑の大草原には勇敢なドスン族が広い地域にわたって住んでいるという。従って工事には人を欠かないであろうとの報告であった。

 この細長い小さな港町が、やがて第三十七軍司令部の所在地となり、昭和二十年の六月この地を中心にして彼我の間に壮烈なる激戦が展開される。そのあげく我々にとっては、終世忘れられぬ俘虜時代がやって来ることになるのであるが、当時は勿論神ならぬ身の知る由もないことであった。
 いずれにしても、我々にとってゼッセルトンの思い出は「乾いた町、戦さの町、そして屈辱の町」とでも言うべきであろう。「乾いた町」といえば、この町のかつての原語は、アピ(火の町)と呼ばれていたそうである。北ボルネオの大きな屋根と言われるキナバル山が、その昔から「生命の山」「火の山」とたたえられているところから、人々はその麓にある町を「火の町」と呼んだのであろう。
 そのアピの名称は、白人達によっていつの頃からか初代総督の名にちなんでゼッセルトンと呼ばれるようになっていた。現在は更にコタキナバルと呼び日本観事館も駐在している。

クダット

 その日の昼頃、レジャン号はクダットの桟橋に到着した。ここはボルネオ最北端の小さな港町である。それは町といっても県庁があるだけの小さな部落にすぎないが、眼前にはフィリピン群島の南端パラワン島を望む位置にあり、物資の交流には欠くことのできぬ港である。それのみか、マルーヅ湾の西岸に位するクダットは、この湾の入口にあるバングエイ島と共に、我が日本水産界のボルネオに於ける拠点としてかつて我々の先駆者達が、営々と築き上げた南方漁業の遠征根拠地である。それはあたかも遠い昔の倭寇のあとを引き継ぐように、海の男達が造りあげた北ボルネオの日本人町の一つである。

 今から二十年程前に、日本水産の系列にあるボルネオ水産が、サンダカンの英総督との間に協定を結んで、その権利を認められた日本漁業の海域になっている。勿論占領下の今日では、西海州クダット県庁の所在地ということになる。その桟橋には安井県知事が元気な姿で我々一行を出迎えてくれた。県知事の外には警察署長と民政通信の技師と数名の職員がこの小さな県庁の全員である。警備隊は今のところ一ケ小隊程度が駐留するにすぎない。町の人口は約三〇〇位だが、早朝魚市が開く頃ともなれば奥の部落から多くのドスン族や、スルー族が群がって来るとのことである。クダットは魚の町であり、またスルー族の町でもある。この種族は北部の海岸一帯に棲む漁族といわれ一応魚取りを生業としているが、その昔八幡船の旗印をもってボルネオ海を横行した倭寇のように時とするとすさまじい海賊に変じて船や部落を襲うこともやりかねない。

バングエイ島

 参謀長の一行はその日の夕刻クダットをあとにし、州長官と県知事の案内でいよいよ南方漁業の根拠地として知られたバングエイ島の桟橋に到着した。此処はヌルーヅ湾頭に位置する小島でクダットから海路一時間の距離にある。バングエイ島は懐かしい日本人の村だ。そこには、我々の先輩が築き上げた立派な港湾施設や、水産倉庫や魚の処理工場などの設備が、丘の麓に円弧を画いて並んでいる。そして従業員の社宅は、丘の中腹に点々と散在している。この日島の人々は、馬奈木参謀長を歓迎するために、この島のお盆の催しをそのままに盆踊りの小意気な装いで、港の広場に全員が集まっていた。老人がいる、若者がいる、娘達がいる、そして元気な子供達が大喜びで群がっている。内地の港町に着いたのと少しも変わらぬような夏祭りの華々しい装いが、今忽然と我々の目の前に現われたのである。それは、毎夜のように夢にまで見ている懐かしい内地の風景そのままだ。どの顔もどの顔も、ニコニコと笑っている。

 私達はしばらくの間呆然としてその場に立ちつくしていた。考えてみると、この人達は半年前に日本軍がボルネオ島を占領するまでは全員が捕えられて、サンダカンの近くのベルハラ島に収容されていたのだ。そのベルハラ島には、今ではこの人達を捕えた白人達が俘虜となって収容されている。世の有為転変は全く図り知れぬものがあるではないか。今宵ここに集まった人々の顔には、その当時の陰などはどこにも見受けられないほど、我が世の春を喜び合っている姿であった。私はいつの間にか涙ぐんでいたようだ。それにしてもバングエイ島の人々の仕事は、実に立派である。日本水産界の最新技術をもって、世界に誇る漁業日本を代表する強者共が、ボルネオ海からセレベス海にわたる海の宝庫を縦横無尽に征服して、これをバングエイ島に水揚げし、北ボルネオの市場をあまねくうるおしている。そしてその二次製品は、広く東南アジアに向かって積み出されているのである。遠い昔からこの島の人達はすでに日本を代表して、長い間現地の為に働いていた勇敢な人々である。

