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22.戦塵日記の抄

独歩三六七大隊第一中隊長  広瀬正三
  • 昭和十九年  七月〜十二月
  • 昭和二十年  一月〜六月 
  •  〃     七月〜十二月
  • 昭和二十一年 一月〜七月 

  • 昭和十九年

    七月二十五日
     今日は兼務社八幡神社境内に祀る天神社の夏祭である。妻と共に同社の清掃に行く、
     中食時役場より使あり、再度の御召の赤紙令状なり、神前に奠じて決意を誓う。
     夜、天神祭奉仕、高砂神社、泊神社の神社人を始め村人、知人等余の召集を伝え知って、はなむけに来て下さる。
     思うに余は咋十八年四月二十九日本務社荒井神社を約十万円のエ事費を以て本殿以下七簾工事を完工、正遷座祭を奉仕し神主として一生の仕事を終えたり、此の世に思い残すことなし、ひたすら御奉公出来ることをうれしく思う。

    七月二十八日
     早朝心身を清め御召の奉告祭を営み武運長久、敵国降伏祈願を行う。
     時刻学童の音楽隊に出迎えを受け村役場、神社関係者、親族、知人、隣人の多数に見送りを受く。同村出身者加島光次、中山一馬、中島麻治の諸氏等も一緒なり。又電車内では余の学友釜谷幸一君も同じ応召で赤たすきを肩にしている。
     姫路に於ては練兵場で黒田謙治曹長が奉公袋をさげてつっ立っている。彼は支那事変当時余の下に連絡下士として苦楽を共にした者なり、昔の荒井小学校長の子息で人柄もさることながら能筆家であり少年時からよく知り合った間柄である。今回とて出来ることなら同隊に居てもらいたい。早速四六部隊動員室に駈込む。幸い知人ありその旨を伝え承諾を得る。即ち四中隊編成要員だった彼を一中隊編成要員に変更してもらう。
     余は第一中隊長を仰付らる。

    七月三十日
     練兵場に出陣の整列、護国神社に参拝、同郷の士堀尾中尉引率指揮官(後、大隊副官)の指揮により姫路駅に至る。練兵場-沿道-駅広場には見送り人でいっぱいである。
     余にも母、妻の外横須賀在住の兄、妻の実家の両親、姉、姫路在住の菅原邦枝、芳枝の姉妹、従兄松本新蔵夫妻の見送りあり、多謝
     二十時姫路駅出発、下にくだる。

    八月一日
     門司港より乗船、船名「橘丸」なり。
     昨日下関宿営地に於て楞野軍曹衛兵勤務艮好なりと副官より通報あり、同軍曹に賞詞を与う。

    八月四日
     門司港出港、征途海上安全無事を祈る。

    八月五日
     二十時九州を離れ大海原に出る。思い出はつきず、ひたすら部下将兵の武運長久を念ず。

    八月六日
     四時二十分、昭南丸敵魚雷の為轟沈、将兵船員等船と運命を共にせるものの如し、悲痛!!

    八月九日
     敵潜水艦現わる、本船団よりも爆雷攻撃す。
     十二時、興新丸敵弾命中か火災と共に大爆発をなし一分足らずして轟沈す。

    八月十日
     台湾基隆に寄港。

    八月十二日
     台湾高雄港沖合に到着、空襲警報あり、敵機の来襲あり時限機雷投下して去る。

    八月十四日
     台風あり一船沈み、二船岸に打上げらる。敵機雷の捜索に努め空襲警報三回に及ぶ。

    八月十六日
     余の乗船せる橘丸船長は入江信次郎氏なることを知り驚く。
     入江船長は余と同じ荒井村の出身で若き日より船乗りを志望し長崎市に居住を構え、昨年の荒井神社御造営に際しても多額の浄財を寄進して下さった荒井村出身の成功者のお一人である。荒井神社ご造営の総代として活躍下さった入江繁治氏の従弟にあたる人でもある。かくの如く御氏名は熟知の人ではあるが余と年令差もあり早くより故郷を出ていられる為お目にかかるのは初対面である。荒井村出身四名の将兵を船長室に招じ高級ウイスキーで饗応して下さる。真に感謝に堪えず。
     入江船長の指揮せる橘丸に乗って征途に出るとは偶然か、神の思召か、余の船に憂いなし。本日高雄港に入港せり。

    八月十七日
     上陸を許され高雄に上陸、二十日振りに陸の人となる。酒うまし、氷砂糖の甘きこと、内地留守居の家族達にも味わさして上げたい。バナナ、パイナップル等南方の果実又うまし。

    八月十九日
     再度高雄に上陸を許さる。
     写真屋で記念写真を撮り内地留守宅宛送る。又特産ミノ虫袋等を求め送る。
     二十二時空襲警報発令、約一時間にして解除。

    八月二十日
     船団会報あり、瀬尾中尉出席す。
     第二小隊長岡田少尉病気回復未だ到らず、船員の室を乞い願って彼を移転、養生に努めしむ。

    八月二十二日
     午前十時高雄港出港、十四時船団編成完了、一路難海パシー海峡を渡りマニラに向う。
     本船団は十一隻、護衛艦三、捜索艦四にしてその指揮官篠田海軍大佐なり、而して本船に乗艦せらる。
     聞くところによれば一昨日同貫兵団の要員たる岡山編成部隊が敵魚雷のため被害をうけ行方不明三十名、重傷者三十名、軽傷者四十名を出し再び高難港に帰りたり。
     本朝決意を新たにすべく墜貝に精神訓話をなす。

    八月二十四日
     魔のバシー海峡も神助により無事通りぬけ十時フィリピン共和国アポリ港に著す。
     昨夜命令変更陸軍部隊は本港に上陸するに決せられたり、海軍護衛艦としてはこれ以上マニラまでの輸送は敵の状況から察して困難と判断せし模様なり。
     本隊は十七時全員異状なく上陸を完了せり。
     十九時アポリ国民学校に第一中隊、第二中隊、銃砲中隊と共に宿営す。
     兵員の顔にも一応の安堵の様子が見える。余も此処まで中隊全員無事故を神に感謝す。

    八月二十五日
     アポリの一夜は明けぬ、飯盒炊さんの朝食はうまし、陸兵はやはり陸で食わぬと駄目らしい。
     日課時限を定め実施せしむ。
     坂口好広上等兵糧秣受領使役勤務良好なるにより賞詞を与う。
     神宮皇学館時代の後輩大部大五郎君は同部隊作業小隊に所属しあり、余を尋ね来る。-パイを饗し伊勢の母館をなつかしく語り合う。この日同村出身中野文夫君に会う、彼は他部隊に属してビルマに向う途中、敵魚雷に乗船艦がやられ友軍と離れ離れになり現在このアポリに上陸待機中なりとのこと。
     我々を内地より此処フィリピン、ルソン島北端アポリまで輸送せし船団中の三艦が我々の下船後又も敵魚雷攻撃にあい轟沈せりとか。

    八月二十七日
     朝中隊将校と共に教会を見学す。
     高砂町出身作業隊所属釜谷幸一上等兵余のところに来り話をする。
     十四時二十分機帆船の人となりアポリ出発マニラに向う。
     大小の機帆船のため乗船区分に一考する。
     第二平安丸  中隊長、指揮班第二小隊1/4 第三小隊1/4
     第一日ノ出丸 第一小隊長、第一小隊
     勝栄丸    第二小隊長、第二小隊(1/4欠)
     勲 丸    第三小隊長、第三小隊(1/4欠)

    八月二十八日
     二十時「バドック」着予定を船の調子良く、船足を延ばして「マンダ」まで至り停泊、船揺れて眠れず。

    八月二十九日
     五時「マンダ」発十九時「サンフエルナド」着停泊。
     明日は一日中油、水、糧秣積み込みのため停泊の予定なり。
     敵魚雷の心配はなきも速度の遅いのにあせりを感ず。

    八月三十一日
     朝六時三十分「サンフエルナンド」出発、十七時「ポリナオ」という小港に着、人家らしきものなく只土人の小家らしきもの三軒見ゆ。兵等直ちに小舟に乗上して陸へ薪木、バナナ、椰子を満載して帰り来る。
     小舟にはバナナや椰子を積みなして よろこび帰へる 益良雄の顔

    九月二日
     昨一日は船より遥か故国の氏宮を拝せり。
     本朝三時出港、カツオ二本を釣る。
     夕刻バタン半島の端「カブカベ」に着港せり、二年前の激戦地バタン半島及びコレヒドール島は目前に夕日に照りて古戦場の姿を海に映せり。
       先輩の苦戦の跡を偲びつ、
       指さし教ふ バタンの浦島
       そのかみの血をば流せし戦場も
       今は静かに 千波ただよう

    九月三日
     十一時マニラ港入港、十四時上陸開始、本日は兵站宿舎で宿泊に決せり。
     姫路補充隊時代共に勤務せし西村大尉フィリピン派遣の大隊長としてマニラホテルに来ており突然にも偶然面会、昔物語りに花を咲かせり。西村大尉と共に夜のマニラを見学、マニラホテルに西村君と共に宿す。
     又兵一同と共に第一次任務とでもいうべきマニラまで安着せしを慶び、喜びをわかち合う。

    九月四日
     宿営地マニラ競馬場に移る。広大な競馬場なり、かつては盛大をきわめたのであろう。此処には所属不明の兵員が大勢いる。いずれも航海中に敵に見舞われ所属が不明になってしまい、原隊がいずれか何処に追及すればいいのかわからぬまま待機している者等のようである。それに比し我が部隊は何らの損傷なく全員無事到着を喜びたい。

    九月五日
     我が姫路大隊は敵魚雷をさけるべく荷物船たる機帆船に数十名ずつ分乗二梯団に分け、我が中隊は香川丸、興国丸、神風丸、喜宝丸の四船に分乗なし目的地ポルネオに前進するに決せられ、先行船団の輸送指官を命ぜらる。
     そのため離船、乗船その他これに伴う準備工作に多忙をきわむ。

    九月七日
     十五時乗船に決し、貨物の搭載、運搬に思わぬ時間をとり、又薪の運搬に自動車に故障を生じ益々時間は延引せり、然し各責任者は任を完うし二十時迄に任を終えたり。
     直ちにマニラ新築港第二突堤より乗船す。

    九月八日
     八時マニラ新築港出発、十四時コルベルス港着。
     同港はかつてバタン、コレヒドールの激戦時の軍港の要点にして古戦場たり。
     敵兵営は種々の砲弾に破壊され、草は生い繁り、虫の音すら昔を語れり、白骨、鉄兜、砲弾破片等当時の激戦の跡そのままに残れり。

