「あゝボルネオ」目次へ

23.嗚呼 北ボルネオ戦回想

独歩三六七大隊第四中隊 第四分隊 木之村 匡
目次

前書き

 此の実録を記するに当り、当時の事柄を出来得る限り正確に、と思うも何ぶん三十数年を過た今日では忘却失念が多く、又私が一人で居た期間が長かったので個人的な解釈の記録で申し訳けなく思います。

 各生き残りの方々とも今日迄に断片的なお話はお聞きして居りますが、特に四中隊のラハドダツの残留組が私達とは別の思い出をお持ちと思います。
一兵の私、殊に未知の国北ボルネオ等々、何の知識もなく、唯学校で其の昔得た知識位いで、総てが現地で見たり聞いたりしたもので、間違って伝えている事項があるやも知れぬが御容赦下さい。

 過日ラハドダツに於て病死された、戦友武田寿雄君(昭二〇・五・五)の実弟が私宅に当時の状況を、来られたのですが残念乍ら私達転進後の事柄で十分な御返事が出来ず、誰かご存じの方が居られましたら有り難く思います。
 尚ツンク守備の状況等々も合せてお聞かせ願えれば幸甚に存じます。

 帰還後ボルネオ会でお金い出来た人々。
 坪田政信氏、脇坂藤太郎氏、岸本計夫氏、亀井正巳氏、壇上政勝氏、田中重良氏.加智定夫氏の諸氏であります。
 今日迄に多くのボルネオに関する戦記が各有識者に依って紹介されていますが、それはサンダカンよりラナウ、コタキナバルよりブルネイを中心とした著者が多く、ラハドダツ、より四十二哩付近迄の著書は余り見ない。
 現在でも地図の上では確たる通路らしき記号はない、余り発展していないのだろう。

タワウ方面はカラバカンよりメルタイ、タワウ,モステン、ラハドダツを経てセガマ迄バガハク山麓の立派な道があるらしい。
 だがセガマよりコヤ川を経て四十二哩附近迄は、地球、否ボルネオ島が出来て以来、一度も人間の踏み込んだ事の無いであろう密林を設営隊が建設せし道ありと云うも、名ばかりの道を日本軍が、我が三六七大隊が、そして私が、暴挙と云うか、知らぬが仏であった。




1.  出征

 私もボチボチ老の境に入りつつある。
 一生の想い出に、とあの苦しかった、いまわしき若き日の苦闘を、心の慰めに、と今日迄に何度も其の機を得んと思えども長き年月に遮られ偶々、広瀬さんの「あゝポルネオ」を繙き読むうちに、当時を思い偲びつゝ記憶を辿って筆を取る。

 昭和十九年七月、毎日々々戦線へ送る航空機のエンジンを夜を日に継いで、現川重明石、当時川航発動機生産技術に於て、家庭には母妻と三女が居た。
 七月二十六日午後四時過ぎ妻よりの電話で召集を知る。
 日頃予備役にある此の身とて覚悟はしていたが、一瞬ハッとした。
 二十八日姫路へ入隊、此の頃我が川航に伝染病が流行していたので入隊と同時に隔離され、自分が何れの隊に落ち着くのか分らなかった。
 三十日午後突然の軍装検査、舎前へ整列の号令で初めて所属隊を知り十年前の現役時を思い浮べ乍ら十文七分の足に十一文の靴しかなく物資の欠乏をいやと云う程感じた。

 夕刻には母妻子等の見送りを受げ姫路を後に一路西下車中の人となる。
 八月一日門司より第二山水丸と称する七〜八千屯の油送船に乗船す。
 我が四中隊と何隊が便乗したかは知る由もなかった。
 我々は三小隊の一員として船首の一角に住む、当時の困雑事に各隊兵員の氏名等々知る事は不可能であった。
 私は三小隊(永井隊)の浜辺分隊に属した。
 甲板上には偵察機が三〜四機繋留され、船の中央部はブリッジで船尾と連絡されている。
 船尾には海軍兵が五〜六名旧式山砲一門を据えて護っていた。誠に貧弱な限りであった。

2.  船出(山水丸出陣)

 八月三〜四日頃と思う、夕暮れ追まる頃に何れに行く共も知れず船は動き出す。祖国よさらば、当時の軍歌で流行歌にもなった歌を口ずさみ乍ら、一夜明ければ島影見えぬ大海を一路南下との事であった。
 八月六日頃、突然我が船の左舷へ異状接近せし船あり、船足次第に衰へて行く、太陽は東の空で金色に輝くも朝霧が立ち込めて視界は稍悪い、午前八時前後と思う、彼の船の甲板上でチラっと火花が光った。数人の人影が走り出した。数秒後船は一大音響と共に白煙をモクモクと上げて見えなくなった。やや過ぎて遙か後方千数百米の海点(地点)で、船首か、船尾の鉄片がチラリと見えたが間もなく海中に没す、昭南丸との由、後は元の静寂、聞こえるは我が船のエンジン音のみ、随行の二百屯前後の護衛艦が右往左往する。

 我が船は常にジグザグ蛇行で行く先不明、今日も又早朝より太陽が焼き付くようにギラギラと照りつける。
我々船倉に熱くて居れず偵察機の翼下で暮らす事とする、船の両舷にはイルカの群が追いつ追われつ随行す。
この頃より敵潜に対する警戒が一層苛しく対潜訓練もしばしば行う様になった。
 八月十日頃、船は基隆に着く、或る者は上陸水浴を行う。
 数日後船は台湾の南端高尾港へ、港口が非常に狭い、両岸には釣人が数人手の届く様な処から糸を垂らしている。港は内が広く巾着状の港である。

 他船の兵は上陸出来た者も居た様ですが、我々は湾の中央に位置し、翌早朝港外に碇泊す。
 私は即日マスト衛兵司令として(見張番)兵二名と共に勤務に任ず、夜半近くより暴風雨となり船は木の葉の如くローリング、ピッチングが段々と激しさを増し、マスト上の立哨が不可能となる。全員船員室へ引上げて甲板上の勤務に変更される。身体をローブで縛り落船を防ぐ、室内の備品什器は船のゆれにまかせて右に左に走り回る。

 さすがの姫路の武人もこれには少々参ったらしい、顔色なし、全員シーシック、ダウン。風雨益々荒れ狂う。
 夜が白味かける頃に、波しぶき煙る海上を難破せし船員であろう。数人が河の如く流れる潮に押し流されて漂流、救助せんとせしも波浪高く風強く、何を差し出しても不可、遂に海流のなすまゝ実に気の毒であった。

 私は折角の日本最南端に最後の上陸も果す事なく数日後に高尾港を後に日本に別れを告げてバシー海峡へ。
 大洋に出るのは初めての私、東西南北どちらを向いても海・海。何一つとして見える物は無い。唯々水平線のみ、大きなうねりの中を我が船団は敵潜と飛行横を気にしながら木の葉の如く南へ。

 今日も日の出と共にイルカの群は船の両舷を随泳す、毎日の様にスコールがやってくる。
 或る日突然朝日を遮る様に飛魚の大群が一躍千数百米も飛び、中には甲板上に落下して兵達は思わぬ天の賜物と童心に省ったように拾い集めご馳走に預る。

 八月二十四日頃、船はルソン島北端の漁村アバリの沖合に碇泊す、此れより先は大型船の航行が危険との由、陸地では友軍機の発着を見る、軽爆であった。大変力強く思った。


3.  生まれて初の外地へ敵前上陸

 かってニュースで見た様な敵前上陸を山水丸のポートで決行、如何にも勇壮な姿であった、実は港とは名ばかりでポートでないと上陸出来なかったのである。
 やっとの思いで永い船旅を終へて地に足を着けたのでした。
 初めて接した外国、南の国此島、アバリの海岸、初めて見る南方特有の家々、当時内地では口にすることの出来ぬバナナを日本から持参せし煙草との交換で食う事が出来た。
 交換相場はチェリー五本と.ハナナ十本、翌朝になると二本と十本に相場が円高になっている。軍隊のほまれ、台糖の暁だと五本と云う相場であった。

 此の辺ば水が少ない、井戸もあるにはあるが量が少く毎日の様に来るスコールをドラム缶に雨水を溜めている。
 我々は此のスコールで毎日水浴をする。
 私は初めて英語なる物を使ふ機会を得て、単語の寄せ集めで手振りよろしく道を開いた。
 だが折角の返事にも行く先の地名が何処にあるやも知らず、フンフンと云ったものの私には全然理解が出来なかった。

 三日も暮したか、使役とてなく毎日バナナと水浴で楽しむ。
 永井隊は姫路の高砂の船で、第六〇高砂丸と云う、七〇屯程の機帆船で、船長も高砂の人とか、船長室の屋根に竹製の偽装機銃があるだけの誠に心細い軍船であった。

