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前略 既に公電により御承知下さるものと存じ侯も勇壮無比の御戦死の有様を涙ながらに御両親様に申上度く悪筆ながら一筆認め申す次第に御座候
昭和十九年九月二十六日我々部隊は任地ボルネオの一角「クラダット」に到着、明二十七日更に主任地00に向う途中「タジュンタブリ」沖合にて突如内地にては想像も相およばぬ南海の大台風に害せられ、船は大波涛の為に転覆、折りしも警戒の重任にありし御子息等十名の勇士は銃を手にしながらも波涛に呑まれ激浪に押し流され侯、各軍船は悪天侯と戦いながら或は大波濤と戦いつつ此の十勇士を救助せんものと板或は樽等を流し或又大綱を流し右に左に前に後にと急激な潮流を追い申し候も此の世の限られし武運に侯にや、遂に御子息は相共に押し流れし戦友に任地の山川を見たる喜びの言葉を此の世の最後の語り言葉としてのこし、更に姿を波間に正して天皇陛下の万歳を雄叫びなしつつ壮烈にも重任のまま讃国の神と相なられ申侯、誠に軍人精神の華とも申すべき勇壮無比なる最後に御座候
我々中隊将兵一同は此の御子息の尽忠無双の心意気にただただ感泣いたし御前に頭を垂れ敵米英撃滅に邁進いたし仇を復せんものと更に更に誓い合い、ひたすら武き益良雄浜一君の神霊の安からんことを東天を拝し念願いたしたる次第に御座候
御子息は姫路に応召以来、小躯なれど常に強健そのものの身体の持主にて何事も身を以て進んで事に当られ、又無口の方に候へば人一倍責任観念強く実行力に富み、常に分隊長、小隊長より信頼せられ、小官も此の勇士の将来を嘱望いたしおり侯、然るに今や此の勇士と幽明を異にして、見んとするに姿なく実に寂蓼堪えざる思い致しおり候
主任地000に来り清き草生うる岡を斎場と定め中隊将兵の手によって心より御子息の御英霊の慰霊祭を斎行申上げ侯、同時に中隊将兵の心ばかりの玉串料取り纏め奉奠申し上侯間、別便にて御送付申上るにつき御受納被下度願上侯
近く当任地に立派な陸軍墓地建設せらることに相成おり侯へば御子息の御分霊を永遠に此の土地の鎮め大東亜戦の護りとして当墓地にも御埋葬申上る予定に侯故御承知被下度候
さりながら御両親様を始め御令兄御家族各位の御愁傷の程遥かなる当地にありて御推察申上る時、筆をとる小官の心も乱れ如何におなぐさめの言葉をと迷い侯、何事も凡て御天子様の赤子なる我々軍人の常道と御諦め被下何卒御未練がましき事なく、御子息の御神霊となられた後の御霊祭を懇になし下され靖国の御家族として御英霊を生み育てた御両親として御立派に雄々しく御送日下さる様ひたすら念願申上る次第に御座候。
いづれ当時同船に乗り組みおりし分隊長、小隊長よりも御通知あることと存じ侯も取りあへず中隊将兵を代表して御英霊の尽忠無双の最後を伝へ申し御悔みに代へる次第に御座候
追而御遺霊箱は船の幸便あり次第御発送申上る予定なるも何分遠方のことに侯へば来年半ば過かと存じられ侯故為念申添おき侯
敬 具昭和十九年十二月十七日 中隊長 広 瀬 正 三
鎌田牧太郎殿
侍 史
貫兵団命令(三月二十一日一八・〇〇 於ボーホート)上記命令に基き我が部隊は西海州ブルネイに向い前進することとなる。
一、兵団はマンスド(ラブアン東北方約三五粁)ボーホート西端を連ぬる線以南ミリー州シプ州との境界に到る間の防衛に任ぜんとす。
三月二十八日零時以降防衛地内にある独歩五五三大隊を余の指揮下にす。ボルネオ燃料工廠(同配属部隊)ブルネイ建設要員の大部を防衛に関し余の指揮を受けしめる。独歩第三七一大隊は原所属に復帰せしめらる。