サンダカン

 今朝早くバングエイを出航して、午後の二時には現在地サンダカンの埠頭に到着していたのだ。ここは旧英領北ボルネオ(現在のサバ州)の首都である。
 この町は我々にとっては、すでに「風下の国」の物語りのなかで最もなじみ深い所として、アグネスキース夫人も心の古里と述べているように風光明媚な港町である。西海州のゼッセルトンが神戸の町によく似ているように、サンダカンは丁度香港を小さくしたような地形なので、土地の華僑達もこの町を〝小香港〟と呼んでいるようだ。
 この町の港湾設備は北ボルネオではまず随一であろう。巨船が悠々と岩壁に横着け出来るのは、今のところこの港だけかもしれない。下町の規模はゼッセルトンに比べて遥かに広く、華台もクチン以上に繁華である。この町の場合もまた、白人達の住居はすべて背後の山腹に集められ、点々として美しい邸宅が散在している。石垣と道路と緑の大木とが、巧みにさくそうしているこの急坂の裏山は、極めて豪華な別荘地帯そのものだ。それは海から仰いでも山腹から眺めても、確かに絵のような絶景である。

 さすがに英国がこの地に百年の歴史をかけて築き上げただけあって、この町が英国伝統の豊かな情緒を盛りあげつつ、現地政治の中心的存在として育った事を、如実に物語っている。
 そしてそれら白人達の生活の中核になっていたのが、この山頂に近い所に準える旧総督官邸ということになるのであろう。これはまた、すばらしく雄大な構想をもって建てられた木造の大建築である。正にトアンブッサールハウスの名に恥じないような、気品と豪華さを備えている。私はその夜、東海州土木課長の職にある門老人の案内で、サンダカンの情緒あふれる風物をそこ此処と巡り歩いてみた。この町には、確かに隅々まで英国人の強い体臭がしみついている。この臭いはおそらく占領下の五年や十年では、そう簡単に抜け切れるものではあるまいと思われた。

一九四二年(昭和十七年)八月十九日の朝、我々は旧総督官邸の二階で目をさました。この建物は現在隈部長官の官邸と、迎賓館とを兼ねて僅かに昔日の面影を留めているが、かつてアグネスキースの「風下の国」の物語りでは、常にサンダカン社交会の舞台になっていたという。彼女はこの建物に限りない愛情を抱いていたものとみえて、サンダカンの日常の茶飯事から年中行事に到るまで、到る所に必ずこの官邸の内外が登場する。荘麗な舞踏会の描写や、彼女と総督との様々な会話や、小さな事件のあとさきなどにも、きまって官邸の一部が現われて来る。

 おそらくこの町で起こった白人間の出来事は、最後にはすべてこの広間で処理されていたのであろう。私は宵から翌朝にかけて「風下の国」のある日を思い起こしながら、官邸の内外を隈なく歩いてみた。いつの間にか自分自身がこの物語りのなかに登場している脇役のような興奮を交えながらそこ此処を興味深く見歩いたのである。今になって考えてみると、彼女が「風下の国」の後編として戦後に書き綴った「三人は帰った」の物語りもまた、矢張りこの官邸の芝生を荒らす日本兵の軍靴の場面からはじめられているのだ。・・・

 その日の我々の行程は、官邸から一〇〇米程下の道端に建てられた、アグネスキースの家からはじめられた。それはバンガロー風の質素な建物で、風通しを考えて木陰を巧みに利用した、快適な構造をしていた。私は彼女が好んで使用していたと言われる書斎に入って見て、ここで風土記「風下の国」が書かれた事を考えながら、そのことに限りない興味を覚えた。今やその人は彼女の夫や息子と共に、この沖合にあるベルハラ島に収容されているという。それらの白人達は、彼等が常日頃から蔑んでいた東洋鬼の軍隊の為に今では総ての自由を奪われているのである。高遠な理想も高慢な文学も、戦争という破壊の前には一片のチリのように霧散してしまうのであろう。そう思って見渡すと、この山腹から一望のもとにある下町は、まだひっそりとして、なぜか死んだように静まりかえっている。それから我々は、車を連ねてこの高台の奥地に選定された飛行場の予定地を視察することになった。サンダカン飛行場の設定地は、門土木課長によってすでにある程度の測量が進められており、山腹から次の山腹にかけて、一、四〇〇米に及ぶ主滑走路の構想が出来上がっていた。

タワオ

 我々はその日の夕刻、最後の訪問地であるタワオの港へ到着した。
 陸軍占領地域の北ボルネオでは、クチンから最も遠い所にあるのがこのタワオである。海路をおよそ二、000粁も離れたこの港町は、その昔から我々日本人にとっては最も懐かしい所であり、古来我が同胞によって開拓された由緒の深い町である。海から見たタワオの眺めは静かな漁村の感じだが、左手に続く低いティブルの台地がその名の如く遥かに裾を引いているあたりに、戦前から日産農林をはじめ、有力な事業会社が進出して、苦心経営を続けた農園が散在する。セガマやモステンの農場がそれである。タワオの奥地に広大な規模の開拓部落を築きあげて、南進日本の意気を天下に示した先人達の努力が、今我々一行の前にその姿を現わそうとしている。桟橋に立ってあたりを見渡すと、確かに此処は日本人の町と呼ばれている地域であることが、我々の肌にも強く感ぜられる。