4.  木帆船軍団

 アパリよりマニラ迄を西の沿岸に沿って敵機を警戒し乍ら船底暮しで幾日も蔑日も、如何にも運送船を装って沿岸一粁前後の沖合を航行す。
 バタン半島を左に見て、絶壁の沿岸には無数の砲座とも砲弾の痕とも見える穴を眺め乍ら往時の戦況をしのびつつ、コレヒドールの要塞を右に非常に狭い水道を通ってマニラ港へ入港す。
 港口では人魚(ジュゴン)らしき動物の遊泳を見る事が出来た。


5.  南国の大都会

九月の初旬と思う、マニラ市に上陸、市内通過、競馬場へ、スタンド裏が我々の兵舎で、町には電車も走っていた。

 今日マニラ市街地図を出して見ても全然見当がつかなかった。
日本人の商店を始め各種の店屋が軒をつらね、当時内地では姿を消していた様な物品をづらりと並べていた。
戦利の夢を見て、あれもこれも、内地へ帰る時にはと心ひそかに眼を着けていた。裏通りにはクラブ、キャバレー等々の処もある。

 滞在四〜五日と思う。毎日使役の為に港の近くにある弾薬庫へ、フィリッビン戦初期のマニラ戦の激戦を弾痕に依って偲ぶ、戦利品のものであろう、可成の量の弾薬が地下トンネル内に保存されている。
 宿舎の近くでは少年逢が無造作に軍票(十円札)を何十枚もポケットに入れて、兵隊の持物を買いに来る、戦後の日本に於ける米軍キャンプ附近の恍景と同様であった。

6.  海亀の卵を食う

 永井隊は九月十日前後の頃と思う、マニラを後に再度高砂丸にて、パラワン島の西岸に沿って南下する。
 此の船には百名近くも乗っているので飲料水を載せる余地がなく、毎日々々島の適地を見つけては寄港、上陸、飯盒炊飯を繰り返す。



 或る時は椰子の実を、或る時は海亀の卵を持ち帰って食った。大変美味である。但し白味は食わぬ方が良い。
 私は此の航海中も一度も上陸する機会を得なかった。
 唯々敵機を気にし乍ら又数日の航海が続く。

7.  北ボルネオ

 九月の下旬近く、前方に陸地発見、北ボルネオ島の最北端クダトが見えた。友軍機の発着も見える。日本軍の健在を喜ぶ。
 十月三〜四日頃、クダトの東方約二百五十粁程にある、サンダカンの港へ上陸、やっと目的地が北ボルネオである事を知る。
 宿舎へ直行、二階程の木造で日本の昔風の大きな宿屋と云うか、回船問屋と云うか、を思わす建物である。
 最近の小説で「サンダカン八番娼館」と云う本を読み、後日映画にもなった、一層想いを深め、あーでもなし、こーでもなし、と頭の中で取り止めもない連想を起こす。

 スコールは南の名物の毎日「ウジャン、マンディー」(雨の水浴)と称して汗を流して楽しむ。
 宿舎の真向かいに加藤物産と称する貿易商社があった。
街の人々の大部分は逃げていたのだろうか、北ボルネオ、サバ州第一の都会(港町)にしては人数は少なかった。
 町は二百米程の長さの様で、メイン通りは海岸に平行して走っている。
 メイン以外の裏筋へは一度も足を入れる機会がなかった。
 治安の状態や、言葉の問題等々で、そう簡単に、町の隅々迄へも上陸早々行けるものではない。
 深く町の様子を知る事なく、三〜四日も居たろうか、サンダカンを後に、又高砂丸にて目的地であるラハドダツに向かい、永井隊と機関銃隊一ケ分隊が出航す。
 十月九日頃と思う、幸いにして我々の乗船した船には何の心配もなく、官費旅行を楽しみ乍ら、戦線へ向ふ、と云う気持は全くしなかった。
 我が大隊の本隊は相前後して、更に四百粁程東方のタワウと云う処へ出港していった。




8.  ラハドダツ

 十月十一日頃、我が第四中隊山中隊長以下全員無事ラハドダツに着き、お互に喜び合う。
 愈々、来るべき処迄やって来た。
 海より眺めたラハドダツの町、澄み切った港、浅い所、深い所、山あり谷ありの珊瑚礁岩である。
 岸辺は此等の岩で護岸され、左手にも此等の岩で築かれた、桟橋が一本海中へ突き出している。
 正面は商家が十数軒建ち並んで、湾の中央部には座礁して動かぬ、日本の機帆船が一隻波に洗われて、ゆら/\、乗組員は今?。
 町の後方五〇米程の処から一段と高く、高台に成って、其の一角に白亜の洋風の家が一軒、元英国火の住家とか、発電設備もある。
 我々は此の家を中隊本部として住む。

 一般の商家には電気設備とてなく、まして点在して住む家庭に、電気なぞある筈がない。総て椰子油の灯火で、明治時代の農村を思わせる。
 海からの眺めは、丁度、大正の初期の兵庫運河を片側より見た風情。
 町の西端より三百米程東南の高台に、台湾の人で王とか、黄とか、云う医者が住んでいた、土地のトアン(旦那)である。
 トアンとは彼等は敬語であり、目上の人に対する言葉でもある。普通はキタ(お前とか、オイ)と云う言葉である。
 一般の部落民は町よりやや離れた地点に、点々と住んでいるので、一見では一寸と分らない。

 我々は毎日々々、中隊本部を出ては山へ陣地構築に出て行く、或る日、作業中に野猪の群を発見、追い回すも、早いこと、早いこと、遂に断念す。
 或る日、我々が作業を終えて本部に帰ったら、今日永井隊の二分隊がツンクへ分駐したと開くも、当時としては地名を開いても、方位も、距離も全く不明のまゝで、後日、二十年二月頃に玉砕したとか、を開く。
 此の分隊には私の近所で浜中町出身、在郷軍人会浜山分会で、共に武芸を磨き合っていた柳川芳平君が居たはづである。広瀬氏の誌に依るとレンタゴンで病死とのこと、何れにしても残念の一言しかない。

 此頃は未だ、連絡機らしき友軍機が適に二〜三度は飛来する姿は見えた。戦闘機、爆撃機等の機影はなかった。
 或る日、町の西方にある、飛行場に友軍機が下りた、が、我々が転進する迄は少く共飛び立たなかった。

 


9.  新兵を出迎う

 十一月中旬、私は兵三名(氏名忘却)現地人十名を率いて、北支からの転進増援部隊を出迎へに、設営準備のためコヤ川迄行く。
 当地の住人は若干の華僑と海で生活をする人、田畑を主にする人、山野で生計を得る者等々に大別出来る。各々の種族が違う。
 我々が引率した現地人は田畑を主に営みをする人々で温厚な人柄で、宗教的な関係で自らは四つ足物は殺さない、自分で殺した肉は絶対に食わない、宗教的な風習がある。
 何事をするにしても非常に用心深い性格を持つ回教徒である。

 ラハドダツからコヤ川迄は片道五日程の里程で、セガマを経て半日も歩くと、もう深々とした密林と云うか、原始林地帯で通称象ケ丘と称する地域に入る。
 先達の設営隊に依って作戦道路の開設が行なわれているものの、一歩道を外れた行動を行こそうものなら、二度と元の処えは帰れぬ、全人未踏の原始林で直径二米以上もの樹木が林立し、其の間を雑木や葛藤類がからみ、数米先が全然見通せない。
 昼なお暗き、丘あり、谷あり、小川あり、湿地ありで雨季ともなれば、当り一面泥海の様になるであろう。
 十二月頃より来年三月頃迄を乾季と云う、雨量が比較的少ない。

 此の作戦道路は完成して、そんなに長くは過ていないだろうに、道の両側は二米近くも雑草木が成長して、道幅を狭くしている。
 谷や小川には丸木橋を渡し、湿地には木を切り倒して敷きつめてある。が何しろ名の如く、象の住家の事とて、朝な夕なに往行する彼等の巨体には、敷きつめた木は跳ね上り、橋は折れ、子象の如きは渡橋中に谷間に転落したらしい跡が随所で見られた、図上に於ける某地点附近と思う。