二、独歩第三七一大隊(奥山部隊)長は一部を以てメンバクール附近、主力を以て前田島に位置しマンスド、ボーホート西端を連ぬる線以西、ケラマン島西端メラボック河口を連ぬる線以東、パタス河、パタスダミット河、ムアラ岬東端を連ぬる線以北地区の防衛に任ずべし。
三、独歩第三七一大隊は灘作命第七十八号に基きその防衛区内所在の陸軍部隊を区署し、貫作命甲三十三号及同参謀長指示に基き陸上防衛に関し防衛区域内所在海軍部隊を指揮すべし。
四、独歩第三六六大隊(佐藤部隊)、独歩三六七大隊(岡田部隊)の各前進部隊はボーホート、ウェストンを経てまずブルネイに向い前進すべし。
五、独歩第三六八大隊(木村部隊)長はそのボーホート到着に伴い該地に於て軍直轄たるべし。
六、その他に関しては別命す。
七、細部に関しては参謀をして指示せしむ。
兵団長 明石泰二郎
下達法、371、366、367長を招致口達後印刷交付
配布先 隷下指揮下各部隊
通報先 家村、須賀崎部隊
報告先 灘軍
慰 霊 祭
此処ミリー州ブルネイノ兵舎ヲ斎庭卜定メ掃キ清メ祓ヒ清メテ中ツ床ニ神床ヲ設ケ御上二鎮メ坐セ奉ル
故独立歩兵三六七大隊長陸軍中佐岡田憲之命ノ御霊ノ御前二第一中隊長広瀬正三斎主卜成り謹ミ敬ヒ曰サク。
海行バ水ク屍山行バ草生ス屍大君ノ辺ニコソ死メ省ハセジト、古人ノ言ノ葉ハ今ノ世モ変ラジ吾力日本男子ノ道トシテ神奈賀良続キ伝へ来ル掟ニヤ有ケル
汝命ハシモ昭和十九年十月一日大東亜ノ大戦ノ最中仇等ヲ打撃メムト大命ノ任二独立歩兵第三六七大隊長卜成リテ任地北ボルネオ東海州タワオニ在リテ戦ノ務ヲ豆ヤカニ勤ミ労キ上司ヨリ実行力豊ナル武将卜信頼ヲ受ケ部下益良雄ヨリハ垂乳根ノ厳父ノ如ク尊敬マハレ且ツ慕ハレ有リケリ
昭和二十年初メツ方戦ノ情況ノ変二伴ヒ北ボルネオ、ミリー州ブルネイニ転ジ進ム事卜成リニ月十一日タワオ出発シヌ其ヨリ此ノ方泥濘膝ヲ没スル悪路モ或ハ渡ルニ橋無ク登ルニ道無キ難路ノ日モ或又草木流レ失サム大雨ノ日モ或ハ又真鉄モ熔クル灼熱ノ日モ汝命ハ常ニ身健ヤカニ心猛ク旺々シク部隊ヲ指揮為シツツ前進ヲ続ケ在リケルニ此ノ世ノ定マレル御命ニヤ途 中西海州タンブナンニテ身ヲ損ネ御病ニ冒サレ伏シ臥フ処トナリ
医師ノ種々尽ス術部下将兵ノ手厚キ看護ノ甲斐モ無ク思ヲ大東亜戦ノ必勝ヲ念ジツツ君ガ代ノ苔蒸ス悠久ヲ祈リツツ三月二十九日夜明ヲ待タデ眠ルガ如ク面静カニ護国ノ神卜神去り給ヘリ、
鳴々空蝉ノ世パカリ儚キモノハ有ズ大和桜ノ咲キ競フ頃ノ一夜ノ無情ノ嵐ニ散ルガ如ク齢末ダ四十五歳ノ男盛ノ阿多良猛キ勇将ノ散リハツルトハ阿那惜シキカナ鳴々悲シキカモ。
何レ時ヲ更メ選ヒ定メ懇ニ最厳シク汝命ノ御霊慰メノ御祭取行フモ今宵ハシモ取リアヘズ筒井新部隊長祭主卜成り命ガ夢ニダニ画キ有リシ新任地上陸ノ第一夜ナルニ依り部下将兵諸々ヲ御前ニ集へテ御霊慰メノ御祭斎ヒ行ヒ御前二伏拝ミ現世二有リシ種々ノ感謝ノ誠ヲ捧ケ奉ルト共ニ御前ニ種々ノ珍物ヲ献ケ拝ミ奉ル様ヲ神奈賀良平ケク安ケク宇豆那ヒ聞シ召シ給ヒテ今モ行ク先モ天翔り国翔ル靖国ノ荒魂卜成リテ天皇命(スメラミコト)ノ大御世ヲ守リ幸ヒ奉ルハ申スモ更ナリ
独立歩兵第三六七大隊ノ戦ノ武運ヲ守リ恵ミ給へト真袖ノ涙ナガラニ謹ミ敬ヒ恐ミモ白ス。
(註)さてこの転進に至るまで明石兵団長閣下はよほど迷われ心の整理に苦しまれたようである。兵団長という統率の最高指揮官であっても神ならぬ人間である以上尤なことであると思う。
部下部隊の奥山、佐藤のニケ大隊は瞬時にして玉砕し、一部残兵は今なお苦戦死闘しているやも知れぬ時、彼等のため手兵(筒井大隊)を以て弔合戦に出るべきか、軍政要員はともかくとして非戦闘員の邦人、婦女子までまきぞえにして彼敵軍の思うつぼに入るのも無念、後髪を引かるるも此処はひとまず撤退して軍司令部まで転進し陣容を立て直してからでも弔合戦おそくなしとの決心までには、ずいぶん迷われたようである。