    九月九日
     連日灼熱の晴天なれどスコールあり。
     十二時ワワ港著、飯盒炊さん行う。
     兵の土民に徴発、その他不当の交換を強いた為か、土民が当地警備隊に申告したる様子。我々部隊としても知らぬ顔も出来ず、皇軍の比島に於ける宣撫工作の協力の意味において兵の行動の悪しきを謝し金九百九十円也を支払いなせり。
     今後もあることゆえ各船の輸送指揮官に注意を発せり。

    九月十九日
     咋十八日夕刻「ポートプリンセザ」に着せり、此処はバラワン島唯一の良港たり、飛行兵、歩兵、憲兵等相当有力な警備隊がいる模様なり。
     兵には水浴をせしめ水の補充するなどマニラ出発以来十日間の小船の陸兵の船上生活には命の洗濯をする思いがした。
     この日同行の部隊中作業隊上等兵前川五郎君不幸病に倒れ黄泉の客となる、火葬にふせり。十五時納骨式を斎行す。

    九月二十日
     同船団中の荷物を此処「ポートプリンセザ」に揚陸せり。なお揚陸のため空船となりたる船に兵員を分乗せしむ。
     今日一日休養をとり明二十一日出港することとせり。

    九月二十六日
     昨二十五日、一昨二十四日は台風のため荒波となり、ボルネオを目前にして無名島に二日間避難す。
     本日十六時ボルネオ「クラダット」に着、初めて見る目的地ボルネオの地なり、英領の偽をしのぶ建築物が目にうつる。
     三木少尉以下三名に糧秣交渉を命ぜしも皆無の状態にしてその功なし、各船とも食糧あと一日分なり、極度に節米をして早く任地に向わねばならぬ。
     嵐の後の静けさか本日の航海は平安なりき。

    九月二十七日
     「クラダット」を出発僅かに二十五哩の地点「タジュンタブリ」部落にて船団中の興国丸(三木少尉)座礁す。それがため船団は興国丸が満潮にて浮き上るを待つに決せり。
     各船は自船の水を保有するため目の前に見ゆる陸にて炊さんせんものと上陸す。
     神ならぬ身、静かに満潮を待つべきに、その待ち時間に節水を意味して上陸炊さんを許可したのが裏目に出るとは。
     十五時頃天俄かにかき曇り台風か突風か、炊さん終えて各船に帰り来る小舟数隻が潮流に木の葉の如く流され、そのうち不幸にも座礁船興安丸から出された小舟が転覆せり。
     下手に停泊する万勝丸これを発見、樽を流し網をたれるなど救助策をなせどもその甲斐なく遂に転覆小舟の乗員全員行方不明となる。同じく流された小舟は各々無事岸に打上げられ後刻本船に帰り来たる。
     余がこの事故を知りしは夜の九時頃なるか、直ちに興国丸の三木少尉に人員を尋ねしむ、即ち行方不明の者は左記十名なり。
     萩原伍長、寺岡伍長、前田兵長、掘上等兵、天羽上等兵、亀井上等兵、野木上等兵、福田上等兵、鎌田上等兵、松本一等兵
     余は直ちに余の乗船香川丸より指揮班及び各小隊より人選して探索隊を編成し救助のため上陸せしむ、その人員左の如し。
     探索隊(十二名)
     長 寺川曹長
      福岡軍曹、中尾軍曹、岸本軍曹、平見伍長、山内兵長、妻鹿上等兵、寺村上等兵、一ツ屋上等兵、草訳衛生兵、
      興国丸船員二名
     十名の生死を案じつつその夜は何の情報を得ずして暮れ果てぬ。

    九月二十八日
     余は心配の余り一睡するを得ず、夜明け神の御告か雲形にて八名と二名の指示あり、はたせるかな、神助により十名中まず八名無事小島に流れあるを日の出と共に救助するを得たり、余の乗船香川丸は直ちに残る二名を探索に行く。
     十二時頃土民の小舟に白布を大きく振り振り我が船に近寄るを見る。近寄れば土民に舟を漕し己は舟上に起立して白布を一心に振る。彼とて昨夜は一睡もせず原隊と離れ離れになったことを案じ続けたであろう目はくぼみ声とて出ない全く丸裸の松本一等兵である。
      振りし白布は己がふんどしの如し。

     然しあと一名鎌田浜一上等兵の姿は夜に至るも遂に探索出来ず。鎌田上等兵は松本一等兵と共に椰子の実にすがり荒海の中に約二時間流されたという。松本一等兵の言によればその間に常に任地ボルネオの山川を見たるを喜び、陛下の万歳を幾度となく唱えつありという。かくして鎌田上等兵は荒海と共に水く屍と化せし模様なり、ああ悲しき極なり。
     日暮れと共に余は船団停泊位置まで帰り来たれり、然るに此処に又心配が生ぜり、即ち寺川曹長以下十二名の探索隊が未だ帰り来らぬ事なり。
     今日も心配しつつ夜は暮れぬ、余は甲板上に一人静座夜明けを待つ。

    九月二十九日
     早朝四時頃火の手を見る。これ正に探索隊の信号なりと信じ船よりもノロシ火を以て合図せり、夜明けを待ちて本船団より二ケの小舟を出し、沿岸伝いに余の船は早朝の火の手の方向に寺川曹長一行の捜索に努む、然し正午に至るも遂に手がかりなし、余の頭乱る。
     正午頃より海上は荒れ、小舟を流失する等の損害あれども兵員に異状なし。
     その時土民舟の船団に寄り来たるを発見、これ正に寺川曹長の一行が帰り来ると信じ船団停泊位置に帰り来りその真否を尋ぬ、然し一時の喜びにして一行は帰り来ておらず、本日中に何とかして捜索せんものと力を奮えども二日の不眠に声も十分出ず。
     各船には朝食の食糧もなき現状にかかわらず、指揮下船団中に第二中隊(笹川隊)もあり、自己中隊の災難に第二中隊までおつき合い願うにしのびず第二中隊は先に「サンダカン」に出発していただく。
     午後に至り最後の手段として第一中隊乗船四船を海岸線に沿い一線配置を船長に取らしめ各々正面巾に対し捜査方針を立て探索を命じたり。
     神助あり、天佑あり、午後三時最先頭喜宝丸正面に七名と第三番船余の乗船香川丸正面に五名がほとんど同時に発見、収容するを得たり。
     鳴々嬉しきかな、一行の健全なる姿を見て実に感慨無量!! 神助に多謝なす。
     後で聞けば寺川曹長以下十二名の捜索隊も馴れざる灼熱の地ジャングル(大森林)で道に迷い、報告のため発せし伝令福岡軍曹以下七名も方向を失いつつも殆んど同時に海岸線に出て来たことは全く神助といわねばなるまい。

    九月三十日
     五時出発す。一名生死不明なれども共に流されし松本の言に既に靖国の御霊と相成ったものと信じ死体も確認せずして出発するは後ろ髪引かるる思いなれど、全員の糧食は一日の余裕もなくやむを得ず出発せり。
     鎌田上等兵の御遺族に対し誠に申訳ない次第である。せめて余の心情として、本人待望の任地ボルネオに彼として初めて炊さんのため上陸足跡を印した「タンジュタブリ」部落の土と、突風に遭遇流され彼最終と思われる海辺の小石を第一小隊第一分隊長に命じ拾い帰らしむ。

    十月一日
     十四時、サンダカン港に着、便船を待ちて十七時上陸、兵団長陸軍少将能崎清次閣下に申告、閣下は非常に満足して我が部隊の無事到着をお喜び下さる。
     引続き部下将兵も上陸し長の船上生活がやっと陸に上り一同大喜びの様子、余も又嬉し、給与も先着の隊が心配してくれて良好なり。

    十月二日
     全員に外出許可、長期の船輸送の労を慰めしむ、将校は各々任に就く。
     大隊長陸軍大尉岡田憲之殿に到着の申告す。
     温和な風格の人なり。

    十月三日
     大隊長並に兵団長閣下の訓示あり、兵器その他資材受領のため山中軍曹を長として一部を残し夜二十三時再び機帆船に分乗してサンダカン出発、東海州タワオに向う。

    十月五日
     シャミル島に十四時着、邦人の厚意により全員水浴のもてなし下さる有難いことである。
     シャミル島には戦前より日本人約三百人住居し今なお食糧増産に挺進なせり、主として鰹の漁業に従事なす。この南方遥けき小島に邦人の活躍する姿を目の前にして邦人の偉大さに感激す。

    十月六日
     十八時いよいよ任地ボルネオ東海州タワオに着、十九時三十分荷物引揚完了。
     大隊長及び遠藤中尉(本部付)飛行機にて先着しており、我々上陸部隊を遠藤中尉の案内にて各宿舎に入る。
     途中大スコールあり、兵員、兵器ずぶぬれとなる。港より宿舎まで三キロはあるだろうか大雨とくら暗で遠く感じる。
     宿舎は元小学校の跡らしく二階建一棟、平屋建一棟、すぐ真の小高いゴム林内に急造の日本式兵舎一棟があり、我が第一中隊と作業隊がこれら建物に入ることとなる。

    十月七日
     全員無事着せしを慶び、祝詞を中隊全員に訓話なし今後の奮闘を誓い合う。兵団司令部に行き閣下に安着の申告をなす。

    十月八日
     大詔奉戴日たり、内地の様を思い出す。地形偵察を大隊長と共に実施する。

    十月九日
     今日も昨日に引き続き地形偵察、飛行場附近及びクク山方面なり草臥を覚ゆ。

    十月十日
     我が荒井神社の秋祭の日なり、南方遥けきボルネオより遙拝なし部下将兵の武運を祈る。
     母、妻は祭礼のため今頃は多忙をきわめているだろう。
     第二、第三小隊長をつれ再び飛行場南側地区の偵察を行う。

    十月十一日
     夜大隊本部に出頭、大隊長と共に陣地の打合せを行う。

    十月十二日
     第一、第二、第三の各小隊に陣地構築の部署を命じ作業開始す。
     中隊指揮粧位置にもトーチカ式のものを作るべく鉄木と称する重くかつ堅い資材を調達して来る。
     各小隊の現場を監督しつつ榔子の木陰に兵を一人ずつ順次呼び寄せて身上調査を始む。
     一日十人程度しか出来ない。しかし兵の一人一人を熟知しておくことが指揮官として必要な事である。共に戦わねばならぬ部下だからである。血の通う家庭の一員であるからである。

    十月三十日
     連日の陣地構築作業に兵の革臥も出て来ている模様なり。
     灼きつくような赤道直下の暑さもさることながら「マラリア」という風土病に悩まされる。

    十一月三日
     今日は菊薫る明治節なり、遙々此地より将兵と共に神拝を行う、同時に精神訓話をなし、層一層の忠節を誓う、兵員に休息を与う、大隊本部に於て将校の会食あり出席。