 この町の飛行場は、その設定地の選定が仲々むずかしく、我々は翌朝二カ所の候補地を比較検討した結果、町はずれの丘の一角をけずり取って、次の丘に連繋することによって、一応恒風に合わせた一、000米程度の滑走路を造ることが、最も適当であろうという結論に達した。然しこの土木工事は、相当大規模なものになることが予想されるので、その指導者の選定には十分に慎重を要するものと思われた。

 その日の午後我々は、日産農林の前田社長の案内で、同社の苦心経営になるティプル台地のセガマ農園を訪問することになった。先日はバングエイ島に立ち寄って、内地の香りを懐かしんだが、今またこの農園を訪れて、海外に雄飛する同胞の歓迎陣に迎えられるとは、誠に嬉しい限りである。
 農場に働く人達のたくましい様子や、自信に満ちた作業場を見学していると、此処が南方の前線であることも忘れて、我々はまるで故郷の村にでも帰ったような気易さを覚える。それは心楽しい現地訪問の背であった。私は夕食後のひと時、周囲に広がる果樹園の小道を歩きながら、この農場を開拓した先駆者ともいうべき植松主任から、開拓当初の思い出話をいろいろと聞かせてもらった。野猿の群れに襲われた話や、錦蛇の洞窟を探検した話や、鰐の話、野牛の話、そして象の話など北ボルネオの未開の世界をあまねく知りつくしている山男の経験談はいかにも生々しくて興味深く、私は次々と話をせがんでは、時のたつのも忘れて聞きほれていた。明るい月の光りの下に、パパイヤの大きな実がずらりと並んで、枝もたわわに実っている道端の風景は、此処が戦場とは思われないような平和そのものの風情である。

 その夜の植松主任の話のなかには、時々アグネスキース夫人の消息が出て来るのもまた興味深いことであった。彼の説明によると、キース夫人の人柄は、質素で賢明な農林技師の妻としての面影をよく伝えていて、私は何となく好ましい印象を受けた。彼は時々キース夫人から依頼されてティダルの奥地を案内する役目を引き受けていたようである。そして彼は現在の夫人の苦しい境遇についても気を配っており、繰り返してその善処方を要望していた。

このあたりから、南ボルネオの境界線にかけての半島一帯はボルネオでも有数な野獣の繁殖地として、世に知られた地域であるという。殊に北ボルネオでは唯一の野象の棲息地で、その群れが時々人家の近くにまで姿を現わすことがあるとのことであった。現在では三十頭近くの群れが、ティブルの奥地を横行しているらしく、その性格が極めて獰猛で手に負えぬとも語っていた。

 さて、この日はすべての行事が終了したので、我々は一日の休養日を与えられることになった。そこでタワオ県知事の発案で、近くにあるタワオ温泉へ案内をされた。許されたこの一日をゆっくりと湯につかって、旅の疲れを取り去ろうというのである。キナバル山が火の山と言われ、火山に類する山だとは聞いていたが、それにしても北ボルネオには不思議に温泉がない。ところがこのタワオの奥地にたった一カ所だけ、すばらしい温泉が湧いていようとは、全く思いもよらぬことであった。それはジャングルのなかの谷川に近い岩間から、極めて豊富な熱湯がコンコンと湧き出しているのだ。湯口の周囲は岩で囲まれていて、側の谷川の水と入りまじって、自然の湯壺が巧みに設けられてある。そこで湯治の客は、それぞれの温度を選んで湯につかることが出来るようになっている。我々は県知事の心使いで全員が浴衣に着がえて、今日一日をのびのびと、この天然の温泉につかることになった。湯舟のなかで手足を伸ばしながら、ふとその時私の胸に、ふるさとの山奥にある渋温泉の懐かしいい思出が絵のように浮かんで来た。そして思わず下手な句が口をついて出てきた。
 〝この暑さ 木まで日かげが欲しそうな〝 〝旅に来てふるさとの湯を思いけり〝
仰げばそびえ立つ木の間がくれの大空に、八月のボルネオの雲が一つぽっかりと綿のように浮かんでいる。

日本人の後裔

 北ボルネオの脊梁山脈に連なる広漠たる高原や果てしないジャングルを棲み家として、大河レジャンの上流地域をその勢力下におさめているイバン族の酋長は、当時すでにマライ人や華僑の経済力によって、逐次圧迫せられつつあり、それは恰も海の向こうで同じ運命にあると言われているアメリカインディアンの現状と何かよく似ているように思われる。「イバン族はその性獰猛にして日常狩をよくし、時に他領を侵しては首狩りを常習とす」と多くの風土記に話されてある如く、これがその頃の一般世人には、ボルネオの原住民に対する常識となっていたのだ。つまり彼等イバン族の実情は、事実上まだ誰にもよく知られてはいなかったのである。