戦後小生は兄が東京に在住の関係上、よく上京し何回となく閣下のお宅を訪ねて遊ばしていただいたが、対談中必ず一度はこの時の苦しかった心境を語られたものである。
貴官よりの報告により実情良く承知しました。現時点にありては疲労もさることながら餓死寸前、食糧確保のためカンポン(村落)に早く出ることが先決である、しかしカンポン更になし。
先遣隊として連日進路偵察、伐開作業の困難の程充分推察す、思いの外行軍に長日数を要し各隊とも食糧不足を来たし困却す、然れども貴官の中隊の十三日以来絶食強行作業に従事、目的地突破に懸命の努力実に深甚の敬意を表す。
此処に各隊より少量ながら集めたる白米を貴隊に呈す、御意をくみ益々御奮闘を祈る。
奥平隊へも人員割配当を願う。
筒井大隊長
広瀬中隊長殿
小口補導官補 係 | アンダプァン村の戸数調べ左の如し。 人口激増の有様なり。 現地人家屋も又新建設せられつつあり。 | |||
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長 | 戸数 | 同居 | 単独 | |
張 幹林 | 十八 | 四 | 八 | |
杜 三 | 十三 | 一 | 四 | |
北野補導官補 係 | ||||
横 桂芳 | 十二 | 一 | 三 | |
葉 恒 | 十 | ○ | 五 | |
彭 堯 | 九 | 二 | 二 | |
印度 人 | 十三 | ○ | ○ | |
計 | 七五 | 八 | 二二 |
九月六日八時 陸軍兵長 中津喜顕共に苦労して来た者が次から次へ幽明を異にしてゆく、この世の無情を残念に思う。
九月七日十六時 陸軍伍長 夏木正信
九月十日七時 陸軍兵長 藤本幸夫
この藤本は去る七月十日ブルネイ戦の時石炭山に於て我が隊に来た者である。何を悲観せしかマラリアの高熱に頭を冒されたのか手榴弾で自殺なす、原因調査中。
九月十三日三時五十分 陸軍上等兵 萩原政市
いずれも黄泉の客となる。
九月十六日死亡 陸軍二等兵 小野次男(所属本部)両名のため告別式を行う、悲しいかな。
本日午前七時死亡 陸軍二等兵 石橋昭一(所属銃砲隊)
右両名はケマボンにて仮編成の際当中隊に来た兵等である。いずれも六月に現地入隊したものなり。
巻頭の ことば
ああ春の夜の無情の嵐に山桜の散るが如く、生死を相共に誓いし多数の部下益良雄を護国の神鬼として幽冥に送る。ああ悲痛の極なり、ああ惜しき極なり。
昭和十九年七月二十八日動員令の大命に依り尽忠奉公の諸人等と始めて隊長、部下の深き緑を結び万葉の一防人の詠める、かの「今日よりはかへりみなくて大君の醜の御楯と出で立つ吾は」の心意気を今の現に、波涛万里を渡りて同年十月六日に任地北ボルネオ東海州「タワオ」に着きぬ。
馴れぎる赤道直下の灼熱に堪え、瘴癘を冒し、一部を以て防衛の重任を遂行し主力を以て陣地構築作業に従事せり。此の間熱地の疫癘マラリアに斃れしもの幾人ぞ。
明くる昭和二十年「レテイ」、「フィリピン」の戦況我に利あらず、我々部隊も命ぜられるままに北ボルネオ横断転進開始せらる、我が中隊は二月二日患者及び弱者六十六名を残置し任地「タワオ」を後に一部を第二号兵站線、主力余以下八十六名は第二号兵站線を出発せり。百数十里の長路加うるに雨期にして、ジャングル内の悪路は泥濘膝を没しなおかつ食糧確保少なく医療設備なき兵站線の不備は行軍部隊をして予想以上の飢渇と困難に遭わしめ、毎日落伍者その数を加え行けり。
中にも厳父と部下将兵一同の慕いたる岡田憲之部隊長殿を「タンブナン」に於て、又余の同郷の士堀尾部隊副官を「メララップ」に於て各々黄泉の客となりたることなり。