    十一月五日
     今日、明日の二日にわたり兵団長閣下、大隊長殿の陣地視察。難点、強度その他諸注意をうく。
     資材不足に十分な陣地構築は不可能に近い。しかも約二十日余りの日程では十分なことは出来ていない。
     閣下御自身もよく御承知とみえて無理な要求は少しもなさらず、武田参謀及び大隊長に右に左に歩き廻って第一中隊の陣地を見ていただき満足に思う。

    十一月七日
     後続某大隊到着の予定の日なり、我が隊よりもタワオ埠頭に応援に行かしむ。
     大部大五郎伍長来る、ブランデーを共に飲む、家庭、親族に通信をなす。

    十一月十四日
     姫路に応召以来苦楽を相共にした第二小隊長岡田新平少尉以下六名の中隊幹部が第三六九大隊に転出することとなる。
     昨夜はそれが為ささやかながら送別の宴をタワオ埠頭にある「あけぼの」で開いたのである。
     朝六時彼等の前途を祝し武運長久を祈って玄関まで見送る。
     中隊としてかくも多数の幹部を引き抜かれる事は真に手足を取られるも同然で残念であるが命令となればいたしかたなし。
     左記転出者の武運長久と益々御健闘を祈る次第である。
      陸軍少尉  岡田 耕平
      〃 軍曹  松原 敏秀
      〃 軍曹  国光 辰夫
      〃 伍長  前田房太郎
      〃 伍長  岡田 辰夫
      〃 伍長  坂元 克己

     岡田少尉を送る歌 四首
      一、相共に 召されて結びし 太刀緒を
           解かねばならぬ 命(ミコト)なりせば

      二、照り反(ハ)ゆる岡辺に立ちて兵(ツハモノ)を
           指揮とる姿 今は恋しも

      三、いかにせん タビオカ 生ふる岡の辺を
           主とられる 守る人なき

      四、別れも 時折来ませ 原隊(フルサト)に
          教し益良雄 君を待ちわぶ

    十一月十五日
     十二機空襲、双発双胴のP58なり。
     埠頭、飛行場附近の人夫少々戦傷あり、我が隊には被害なし。
     マラリアに冒され頭重し、中隊長会議に第一小隊長三木少尉に代理出席せしむ。

    十一月十六日
     今日も敵二十磯余り上空を通過す、B24の爆撃機なり。
     兵器その他資材受領のためサンダカンに残した山中軍曹以下数名の者は無事我が中隊に帰り来たる。彼の労をねぎらい家族の増えたるを喜ぶ。
     而して山中軍曹の言によればサンダカンで任を終え、タワオに向うべく出港いくばくも航行せぬ海上に於て敵機の来襲にあい乗船(機帆船)は沈没せり、自分等は中隊長の日頃の教訓を守り沈没船近き海上に出来る限り長時間浮いていることに努力した為友軍の救助船に引き上げてもらうことが出来たが、しかし受領者の指揮官岩佐中尉(本部付)は余と同郷加古郡にて二見町の出身、漁業盛んな浜っ子育ちだけに水泳に自信があったのであろうか「岸近し我について来い」と岸に向ったよし、この岸に向った岩佐中尉以下一行が行方不明で救助船がかなり捜索したが不明であったとか、おそらく駄目ではなかろうか、惜しむべし、鳴々。
     今日は未だマラリア癒えず、頭重し。

    十一月十七日
     本日も熱が続く頭重し、四発爆撃機兵舎の上空を通過する。
     家庭並に知人に便り認たむ。

    十二月三日
     前進陣地の偵察を大隊長と共になす。
     十四時より水中障害物の見学並に研究会あり、夜二十時より中隊将兵全員整列、征途の途中護国の神となった故陸軍兵長鎌田浜一君の慰専祭を営む、神霊の安かれと祈る。

    十二月十二日
     午前空襲あり、タワオ市街全焼す。
     公用のため市街に出ている兵あれども無事、
     戦機間近に迫る思い。

    十二月十七日
     鎌田浜一君御遺族尊父牧太郎氏宛悔状を認たむ、文面次の如し。
    前略 既に公電により御承知下さるものと存じ侯も勇壮無比の御戦死の有様を涙ながらに御両親様に申上度く悪筆ながら一筆認め申す次第に御座候
     昭和十九年九月二十六日我々部隊は任地ボルネオの一角「クラダット」に到着、明二十七日更に主任地00に向う途中「タジュンタブリ」沖合にて突如内地にては想像も相およばぬ南海の大台風に害せられ、船は大波涛の為に転覆、折りしも警戒の重任にありし御子息等十名の勇士は銃を手にしながらも波涛に呑まれ激浪に押し流され侯、各軍船は悪天侯と戦いながら或は大波濤と戦いつつ此の十勇士を救助せんものと板或は樽等を流し或又大綱を流し右に左に前に後にと急激な潮流を追い申し候も此の世の限られし武運に侯にや、遂に御子息は相共に押し流れし戦友に任地の山川を見たる喜びの言葉を此の世の最後の語り言葉としてのこし、更に姿を波間に正して天皇陛下の万歳を雄叫びなしつつ壮烈にも重任のまま讃国の神と相なられ申侯、誠に軍人精神の華とも申すべき勇壮無比なる最後に御座候

     我々中隊将兵一同は此の御子息の尽忠無双の心意気にただただ感泣いたし御前に頭を垂れ敵米英撃滅に邁進いたし仇を復せんものと更に更に誓い合い、ひたすら武き益良雄浜一君の神霊の安からんことを東天を拝し念願いたしたる次第に御座候
     御子息は姫路に応召以来、小躯なれど常に強健そのものの身体の持主にて何事も身を以て進んで事に当られ、又無口の方に候へば人一倍責任観念強く実行力に富み、常に分隊長、小隊長より信頼せられ、小官も此の勇士の将来を嘱望いたしおり侯、然るに今や此の勇士と幽明を異にして、見んとするに姿なく実に寂蓼堪えざる思い致しおり候

     主任地000に来り清き草生うる岡を斎場と定め中隊将兵の手によって心より御子息の御英霊の慰霊祭を斎行申上げ侯、同時に中隊将兵の心ばかりの玉串料取り纏め奉奠申し上侯間、別便にて御送付申上るにつき御受納被下度願上侯
     近く当任地に立派な陸軍墓地建設せらることに相成おり侯へば御子息の御分霊を永遠に此の土地の鎮め大東亜戦の護りとして当墓地にも御埋葬申上る予定に侯故御承知被下度候
     さりながら御両親様を始め御令兄御家族各位の御愁傷の程遥かなる当地にありて御推察申上る時、筆をとる小官の心も乱れ如何におなぐさめの言葉をと迷い侯、何事も凡て御天子様の赤子なる我々軍人の常道と御諦め被下何卒御未練がましき事なく、御子息の御神霊となられた後の御霊祭を懇になし下され靖国の御家族として御英霊を生み育てた御両親として御立派に雄々しく御送日下さる様ひたすら念願申上る次第に御座候。

     いづれ当時同船に乗り組みおりし分隊長、小隊長よりも御通知あることと存じ侯も取りあへず中隊将兵を代表して御英霊の尽忠無双の最後を伝へ申し御悔みに代へる次第に御座候
     追而御遺霊箱は船の幸便あり次第御発送申上る予定なるも何分遠方のことに侯へば来年半ば過かと存じられ侯故為念申添おき侯
    敬 具
     昭和十九年十二月十七日      中隊長 広 瀬 正 三
    鎌田牧太郎殿
        侍 史

    十二月十八日
     十時大空襲あり、約二時間余に及ぶ、我が中隊全員異状なし。
     岡山部隊で一機撃墜せり、しかし乗員は落下傘にて海上におり敵水上機に救われ逃げしと聞く。

    十二月二十二日
     陸軍兵長角野信雄、陸軍一等兵辻勇の両勇士は熱帯病のため遂に眠る如く死去す、時に夜の二十一時五十五分なり、悲しきかな。

    十二月二十三日
     朝六時十五分、陸軍一等兵 美原伴一
     夜十時二十分、陸軍上等兵 三成隆三
     又もマラリアのため死去す、残念なことである。

    十二月二十四日
     空襲あり、我に被害なし、全員無事。

      ・病気(いだつき)と申せしものの大君の
               赤子失ひ申しわけなし

      ・故郷(ふるさと)に妻子もあらむ益良雄が
               病のために散るぞかなしき

      ・いと悪しきマラリヤ病のそが為に
         愛(かな)しき部下(とも)は幽冥(かくりよ)にゆく

    十二月三十日
     右支点陣地の清き岡を斎場として先に英霊となりし角野信夫命、三成隆三命、美原伴一命、辻勇命の四柱の中隊葬を斎行なす、鳴々惜しきかな、鳴々悲しきかな。

    十二月三十一日
     昭和十九年も本日を以て暮れんとす。
     留守宅にある我が家は神社であるため征途に出でて、主不在の家族は多忙をきわめているだろう。我は神明の加護によりすこぶる元気旺盛なり、中隊将兵の武運もまず上々。
     中隊事務所に明日の元旦のため神棚を設け、七五三縄をはりお祝いの準備なす。
     兵員も又門松代用か門椰子を作り喜々としている模様、隊長会議あり出席、部隊の大移動を知る。


    昭和二十年

    一月一日
     六時二十分元旦遥拝式挙行。
     祖国日本の弥栄、天皇万歳、我部隊の武運長久、敵国降伏を祈念なす。
     指揮班将兵と共にタピオカで作った雑煮、現地酒のトソで元旦を寿ぐ。
     各兵舎にも何はなくとも麻で作った七五三縄、タピオカの雑煮、椰子で門松に似た門椰子等、元旦気分を味わっている。
     十三時半より部隊本部に於て将校の会食あり出席す。角隊にて余興を見る、特に現地人の踊おもしろし。