 百粁地点附近で二日泊る。
 五十名程度宿営可能な小屋が二つ建っていた、その後を清き流れの小川がさら/\と、日本とは地質が違う、恰も黄色泥地の上を静かに水が流れる、と云う感じ。
 人夫達は当地泊りと知るや、何を求めに行くのか一斉に走り森の中に入る。
 やゝ経って、一人の男が大声を出して走って来る、トアン/\、大きな鰐が居ると云う、今の小川の少し上流に体長四米以上もある大物が、どうして山奥の小川へ、多分雨季に入り込んで乾季に河へ帰れなくて残されたのだろう。
 早速、三発、六名掛りで運び出し料理する。
 鰐皮を想い浮べ乍ら・・・・。夕食には粉末味噌汁で食う。
 翌朝塩焼きにしたが、余りうまくなかった、残り肉は捨てて立去る。

 八十粁地点を経てコヤ川に達す、川幅百米以上もある大河であった、黄色の水が満々と岸辺を洗って、今にも鰐がやって来るかの如く、巨大な倒木が顔を出して流れて来る。
 岸辺近くの道の両側に簡単な営舎が二〜三あった、使用可能と判定して八十粁地点迄引返して援軍の到来を待ち、設営準備を行う。
 彼等に補修材の調達を命じ、密林へ取材に行かすも、決して各人が行動を起すのでなく、必ずグループ行動で、三ケ班に別れて、お互が奇声を発し合って連終、合図をし乍ら行動し、決して自分一人での行動はとらない。
 八十粁地点での作業中、正午近くであった。爆音が聞こえて来た。
 密林の上を葉隠れに、日の丸をハッキリと西から東へ一機、連絡機である。

 私は人夫達に皇軍の意気を示さんと、片言のマレー語で「ヘイ、パンライ、ジャパニーズカタルパルタン、バンライ、バグース」(オーイ、万才、日本の飛行機だ、心配するなよ、大丈夫だぞ)と上空を指して大声で叫ぶ。
 人夫達も理解したと見えて、一緒になって、バンライ/\ を連呼しでくれた。
 未だ此頃は日本の勝利を信じ、彼等にほこらしげに胸を張った。
 翌日はダヤン族(山野の住人)が六〜七名オデコから背に紐を掛けて荷物を背負ってやって来た。

 フンドシ一つ、顔から身体中、足迄も刺青を入れて、見るからに獰猛そうである。
 彼等の刺青は自分の履歴書だそうで生年月日、住所、氏名、等が表してあるらしい。
 彼等は私達が先に捨てた、鰐の肉を拾って、昔、荒木又衛門が額に手裏剣を差していた様に、何本も々々も串に差した焼き肉を額に縛り付けて、口を動かし乍らやって来た。
 アッと驚いた、捨ててから数日は過ぎている、又彼等は非常に勇猛で唯一人でも自由に密林を往行する。
 彼等は日本軍の協力者として街では巡警等の役柄にも任じられている。

 此のジャングルを歩いて、樹木の大きなものは直径四米内外、高さ四十米以上と云う大木が林立し、葛藤類が寄生し、道を開くには彼等の持っている、バランと称する山刀でないとジャングルでは用をなさない事を知る。
 私が或る時、小用で少しジ†ングルの中へ二十米近くも入ったでしょうか。ビシヤ/\と音が、又しても音がする。空を仰いでビックリ、中人程もあるオランウータンが、樹木の突端から私を目掛けて、一枝折っては投げつけ、一枝折っては投げつけている。
 やはり彼等も自分の縄張内への侵入を防ぐ事は知っていた。

 十二月の初旬、増援部隊の先頭がやって来た、いづこの地に上陸したのか、どこからの行軍か、トポトボと皇軍が、見る影もあわれに、銑なし、剣なし、背嚢なく、中には靴もない日本兵が、想像もしなかった姿で、水筒と飯盒を持ち、十数人に一丁の虜掠銃を手に、地下足袋姿の半病人部隊群が、気の毒の一言であった。
 聞けば輸送船がやられたとか、明る日も又一群の遅れていた一隊がやって来た。
 叉次の日もボツボツと遅れが来た。
 十二月中旬と思う、やっと通過したらしいので、我々もラハドダツへ帰るべく帰路に着く。
 途中豪猪(ヤマアラシ)に出会い、穴に逃げ込んだやつを紙片や枯葉で、いぶし出さんとするも湿地の事とて、火は容易につかず、やっと発煙に成功、だが捕獲は見事失敗に終った。

 此の旅で私は色々な初体験を知った。
 ジャングルと云えば静寂な物寂しげな様に思いがちで、時として木の葉が触れあう音、ぐらいに想像していた私、全く正反対で賑やかな事、昼夜の別なく非常に大きな声で鳴き通し、あたかも密林会場の一大狂奏曲の如く、虫か、鳥か、現地人に、聞きただしても「ティタ」(知らん)キチ/\(非常に小さい)と云うだげで正体は不明であった。

 此の道は建設隊の人々が、湿地帯をも省みず、あえて作戦道路と称し、サンダカンよりラナウに到る道路に合流す様に、最短コースを選んだものらしい。
 私達一行は、帰路最後の宿営地であるセガマで、解散会を兼ねた別れの宴を催す。
 残り食全部はたいてのマカンブッサル、日が落ちかけて、辺りが暗くなるにつれて、二基の篝火を燃し、椰子酒で彼等特有の踊りを、倒木を叩き乍ら、リズムに乗せて、夜の更けるのを忘れる。




10.  つかの間の楽園が焼野と化す

 中隊本部に帰った我々は平常の勤務に服す。十二月二十日頃と思う。
 此の頃より遊軍連絡機の飛来はブツリと切れた。替りに敵機B24が毎日定刻に、高度六百米程の低空でお見舞いに来るようになった。
 単なる偵察であろうか、何の仕掛もなく、毎日通過機の様に飛び去って行く。
 御存知の常夏の大島北ボルネオ、サバ州の毎日は日没から日昇までは大変涼しく。マラリアさえなければ、絵で見る様な気持の良い、暮しやすい処である。
 或る日、海辺のマングローブの樹上で、体長一米半もある大トカゲを発見、射殺、肉をマカン(食う)、何を食っても美味である。

 十二月二十五日前後だったろう。
 常になく敵B24が唯一機、高度三百以下の超低空で、西方より飛来、来るなり湾上の座礁船へ一斉銃撃、我々は爆音で一応配備に着いてはいたが、今日は日頃と違い、反復銃撃を始めた。
 始めは座礁船への銃撃が、エスカレートして陸上の方へも撃ち始めた。
 我が方も、よせばよいものを色気を出して、数発初見参の挨拶をした。
 さあ、大変だ。
 日本軍陣地ここに在り、と知るや、射つは/\町と云わず、丘と云わず、処かまわずお返しが来た。誰しも、頭を下げ、身を伏せて、隠れるのみ。
 機銃といっても薬莢共で長さ二〇糎、直径一五耗程の弾が飛来して来る。
 此れを期に我が中隊は、本部のみ現在地で、各小隊毎に、小隊は各分隊毎に分散して分註する事が決まる。
 我が永井小隊は西方台地に分散、其の時の小隊長の居所は今は忘却、我が四分隊浜辺軍曹以下十五名程と思う。隊員氏名等忘却。

 昭和二十年一月一日、お正月がやって来た。黒味がかった餅を搗き、漁師から目の下七十糎もある鯛を買い、大海亀も調達、バニヤ/\マカン、ブッサル(沢山食う)である。
 我が分隊は中隊本部の西北三粁程の華僑の家に移る。浜辺隊長の支那語のお陰、後日、ラハドダツの爆撃事件で、この華僑がスパイに問われ、我々が救助した。
 これ皆、浜辺軍曹の功績の一つであろう。
 其後、間もなく海辺のマンドール(村長)の空家を見付けて移転す。
 砂浜が五百米も続く、二軒ある一軒に住む。
 波打ぎわから橋で家に入り、家の裏手には桟橋が突き出ている。

 家の下には三十糎もある魚が、戦争とは何の関係もなく、自由に家族と共に遊泳している。
 トタン屋根に板床、椰子の葉で編んだアタップと称するものを壁に、床にはアンベラを敷き、非常に涼しい、本当のアイル、ルマ(海上の家)である。
 正月を過ぎた頃より分遣や、連絡、勒務が激しく成り、隊員は減るばかりだ。
 私も屍衛(シカバネ)兵に立ち、ゴム林の中で一晩中、火炎を眺め乍ら、気持ちの良い物ではない。
 誰れの遺体であったか忘却す。

一月七日、今日は妹の命日だと思い乍ら、豪掘りをしていた。正午近く、東方の空高く七〜八千米の高度で三機編隊でやって来た。

 あー、今日は、どこかへ行くのであろう、と通過機と思っていたら、突然、機は左右に軽く動く、間発を入れずに、ブス、/\、/\、初めて知ったB24の爆撃、ダン、ダン、/\、ラハドダツの方角から黒煙が上り出す。
 中隊本部もやられたらしい。