 一九四三年(昭和十八年)二月のこと、私等の一行がシブの町を出発して、一〇〇粁の上流にあると言われるスララン部落に向かい、遡航を予定したその日は朝からカラリと晴れ渡っていた。
 それは静かなシブの朝である。昨夜来山脇軍司令官の宿舎を取り囲んで、物々しく警護の一夜を明かしていたイバン族の一隊は、早朝のうちに悉く姿を消して、あたりは綺麗にとり片付けられてある。朝早くから河に出た彼等の操る丸木舟は、もはや上流に向かって一斉に漕ぎはじめているらしい。やがて多くの人々に送られて、シブの桟橋を出航した私達の乗船白鳳丸(レジャン号)は、しばらくすると忽ちのうちに沢山な小舟にとりかこまれた。レジャン号を先導するもの、あとを追うもの、三々五々と連れ立って走り行くこの日の大河は、不思議な船団が前に後ろに掛け声も勇ましく、上流に向かってエッサエッサと遡航をはじめたのである。十二ノットの快速を誇る白鳳丸の周囲には延々一〇〇粁にわたって次々と無気味な歓声が、にぎやかに投げかけられて行く。

 「彼等は心から、軍司令官を歓迎しているようだ」
 「その彼等の真意は果たして何処にあるのか」私にはまだよく分ってはいなかったが、先程から酋長の娘ミクラの乗船が、すばらしい舟足で、絶えずレジャン号を先導しているのを見ると、それは少なくともイバン族が挙げて本日の訪問を大きな行事と考えている証拠であろう。それにしても、このあたりまでくると、レジャン河の両岸は誠にすばらしい眺めである。河口の付近で約四粁、シブの付近で約一粁の河幅も、遡航二時間も過ぎるとこのあたりの両岸は一望のうちに迫り来って、群がる巨木が力一杯に枝をかざしている。四〇米を遥かに越えるような見事なその梢は、何百年もの彼等の歴史をそのままに強く健やかに天に向かって誇っているような勇ましさである。両岸に連なる一面の巨木には、無数の鳥や獣が嬉々として群がっている。そのたくましい姿を眺めていると、正に生命の力に満ちあふれたような凄まじいまでの緑一色の壮観が無限にひろがり続いている感じである。

 シブを出航してから、やがて四時間がたった。水の上の愉快な船旅は、至極ゆるやかなレジャンの流れに逆らいながら、今予定の如く船路を終わろうとしている。我々は未知の国へ分け入るときの深い興味と、かすかな不安を心に感じつつ、刻一刻とイバンの本陣に向かって近づいて行ったのである。「スラランは素晴らしい丘陵地帯に建設されたイバン族の部落である」と語り伝える。千田長官の説明を聞くまでもなく、私達は今そのスラランの桟橋に近づいているのだ。彼等が独自の技で造りあげたこの桟橋は、素晴らしく頑丈そうだ。レジャン河の大彎曲の中央部にガッシリと突き出した岸壁には巨大な石垣と、根太いチークの井桁が巧みに組み合わされてある。その大桟橋の中央にイバン族の大酋長キャピタンガニーがただ一人、すっくと立っている。誠に達しい立派な姿である。彼は山脇軍司令官を一人で出迎えたいのであろうか。大酋長らしく、やや気取った態度で進み出た彼は、丁重に歓迎の辞を述べると、自ら軍司令官を案内して彼の一族である群衆の前に立った。

 見渡す所この広場を埋めつくした群衆は遥かに仰ぎ見る丘への道の両側に、延々と列をなしている。それは総勢およそ二、000にも及ぶかと思われるようなイバン族の大群である。私達は思いがけない大群衆の出迎えに、全く度胆を抜かれてしまった。桟橋に近く、粛然とたむろする老年者の一群は、おそらく各部落の長老達であろう。次に居並ぶ一群は、部落の実力者ともいうべき壮年層が約五〇〇位さすがに整然と並んでいる。それに続いて酋長の周囲を警護する青年親衛隊のメンバーが、武装部隊を編成して約五〇〇位豪然と威儀を正す。さすがにこの一隊は精悍な面構えの戦闘部隊である。彼等は私にとってはいずれも飛行場で顔見知りになった連中だ。最後に少年達の元気そうな群れが、ワンサワンサと顔を並べて、目を輝かせている。然し女達の姿といえば、酋長に従うミクラ以外は一人も見当たらない。どちらを向いても男ばかりの大群衆が、我々の周囲をひしひしと取り囲んでいるのである。誠に無気味な風景だ。話によると、これが貴人を迎える時のイバン族の風習であって、女達は目下のところでは専らご馳走作りが本業であるそうな。やがて私達は酋長の案内で、スラランの見晴らし台に立って、-望のもとに見渡せる部落の全景を眺めていた。それは極めて素朴な造りの家並みではあるが、かつて我々の祖先が古の都を建設した時の様子も、さぞかしこのような造りかと思われるような豪放な形をした共同家屋の大集団が、少なくとも五部落以上も遙かな山麓にかけて、点々と散在しているのが見える。しかもその一つ一つが外部に対して、それぞれ自然の防御態勢をとっているのもまた見事である。もしシブの町を水の都大阪に例えるならば、スララン部落は確かに丘陵の都、奈良にでも匹敵するのかもしれない。それにしても眼下一望のもとに建設されたこの素晴らしい眺めは、誠に雄大である。それは恰も一つの民族が、その発生の地に大きな集団を作って、力強く生活をしているといったような景観である。