    一月五日
     兵団長閣下より図上兵棋あり、戦闘の一般を教示せらる。
     夜酒を頂戴す、久方振りに酔う。
    一月六日
     作業始めをなす。
     フィリピンの状況正に急を告ぐ、この日親展情報に敵大挙してフィリピンに迫るよし。
     神明我に恵みを与え給え。
    一月八日
     本年最初の大詔奉戴日であり陸軍始めの日である。
     兵団長閣下は下士官以上に対し日本国体に関しお話され、なお日本人的生死観について話をさる、有意義な訓話であった。午後現地人の音楽会あり、兵と共に聞く。
    一月十三日
     比島は正に日、米の大決戟が演じられているようだ。
      総将  マッカーサー
      中将  ウォルタークルガ  米六軍(陸軍)
          ギンケード     第七艦隊(海軍)
          ケネーデー     極東航空部隊
          ハルデー      第三艦隊(海軍)
     上記米軍がサンフエルナンド附近のリンガエン湾に来攻して来ているのである。
     我が陸海空軍が決死の特攻隊となり迎え撃ちしつつありと聞く、天地の神我が比島将兵に武運あれかしと祈る。
     今日夕刻十九時四十五分陸軍一等兵辻川正治マラリアのため戦病死なす、悲しき極みなり。
    一月十八日
     陸軍上等兵寺村軍二午前十一時マラリアのため死去せり、彼は余の後輩揖保郡室津加茂明神社、社家岡平宜君と同郷にして事務に適する兵であったのに誠に残念である。
    一月二十五日
     辻川上等兵、寺村兵長の中隊葬を謹んで斎行なす。
     去る二十一目軍司令官馬場正郎中将新たに赴任せらる。
    一月二十七日
     陸軍一等兵瀬川常雄、脚気とマラリア病とのため遂に戦病死す。
     時に十六時二十分なり、明る二十八日戦友相集い火葬に付す、御霊安かれと祈る。

    一月二十九日
     昨年十月六日タワオに上陸以来長いようであるが僅か四カ月、我が中隊の毎日の任務はタワオ防衛にあり、海岸線に対し灼熱とマラリアに悩まされつつも陣地構築作業に心血をそそいで来た。
     しかるに戦況俄然一変して此処タワオ東海岸よりブルネイ西海岸に部隊移動という命令である。
     姫路出発(中隊長以下一七六名)以来既に半歳の月日はすぎ昭和二十年の新しき年を迎えている。現時に於ける中隊作戦行動人員の変化左の如し。

     横断転進 二号線出発老 中隊長以下 八六
     〃    二号線出発者 東伍長以下  八
                      (九四名)

     タワオ残留、病人、弱者 三木中尉以下  六六名
     三六九大隊転出者    岡田少尉以下   八名
     タワオ防衛に殉じた者  鎌田兵長以下   八名
                   計    一七六名

    一月三十日
     西海岸に向うべく、東伍長、福山一男、中作平次、大和俊雄、下野正雄、野本長七、筒井銀三、河田衛生兵
     以上八名は、先発隊として一号線を出発せしむ
     (鉄砲隊森村中尉の指揮下に入る)諸勇士の健闘を祈る。
     又第二号線は佐野少尉以下二十七名、第一次宿泊地点に糧秣運搬のため一泊の予定を以て出発せり。

    二月二日
     愈々タワオ出発なり、余以下八十六名たり、上陸以来満四カ月にして当地を作戦のため去る。八時住み馴れし宿舎出発。
     途中、部隊本部通過に際し岡田部隊長に先行するを申告、部隊長より広瀬隊将兵に対し慈愛こもる訓示あり。
     本日は八哩地点で宿す。
    (註)
     横断転進を隣り村にでも行く如く誠にさりげなく、寸毫も気に留めていない様子が察せられる。
     しかしこの転進こそ、熱帯の道なき道の百数十里の長路の無謀な行軍であり、人間業で不可能を強いられた作戦であった。
     岡田部隊長、堀尾副官、山中第四中隊長もこの転進路で昇天し多数将兵が命を落し、姫路白鷺城下の健児部隊も一変して廃人部隊と化してしまったのである。
     世にいう「ボルネオの死の行軍」の門出とは、神ならぬ身誰が知ろう。
     以下部隊行動要図の参照を乞う。


     (拡大図)


    二月三日
     ジャングルの悪路たり、今夜は「アパス」に宿す。

    二月四日
     バロン着、邦人二名麻の栽培に従事せり、バロンより先は第三中隊、岡山部隊(三六七大隊の佐藤部隊か)先着しありて前進不能を聞く、余は中隊将兵及び第二中隊山本小隊を指揮下に入れ、バロン北方二粁の地点よりアパス問の作戦路強化補填に努む。

    二月六日
     斉藤軍曹、上野一等兵、藤井一等兵、萩原一等兵をタワオに連絡に行かしむ。

    二月七日
     七、八、九の三日の予定を以てカルパン河以南の道路偵察をなし、部隊長に報告をなす。

    二月十日
     楞野軍曹、岸兵長、水田上等兵の三名モステンに向って先発せしむ。
     赤松兵長、杉田一等兵の二名アパスに連絡に行かしむ。
     福岡軍曹、斉藤軍曹、塩崎兵長の三名インダラ砂漠に連絡。

    二月十一日
     紀元節の佳節なり、早朝遥拝式を挙行し、氏宮を拝し武運長久を祈る。
     黒田曹長以下一ケ小隊前進せしむ。

    二月二十三日
     「コヤ河」休止地点まで到着、荷物のため二日大休止することとなす。
     「ラハダット」-「セガマ」-「某地点」-「一〇〇K地点」-「八〇K地点」ー「コヤ河」に着くまでジャングルあり沼地あり、渡るに橋なきセガマ河あり、ともかく道なき道を歩みて此処まで来る途中落伍者五名。

    二月二十六日
     病人十三名「コヤ河」に残置(落伍者計二十名) 「コヤ河」出発「カポイ」に至る。総員余以下六十一名なり。

    二月二十八日
     咋二十七日は休止なし兵三名に物資を集めに行かしむ。
     「カポイ」発、次の休止地点「バダンガ」ー「ラグマ」を経て「甲」を目標に行軍を続く。

    三月三日
     先行の第一梯隊は「甲」地点に大体止しあり、我が中隊も現在地「甲」に休止するに決せり。
     近くに日産経営の農園ありとかで野菜にありつく、実に嬉しい。但し米はなく「イモ」粥にて空腹を満たす。
     六十一名の隊員概ね元気なり。
     十四時荷物を先発せしむ。

    三月十六日
     「パキナタン」着、余以下五十一名なり。
     当地通過部隊を聞くに
     三月十四日 佐藤部隊 最後梯隊
     〃 十五日 岡田部隊 第一梯隊
     〃 十六日 〃    第二梯隊 銃砲隊
     当第二梯隊第一中隊は明十七日当地を出発予定なり。
     当地点までの隊員の現況左の如し。
      「四二哩地点」出発人員   六十一名
      「ムハラット」残留(脚気)   一名
      「ボト」残留(脚気、マラリア) 二名
      「パパン」残留(マラリア)   四名
      「ミルル」残留(マラリア)   三名
                残留  計 十名

    三月十七日
     当「パキナタン」に病気のため三名の残留者を置き四十八名当地出発、セキンダンに向う。

    三月十八日
     「セキンダン」発「ナニバ」に着す。

    三月十九日
     衣はほころび空腹のままに長路悪路、悪天候の難行軍もどうにか目標が見えた気持がする。
     本十九日「ラナウ」に著すことを得たり、余以下四十七名なり、出発以来一カ月有半を経たり。
     此処にて明一日大休止する予定なり、給与も相当良く兵員一同大嬉なす。
     此処ラナウは高台にあり、北にボルネオ第一高山というキナバル山を仰ぎ視界広くジャングルは切り拓かれ交通の要所らしく明日からの道は舗装されているという。又友軍の他部隊も近くに駐屯している模様なり。

    三月二十日
     理髪をなし久方振りに人間に帰った心地なり、大休止して兵の体力気力の回復を図る。
     堀尾大隊副官追及し来たり我が中隊の兵の不幸を知らして下さる。途中病気のため残留した左の二名の勇士である。
     兵長 島崎芳郎 三月十四日十一時十五分帰幽 於ボト
     兵長 朝尾 勇 三月十五日十時三十分帰幽 於パパン
     両名は日頃真面目な兵であり元気旺盛な者であった。遅れても身休の回復次第追及して来るものとのみ思っていたのに誠に残念である。夜中隊全員二柱の英霊のため黙祷なす。

            ○
     左記の者現在地に残留養生せしむこととする。
      池上恒二上等兵  津田五一一等兵   以上二名赤痢
      長浜勇上等兵   米田保太郎一等兵  以上二名脚気
      柏木竹男上等兵  辻篤衛上等兵    以上二名マラリア
     中隊の荷物は現在地の輸送班に托すこととせり、荷物十個なり、荷物監視兵五名を付く。

    三月二十一日
     余以下三十六名「ラナウ」発「レンタゴン」に到る。十五時四十分着、全員元気旺盛。

    三月二十四日
     タンブナン着、ジャングル内の行軍に比すれば今日この頃の道は結構なものである。
     しかし毎日毎日歩き続けている我が行軍部隊にとって灼熱と衰弱は甚しいものといわねばならない。しかし任重し一日も早く任地に到着せねばならない。
     この地に於て兵の日用必需品を調達購入して支給せしむ、一人宛七円十八銭也。
     明二十五日はこの地で大休止なす。
     (註)
     厳父と仰ぐ我が部隊長陸軍中佐岡田憲之大隊長は長路の行軍に精魂はつきられたのであろうか我が通過数日後の三月二十九日このタンブナンの地で昇天せらる。

    三月二十六日
     「タンブナン」発-「プルタン」に到る。
     五名の病人タンブナンに残置なし、出発人員三十一名なり。
     「ラナウ」に荷物監視兵として五名は未だ本隊に追及し来らず。

    三月二十七日
     「プルタン」発ー「アピアピ」に到る。
     アピアピは開拓された所なり、青森県人某氏宅に宿らしていただく、多謝。
     明日はいよいよ初期の目的地西海州ケニソゴウに到着なす予定なり、感無量!!