 町は正午の買物客で、各部落から来ている、可成の人出だったと思う。
 後刻ラハドダツの路上には黒焼きに成った人々が、点々と散乱していた。
 本部でも一〜二名の犠牲者が出たとか、生れて見る初めて修羅場、日本でも当時は、あちらこちらで、このような惨事があった事でしよう。
 此れ以来、敵機の影は一度も見なかった。
 我々は毎日筑壕作業を続ける。

 或る日も野猪の群を発見、全員で追い廻すも、総て徒労に終る。自然の世界では彼等が一枚役者が上である。
 此の浜辺に生い茂るマンタグロ-プ林の中には、野猿が非常に多く群生している、空家にでもすれば忽ち荒されてしまう。
 この浜辺に住む人々は舟で自由に往航が出来る。反面気を付けぬと敵と気脈を通じている者も居る。
 現地人で米作りをしている人が点々といる。土地柄余り良質の米とは云えない、五十米角程の田が、あちこちにある。地下蒔きで年中収穫が出来る。穂も二米以上も上から垂れ下っていて、竿竹の先に鎌を着けた様な器具で苅り取を行い,後は火を付ける。焼畑農法である。

 あちらの田で田植、こちらは苅り取、そちらは成長中と色々様々、皆、田の中央には見張櫓があり、雀の来襲を一日中張り番をしでいる。
 気の長い話で、おどし子を付けで悠長に追い払っている。

 私は一月未頃より弾薬庫の衛兵司令として、兵三名(氏名忘却)と共に服務す。
 服務中にマラリヤに罹り、隊員達のマカンプッサル(豚を食う)も発熱のため夢の中、2週間程も苦しむ、ニ月十五日頃下番す。
 分隊内でも転進の噂がチラホラ出ていた。
 私は病上りの身なので、行軍に自信なく、随分悩んだ末に、残留は死を意味する、と考え遂に行軍に参加する事を決意した。

11.  転進(唯一人で湿地に挑む)

 私は現役時に軽機の教育を少し受けていたので、軽機分隊でもある当隊の射手、と云う事で軽機を預る。
 食糧三日分、弾薬各人六十発、私は別に百二十発を持って、二月二十日を期して、セガマに向って転進開始。
 だが病後の私には無理な様でした。
 装備は余りにも重かった、足、肩は皮がむけて、歩行困難、加へて熱発を起し、行軍不可、やむなくセガマに三日間逗留する。
 本隊は翌日私に代った射手(氏名忘却)が、小銃と交換して山中隊は出発した。

 セガマには日本人農園もあり、ラハドダツよりは一日の里程で、何隊からの応援か、設営の人も数人、病人の残留者も三十名近く居たでしよう。
 給与が、又、大変良かった。河では現地特有の漁法で老海を採っていた。
 現地人の物資輸送風景も病床より、眺めて、此の先、何が待つとも知らず、三日間は過ぎた。

 此の転進作戦て残留者と転進者の氏名を知る者は指揮官以外ではいないでしよう。
 何しろ、ブルネイへの転進と云う大事業の命令で、一日も早く、本隊に追い着くべく、二月二十四日、米四日分を受領し、体調不充分を押して、勝手を知っているコヤ川を目指して一人旅に出る。
 今迄との行軍能力は半滅していた。
 人の数倍もの日時を要してコヤ川に、三月三日頃に着く。
 又熱発す、軍医や衛生兵の人達が居られたが、別段手当らしき処置とてなく、持参のキニーネを飲んで寝るだけである。
 私は下痢をも併発して、下痢止めに木炭の粉を飲む事を教えて頂く。

 こゝにも十数名の病人が居た。滞在中一名病死す。我が隊の者は此処には居なかった。
 去年十二月に通った時と、行軍条件が違うので、体力の半数以上を消耗した。
 こゝでも三〜四日逗留した様に思う。

 松本国雄氏著、「回想のキナバル」の中で、(往時に佇つ)の項に次の様な記載がある。
『北ボルネれ最大の難所である、キナバタンガ河と、コヤ川との合流点を突破して、更にラマツグを経由する。いわゆる作戦道路といわれた、サンダカン十七哩地点に合流するルートだが、こゝは全人未踏の大原始林地帯であり、直線にしても約三百粁という、暗黒地獄の湿地帯である。
 しかも、たゞの一回の実地調査が行われたこともなく、兵器弾薬と云う重装備を帯びて、こゝを転進移動させると云うことは、おそらく初歩的な兵要誌上から云っても、かってなき暴挙と云うほかはない。』と記載されている。
此のコヤ川迄とこれから行くラマツグから四十二哩地点へ出る一歩手前迄を指す。

 三月七日頃、追随せし者や落伍者の中から前進可能者と共に、丸木舟数隻に分乗渡河す。黄水渦巻く濁流を鰐が出て来る様に流れる流木にまどわされつゝ対岸へ進む。
 渡河中一隻、遂に横転、現地人舟頭を含め七名濁流に呑まれる。生死不明。
 私は一行と共に随行するも、忽ち遅れ出す、昼過ぎには又一人ボッチとなる。
 此れより先は未知の道である。ポチボチ雨季に入りかゝっている。問題の湿地帯はこれからである。

 気は焦れ共、体はだん/\と重く成り、思う様に足が前に出なくなった。
 道も、だん/\とぬかって来た、足首迄入り出した。益々歩行は困難となる、他に通る道とてなく、銃を杖に、尋ねる人も、相談相手もない、遂に膝迄が埋まり出した。
 道の両側は四十五度以上の傾斜面で、這い登る事もならず、一時は腰の辺迄も没して、必死で草を掴み、雑木の小枝を握って身を支え乍ら、手で歩く様に泥海をかきわけて進む。何時間経過したか、数百米の泥海をやっとの思いで切り抜ける。

 日没となる、木の上で寝る、身体も足も手も動かなくなっていた。
 食欲は微熱がずーっと続いて居るので余りない、段々と衰弱の兆候が見え出した。
 翌朝又此の足を引き摺り乍ら、わずかばかりの飯を無理に口に入れて、トロリ/\と前へ行く。
 こんどは巨木の倒木が前進を拒む。越さんと思うも直径一米程の巨木、自由が利かず頭から真逆様に泥水に突っ込む。
 もう完全に雨季に入っている。毎日/\可成りの量の雨が降っている。
 日本の様に一日中雨と云う事はない。
 或る時は、谷川が増水で渡河点が分からない。それも其のはず、千数百人もの人々が、乾季の内に通過する予定が、雨季に入っている。

 総ての施設は破損したり、破壊されて、其の都度の応急の間に合せ施設しか残っていない。初期は手摺もあったろうに、又目印もあったであろう。が時期外れの行軍では元のジャングルで、からくも跡形が残っている程度、様々(ようよう)にして三十糎程の丸木橋を発見、恰も平均台を渡る様に、四十粁余の装具を身に着けて、忽ち足を摺らせ水中へ転落、浮きつ、沈みつ、谷底を這うようにして泳ぎ渡る、死に者の狂い、とはこんな光景なんでしよう。
 野宿、泥海、転落、転倒の連続で数日が過ぎ、受領の糧秣既になし、何日先に、どこへ行けば糧秣にありつけるか、私物の米も底が見えて来た、一握りの米を一日分として節約す。

 月日の事は今はわからない、唯、夜が明ければ食っても食わなく共、歩き出す。
 泥海は抜けたらしいが、湿地は未だ続く、本格的な雨期の様である。雨は大粒になり時間も長く降る、足もとは川の様に流れている。又夜が来た。大木の枝や、根元の水のない処が寝床である。
 夜中の雨は天幕を頭からかぶって、足元はづぶ漏れである。
 こんな毎日では、今後本隊に追い着く自信がなく、いっそ、・・・・と考え左手の山道へ入り腰を下す。
 銃口を喉に当てゝ足先で引金をと思うが、靴を脱ぐ気力すらなく、死ぬ事も出来ぬ、腑甲斐無さを我れ乍ら情けなく思う。

 しばらく考へ込む、脳裏に写る、家族の一人一人が走馬燈の様に駈け廻る。
 心も落ち着き始めた、何としても「命は持って帰ろう」。
 雨は定刻が来ると例の如く道は川の如し。
 或る日路上で亀を見つけ、今夜のマカンにする。
 糧秣受給は、どこまで行ってもない。既に撤収前進で私は後追いしていた事を知る。

 次に山蛭が待っていた。
 草や木の枝に昇って、人間に附着し、夕方気が付いて見ると、首筋、靴の中、急所の玉袋到る所に着き吸血をほしいままにやっている。
 やがて水の悩みも消えかけた所、即ちサンダカン、ラナウ道の合流点近くと考えられる、当時はそんな事は何もわからない。
 密林は稍々薄らぎ、空が見える地点にやって来た。
 久し振りに太陽の顔も見える、足元も心配なく歩ける。が次はアブに悩む。
 草いきれを感じ乍ら、口の中で号令を掛け、一歩又一歩とポツリ/\前へ進む。