 レジャン河は、この丘陵の彼方に大円弧を描いて悠々と流れている。また丘の彼方に続くジャングルは遥かにボルネオの脊梁山脈に連なっているのであろうか。遠く霞む緑の大波が空に消えるあたりに、それと思われる山脈の裾野原が連綿として、青味を帯びて見えるのも何か大草原のような、壮大な感じである。地味は頗る肥沃であり、馬も牛も数多く群がっている。おそらくイバン族はその昔あの脊梁山脈の懐中に育まれていたのであろうが、やがてのこと、南と北の二集団に分かれて前進を始め今日ボルネオの全土に浸透するまでに栄えて来たのであろう。その流れの一つが、即ちボルネオのこの地に強大な根をおろして、今や大酋長キャピタンガニーを頭目にした一族となったのであろう。彼等はレジャン河を交通機関として、北は遠くキナバル山の楚から、南はサラワクの全土にわたって、その勢力を伸長したものと思われる。そうだとすると、今我々が立っているこの丘陵こそは正しくイバン族にとっては、故郷の丘とでも言えるのであろう。ガニー酋長は、山脇軍司令官を招いて、この広大な眺めを一目見てもらいたかったものとみえる。彼は誇らしげにあたりを見まわしながら、説明をはじめた。

「イバンはこの丘を自分達の故郷の丘と呼んでいる。ボルネオ中に散在するどの部落の長老達も、年に一度は必ずこの丘に集まって来るのだ」と、そして彼自身もまた毎日この丘に登って自ら太陽を礼拝することを、日課の一つにしているとも語った。酋長の本陣はこの丘の中腹に聳える巨大な館である。そしてこの館の前の広場が、若者達の練兵場となり、また集会場ともなつている。その広さは悠に五〇〇米四方は十分にあろう。丘陵一帯はその大部分が見事な椰子園となっているが、丘の頂きはそのままに森林が残されてあり、このあたりは手入れがよく行き届いている。山頂の森林地帯は彼等にとって、いわゆる神域となっているようである。ガニー酋長は軍司令官のために、広場の一角に立派な貴賓館を新築して、予め今日の日に備えていた。今宵はその貴賓館の開館式ということにもなるらしい。

 夕暮れが静かにイバンの丘にやって来た。貴賓館の前には一段と高く広い敷台が造られてあり、今背の賓客達の席がそれぞれ設けられてある。そして盛大なイバンの宴会が、今はじまろうとしているのである。今宵の集まりは彼等にとっても記念すべき祭りの夜となるであろう。我々は今や、映画のなかのヒロインのような立場である。酋長はなぜか意識的にイバンの力を我々に誇示しようとしているようだ。かくして、おおらかな民族的な歌と踊りと音楽とが賑やかにはじめられた。それは丁度日本の村祭りなどともよく似かよったような、不思議な情緒がある。何かしら宗教的な雰囲気が漂うかと思うと次には戦いの前夜を思わせるような、豪快な出陣の舞が披露される。我々は全くその場の空気に押し流されてただ彼等のプログラムのままに従っているのみである。然し昼間の無気味な歓迎陣と違うところは、女や子供達の姿が圧倒的に多くなっていて、華やかな歓声があたりの夜をふるわせている点である。それがせめて私達に一種の安心感を与えてくれる。イバンの娘達はいずれも黒髪を長くたらして目がキラキラと輝いている。それが広場のかがり火に照り映えて、一種異様な美しさをかもし出している。一行のキャメラマンはこの一群をとらえて盛んにキャメラを廻しはじめた。軍司令官は絶えず温顔をたたえながら、時々酋長に何かを質問している様子である。

 やがてのこと、宴がまさにたけなわになった頃である。ガニー酋長は広場に向かってすっくと立ち上がると、何事かを指示するように右手を高く上げて新しい合図を与えた。すると広場の歓声が急にピタリと止んであたりには不思議な静けさがしみ渡って来た。宴会は今やクライマックスに達しようとしている。ガニー酋長の演出は確かに名優の演技のように絶えず我々の心をとらえて離さない。

 と、その時である。静かな宵のしじまを破るように、錆びた声の呪文のような響きが聞こえて来た。それは祈りの言葉にも似て、人々に何かを訴えているような、哀調を帯びた歌声であった。やがてこの巫女の歌声につれて、丘の上の林の中から燈火をかかげた武装の一隊が静かに広場へ入ってきた。先導には親衛隊長のハヤトーが立っている。続く青年隊の面々は、いずれもきらびやかな祭りの衣装を身につけていて何かを警護しているような様子である。我々は目を見張って、この曰くあり気な行列を眺めていたがふと山脇軍司令官が、驚いた様子でつぶやかれた。「あれは、日本の太刀と兜ではないか」これはどうしたことか。私達はその時この行列のなかに思いがけないものを発見して、全く胆をつぶすくらい驚いてしまった。酋長は黙ったままニコニコ笑っている。