    三月二十八日
     「ケニンゴウ」に着すを得たり。
     西海州屈指の町であろうか、商店街もあり日本軍政部の県庁もあるという。
     余の故郷にありて在郷軍人分会長時代(昭和十七年四月より昭和十九年七月今回の応召時まで)同郷の加古川町の分会長として親交ありし糟谷大尉が南方派遣某兵団長の副官として飛行機により内地より赴任途次このケニンゴウ飛行場に着せしとかにて偶然にも出会いたり、彼と共に兵站旅館食堂で御馳走にありつく。
     彼は内地から飛び来たパリッとした容姿、我は悪天と飢餓を克服し、密林と湿地を命がけで踏破し、部下将兵の健康を案じつつキナバル山脈の嶮難路を一歩一歩踏み越えこの地点まで約二カ月の月日を要して毎日歩き続け衣は破れ靴はすりへり精魂つきる一歩手前でようやくにして辿り着いた者である。比較にならない。しかし同郷人にかかる処で再会は実にうれしいものである。内地の模様を聞きつつブランデーの味は心労を忘れ草臥れた飢餓の胃袋にいやという程しみわたるを覚ゆ。
     兵団命令を受領す、左の如し
    貫兵団命令(三月二十一日一八・〇〇 於ボーホート)
    一、兵団はマンスド(ラブアン東北方約三五粁)ボーホート西端を連ぬる線以南ミリー州シプ州との境界に到る間の防衛に任ぜんとす。
     三月二十八日零時以降防衛地内にある独歩五五三大隊を余の指揮下にす。ボルネオ燃料工廠(同配属部隊)ブルネイ建設要員の大部を防衛に関し余の指揮を受けしめる。独歩第三七一大隊は原所属に復帰せしめらる。

    二、独歩第三七一大隊(奥山部隊)長は一部を以てメンバクール附近、主力を以て前田島に位置しマンスド、ボーホート西端を連ぬる線以西、ケラマン島西端メラボック河口を連ぬる線以東、パタス河、パタスダミット河、ムアラ岬東端を連ぬる線以北地区の防衛に任ずべし。

    三、独歩第三七一大隊は灘作命第七十八号に基きその防衛区内所在の陸軍部隊を区署し、貫作命甲三十三号及同参謀長指示に基き陸上防衛に関し防衛区域内所在海軍部隊を指揮すべし。

    四、独歩第三六六大隊(佐藤部隊)、独歩三六七大隊(岡田部隊)の各前進部隊はボーホート、ウェストンを経てまずブルネイに向い前進すべし。

    五、独歩第三六八大隊(木村部隊)長はそのボーホート到着に伴い該地に於て軍直轄たるべし。

    六、その他に関しては別命す。

    七、細部に関しては参謀をして指示せしむ。

                   兵団長 明石泰二郎

     下達法、371、366、367長を招致口達後印刷交付
      配布先 隷下指揮下各部隊
      通報先 家村、須賀崎部隊
      報告先 灘軍
     上記命令に基き我が部隊は西海州ブルネイに向い前進することとなる。
     しかし、幸いなることに四十粁先のメララップの地点には鉄道あり、そこまでは徒歩行軍もやむ得ないがメララップよりウェストンまでの八十粁は汽車輸送であり、メララップよりブルネイまでの八十粁も船輸送である。これを聞きし将兵勇気百倍するの思いなり。

    三月二十九日
     岡田部隊長殿の戦病死の悲報を聞く。
     三月二十九日朝四時なりと、任地に到着せずして亡くなられ、無念であったと御察し申上ぐ、御霊安かれと祈る。

    三月三十日
     鉄砲隊主力メララップに向い出発。
     中隊は荷物監視楞野軍曹、平見軍曹、杉田、荻原、岸の五名及び病人組岸本軍曹、萩原軍曹、天羽、夏木、吉本、石井、高石、小住相木衛生兵の九名、計十四名先行せしむ、途中無理なきを祈る。
     同郷の士堀尾副官午後に至りて到着し来るもマラリアの高熱にうかされ半狂乱の状態なり、大隊長亡き後副官に不幸ありてはと思い特に駐屯部隊に乞いて自動車を調達し彼副官と当番兵を同乗させメララップにある野戦病院に送る。
     かくの如く我が岡田部隊に非常事態に至れば余は部隊本部も合せ世話すべく決意しこの地に一両日止るに決す。

    三月三十一日
     中隊主力をメララップに向い出発せしむ。

    四月一日
     石山少尉は岡田部隊長の御遺骨を奉戴して来る。しかし石山少尉は疲労のため衰弱甚だしい。

    四月二日
     失神状態の石山少尉を自動車にてメララップ病院に運ぶ、余も同行す。
     余もこの日よりマラリアのため発熱甚だしい。
     四日 最高を極む、注射をなす。
     五日 熱下るも食欲出ず。
     六日快方に向う、十日までメララップに養生帯在。沖縄方面の戦況と内閣の交替を聞く。

    四月十一日
     島田、井上、土井、岩田の四名追及し来る。但し土井はマラリアのため入院せしむ。
     夏木も退院なし、午後には斉藤、浅原の両名追及し来る。
     午後六時メララップ発車ポーホートに至る。我が部隊の将兵もこの地にありて船便の順番を待ち合せあり。
     先行せし陸軍上等兵天羽昇このボーホートに於て今朝四時二十分昇天せりと。

    四月十二日
     昨日亡くなりし陸軍兵長天羽昇命を火葬にふし遺骨をひろう。
     彼は丈夫な身体の持主にもかかわらず今や姿を見ることあたわず悲しい限りなり。
     中隊将兵は「ウェストン」にいる由なり。
     寺岡軍曹マラリアのため現在地に入院、その他追及し来る我が中隊将兵合せ余以下九名、明日中隊主力と合流すべく追及することに決す。

    四月十三日
     二十時「ボーホート出発、「リンコンガン」に至る。此処にて中隊主力に追及し得たり、中隊主力将兵も身体疲労し次から次へ患者ある有様なり、将兵の健在を心より祈ってやまない。

    四月十七日
     船便にやっとありつく。
     ウェストン港よりブルネイ湾を横断「ブルネイ」に向う、余以下二十八名なり、乗船の人となる。佐野少尉草臥れが出ているのであろう身体の調子悪し大いに心配す。

    四月十八日
     四時三十分任地「ブルネイ」に到着上陸す。
     二月二日タワオ出発以来二カ月有半、此処に無事到着任を完し得たり、慶なるかも。
     しかしその人員たるや僅かに余以下二十八名なり。
     病気のため各地点に残留せる将兵の一人でも多く片時でも早く此の地に追及し来られんことを祈ってやまない。
     新大隊長陸軍大尉筒井与市殿に到着の申告す、爾後独歩三六七大隊を筒井部隊と呼称する。
     又新兵団長陸軍少将明石泰二郎閣下に到着の申告なす、御両人は転進の労苦を慰め下さる。
      ○幾山川越へわたり来て今日はしも
           己がつとめの土ぞふみける
      〇一百の里程を越ゆる悪路をば
          征服なせり 御守護(みもり)を得て
      ○歩み来し千々の思いの数なかに
          部隊長(おさ)の病死(みまかり) いとぞ悲しも

    四月二十二日
     大隊長、余、黒田曹長、岸本軍曹、楞野軍曹、中尾軍曹新陣地偵察を行う。
     堀尾副官四月二十一日四時十分メララップに於て戦病死なす由聞く、気の毒なことである。彼は余と同郷高砂町薬仙寺の住職であった。御尊父、奥様、この悲しき報せを何と思われるであろう、御霊安かれと祈る。
     ブルネイは王国で王様が居り宮城もある。
     殊に珍らしきは水上村落(現地語アイル、カンポン)といってブルネイ湾に臨むブルネイ河、水上に居宅を構え住んでいる。暑気と毒虫(マラリア蚊)をさける為らしい、ボルネオ発祥の地でもあるようだ。
     同部隊第二中隊所属の小野寿人上等兵余の宿舎へ訪ね来る。厳父は神戸市筒井八幡神社の神職なり、初対面、氏は補充兵として入隊しあれど東京帝大出、剣道も余と同じく四段の腕前、神宮皇学館大学の助教授、立派な御仁なり。

    四月二十四日
     大隊本部の将兵ブルネイに到着なす。
     今は亡き前部隊長の御遺骨も到着せり、此処で以て新部隊長祭主となり到着将兵参列して慰霊祭を実施せり。
       慰 霊 祭

    此処ミリー州ブルネイノ兵舎ヲ斎庭卜定メ掃キ清メ祓ヒ清メテ中ツ床ニ神床ヲ設ケ御上二鎮メ坐セ奉ル
    故独立歩兵三六七大隊長陸軍中佐岡田憲之命ノ御霊ノ御前二第一中隊長広瀬正三斎主卜成り謹ミ敬ヒ曰サク。
    海行バ水ク屍山行バ草生ス屍大君ノ辺ニコソ死メ省ハセジト、古人ノ言ノ葉ハ今ノ世モ変ラジ吾力日本男子ノ道トシテ神奈賀良続キ伝へ来ル掟ニヤ有ケル

    汝命ハシモ昭和十九年十月一日大東亜ノ大戦ノ最中仇等ヲ打撃メムト大命ノ任二独立歩兵第三六七大隊長卜成リテ任地北ボルネオ東海州タワオニ在リテ戦ノ務ヲ豆ヤカニ勤ミ労キ上司ヨリ実行力豊ナル武将卜信頼ヲ受ケ部下益良雄ヨリハ垂乳根ノ厳父ノ如ク尊敬マハレ且ツ慕ハレ有リケリ

    昭和二十年初メツ方戦ノ情況ノ変二伴ヒ北ボルネオ、ミリー州ブルネイニ転ジ進ム事卜成リニ月十一日タワオ出発シヌ其ヨリ此ノ方泥濘膝ヲ没スル悪路モ或ハ渡ルニ橋無ク登ルニ道無キ難路ノ日モ或又草木流レ失サム大雨ノ日モ或ハ又真鉄モ熔クル灼熱ノ日モ汝命ハ常ニ身健ヤカニ心猛ク旺々シク部隊ヲ指揮為シツツ前進ヲ続ケ在リケルニ此ノ世ノ定マレル御命ニヤ途 中西海州タンブナンニテ身ヲ損ネ御病ニ冒サレ伏シ臥フ処トナリ
    医師ノ種々尽ス術部下将兵ノ手厚キ看護ノ甲斐モ無ク思ヲ大東亜戦ノ必勝ヲ念ジツツ君ガ代ノ苔蒸ス悠久ヲ祈リツツ三月二十九日夜明ヲ待タデ眠ルガ如ク面静カニ護国ノ神卜神去り給ヘリ、

    鳴々空蝉ノ世パカリ儚キモノハ有ズ大和桜ノ咲キ競フ頃ノ一夜ノ無情ノ嵐ニ散ルガ如ク齢末ダ四十五歳ノ男盛ノ阿多良猛キ勇将ノ散リハツルトハ阿那惜シキカナ鳴々悲シキカモ。
    何レ時ヲ更メ選ヒ定メ懇ニ最厳シク汝命ノ御霊慰メノ御祭取行フモ今宵ハシモ取リアヘズ筒井新部隊長祭主卜成り命ガ夢ニダニ画キ有リシ新任地上陸ノ第一夜ナルニ依り部下将兵諸々ヲ御前ニ集へテ御霊慰メノ御祭斎ヒ行ヒ御前二伏拝ミ現世二有リシ種々ノ感謝ノ誠ヲ捧ケ奉ルト共ニ御前ニ種々ノ珍物ヲ献ケ拝ミ奉ル様ヲ神奈賀良平ケク安ケク宇豆那ヒ聞シ召シ給ヒテ今モ行ク先モ天翔り国翔ル靖国ノ荒魂卜成リテ天皇命(スメラミコト)ノ大御世ヲ守リ幸ヒ奉ルハ申スモ更ナリ
    独立歩兵第三六七大隊ノ戦ノ武運ヲ守リ恵ミ給へト真袖ノ涙ナガラニ謹ミ敬ヒ恐ミモ白ス。
    四月二十五日
     陣地偵察を行う、夜将校の会食あり。