12.  生死の分かれ目

 常にマラリヤと戦い乍ら、発熱、水難、蛭難、アブ難(危難に通ず)に遭遇するが、なんとか切り抜け、こゝで食い物があればと思うが、残りの米は一握りしかない。
 或る日正午頃と思う、例の如く食う物とてなく、おも湯を吸って杖をつき乍ら、トロリ/\と前進していると、後方より元気の.よい足音が聞こえて来た。
 シンガポールからの航空隊の数人であった。比島の戦況を聞かさる、不利なるを知る。
 「元気を出して来いよ」と励まされたが、彼等は非常に元気で追い越して行く。
 友軍の敗色急なるを知り始めた。
 天気良好、道路状態良、陽は早朝より照りつける。
 ジャングル道と異り、国道と云った感じ。
 此の頃より熱帯特有の疥癬が身体全体に蔓延しはじめる。
 衣類の洗濯をするでなし、水浴をするでなく、着放しで二月二十日以降四十日以上もの経過では当然のことであろう。

 四十二哩地点へとやって来た。
 さあ、又難問が出来た。これからの我が道がわからない。三叉路になっていた。
 困った、迷った、数時間前に追い越して行った航空隊の人々は、どちらに向ったか。
 ふと、少年時代に読んだ、トムソーヤの冒険を思い出した。
 足跡を調べた。
 千数百人もの人跡を、だが時が余りにも流れ過ぎていた。
 右へも左へも、左へも右へも、三本の道に各様に往復の足跡があり、判断に困る。
 大声を出して叫んだ、各方向にむかって、何遍も/\、だが何等の反応も返っては来なかった。

 しばらくは考え込んでしまった。
 地図を頭に浮ばせた。ラハドダツを起点に、右は北、北は港、海は此の地点からだとサンダカンだ、そう思いたかった。いや、そう信じた。
 道は左に取るペし、と思い切って又トロリ/\太陽の照つける昼下がりを歩き出した。内地の登山道を思わす、大木はなく、背丈も低い、陽も良く当る。視界は以前より非常に良好ではあるが、道を外して林の中に入ることは危険で.死に連る。
 部落も近くはあるだろうが、残念乍ら、私には其の道は分からない。
 第一私に、当時そんな余分な労力を使う、体力も気力もない。吹けば飛ぷ様な亡者如き姿で、一日も早く本隊への合流を考えるだけで、転進部隊の最後尾を唯一人、食う当もなく、又いつ食えるかも知れん食事を当にして・・・・。

 今朝も前日同様徽熱が続いて、空腹ではあるが食慾がない。
 飯盒の中は一昨日作った、オカ湯の残りがチャッポン/\と音をたてている。もうこれが最後の糧秣である。
 やがて行く手左、下り坂になっている所で設営舎が見えた。
 ダヤン族の巡警が十名程、朝食している。昨今の戦況をまんざら知らぬ事もあるまい、弱身を見せては、と思い。
「イヤ、キタ、タベ、マカン、カ」(イヤー 今日は、お前等食事か)、彼等は「イヤ、マカン」(ハイ食事です)と返事が返る。私は「バニヤ/\ハグ-ス」(沢山食べられて良いな)と云うと、彼等はニッコリと笑って「パグ-ス」(良い)と返って来た。
 私は幾分か心の落ち着きを感じ、私に敵意のない事を知る。
 私は少し下の小川のほとりで、一人こっそり甘酒の様な残食を流し込む。

 又歩き出す、正午近く後続兵四名がやって来た。ジャワからと云っていた。
 サンダカンからの転進者で、サンダカンも、台湾も攻撃を受けている事を知らされる。
 彼等も比較的元気で、私に「気を付けて、元気を出せよ」の声を残し、私を追い越して、先を急ぐ。
 私は明日からの食う事を考え乍らトボ/\と歩く、近くに部落があるらしいが、所在は不明、あッ左前方の繋みの中で何かがチラと動いた。野猪であった。体長二米近くもあるボスを先頭に道を飛び越えて行く。
 出たわ/\、四〜五十頭の一族が、最後三十糎程の子供迄が道を渡って繁みの中へ消える。
 見事と云うか、壮観と云うか、しばらくはこの珍景に見とれていた。

 こゝで初めて現地人の一般人に出金った。バナナを荷負って来た。
 キニーネ薬とピサン(バナナ)をトッカル(交換)した。
 やがてキナパル山麓へとやって来た。

13.  キナバル山を越えて我が故郷へ

 今朝は永い/\坂道を登らねばならぬ、昨日のピサンを朝食代用で食い、歩き出す。
 キナバル山は富士山よりも高い、標高四千米以上とのこと、何合目当り迄登るのか、山頂には雪もあるとか。
 彼等現地人は「冷たい」Cold「雪」Snowと云う言葉は余り知らないらしい。元来英領である彼等は「ティラー」(知らぬ)と云う。暑い(バナス)と云う言葉は知っている。

 午後三時頃に成って、峠が近づいて来た。
 峠の頂き近く、太陽のカンカン照りの下で大の字に寝ている兵が居た。
 この暑いのに日蔭にでも入って休めばよいのに、と独り言をつぶやき乍ら近寄って、あッ、と驚いた。一群の蠅が一斉にプーと飛び立った。
 スダマオ(既に死亡)、唯々、合掌す。

 今迄にもラマツグを通り過ぎた頃から四十二哩近く迄の無人の設営舎には必ずと言える程一体〜三体程の病死者が放置されて、白骨のものもあれは野獣にやられたのか、手首、足首のない人、腹部を噛み切ぎられている人、顔面の判読出来ぬ人等々見る影もない姿であった。
 やっとの思いで峠の頂に達して下界を見下す。
 峠の向う側の眼下には、なんと思いもよらぬ、我が故郷が見えた。
 これで椰子の樹やゴム林が無ければ本物で、内地の田舎を思わす様に、青々とした水田が、山裾にはこんもりとした森が、小川が、話に開かされていたラナウであった。

 残りのピサンを全部食う、今夜、いや遅く共明朝は飯に有り付ける。
 峠を登り始めた時より、内地の初夏の山路を散歩でもしている様で、小鳥の囀り、中でも鶯の声には一段と望郷の念をかりたゝせ、空元気が出て来たが、熱発は相変づ尚も続く。
 兵舎、病院、捕虜収容所、其の他七〜八棟の建物が見える。
 遠くには点々と民家らしき家も教軒見える。四月二十八日頃と思う。日暮れにやっとラウナに着く、もう何れえも行かずに住みたかつた。

 其の夜、山中中隊長、石山小隊長の死を聞かされた。
 四月二十九日、今日は天長節、北方に良い遥拝す。
 こゝは盆地を思わす地形で、四方が山で囲まれている。
 午前八時近く東の山峰が朝日に染まる頃、東方の上空に爆音がする。
 鉄帽と銃を片手に、一目散に近くの散兵壕へ飛び込んだ、地面に突きさゝる様にして伏した。
 何回/\も旋回す、其の度に銃撃が非常に永がかった。
 兵舎も病棟もー発でふっ飛ぶ、近くの捕虜収容所へも大分射ち込んだらしい。
 附近に点在する民家からも火の手が上る。
 P38双胴双発艦載爆撃六機から成る編隊の来襲で、町は一瞬にして死の街と化す。

 私は初めての爆撃に出会い、壕底へ体を埋めん計りに張りつけて、数十分もの間、彼等の早く立ち去る様に祈りつゝ時のたつのを待った。
 私は焼残りの病棟で、身の回りを整理していると.我が隊出身の田中某上等兵に出会う。
 身長一七〇糎以上、一見頑健に見えたが、二言、二言話しをしていて、彼は脳性マラリヤと分る、突拍子もない話が出て来る。
 加古川の出身とか、其の後も爆撃は毎日来て居た様であるが、彼は無事であったか、内地へ帰ったか、果して彼は誰であったのか、今名簿を見るも該当者が見当らない。

 私はこゝも長居する処でないと思い、休養そこ/\で、五月四日頃一人で出発す。何日分かの米とイカンキリ(小魚の塩漬)を持って。骸骨に破れ衣をきせ、破れ地下足袋を履いた兵の姿を想像して下さい。
 内地よりの履物は、既に先きの湿地帯で駄目になり、以後地下足袋行軍であった。