四月十七日出発以来ニケ月有半にして余以下僅かに二十八名目的地たる「ブルネイ」に到着せり、憩う暇なく部隊は新しく筒井部隊長を迎え中地区警備隊となり、中隊は同地南東地区たる「ツトン」道四・五哩地点の陣地確保を命ぜられ、毎日百余名の現地人作業員を督励しつつ陣地構築に従事せり。而して五月九日盟邦ドイツの遂に連合国に無条件降伏の悲報を聞けり。
同年六月に入るや敵機の飛来甚だしく度数を加え、爆撃熾烈を極む。俄然七日には敵は艦砲射撃と相俟ちて前田島及び「ムアラ」に上陸なし来れり、戦況は花火の導火線の如く瞬時にして拡大され「ブルネイ」に於ける戦闘となれり。
兵器少なく兵員又多大の消耗なせり、我は必勝を信じ悠久の大義に生きんものと心に誓い命ぜられるままに四・五哩の陣地を捨て、「ブルネイ」北側に戦力増強加入なし、部隊の右第一線として「ブルネイ」河を背水に該陣地を死守交戦せり。此の時に於ける中隊の将兵数は第一号兵站線の東伍長以下の安着と逐次落伍者の追及及び現地召集者等にその数は増したりといえども僅かに中隊長以下五十五名たりき。
戦局は日に増し燐烈となり十三日夜を期し兵団は後退のやむなきに至りぬ、夜暗を利用行動するといえども照明弾白昼の如く炸裂、各種砲撃綾なす中を不備な手漕ぎの丸木舟等に各々の身を托し「ブルネイ」河を渡河、サエ山に引き去り立て籠れり、兵にあらざる邦人等も義勇隊を編成しよく日本人としての面目を完うしたり。善く処し善く戦うも戦闘遂に我に利あらず、ああ前田島警備の奥山部隊、北地区警備の佐藤部隊は各々任地に遂に玉砕なせり。
わが部隊も又此処サエ山を良き死所と定め両部隊の弔合戦をなさんと将兵相誓い、或は斬込隊となり或は夜襲を以て彼に酬いたり。
太刀は折れ弾丸はつくとも吾が魂は、すめら御国を千代に護らめ
拙詠なれど当時の余の心境なり。
十五日夜兵団の決心俄然変更し、負傷者、患者、邦人、婦女子等を護りつつ軍司令部の位置を求めつつ新戦場に転進軌道することに決せられたり。而してこの転進こそ筆舌に絶する大困苦と大困難の連続にして地図もなく、道もなく、人気もなき処を来る日も来る日も進路と食糧を求めつつ衣は綻び靴は破れるままに軌道しぬ。殊にミリー州、西海州の国境山脈越えはその極に達し、兵団の先遣隊として常に先頭を伐開前進せる我が中隊将兵は遂に食糧は尽き、欠食の数は日毎に加わり、遂に食せぎる日も来りぬ、しかし任重し、カなき身休に鞭打ちつつ泥水に腹を満たし、苔の煙草に気を慰し、その任を遂行なせり。
七月二十七日、今は亡き戦友の神霊の加護と全将兵の辛苦の努力は報いられ西海州「ケマボン」に於て軍の後方警備の任にある警備隊に合流なし、此処に始めて軍司令部の傘下に馳せ参ずる事を得感激措く能わず。この間実に四十三日を要せり。
当地にありて大戦の大局並に「ボルネオ」に於ける各所の敵進攻の大要を聞知す。殊に「ポーホート」戦は今や彼我相対峙中なりと而して意外にも此処警備隊に前横断転進中病瘴のため落伍せし小野軍曹小康を得て追及中本情勢となり警備隊の一員として健在に服務しあり、部下戦友も彼との再会を夢の如く喜び合う、然し同軍嘗より池上兵長以下五名すでに「ボーホート」戦闘に壮烈なる戦死の旨を聞かされたり。
当地にありて数日の暫しの間草臥れを休め空腹を満たす、やがて軍命を待って部隊は三ケ中隊に仮編成なし、中隊は七月三十一日夜暗を利用新任地「アンダプァン」に向い出発せり。
八月二日任地に着く、当「アンダプァン」は草原地帯にして対空挺、対落下傘戦闘の要地たり。着任と共に地形偵察、対空監視、陣地構築、兵の棲息所建築、兵力農耕による食糧確保等片時瞬時の憩う暇あらず、この間長期の過労と甚だしき食糧の不足は毎日の如く、春秋に富む我が将兵をして黄泉に旅だたしめ地獄の絵巻を見る如く感ぜしめたり。