    四月二十六日
     気分不快なり、マラリア再発した模様。

    四月二十九日
     天長節たり、全員東天を向き遙拝式をなす。
     余の神社の春祭日でもある。
     部隊の武運長久、敵国降伏を祈願す。
     余のマラリアほとんど熱下り気分全快す、内地より通信あり。
     延子二、母一、菊枝姉、和子、悦子、吉彦各一、千代姉一、勝ちゃん二、浦川米太郎一、計十一通

    四月三十日
     現時点における我が貫兵団の陣地左図の如く配備せられたり。
      三六七大隊木村部隊は軍直轄となりてポーホート
      三六一大隊奥山部隊はメンバークル及前田島
      三六六大隊佐藤部隊はムアラ地区
      三六七大隊筒井部隊はブルネイ及ツトン
      五五三大隊佐合部隊はミリー地区

     我が大隊は中地区警備隊となり
      第一中隊はブルネイ西方ツトン道四・五哩地点に於いてツトン道十七哩地点まで警備陣地構築
      第二中隊は大隊本部直轄ブルネイ西方ブルネイ大橋附近をツトン方向に対し警備陣地構築
      第三中隊はツトン道十七哩(第一中隊に接して)よりミリー地区警備隊の郡界の間をツトンを中心に警備陣地構築
      第四中隊はリンパンにありて大隊並に兵団の後方警備に任ずべし
     (註)鉛筆書のため磨滅して解し難いが以上のような配置命令である。



     我が中隊は命令に基きツトン道四・五哩地点に移駐なす。
     ツトン道は舗装され軍用路としても立派なものである。
     医者が住めるという家屋及その裏手にある民家の二棟を借用して兵舎となす。

    五月一日
     下士官以上をつれて任務に基き地形偵察を行う。
     ブルネイ河を背にして海岸まで数粁ではあるが稜線が海岸線に沿い波状にあり、この波状を利用して陣地構築することとなせり。

    五月二日
     兵は連日の無理なる横断転進の行軍がこたえたのであろう全員廃人の如し、余も又マラリアの再発か頭重し。

    五月九日
     現地人作業員を毎日約百名近く作業のため来る。言葉は十分通じないが同じ皮膚色にお互いに好感をもつのであろうか、熱心に構堀をしてくれる。マンガロン・ティという近くに住むという印度人あり、少々日本語を解するらしく現地人を指揮せしむに便利な男なり。
     敵機飛来の度数増えるように思われる。
     遂にドイツは米英の軍門に無条件降伏をなせりと聞く、爾後日本は一人で全世界を相手として戦わねばならない。

     (註)上記マンガロン・ティという正体不明の男であるが、今思えば忠実者の如く親日家の如く振舞ってよく働いてくれた者であるが、この者等は敵軍に通じていた現地土人の一人ではなかろうか、スパイとまでいかなくとも我が軍の末端情報を一件いくらで売っていたかも知れぬ、何時とはなしに知らぬ間に中隊将兵と近づき、我が中隊の通訳のような小使のような現地人作業員の監督のような便利屋になって中隊に出入りしていたが、敵上陸と共に我が中隊が石炭山に戦闘加入まで荷物運搬を最後に姿を消してしまった男である。

    五月二十二日
     ブルネイ市街空爆を受く。我が中隊宿舎の百米先の地点にドラム缶の集積場あり、そのドラム缶目標に飛来なす、黒煙と共に燃え上る。
     敵飛来度数加え低空するに腹立ちを覚える。何とか撃墜したきものである。
     不十分ではあるが抵抗線の概要が完す。

    六月七日
     状況急を告ぐ、敵兵、佐藤部隊正面「ムアラ」に上陸開始せり、第一中隊は該陣地をすて明夜明までにブルネイ北方石炭山に右第一線に出ずべしとの伝令あり、時に十八時なり。
     命令受領の瞬間は非常演習かとも思ったが、伝令の顔にも四周の無気味な予感にも真実の来るべきものが来たと思い、心を静かに保つことに努力なす。
     中隊将兵直ちに戦闘準備に移り、貯えおきし食糧を十二分に使用して夕食を食せしむ。
     この時における中隊将兵数は第一号兵站線行軍の東伍長以下の安着と逐次落伍者の追及、加うるに現地召集兵の入隊等に数は増えたりといえども中隊長以下五十五名なり。

    六月八日
     一カ月余り心血をそそいで構築した四・五哩地点の陣地をすて命じられるままに石炭山に向う、夜暗の三時頃なるか。
     大隊は兵団の右拠点となり、我が中隊は更に大隊の右第一線となり、第二中隊の右に出てブルネイ河を背に敵上陸地点ムハラ方向に対し布陣なす。未だ十分配備終らぬに夜が白み明けかかる。
     先着でありし第二中隊将校、大隊長に案内されて地形偵察中敵機飛来して我を攻撃し来る。
     敵機の爆撃、艦砲燐烈なり。

    六月九日
     我に必勝を信じつつも先の横断転進に心身消耗して未だ回復せず、兵器弾薬も又同じ、補充なき限り一兵の保有量の少きこと言うに及ばず、上司より弾のむだ撃ちをいましめられるまでもなく己が心に保有量を百も承知の兵等である。心細き限りなり。

    六月十日
     陸軍兵長筒井銀三、左胸部貫通銑創の重傷なし、遂に十六時二十分昇天なす。陸軍上等兵吉本平一も頭部貫通銃創により同時刻護国の神となる。
     敵砲弾順次我が陣地近くに落下なし来る。
     眼下ブルネイ河には敵の小船の上り来るを見れば何処ともなく土人の丸木舟がその船を取り囲み何か物資の配給を受けている様子、我もの顔に振舞っている敵兵が手にとるように見える。撃ちてはという者もあれども弾の保有量少き我は迎え撃つ日の近距離まで辛棒すべしと慰め止める。
     今日の艦砲射撃は数回繰返され燃烈をきわむ。

    六月十一日
     佐野少尉以下五名追及し来てくれる。お互いに喜び合う。
     東伍長病のため後方に退らしむ、回復見込なき模様、どうか寿命あれかしと祈る。
     咋十日敵いよいよ佐藤部隊正面ムアラに上陸なし目下佐藤部隊と攻防戦展開中らしい。空爆、艦砲、各種砲撃天地をゆるがして我が陣地に飛び来る。
     我が中隊にも斬込隊一ケ小隊出撃の大隊命令あり。しかれども真昼間の斬込隊は犬死にひとし大隊命令を拒絶す。
     姫路より遙々引率して来た兵を犬死さしてはならない。
     我が中隊の武運も今明日に決するやも知れぬ。

       太刀(タチ)は折れ 矢玉つくとも 吾が魂(タマ)は
                  皇(スメラ)御国を 千代に護らめ

    六月十二日
     爆撃、艦砲、天も地も修羅場と化す。
     陸軍軍曹岸本明男、陸軍伍長前田武吉、陸軍軍曹小田栄吾(現地召集二〇・五・八入隊)陸軍二等兵森角蔵(現地召集二〇・六・七入隊)敵前進部隊と遭遇、敵に相当損害を与えたるもおしむべし各々部署にて敵弾のため壮烈なる戦死をなす、悲痛の極なり。
     岸本軍曹、前田伍長の両人は中隊の優秀下士官なり、両人とも共通せる無口実行型の沈着な者なり。岸本軍曹は常は中隊の指揮班にありて能筆事務堪能の士たり、又小田軍曹並に森二等兵はブルネイの現地召集者で我が隊には日浅き者なれど現地、現地語に明るし。
     中隊の戦力にとりていずれもなくてはならぬ将兵なり、真におしむべし再び彼等の勇姿を見るにあたわず、噫。
     又も大隊本部より昨日の如く真昼間の斬込隊を命ぜらるも拒絶。夜を待ちて黒田曹長の指揮する第二小隊をして夜陰を利用斬込を命ず。
     約二十分して兵団はブルネイ河を渡りサエ山に後退の命令伝達あり。
     余は直ちに指揮班兵二名をつれて自ら黒田小隊の陣地に急行する。ああ幸いなるかな斬込隊の老身をかため黒田曹長の巻脚絆の締め終るを待つ形で全員おれり、間にあいてよかった。そのまま黒田曹長以下全員を中隊指揮班の位置まで帰り、中隊全員揃って石炭山を降り渡河点に至る。
     本夜陰を利用して兵団渡河するまで第一中隊は渡河掩護の任に当る。最終渡河が我が中隊なり、照明弾ひっきりなしに河面を照らす、無気味なり。

    六月十三日
     作業隊将兵の活躍により相当数の丸木舟調達しあれども漕ぎに馴れざるためと一舟の収容人員少なきため渡河に暇どり、東天の白む頃ようやく最終の我が中隊渡河せり。
     待ち時間のかかる長い思いをしたことかつてなし。
     サエ山々麓のジャングル地帯まで早駈で頭を突っ込む。一木一草なき河原で敵機に見舞われては処置なし、河原には出稼ぎ邦人等が命に代え難く捨て去った品物であろうか、靴あり、服あり、家財道具あり、姫路出発以来着たきり雀の我が中隊将兵は靴、シャツを拾う。
     サエ山に後退し第二次抵抗線を行うべく陣地占領す。

    六月十四日
     兵団はサエ山に立て寵る。前田島の奥山部隊、ムアラの佐藤部隊は玉砕なしたる模様なり。
     兵団にある戦闘部隊の歩兵は我が筒井部隊のみとなる。邦人等も義勇隊を編成せしとか。
     我が中隊に将校を長とする斬込隊を作り、ブルネイ河を逆上陸してブルネイ市街に至り、敵に斬込むべしとの命令来る。
     成功、不成功はともかく悠久に大義に生きんとして第一小隊長坪田中尉に元気者の中尾軍曹を相棒に若干の兵と最小限の人数を選び出発せしむ。出発に際し恩賜の煙草を分ち合い少量の御酒を互いにくみ交し、武運の成功を祈り戦果を挙げて必ず帰り来らんことをひたすら祈る。
     而して彼等は夜陰に乗じブルネイ河を渡河中、丸木舟河中にてキリキリ廻って進まず、照明弾白昼の如く炸裂なし不可能と状況判断して帰隊し来る、神の指図であろう、余は彼等の武運あるを喜ぶ。大隊長にその由を告げ報じて許しを乞う。