14.  日本軍の憂色徐々に色づく

 カンビルか、レンタゴン附近と思う。
 五月も中頃を過ぎたでしょうか。
 カンポン(部落)が左手に可成り広い地域に三〜四軒が点在していた。
 家の人々は既に、いつの頃からか避難していると見えて、誰も居ない、居るのは家畜のみ、しかも犬猫豚も鶏も同一場所で放し飼いで、彼等はちゃんと逃げもせずに共同生活を行っている。
 私が急に腹痛を感じ、用を達す、彼等特待っていましたとばかり清掃してくれる。
 彼等家畜は部落の清掃屋なのでしよう。

 広瀬さんの記に、当地レンダゴンに柳川君が永眠した由を知るも、当時は夢にも知らず、唯我が身を憂いつゝ歩一歩と歩き続けていた。
 私はセガマ出発時、支那人の散髪屋に中耳に傷を受ける、以来、中耳炎とマラリヤと下痢で終戦迄苦しめられた。
 只中耳炎は三ヶ月程で自然完治したが、今日になっても其の後遺症が出て来ている。
 毎白/\スコールは来るが好天は続く、今日も一人で知らぬ道をとぼ/\と、明日からの事を考え乍ら、自分の心にむち打って、はかどらぬ足で唯歩く。
 谷川の橋を渡って左手に百坪程の小池を見付ける、魚が「バニャ/\」(沢山)泳いでいる。



 右側はダラ/\坂の上り林になっている。
 道路の真中には大きな岩がポツンと座っている。
 思わず岩に腰を掛け、林の方を見る、向うさんもこちらを見る、目と目が合う、野牛であった。
 しばらくは私の様子を見ていたが、銑を構えたらスタコラと逃げて行った、ヤレ/\一服。
 行く先々の事を考へる、何の役にもたゝぬのに、どうせ成る様にしか成らんのに。
 先は食う事が一番、今日は気分がよいらしい、魚を取る事を考へ、向う岸の方に目をやる、えらい物がいた。

 枯木の大木の上に、胴径二十糎もある大蛇がトグロを巻いている、一発見舞うも当らず、弾は頭をかすめる、蛇はやおら頭を上げて水中深く潜って消えてしまう。
 少々うす気味悪し、気を取り直し、池へ二発。三〜四十尾の魚が浮上、思わず腰迄つかって、かき集め、久し振りの焼き魚でマカンブッサル(大食)する。
 空腹と栄養補給、糧秣の食い延ばし、一石三鳥の効があった様な気がした。
 昨今の私の体調益々衰弱の一途をたどる。
 本隊は今いづれの地か、何が起っているか、知る由もなく、唯々毎日本隊に一日も早く追い着き度く、老人が杖を頼りに歩く様に気だけはあせっていた。

15.  サバ州の汽車

 五月二十五日頃、ケニンゴーに着いた。
 飛行場があり、取ペない飛行機だが一機、擬装して隠してある。
 珊瑚岩を敷き詰めた小さい乍らも立派な飛行場がある。海岸の近きを悟る。
 私が飛行場へ着や否や、突然の爆音、思わずタコツボへ飛び込む。
 機銑の乱射で生きた心地なし。
 近くに学校の様な建物があった。今夜はこゝで世話になる事ととする。
 昼間はどこへ行っても、軍人も民間人も人影は総てなし、無人部落の様である。
 恩朝又飛来す。宿舎の前のゴム林へ逃げ込み銃撃を防ぐ。
 何機だったか、学校は飛び、ゴムの実は弾丸の如く、伏している我々の頭上へ降り落ちる。
 夕刻、メララップへ行く自動車便のあるを知り、数人で便乗を頼む。

 五月二十七日頃、メララップに着く、体調益々悪化、即野戦病院入りとなる。
 当り一面のゴム林で、野生のワラビが群生している。
 防空的見地から、昼間はゴム林に疎開し、夜間は病院内に帰るという日課であった。
 疎開中は、常に補助食の採集で、野生ワラビ採りを行い病院へ差し出す。
 私達はよくワラビの塩揉み等で、漬物と称して腹のたしにした。
 病人の総てが、マラリヤ、栄養失調の人々であった。
 一日二度の食事であるが、ワラビの中に粥が少々、と云ったもので、薬はキニ-ネのみ、栄養失調に対する対策は全く無く、ただ休養のみで約二週間休んだが、別に元気に成った訳でもなく、自然死を待つのがいやさで、退院を申し出る。
 実は本当に其の時そんな事を考へた、このまゝ此の病院に居れば安全かも知れぬ。だが永久に本隊には帰れないし、それ計りか、最悪の場合は自然死が来るだろうと思った。

 軍医が、これより先は非常に危検なので、一人で行く事は不可、二人以上との事で、何隊の人か不明のまゝに、西村兵長と云う人と共にテノムに向って出発す。
 私はメララップからは汽車が走っていると開いていた。だが其の楽しみも夢で、戦況我に利非ず、どうやら豪軍の掌中にあったらしく、レールを眺め乍らテノムへ向けて歩かねばならなかった。
 彼、西村君は私よりも若く、大変元気であった。頼もしく思い随行するも、やはり体力の差と云うか、こゝでも私は彼と行動を共にする事が出来ず、彼は先にテノムに着いた筈である。

 私は一歩一歩、鉄路の枕木の上を、路肩は狭くて体のバランスが取れず、枕木と土とを交互に、ビッコの人が歩く様であった。
 ボーホートの河を雑木林越しに左に眺め乍ら、唯一人トッチンコ/\とビッコの人が歩く様にテノムへ向っていた。
 その時林の切目が百米程続き、黄水の流れを間近かに見えかけた時、突然、対岸よりダダダ/\と銃撃を受ける。
 私の来るのを見ていたのかも知れん。
 思わず、レールを楯に身を伏す。目の前に砂煙が上る、ヤラレル、一瞬弾はビューン/\と音がする、あゝ助かると思った。
 人は飛び来る物体を防ぐ本能とでも云うか、僅か十糎足らずの高さのレールに隠れて、いや、倒れる演技がよかったのかも知れん。

 テノムに着いた翌日、西村兵長と日本人小学校の校庭で会う。
 別れて一週間も過ぎていないと思う。
 彼はマラリヤで枕元には飯盒に一バイ、一口も口にする事なく、呼ペ共答えず虫の息、あんなに元気であった人が、こゝでは毎日何人かの犠牲者が出ていた。
 私はこれら犠牲者の残した糧秣をもらい、又一人でボーホートへ出発す。
 もうこの頃になると前線へ行く人は殆んどいない。

 雨は相変らずの定期便で、上衣は着けていると云う名目だけで、有って無きが如し、縫い目だけが、たすきの様についているだけ、防雨外套を着て、天幕は雨又は野宿の時に、頭からかぶり、腰から下はいつも雨ざらし、日ざらし、これでは如何に頑強を誇る日本軍も、大自然の試練と強靱な敵を前にして、何をなすべきか。
 だが未だ、白旗を上げる、とは夢にも思っていなかったし、自分にも結論はわからなかった。

 此の辺の山林は今迄よりやゝ樹木が大きく、オランウータンがあちこちで見られる。
 オランウータンとはマレイ語で「森の人」と云う。一発と思うが、敵陣が近いので射てぬ。樹上での彼等の生態を見上げ乍らボーホートへと歩く。

 七月の何日か、私も大分朦朧としていたらしい、ボーホートの一寸手前でボーホートの河に遮られて、一日は暮れてくる、当りの様子は分からない、人影もない、幸い河岸に一軒の小屋を発見し一泊する。
 誰も居ないが中の様子では、誰かが居た様な跡があった。
 翌朝、小屋の隅でビヨ/\と泣く、手元にあった木片を投げつける、雛を三羽、焼鳥にして朝食の代用としてマカン。
 親鶏達は皆、材木の上が住家で捕獲は無理であった。
 昼間は敵機に対する警戒で自由に行動が出来ない、夜になって対岸より灯が見え、渡し舟も動き出し、七月十日頃に対岸へ渡舟す。

 基地の炊事場の様だった。
 真暗がりで人の顔もろくに見えない。
 久し振りに南瓜の塩煮で、大きな握り飯を食う。
 今、「あゝボルネオ」を読んで、軍直轄三六八大隊の木村部隊の本部らしき所へ迷い込んでいた事を知る。

16.  遂に敵兵に遭遇す



 何日後か、七月二十頃であったろう。
 混成中隊を編成すべく、どのような人選なのか不明のまゝに、夜間逆渡河を行う。
 長以下八十数名の一ケ中隊を編成、中隊長は何中尉だか忘却、三ケ小隊で各小隊は一ケ分隊欠だった様に思う。
 私は三小隊で三分隊長として出陣す。
 三小隊長の氏名忘却、本部附の軍曹で帯刀者であった。分隊員の名前も今は忘却。
 我が三小隊、長以下十六名、毛布と天幕、鉄帽に銃剣、弾薬、飯盒に水筒のみで、他の一切は捨てゝ陣地に向う。
 何れの地に布陣なのか、夜の事とて見当がつかず、唯前の人を見失なわぬ様に一列になって、小高い山の谷間を行く。