 「これは一休どうしたことであろうか」今我々の前を行く行列の中央には、黄金造りの立派な太刀を腰に下げたミクラが、片手に高々と光り輝く八幡座の兜を捧げて、静かに広場の中央に向かって歩いて行くではないか。その姿は恰も古代の女将軍の如く、誠に天晴れな女丈夫振りである。巫女の歌声がまたひときわ高くなって来た。通訳の波多さんは、苦心惨胆してその意味を解いているが、仲々むずかしいようである。
 「イバンは年と共に栄えていた。丘の緑は色も濃く生い茂り、牛や馬は益々数を増して、部落の若者達は元気一杯に働いていた」「酋長には娘が一人だけあって、美しく育っていた。いずれは婿をとって此の部落の長となることに定められていた。イバンは栄えて、村は平和であった」
 「そんな或る日のことだ。ふいにスラランの桟橋に、大きな帆掛け船がやって来た。その帆には大きな字が書いてあり、武者達は椅麗な旗指し物をかかげていた。彼等はいずれもたくましい若者ばかりで、みんな鎧兜を身につけて、美しい太刀を持っていた。それは部落の人達が見たこともない立派なものであった」
 これこそ正しく、スララン部落の昔語りを唄う祭り歌である。それはアイヌの古歌にもある如く遠い昔の倭寇の頃の物語りであろう。彼等は丁度今宵の我々と全く同じようにかつてのある日、この部落を訪れた事があるに相違ない。

 「やがて日が経ち月が経っていった。そしてある日のこと、又もや一隻の帆掛け船がスラランへやって来た。すると先に来ていた大船の武者達は急に旅装を整えて、大将軍の命令一下この部落を去ることになった」
 「然し酋長の娘は、その頃すでに身寵っていた。そして部落の娘達の多くが、同じように身寵っていた。別れの日の桟橋には、娘達の泣き叫ぶ声が、いつまでもいつまでも続いていた」
 ガニー酋長はこの哀詞を帯びた古歌と共に、娘のミクラの捧げる兜の舞を、山脇軍司令官に是非とも見てもらいたかったのであろう。私はガニー酋長がなぜ山脇閣下を、この地に招待したのか、その本当の意味が漸くわかりかけてきた。「彼等はおそらく、自分達が日本人の後裔であることを堅く信じているのであろう」さて祭りの夜が終わりかけたところで、私は今宵の主賓である山脇軍司令官の身代わりとして、いつの間にか丘の頂きにある彼等の宝庫へ単身で泊まることになっていたのである。彼等の宝庫とは、武人を泊めるために設けられた首倉のことである。宴会が今終わろうとする頃、私は軍司令官からこの事を聞いて、思わずびっくり仰天した。

 「わしの代わりということになるので、内田参謀を指名したんだが、ガニー酋長は貴公の方がよいと言うのだ。まあ何事も経験だ、泊まって来給え」ということである。妙なところで酋長と知り合ったばっかりに、私は今宵山の頂きの首倉に泊まらなければならぬ羽目になってしまったらしい。あまり豪胆でもない私にとっては、これは誠に大変な役目である。もちろん彼等は現在では、首狩りなどはやってはいないが、長い歴史の年月が、彼等の首倉を次々と増していって、この丘の頂きには沢山の倉が並んでいるのだそうだ。私が泊まることになった建物は、その中で最も新しい大きな倉だということである。その夜私が、まんじりともしなかったことは、言うまでもないが、然し周囲を警戒する親衛隊の連中が、いずれも顔見知りであったのが、せめて私にとってはいくらかの慰めであった。床から天井にかけて無数に積み重ねられた無気味な「しゃれこうべ」の山のなかで、私は世にも情けない顔をして寝ていたようである。翌朝早く、首倉まで出迎えに来たミクラに従って、私は彼女の案内で、山頂の倉を次々と見せてもらった。その時語った彼女の言葉のなかに、私は世にも不思議なことを聞いたのである。「酋長の名前ガニーも、娘の名前のミクラも、苦から伝えられた日本人のものを、そのままに名乗っている」というのである。そして彼女は、父のガニーを「蟹」と書き、自らのミクラを「美久羅」と書いてみせたのである。私は彼女が地面に書いたその日本文字を見つめながら、この娘の整った顔形と、健康そうな肌や、乙女を象徴するような豊かな乳房を目の前にして、十四才の無邪気な娘盛りの彼女を改めて立派なものだなと思った。後日私はこれらの姓が、長崎から熊本にかけて、数多くあることを知ったのである。なお念のために記しておくが、ガニー大酋長の本名はイバンの王「キャピタンバハン」と言うのだそうだ。

ケニンゴウ物語り

 「ボルネオ守備軍司政宮西海州ケニンゴウ県知事山崎劒二」この肩書は彼の新しい大きな名刺に麗々しく印刷されてあった。一九四二年(暗和十七年)八月の末山崎県知事は着任地として指令されたケニンゴウ県庁の官舎で、記念すべきその第一日目の朝を迎えた。枕元の小机の上には昨日ゼッセルトンの州庁で手渡された彼の名刺と共に、道子夫人(現参議院議員藤原道子女史)と子供達の写真が、無雑作に置かれてある。今朝のケニンゴウ台地には、爽やかな涼風が吹いていた。ここはラブアン島やゼッセルトンに比べるとまるで別世界のような静けさだ。気持ちのよい朝の冷気が久し振りに内地の春を思い出させる。ここまで来ると、海抜一、000米の高原を渡る朝風は、遥かに二00粁の北方キナバル山の麓から、広いケニンゴウの台地をそよそよと渡って来るのであろう。とにかく今朝の寝ざめは至極快調である。彼は改めて大きく背伸びをすると、元気よくべッドの上に起き上がった。あたりはさすがに県知事の官舎だけあって、椅麗にとり片付けられてあり、確かにボルネオ上陸以来の好待遇である。