    六月十五日
     兵団は更に利あらず、サエ山を放棄して後方に転進するに決す。
     州庁関係の軍政部要員、邦人婦女子も相共に転進す。負傷者、患者もこれに続けり。
     第二中隊はこれが掩護の任に当り、我が黒田小隊は更にこれが収容にリンバン河まで至らしむ。
    (註)さてこの転進に至るまで明石兵団長閣下はよほど迷われ心の整理に苦しまれたようである。兵団長という統率の最高指揮官であっても神ならぬ人間である以上尤なことであると思う。
     部下部隊の奥山、佐藤のニケ大隊は瞬時にして玉砕し、一部残兵は今なお苦戦死闘しているやも知れぬ時、彼等のため手兵(筒井大隊)を以て弔合戦に出るべきか、軍政要員はともかくとして非戦闘員の邦人、婦女子までまきぞえにして彼敵軍の思うつぼに入るのも無念、後髪を引かるるも此処はひとまず撤退して軍司令部まで転進し陣容を立て直してからでも弔合戦おそくなしとの決心までには、ずいぶん迷われたようである。
     戦後小生は兄が東京に在住の関係上、よく上京し何回となく閣下のお宅を訪ねて遊ばしていただいたが、対談中必ず一度はこの時の苦しかった心境を語られたものである。

    六月十七日
     第二小隊黒田曹長以下無事任を完うして帰隊せり、生残将兵で戦力強化のため再編成を行う。左表の如し。

     第一中隊編成表    二〇・六・一七
      広瀬中隊長   指揮班 従来に同じ
      第一小隊長 坪田中尉
       連絡下士 某   連絡兵 森川一等兵
       第一分隊(五名)
        (長)某、岸兵長、大西兵長、中作上等兵、松尾上等兵
       第二分隊(四名)
        (長)松本軍曹、石井兵長、浅原兵長、衣笠兵長
       第三分隊(五名)
        (長)中尾軍曹、野木上等兵、某、関野兵長、平賀一等兵
           計  十七名

      第二小隊長 黒田曹長
       連絡下士 楞野軍曹  連絡兵 白銀上等兵
       第一分隊(五名)
        (長)平見軍曹、多田上等兵、萩原上等兵、某、鈴木二等兵
       第二分隊(六名)
        (長)小住伍長、福山兵長、大和上等兵、藤本上等兵、我如古上等兵
           計  十四名

      第三小隊長 佐野少尉
       連絡下士 夏木伍長  連絡兵 中津兵長
       第一分隊(四名)
        (長)寺岡軍曹、塩崎(仁)兵長、茶園兵長、某
       第二分隊(四名)
       ( 長)田口軍曹、塩崎(弘)兵長、島田上等兵、岩田兵長
           計  十一名


     (拡大図)


    六月二十六日
     去る六月十八日以来軍司令部の位置を求めて、不完全な地図と磁石を頼りに命ぜらるままに兵団の最先頭を先遣隊となって再度の転進である。後続には病人あり、負傷兵あり、婦女子あり。
     前回の横断転進の長路かつ長期であっても状況は敵を迎え撃つ為に行われたもので心に余裕があった。今はさにあらず、二ケ部隊玉砕という多くの友軍を失い敵の追撃から遠ざかる転進である。心に余裕なし。
     毎日の行軍の非情さは筆舌に表現出来ぬ。
     余はマラリアの再発々々でフラフラしながらも歩き続け頑張り通して来た。その度毎に健康に恵まれた指揮班の福岡軍曹、斉藤軍曹等が看護補佐してくれる。よき部下あるを幸せに思う。余のマラリアも今日は全快の様子。
     「ツルサン」南方「ドントア」に於て先行せし憲兵隊は土民の罠にかかり行方不明の由、土民の地上警戒厳重にするを要す。

    六月三十日
     大祓の日なり、ツルサン河の上流であろうか清流のほとりに露営なす。
     神代の阿波伎原を偲び、手、口を潔ぎて大祓詞を唱う。
     今日又マラリアの再発する心地にて身休悪し。

    七月三日
     我が先遣隊「タンゴア」に到着。
     転進以来初めての村落なり、村落には大家族制の家屋数戸あり、家長を中心に家族何組もが一家屋内に協同生活をしている。
     此処にて本隊の到着を待つこととせり。
     此の処とて抗日意識烈しきよう見受けられるため隊員に十分警戒するよう注意をする。

    七月六日
     「タンゴア」出発す、道なき処を進むので困難である。
     此の地に至る迄に負傷者、病人はほとんど全員自決なせり、いたましき限りなり。

    七月七日
     敵濠軍の斥候であろうか、サエ山陣地を撤退して三、四日してからである。濠兵一名を捕虜にして此の地まで引っばって来たのである。それを便所をうったえそのすきに逃してしまう、何か役に立つべきものを残念なことをする。

    七月八日
     西海州ミリー州の州界線の山脈越にさしかかったのであろう難路嶮峻なり。

    七月九日
     我が隊にも歩けぬ者が出て来る。この地点の落伍は死を意味する。
     標高いかほどであろうか、赤道直下の灼熱の地がかくも寒いとは馴れたる露営も寒さに困る。

    七月十六日
     一週間は夢遊病者のように進路を求めて州界線上の道なき山中をさまよい歩んだのであろうか。
     松本参謀殿が我が先頭にいらっしゃり二、三日して明石閣下も先頭の我が中隊にいらっしゃる。共に地図と磁石に方向を定めての前進である。
     「タンゴア」出発以来十一日を迎え毎日歩き続けているのに未だ目的地が遥として見当がつかぬ。我が先遣隊の糧秣も既になし、二日食せぎる分隊もあり、余も本夜から食糧なし。
     我々先遣隊の伐開を援助の意味で工兵隊来る、大いに有難し。
     去る九日隊より離れし中作上等兵元気に追及し来る。その言によれば、邦人、婦女子等は九日より十五日間の行程の山脈越えでほとんど落伍死亡せし模様たりと。

    七月十七日
     第四中隊より糧秣の援助を受く、実に嬉しい、多謝。

    七月十八日
     大隊長より糧秣を受けたり、感謝にたえず。
     大隊長より伝言文左の如し。
    貴官よりの報告により実情良く承知しました。
    先遣隊として連日進路偵察、伐開作業の困難の程充分推察す、思いの外行軍に長日数を要し各隊とも食糧不足を来たし困却す、然れども貴官の中隊の十三日以来絶食強行作業に従事、目的地突破に懸命の努力実に深甚の敬意を表す。
    此処に各隊より少量ながら集めたる白米を貴隊に呈す、御意をくみ益々御奮闘を祈る。
    奥平隊へも人員割配当を願う。
                  筒井大隊長
        広瀬中隊長殿
     現時点にありては疲労もさることながら餓死寸前、食糧確保のためカンポン(村落)に早く出ることが先決である、しかしカンポン更になし。

    七月十九日
     未だカンポンに出ず、しかし土人に会う。
     方向を誤って歩き続けたのではなかろうかと長い間心配せしも目的地たる「テノム」まで土人の足で二日間の距離という。
     これを聞きて空腹なれど将兵の意気上昇。

    七月二十一日
     「ボール」というカンポン(村落)に出る、食にありつく。しかし後続部隊も同じく空腹なれば土人を刺戟せぬよう、荒らさぬよう厳に戒む。

    七月二十三日
     ハダス河上流平地に出たのであろうか、ジャングルが明るく見える地点があり、焼き払われ開拓の足跡の見える処もあり、農耕の跡もある。
     「ケント」という村落か一家屋あり、今日も磁石を頼りに歩き続ける。

    七月二十六日
     転進兵団の先遣隊として命がけの大任も神助を得て果すことが出来たようである。昨日、今日の転進終には開拓の跡があちこちにあり、道らしきものさえある、図地の「ケマボン」とは此の地であろうか、そうあってほしい。

    七月二十七日
     「ケマボン」発、「グミシン」に至る。
     現地点にて軍司令部より後方警備に出されたる警備隊あり始めて軍司令部と連絡がつく。感極りなし。
     サエ山後退転進以来四十三日日なり、我が先遣隊の任も此処で完了せり、兵団長閣下もひとまず安心されたことと思う。
     当地警備隊の厚意により空腹を満たす、実に嬉しい。
     驚いたことにこの警備隊に我が隊員小野軍曹おれり。
     彼は先の横断転進中熱帯病のため我が隊より落伍し、我が隊に追及中この情勢となりボーホートより進むことが出来ず、ボーホート警備の隊に編入され、この地に警備に来ている由なり。
     中隊将兵一同彼軍曹の元気に健在でありしを喜び合う。彼も目に涙して我が中隊将兵を迎え暫し言葉もなし。
     しかし小野軍曹の言によれば同じく前の横断転進で落伍追及中本情勢となり。
       陸軍兵長桐山三郎
       陸軍兵長山本鶴一
     両名は去る七月十四日ボーホート戦に於て各々壮烈な戦死をとげたとのこと、両名の冥福を祈る。
     内地の情報、ボルネオ一般の敵進攻状況を聞く、神助あれ。

    七月三十一日
     二、三日ケマボン地区に於て次の命令受領の間休養を与えられ兵員一同蘇生の思いなり。
     部隊は三ケ中隊に仮編成されることとなり、銃砲隊及び本部より我が中隊へ編入の兵来たる。
     此処に改めて第一中隊の編成をなす。
     松原重雄中尉、兵団より当中隊に転属し来る。
      第二小隊長を命ず
     家族増えて賑やかなり。
     本夜十二時当地出発「アンダプァン」に向う。「ケマボン」(グミシン)ー「サボン」-「テノム」-「アンダプァン」なり、約三十粁余の距離なり。

    八月二日
     軍司令部位置「サボン」に着、新任地「アンダプァン」に対する種々なる事項を参謀を始め各係官の者より聞く。
     此の地は草原地帯にして対空挺、対落下傘戦闘の要地たりと、築城或は兵力農耕の指示を受けたり。
     中隊に動く時計一個もなし、いずれも二回の大転進中に破損したものである。それゆえ願いて司令部参謀より福岡県福岡市馬水出身藤岡曹長所持の時計の譲与を受く。
     その他陣営具(カヤ)、被服等を係官より支給を受く、兵舎建設に対し司令部特建大隊石原隊より五名の応援を受けることとなる。
     小西敏介一等兵先の横断転進に本隊より落伍せしも此の地点まで追及して本情勢となり、当地に健在におれり、当隊に帰属なす。
     テノム周辺に爆撃あり、我に被害なし。