 辺りが非常に異様な臭気が漂う処で行軍は終った。
 全員腰を下して、翌朝迄仮眠を取る。
 明くる朝に成って驚いた。
 何んと当たり一面が埋葬地で、手とか足先が点々とのぞいている、臭う筈である。

 神戸の高取山の半分程の高さの山々が連なっている。
 愈々布陣、小隊長が山に登る間際になって、私に戦歴なき由を以って分陳長の交代を命じ、支那及満州歴戦の某上等兵を分隊長に(氏名忘却)替へる。
 運命とはこんなものでしようか、幸と不幸の別れとは、昼前に山に登る。
 時に七月二十五〜六日の正午近くである。
 今此の時の隊員の人々を思い浮べて、山田一等兵と云う尼崎出身者しか浮んでこない。

 左方面より一、二、三小隊の順に、中隊本部は二小隊の山麓に陣す。
 山頂より稍々下の地点で、前任の守備兵四〜五名と交代す、名古屋の人、岡山の人色々の人々が居た。
 交代引継ぎ早々、小隊長は敵状偵察のため各分隊長と一分隊より連絡兵一名が出発す。
 留守隊は、今の内に昼食を採る、昼食と云っても大口で三口もすれば終る量である。
 偵察隊が出て数分、皆の食事が終りかけた頃に、突然前方で、ダダダ/\/\、と機銃の音がした。

 今日(こんにち)も尚其の時の銃声が耳底深く残っている。「アレー、何ンヤ」我々は二隊に分かれて、右左に山を迂回して前の山へ差し掛った時、私と交代した分隊長が、「ヤラレタ」、と叫びつゝ足を引きづり乍ら山を下りて来る。
 足首を撃たれていた。
 手を差し延べる暇もなく、見上る、数十米の処に今出て行った人々の地に伏す姿を見付ける。

 小隊長、某軍曹、一分隊長、軍曹の二人は共に頭部貫通即死、二分隊長某上等兵は其の下方十米程離れた地点で肩より胸部貫通で即死、連絡兵某上等兵は其の下方大木の根元で、腹部をやられて重傷、後刻彼も戦死す。
 敵は目の前の直径四米もある大木に隠れて、我々の上っで来るのを待ち受け、十米近く迄寄せ付けて、自動銃で狙撃したのだろう。大木の回りには薬莢が散乱していた。

 私は直ちに嶺線迄這登り、敵の行衛を見定めた、居た、七名の豪兵が、特有のカーボーイ帽を斜に、肩から自動銃を掛けて、こちらを振り向きつゝ、雑談を交へ乍ら悠々と引き上げる姿を見て、思わず「軽機前へ」と叫ぶと云うより手まねきをした。
 必殺を思う。
 が一瞬、我が軽機果たして弾が良く出るのか、私が軽機の事を生半可知っているだけに、熟練の兵でもよく突込不良を起す事がある、まして性能や癖のわからぬ銃では尚更のこと、射ち出せば彼等を全滅させなければ、我々が全滅だ、我が方で確実なのは小銃のみ、弾がどこ迄射ち続けられるか、頭の中は裂乱した。

 上司より交戦せよとの命令は出ていない。
 一先づ泪を飲む、残りの者を助ける為に我慢をしよう。仇は討ちたし、装備なく、私の脳裏はコンピューターの如く駆け廻る。

 射つ事を断念して死者の後始末を済ます。(私は小隊長の形見として、財布を今も持っているが、右のような次第で探す糸口もない。お許し下さい。)

17.  目に見えぬ白旗

 一度に隊員の減少を見る。
 私以下九名、後刻小隊の指揮を預る。
 翌日からは、来る日も/\迫撃砲六門の洗礼を、八時、三時、六時の一日三回の日課で射って来る。
 我々は此の状態を、敵の出動、おやつ、帰宅と呼んで、全員の入る壕を掘った。
 道具は何んにもない、飯盒の蓋での手掘作業を夜を日に継いで突貫作業、二日目には延べ一坪程の丁字形の壕が完成す。

 食糧は毎朝、敵の出動時前に二粁程離れた基地迄、全員の握り飯を当番で受領に行く。
 山麓には畑があるらしく青い菜が、チラチラ見える、野菜の新芽であった。
 砲撃の合間を見ては取りに行く、空豆大の小芋、梨芋と称していた梨の味がする芋を、総べて生食で炊く事は出来ぬ。
 握り飯とて一日卵大の物を二個が定量なり。

 或る夜、立哨すべく山頂の木に登る。
 敵陣発見、距離にして一粁弱.歩いても二粁はあるまい。
 天幕を張って、電気をつけて、ラジオか何か音楽が聞こえて来る。
 彼我の差の甚だしきを慨く。
 遂に私はアメーバ赤痢をも併発し、一増衰弱が激しく、下のしまりがなくなり、歩行すらも困難となって来た。
 某日、一小隊陣地に火炎攻撃受けて、全良が下山した由を聞く。

 八月十日前後と思われる。
 此の一週間程前ぐらいと思う、中隊長の交代があり、新任の見習士官が着任して来た、氏名不詳。
 中隊長より敵状偵察の命があり、私独自の考へで、私が単身しかも素手で偵察に向かう。
 実を云うと、装具や銃を着けては、とても歩ける状態ではなかった。
 鉄帽のみ着用で、昼過ぎに出発、山麓では隊員が、私の行衞を見上げている。
 這い上がる様に、一つ目の山を越え、二つ目の山の頂上に着くも何等異状なく、又何らの抵抗もない、次の山を越せば敵陣は目の下である。
 先夜の展望で知っている。

 辺りを見渡すも風景に変化なし、これ以上の深入りは無用と判断、おやつの時間を気にし乍ら引き返す。
 中隊長に何と報告したかは忘却。
 隊員が口を揃えて、私に下山せよと進める。
 二〜三日後、中隊本部と連絡を取り、下山する事にする。
 山田一等兵も衰弱し、私と共に下山し入院す、其の後砲撃の音は一度も開かなかった。

 後日思うに、これが終戦であったのかも知れん。
 収容所とて名ばかり、山間の川床の空地に小舎を建てたジャングル内の設営舎と同様で、既に十数名居た。
 衛生兵が数人、皆、栄養の行き届いた元気者乍りであった。
 山田君は私の隣で寝て居たが、其の後はどうしたか、内地へ帰った事を祈る。
 数日後、武器の投棄を命ぜられる。
 戦は終った、あのラハドダツを出て以来半年の長期に亘り、唯歩くことのみ唯の一発も敵陣へ射つ事なく白旗とは。
 淋しくもあり、かなしくもあり、又一面やれやれ終った、と感がないでもなかった。

 九月一日前後と思う。
 汽車乗車のため病舎を出る。
 私は此の間にも下痢がひどく、隊と行動する事が出来ず又遅れて一人トボ/\乗車地へ行く。
 豪兵が七〜八名自動銃を持って鉄路上に立ち、私の来るめを待っていた。
 豪兵の一人が.「カモン、シットダウン」と云う。
 私の囲りに銃を構えて立つ、何時間居たか、誤発でもされたら、それ迄よ、犬死だ等々、陽照りの線路上で汽車の乗るのを待つ。

 彼我を比べるに、銃だけを考えても、我々は一分間に早射ちして五〜七発。私の現役当時千葉の歩兵学校の自動小銃で十五〜二十止りでしよう。彼等は各人が自動銑で回転弾倉又は帯状の弾倉で、少く共我々の二倍三倍の能力は持っている。
 身の程を知らぬ、恐ろしさを感じた。


18.  捕虜

 何時間待されたか分らないが、乗車に際しては非常に親切にしてくれた。
 愈々ボーホートのキャンプ入をした。
 再三の首実験と称する、戦犯者の摘発が行われた。いやな気持ちであった。
 連行される人も随分居た、重労働に就役とか。
 或る夜、寝つかれぬまゝに場内を散歩す、コブシ大の田螺を見つける、後日カタツムリと分る、煮て食う。
 又或る夜、水を飲もうと歩哨の立っている近くの水道へ近づくと、「カモン、/\」と云う、怒られると思って恐る/\近づくと、思いもよらぬ立派なケーキを差し出して「プリーズ」と云う、私ば思わずThank youを忘れて、「オーキニ、/\」と頭を下げ、やっと我に返って「Thank you」と声が出た、非常にうれしかった。