 「然しなんだか妙な気持ちだな」考えてみると現在の境遇は、彼が自ら進んで選んだ道とは申せ、次々と三転四転して誠に目まぐるしい変わり方である。内地を飛び出してからミリーへ着く迄の道中もいわば人生の裏町街道であった。これをくぐり抜けて遮二無二突っ走って来た終着の駅が、即ち此処ケニンゴウの県知事官舎ということになる。「彼は自分が自ら求めて今日まで歩んで来た道中を決して非合法とは思っていなかったが、然しなぜか大東亜戦争が勃発した頃から、今迄の自分の考え方が少しずつ変わって来たことに気がついた」即ち今日まで彼が信じて歩いて来た「自分の周囲だけの生活改善のための組合運動」が次第に何か物足らなくなってきたようだ。そしていつの間にか、もっと広い地域のアジアの人々の生活のなかえ思い切って飛び込んでみたいような、激しい衝動にかられて来たことは事実である。当時の世相から申せば、彼もまた確かに転向組の一人であったに相違ないが、それというのも、最近の変転する世界情勢が、彼の考え方をいつの間にか飛躍させていたのかもしれない。何はともかく一切の過去を投げうち、思い切って妻子を残したまま内地を飛び出して来た現在の自分を、彼はいま決して後悔してはいなかった。

 ところで現在ケニンゴウ県庁の組織は、英領当時の役人がそのまま残されているはずである。もちろん当時の県知事は、今俘虜となって収容されているが、現在執務中の職員達は、引き続いてそのまま業務に服する如く指令されていた。然し占領後には、日本人はまだ誰もケニンゴウへ来た者がないのだから、一体どのようになっているのか、その実情は全く知る由もなかった。もちろん山崎県知事の着任日は、数日前に軍政無線で、ケニンゴウまで指示されてあったはずだが、ともかくそのケニンゴウ県知事が未知の世界へたった一人で乗り込んで行く事については、ゼッセルトンでも州長官は一応心配していた。然しその事に関する限り、彼は一笑に付して取り合わなかった。
 「こうなれば、出たとこ勝負で行くより外に方法はあるまい」心にそう覚悟を決めると、彼は着任日と終点到着時刻とを打電したままで、敢て単身赴任する事にしたのである。それは戦時中とは申せ、確かに大胆不敵な行動であった。事実昨日夕刻近く、終着駅のメララップまで彼を出迎えた県庁付の連中は、皆驚いて思わず目をむいた。

 さて翌日のこと、彼は職員の配置を一見して、彼等の中には多士斉々仲々面白い連中がいることに気がついた。総務と経理は、すべて華僑の出身者をもって組織されており、この地区のゴム園を経営している王家の一族が、その大部分を占めている。いわば彼等は、事実上県庁の経済権を握っているような感じである。一方建築土木の技師や、無線技師及び警察署長は、殆んどマライ人であるが殊に警官の中にドスン族の若者が、数名採用されているのが興味深い。
 山崎県知事は、この顔触れをひと渡り見渡して〝成程な″と感心した。確かに政治ずきな英国人らしい考え方の組織造りである。彼は一同を集めると、まず各自の任務と給料を決めてから、改めてそれぞれに日本文の辞令を手渡した。

 次に警察署長に命じて部下を動員し、ボーホートに集積した物資を、悉く運ばせることにした。
 物資の集積が終わると、直ちに広く県下の各部落に檄をとばしてここに盛大なマカンプッサール(大宴会)を催すことにした。総務課長の意見によると、今迄の習慣では、部落の会合は各種族ごとに集める方法で行なわれたようであるが、彼はこの際総ての種族代表者を同時に集合させる事にした。かくてケニンゴウの平原を舞台にして、三日間にわたり、飲めや唄えの大盤振る舞いが華々しく開催されたのである。その盛大なることかつて前代未聞と称せられた。イバン族やドスン族、カヤン族は申すに及ばず、ムルソト族やスルー族の外に、脊梁山脈の一部に蟠踞する穴居族迄が、ゾロゾロとケニンゴウへ集まって来た。そして彼等は各々の種族ごとに屯ろして適当にそれぞれの蕃族振りを発揮しながら、不思議に喧嘩もせずに山崎県知事の招きに応じたのである。イバン族は華麗なバランをかざして、彼等が得意とするワカナの歌を唄いながら舞を舞った。