中にも小隊長佐野中尉の死は余をして悲嘆の底に落せしめたり、氏は神戸の人にして応召前は佐野合名会社の代表社員として家業に従事、町内会長或は氏子総代等の公職に身を忘れ小官等と共に応召するや常に軍務に精励上下に信望せられ、中隊にありては小隊長として先の横断転進或は「ブルネイ」の戦闘及び同軌道作戦に武功を樹てられ又常によく部下を愛撫せられ、部下より父母の如く慕われり、然るに今やこの人なし、四十四歳の男盛りを一期として神去れり、惜しき極なり。
八月二十四日に至り大東亜戦争の終局停戦せしことを聞知す。大君に於せられては八月十五日国民に対し御詔書を、十七日には陸海軍人に対し勅語を下賜せられたり。大御心の中如何ばかり拝し申すも畏き極みにして胸次を刺す思い切々たるものあり。
九月二十九日命あり正午「アンダプァン」発「テノム」に於て部隊に合し夜行軍を以て「ボーホート」収容所に向い出発、途中井上利男兵長を失い十月一日入所、同月十六日「パパール」に移り十一月末には「ゼッセルトン」収容所に移動なし来る。此処「ゼッセルトン」に於て罹病者、弱者として「タワオ」に残置しおきし第一小隊長三木中尉以下の部下将兵も既に入所しあり、而しその三分の一強は既に此の世の人でなく「タワオ」防衛の重任を完うなし、君が代の苔蒸す悠久を祈りつつ護国の神と化してあれり、彼部下御霊の安かれと祈るのみ、而して生存者は十二月二十三日余の懐に帰り来たれり、残留隊長として種々御奉公の誠を致せし三木中尉に多謝す。
今此処「ゼッセルトン」の浜辺の一小舎にありて、今は亡き部下益良雄の香しき勲功を偲びつつ来し方の跡を辿り以て巻頭の詞となす。本書の些少なりとも御遺族に対し香しき武功を伝うるの資に供さば余の幸甚とするところなり。
乞願くば御英霊靖国の宮奥深く神鎮まりて大君しらす豊秋津島根を元の国振りに一日も早く還らしめ給え、家族は勿論我々戦友に至るまで臣の正道を導き恵み給え。
終筆にあたり多忙な復員業務或は作業の中を本書の編纂浄書に尽力為し呉れし黒田曹長に絶大の感謝の意を表す。
昭和二十一年三月一日識之於北ボルネオ、ゼッセルトン
独立歩兵第三六七大隊第一中隊長陸軍大尉 広瀬正三
(註) 此の温容の閣下が旬日後再度現地に呼び戻され部下一同の戦争責任の罪を問われ死刑されるとは、勝てば官軍の連合軍の身勝手をうらむ、気の毒千万である、謹んで軍司令官閣下の御冥福を祈り申上げる次第なり。
(註) この慰霊祭が第一中隊として第一回となり、爾来今日まで毎年欠けることなく実施。回を重ねること二十五回に及んで いる。本年(昭和四十五年八月二十三日)たまたま部隊の御遺族を招き部隊慰霊祭の実施の運びとなりたこと誠に御同慶に堪えない次第です。
やがて懇親会となるも、時のたつを知らず、話のつきるを知らず。
出席者左の如し(順同不)
田口 勝、小野仁一郎、衣笠清、清水国太郎、萩原義治、
大和俊雄、蔭山真一、森川正三、塩崎仁一、福岡時夫、
竹本定雄、矢木 孝、片山進平、松尾忠良、山田助市、
斉藤 巍、柏木静夫、大西 清、楞野利夫、福山一男、
三木一夫、三輪八郎、北村徳通、黒田謙治、加嶋光次、
喜納喜巳三、広瀬正三 (以上二十七名)
巷にて同胞が同胞の我が軍の非をつき、上官侮辱をわがもの顔に言う悲しき風潮あり、かかる時私の隊にはかかる者は一人もなく、集まり下さる戦友各位に対しほんとうに感謝せずにはおられない。私はよき戦友諸氏に恵まれた幸せ者である。
老母も戦友諸氏の立居振舞いを見て吾に言う。
『何某様は車一パイ軍の被服を持ち帰りしとか、何某様は軍の医薬品を多量に持ち帰りしとか聞く、お前様は人の心を一パイ持ち帰りくれた孝子者なり』と。