 彼等豪兵は士官は別であるが、兵は非常に教養が低い、字の書けぬ者、兵舎内ではゴロゴロ、パンツを着けている者はなく、皆シャツの裾を折り曲げて利用している。
 腕には皆刺青があり、時針、万年筆等は大変珍重する。
 十月末近くと思う、アピー(ゼッセルトン、現在のコタキナバル)収容所へ移る。
 所内は爆弾の跡で、あちこちに池になって、此等の溜り水が我々の飲料水となった。

 八木軍曹も浜辺軍曹も脇坂軍曹、岸本さん、亀井さん等々の顔が久し振りに見えた、他の人々は今日では思い出せない。
 山中隊、後に永井隊と変る、生き残り三十三名の顔がラハドダツを出て半年振りの再会が出来た。
 皆んなが、私を見るなり「幽霊とちがうか」、と不思議そうに言う、信じられなかったらしい。嘘の様な真実の話であった。
 其の浜辺軍曹も帰国後、淡路で交通事故で今は亡く、奥様よりの便があった。

 やがて私達病人は皆んなと又別れて別舎に収容される。
 此の頃、豪軍と英印軍の守備交代がある。
 彼等英印軍は、日本軍に対しては非常に友誼的で、一つの命令を出すにも同情的に、アジアの先君に対する尊敬の念を持って対応する。

 英印軍を大別すると三種に分類出来る。
一は英軍、二はターバンを巻いた印度人、三は頭をキユーピーの様な刈り方をした印度人とに分類出来る。三は殊になつかしげに我々を世話して、どちらが捕虜やら分らぬ、愛着を感ず。
 彼等はさすがにカレーの本場である、毎日の様に食す、粗食である。
 私はラハドダツ出発以来、一度のマンディーも、一度の衣類の洗濯も出来ず、衣類には例の虫が発生し、身体は疥癬だらけで治療に困る、収容所では総てDDTを噴霧器で全身に吹き付ける。

 年も暮れ、新年を迎えた。皆一同帰国の話が出初める、デマを取交えて。
 我が同舎の一人で葺合地身の人が突然脱走す、氏名忘却、今はどうなっているのやら。
 二月二十日頃と思う、所持品検査が始まる。彼等の目の前に所持品を全部さらけ出して、生活必需品のみの持帰りが許可され、其の他一切不可との事で、果ては記録物や金銭等迄も放棄してしまった。
 やがて帰国出来る事が決まり、衣類の補充があった。
 私は靴がないので支給されたが、これも員数支給で、私の足には合わず、唯靴があると云う形式で、着のみ着のままで乗船す。

19.  懐かしき故郷

 関西汽船のすみれ丸、三千屯級で我々病人のみ何人だったか(不詳)が一先発(いっせんぱつ)で出航す。
 二月二十四〜五日頃の様に思う。
 アピー港と云っても.日本の漁村漁港の様な木製の桟橋があるだけ、一路日本へ、誰が歌うともなく、ラバウル小歌の替え歌で、逮のくボルネオの山々を眺め乍ら、数々の思い出を胸に、今は亡き戦友の面影を浮べ乍ら、二度と見る事の出来ぬであろう島山をいつ迄もいつ迄も。
 皆んなの顔色も心なしか赤味を帯びて、安堵と活気が出て来た様に思う。

 マニラを過ぎた頃に暴風に出会い、毎日早朝は北航するが午後は南下を繰返す。
 やがて船はバシー海峡を渡る、或る夕方近く船の悲しげな汽笛が「ポー/\」と細長く響く、数人の人が船尾の方で合掌している。
 病死者の水葬式であった。
 明日は自分達の上を襲うのではと思い乍ら心を痛める。
 やがて台湾も過ぎ、沖縄附近を通る頃に又もや二体が、内地の土を踏むことなく、悲しげな汽笛と共に海に消える。
 無念、残念であった。

 三月二十三〜四日頃と思う。
 待望の内地、広島大竹の岸壁に着く。
 出迎の人々の顔、顔、顔。以外に内地の人々が明るく、元気で我々の一人/\を抱きかゝえる様に迎えて頂き、「ほんまに日本へ帰ったんや」という実感と涙がとまらなかった。
 大竹の収容所で何日かを過ごす。
 此の間に又一名の死者を出す。明日にでも肉親に会えるのに、何の因果と云うか、こんな悲惨な嘆きを見なければならぬとは。
 乗船した兵の氏名等、各自が寝ているだけで話の出来る者は極僅か、誰と誰が居るのやら知るよしもない。
 私はアピーで支給された靴を売り旅費の足しにする。
 手切れ金なのか、金百五十円の支給があった。
 草履を買う。

 神戸の大空襲の話を聞き取散ず便を出す。
 私は初めて、鏡の前に立ち我が身を眺める。白衣を着て三〇粁弱。
 一昨年七月末、内地を出てラハドダツ在住までの七ケ月間は人間としての、生活であった。以後七ケ月は言語に絶す、餓鬼道地獄。
 捕虜となって、やっと飢えを凌ぐ。
 戦争とは、いつの世も勝者も敗者も、皆、此の苦を味わうのであろう。

20.  闘病

 戦は終わり、日本は敗れたり。
 だが私にはまだ戦いは終わっていなかった。病との闘い、勝たねばならぬ。
 三月末頃だった、和歌山県高野山麓にある長野国立病院へ送らる。
 姫路を過ぎる頃に夜が明けた。土山、大久保、西明石、南側のみ眺め作ら、かっての川航、日本の川航を目の前に。
 見る影もない鉄骨の林と、弾痕の残る崩れしビルの焼け跡を・・・・、今も眼底に残る。
 塩屋、須磨、兵庫、南側を見つめる。霞がかかかって海岸近くにある我が家はかすんで判然としないが、もしか家は助かっているかも知れん。
 四月末近く、妻子揃って病院へやって来た。今其の時の長女も四子の母と成っている。
 六月末頃、母が来院し、焼け残った我家へ帰る。其の母も今はなし。

21.  書き足し

 これで私のボルネオ回想実録は終わる。
 一読されても何の参考にも役立ちませんでしょうが、在りし日の各戦友の多くの人々は、皆これ以上の苦しみ、難関を越えて、遂に力尽きし面影を浮べて頂ければ、自他共に幸と存じます。
 又各地で戦病死された方々と、同居又は居合せたにもかゝわらず、何等なす事なく誠に申訳なくお許し下さい。
別紙戦況図等は広頼様並に松本様の誌より拝借追記す。
  一九七八・八・三〇記

 元独歩三六七大隊、第四中隊(山中隊後永井隊) 第三小隊(永井隊後不詳)
 第四分隊(浜辺隊) 木之村 匡


らくがき

 ラハドダツは地図でお解りの様に、海岸のマンタロープからすぐ台地となり、そのまゝ丘や森の連続で山に入っている。
 雨量が比軟的多いので、台地や丘の凹部は忽ち川に早変りする。
 私は港の東側方面は殆んど行く機会がなく知りません。
 町の西北に湊川程の川があり。下流は製粉所で水牛が臼を引き廻して椰子粉及び澱粉を作る。
 椰子の若い実は酸味の甘い汁で、年頃になると「イカ」の身のようで、成熟すると革質化し、絞って油を採る。
 竹藪もあちこちに在って成長が早く、竹の子は目につかぬ、バナナの新芽を切っては竹の子と称していた。

 野生の親芋があちこちにあるも(日本では宮崎県の青島にある)これは猛毒です。葉は大きぐ傘の代わりにもなる。
 バパイヤ、マンゴ、バイナ,ブル、ドリアン等々……。
 水牛は牛と違った鳴き声で高い声を出す。初めは分からなかった、夜行性で夜の行動は敏捷である。
 海岸のマングローブの樹根あたりは「プブ」と称する小エビの住家で掬い採りが出来る。
 現地の人々はカイン(布)、燐寸、煙草、オバト(薬)、塩等は貴重な生活必需品である。
 山に入ると大木の皮をバランで剥いで上手に布の代用品を忽ち作る。
 家を建てるのも、袋を作るのも藤類で、釘等は一切使わない。
 主食は米やウビカユと称する、日本の竹を思わす木の根に山芋の様な根が出来る。色々加エして食す。

 いつ迄書いても尽きません。
 人生にやり直しが出来るものなら、今一度彼の他に行って、今度は皆の為に役立つ、後世の人々の喜んで頂く事を成し遂げたいものである。
 老人の独り言と笑って下さい。
 戦友の方々、御遺族の方々、いつ/\迄もお元気で、又来年も再来年もお会い出来ますようお祈りします。 (1978年 某日)

おわり

「あゝボルネオ」目次へ