 「ワカナは豪勇の武士、海の彼方から渡って来た武士、フンドシを締めた不死身の武士だ。彼等は裸身の上に鎧兜を頂き、旗さし物をかかげ、三つ又の鎌槍を携えた雄々しい武士だ。色は白く、見目震わしく、身体はあくまで頑健で然も我等をいじめずおおらかな殿御振り」それにつられてカヤン族もまた、大河の歌を唄いながら、剣の舞を舞った。「ブンダンはワカナの仲間、ことにすぐれた美丈夫だ。ランダイの妻ダボンを見染め、これを海の外に連れ去ろうとする。ランダイは怨んで、レジャンの河口にこれを待ちうけ、カユブリヤン(鉄木)の枝や根を張って流れを堰き、舟の下航を妨げる。舟は覆がえりダボンはまさに溺れようとする。ブンダン愛人を求めて激流に飛び込む。ランダイこれを追って殴り沈めんとす。ブソダン遂に諦めて、笑ってこの地を去って行く」(プンダンはワカナの名前であり、ランダイは、ダイヤの勇敢な若者であるという)イバン族にも、ドスン族にもカヤン族にも勇壮なワカナの歌がある。

ワカナとは、豪勇無双の武士の事だ。それはおそらくその昔ボルネオ海を横行した倭寇が、訛って生まれ来たダイヤの言葉であろう。ワカナの歌のメロディーは、我々日本人が昔から持っている、懐かしい催馬楽や追分の節にどこかよく似ており、余韻嫋々と語り続ける歌謡曲である。彼等が伝説の人ワカナに対する尊敬は実に想像以上だ。かつてダイヤ族が団結して独立運動を企て、山中に立籠った時、彼等は口々に「ワカナよ来たれ、来って我等を救え」と天に向かって祈り続けたそうである。
 かくの如く、ワカナの名は彼等にとっては極めて神聖なものとされている。その日ケニンゴウの広場には、時ならぬ歓声が渦を巻いた。宴まさにたけなわの頃、山崎県知事は自ら進み出て軍刀を抜き放ち、詩を吟じ剣舞を演じた。
 「男子志を立てて郷関を出ず、
  学若しならずんば死するとも帰らず、
  骨を埋むる豈墳墓の地のみならんや
  人間到る処に青山あり」……
彼は自分の胸中に秘めた大いなる望みを、今宵集合した総勢に語り伝えようとして、咄嗟の間に剣を抜いて舞ったのであろう。それが恰もワカナの再来の如く、彼等に強烈な影響を与えようとはさすがの彼も気がつかなかった。とにかくこのマカンプッサールによって山崎県知事の存在は、いつの間にかワカナの域にまで、引き上げられる事になったようである。
 もちろん飛行場建設の動議は、即座に成立した。

 私がケニンゴウを訪れたのは、前田閣下の遭難機を捜索している最中であったから、確かに昭和十七年十月の中頃と記憶している。下里曹長の操縦する九八式の直協機は、この日原住民の歓呼の中をこの美しい高原の滑走路に初着陸を敢行した。それはラブアン島にも匹敵するような素晴らしい飛行場であった。私達はその夜ケニンゴウの涼風の中で多くの人々から思いがけない大歓迎を受けたのである。山崎県知事は満面に笑みを浮かべながら、今日迄の経過を詳細に説明してくれた。丁度その時である、彼の側にあって甲斐々々しく給仕をしている一人の美しい娘の姿がフト私の目にとまった。それはまるで当時日本一の美女と言われた李香蘭のような、清楚な感じの支那娘であった。彼女の名前を阿燕さんと言った。後に幾多の変遷を経て第二の山崎劒二夫人となり、終戦後は彼と共に日本人としての生活を味わいながらやがて再び夫君を南アメリカの原野に旅立たせたのち、今でも日本にあって、第二の人生を歩んでいることを付記する。なお山崎劒二氏と阿燕さんとの間に生まれた二人の遺児達は、現在参議院議員藤原道子女史の手元にあって、育てられているという。

 彼がこの地で為し遂げた仕事の主なものを挙げてみよう。まず飛行場の設定に引き続き、ケニンゴウとラナウを結ぶ二〇〇粁の直線道路の開設工事を初めとして綿花の栽培、日本野菜の普及、鰻の養殖等衣食住の各般にわたってさすがに彼は社会改革家としての手腕を遺憾なく発揮している。殊に霊峰キナバルの山麓にあるラナウの部落に、小型機の着陸場を設定して、これを軍中枢部の避暑地とし、日本人の頭を冷そうと考えたことや、キナバル山麓一帯の記録映画の撮影を具申して、これに全面協力をしたことなどは誠に当を得た画策というべきであろう。時には大名行列のような乗馬旅行を実行して、各部落を訪れ、地酒を飲んでは日本の歌を唄い、首倉に泊まってはかん声を轟かすなど住民の心を巧みにとらえた彼のやり方は誠に心憎いばかり、自信に溢れた振る舞いであった。正に南の戦場が生んだ一個の快男児として特筆すべき政略家であったと言えよう。それはともかくとして、このケニンゴウの高原がやがて第三十七軍の最後の拠点となり、終戦時に残された日本軍の唯一の飛行場として、この滑走路から自ら死を決した馬場軍司令官の搭乗機が、全軍降伏のために、ラブアン島に向かって最後の飛行に飛び立ったことを我々は終世忘れる事が出来ないであろう。

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