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ボルネオ風土記

はしがき
 昭和十九年七月下旬応召、八月初め乗船、軍機密の為か、いずれに征くとも知らされず門司港出発、はるけき海路の万難を乗り切って同年十月初め北ボルネオ東海州タワオに到着。休養の暇なく陣地構築、あくる昭和二十年二月初め一、000粁のジャングル、湿地の長路を徒歩で横断転進、世に「サンダカンの死の行軍」というようである。
 現役兵に近い昭和十三年兵を主力で編成され、強豪を誇るさすがの白鷺城下の健児も廃兵と化して目的地ブルネイに四月中旬到着、この処で強力な濠軍と熾烈なる攻防戦を展開する。
 玉砕部隊に後ろ髪引かるる思いなるも弔合戦に陣容立て直さんものと親とも頼む軍司令部位置を求めて再度の死の行軍ならんか、食するに食なく、行くに道なき道の四十数日をさまよい続け、ようやくにして軍司令部にたどりつき、三十七軍最後の抵抗線テノムの複廓陣地に増強加入、彼我相対峙して終戦となり、自由なき捕われる身と十月初め収容所入りした我々独歩三六七大隊勇士諸兄にとっては気力、体力生命の限界スレスレまで思い知らされた赫熱と悪疫及び悲惨な戦闘の外おそらくボルネオの地誌、歴史を知るよしもなかったであろう。
 これゆえ此処にボルネオ風土記の一章を設け、戦時下といえども比較的平和の時代に軍政守備軍として無血ボルネオに先着した先輩諸賢各位の手記を集録してその風土の一端を紹介しておきたいと思う。
編集子 広 瀬


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