    八月四日
     「テノム」に於て、夜軍政部補導官北野至亮氏の道案内にて任地「アンダプァン」入りをなす。

    八月五日
     此処「アンダプァン」は見渡すかぎりの草原地帯である。岡の上に椰子葉葺きの小屋をひとまず兵舎となす。しかれども対空に対しては兵舎として不可、湿っぽいが山脚のジャングル内の小川のほとりを選定して兵舎建築にかかる。
     種々報告ものあり、松原中尉、黒田曹長各々任務を分担して事務処理に当らしむ。
     坪田中尉は敵進出路の偵察に当らしむ。
     佐野少尉は兵舎建築の監督に当らしむ。

    八月七日
     明石兵団長閣下、筒井大隊長当地に初巡視に来られる。
     当地には五十年昔インド人が牧場を開きし処とか、その年が五十年経し今日自然増殖したのか水牛が無数に棲息せり、巡視の上官各位に肉を御馳走する。

    八月八日
     地形偵察を坪田中尉と共に行う。
     陸軍二等兵鈴木義造病のため死す、朝六時なり。彼は女性的な線のやさしい者であった。転進に耐えられたのが不思議なぐらいに思う。北海道の産、状況悪化した六月七日の現地召集者である、冥福を祈る。

    八月九日
    小口補導官補 係 アンダプァン村の戸数調べ左の如し。
     人口激増の有様なり。
     現地人家屋も又新建設せられつつあり。

      長戸数同居単独
    張 幹林十八 四 八
    杜  三十三 一 四
    北野補導官補 係
    横 桂芳十二 一 三
    葉  恒 十 ○ 五
    彭  堯 九 二 二
    印度 人十三 ○ ○
    七五 八二二

    八月二十一日
     松本経吉一等兵(原隊、大隊本部所属七月三十一日仮編成に当中隊に来る)病のため黄泉の客となる。朝三時五分なり、悲しきことなり。
     余又もマラリア病か元気なし。
     戸長張幹林余のため玉子持参し来る、多謝。

    八月二十四日
     大東亜戦争の終局停戦せしこと聞知す。
     大君におかせられては八月十五日国民に対し御詔書を、十七日には陸海軍人に対し勅語を下賜せられたりと、大御心の中如何ばかり、拝し申すも畏き極みにして胸次を刺す思い切々たるものあり。
     三千年の歴史のため祖先に対し申訳なし。

    八月二十五日
     陸軍上等兵白銀勇夫戦病死なす、十四時三十五分。彼は実に模範兵たり、今や此の人なし、彼のため御冥福を祈る。
     小口補導官補本日より我が兵舎で共に生活することとなる。
     余の病も比較的良好となる。

    八月二十六日
     勅諭勅語の奉読式を行う。
     但し余は未だ熱とれず頭重きため松原中尉に代行していただく。
      陸軍兵長  浅原文雄 十六時三十分
      陸軍上等兵 多田春雄 十六時五十分
     各々黄泉の客となる、次々と皇兵の亡くなるは遺憾至極なり。
     ケマボン守備隊に残りし元銃砲隊高木中尉より連絡あり、本部所属仮編成で当隊編入の田中信重二等兵(現地入隊)去る八月十八日朝四時死亡なせりと。
     何とか死亡の絶滅を期したいものである。二度の人間業でない転進が身体を弱めてしまったのであろう。又此の地も食するに食糧もない。栄養もとれない昨今である。しかし中隊の日命として健兵第一主義を徹底するよう命令なす。

    八月三十一日
     姫路に応召以来相共に召されて共に第一中隊に所属し、余の良き相談相手である第三小隊長佐野佐門少尉が今朝四時三十分、夜明を待たで遂に永眠せり、嗚々時々悲しき極みである。中隊将兵涙ながら告別式を行う。

    九月十三日
    九月六日八時   陸軍兵長 中津喜顕
    九月七日十六時  陸軍伍長 夏木正信
    九月十日七時   陸軍兵長 藤本幸夫
      この藤本は去る七月十日ブルネイ戦の時石炭山に於て我が隊に来た者である。何を悲観せしかマラリアの高熱に頭を冒されたのか手榴弾で自殺なす、原因調査中。
    九月十三日三時五十分 陸軍上等兵 萩原政市
      いずれも黄泉の客となる。
    共に苦労して来た者が次から次へ幽明を異にしてゆく、この世の無情を残念に思う。

    九月十七日
    九月十六日死亡 陸軍二等兵 小野次男(所属本部)
    本日午前七時死亡 陸軍二等兵 石橋昭一(所属銃砲隊)
     右両名はケマボンにて仮編成の際当中隊に来た兵等である。いずれも六月に現地入隊したものなり。
     両名のため告別式を行う、悲しいかな。
     良兵の次から次へ黄泉の客となる真に悲しい限りである、実に残念である。
        時ぞある 心おだひに 忍ぶべし
              赤穂浪士の 手振ならひて

    九月二十二日
     兵器全部敵(濠軍)に渡すべき時来たる。
     本日支那人、ムルット人の援助を得て本部に完納す。

      衣(い)はやぶれ 太刀銃(つつ)とられ ありけれど
                  大和魂 なにけがるべき
      尊攘の 言魂(ことだま)唱へし 祖先(おやおや)の
                  時こそかはれ 肝にやきつく
      衣(ころも)なく 食なく 家なく 太刀もなし
              仇実(じつ)なくば 死にたくもなし

    九月二十九日
     「アンダプァン」出発 「テノム」に至り、午後六時夜行軍を以て「ボーホート」に向う、鉄道路線を行軍なす、約五十粁の行程なり。

    九月三十日
     鉄道路線上に枕木を枕として露営なす、大雨にて大困難なり。
     井上利夫上等兵マラリアのため苦しむ、同村出身二中隊所属の中島麻治君も発熱高く歩けない様子、両君とも頑張ってもらいたい。

    十月一日
     ポーホート収容所入りまでのパダス河に一本橋をかけ向う岸から機関銃を橋に照準している。橋の手前で厳密な服装検査、所持品検査が行われ間隔二十米をとって一人ずつ橋を渡って収容所入りをするのである。
     小さな国日本が全世界を相手に戦ったことが丸腰と廃人同様になっている病人の我々をなお恐れての処置だろうか。
     我々は陛下の詔勅の御精神に従い整然と収容所入りをするのであって、今さら事を起すはずもないのだが、一応も二応も疑うのも戦の常道であろうか。
     濠兵の中には当然不良兵がおり、数人組をなして入所のため行軍中の我々に時計、万年筆、日の丸の小旗を威嚇して奪おうとする者に出会う。
     所内では将校と下士官兵に区分され、手足を取られた思い、淋しい限りなり。

    十月六日
     余の同郷の中島麻治君(第二中隊所属)遂にボーホート収容所で死す、彼は余の少年時代からの遊び友達なり。ラッパが上手な為ブルネイ戦の頃は大隊本部におり、煙草をたくさん所持しておりブルネイから撤退の混乱の時たまたま余と出逢い互いに武運あるを喜び合い彼から煙草一個をいただく、その彼が幽冥にゆく、冥福を祈る。

    十月十六日
     「ボーホート」収容所より約五十粁北方の「パパール」収容所に移動なす。
     部下一同と所内で会うを得たり。
     しかし大部分の者は大河内部隊に編成されて前田島(ラブアン島)南方五粁のパパン島という小島に作業隊として出発せり。

    十一月一日
     不安と焦燥のうちに一カ月は経ぬ、望郷の思いもする。部下将兵の身が案じられる。家に第三信を認ため、姉にも便りを書く。
        今はただうらみもあらじ諸人の
               御霊慰めて 月日送らむ

    十一月二十七日
     「パパール」収容所より約三十粁余り北「アピー」収容所に移動なす、一名を「ゼッセルトン」とも言う。
     昨年二月二日先の横断転進に際し罹病者及び弱者の残留隊長として「タワオ」に残置おきし第一小隊長三木中尉健在にして既に此処「アピー」収容所にあり、部下三十五名も健在なるを知る、実に嬉しい、喜びに絶えず。
     然れども二十五名の多数が既に此の世の人でなく、タワオ防衛の重任を完うしつつ護国の神と化せしを聞く、悲しき極みなり。

    十二月一日
     収容所は次々と移っていったが、この生活にも満二カ月を経て生活に馴れたと思う。
     所内の各幕舎は梁間五米に長さ十米あり、ただ屋根のみの掘立て小屋なり。屋根は厚紙にコールタール引きしもの、四周は兵の天幕をつぎ合して囲らし壁建具の代用となし、床は干草を厚く敷き床板乃至は畳の代用としている。全く厩舎並みである。しかし戦闘間乃至は長い転進間の露営に比すれば宮殿のように思われる。日に一回は乾草を屋外に干し強い太陽で消毒をかね湿気を乾燥する。
     一幕舎約三十名が起居する。毎日の日課は三分の一の十名が外に作業に出る。作業は飛行場或は道路等の復旧作業が主たるもの、三分の一の十名は幕舎に残りて女房役で舎内外の清掃、罹病者の看護、食事の片づけ等である。残る三分の一の十名はマラリアのため発熱中の患者である。
     食事は彼等の支給するメリケン粉を日本風にかゆにして分ち合う、時には豪華なチョコレートの菓子の配給がある。
     三度の食事がよしや少量にて空腹ではあるが、ともかく三度の食事にありつけるだけでありがたい。転進間の事を思えばほんとうに有難いと思う。

     重病患者には医療施設に入ることも出来る。次第に濠兵にも馴れて来た。
     しきりと万年筆、時計をほしがる、日の丸の小旗もほしがる、その理由は母国へ凱旋の時、家族や恋人に手柄話の証拠品とするようだ。今一つは彼濠兵の多くは牧場に従事した者が多く文明度が低く、時計、万年筆を文明品として一種のあこがれを持っているようにも見うけられる。
     日本兵の中にもこの濠兵の弱味につけ込んで破損した時計を上手に食糧と取替える者もいる。底ぬけのお人よしの濠兵も多くいて、日本兵の言うままになっている、どちらが捕虜だかわからない。
     手紙の書ける濠兵は二十人に一人ぐらいのように思われる。葉書用紙が配給になると書ける兵の処に一列に並んでいる。書ける者は書けぬ者から書き代として煙草などを代償として取っているようだ。日清、日露の日本兵はいざ知らず、昭和の兵隊さんで文字の上手下手は第二として我が家族、我が知人に手紙の書けぬ者は一人もいない。

     日本の国民教育はよく普及したものである。それに比し濠州は文化度が低いのであろうか。濠軍の下士官が点呼に来ても誰一人として掛算が出来ぬらしく、一列でないと駄目らしい。
     時には濠軍が現地土人と共に一人一人の首実検の時がある。我々戦闘部隊の将兵は転戦に転進を重ね歩き続けた故に現地土人とは接触がない。したがって首実検をうるさく思ってもそう苦痛ではない。しかし一地に長く駐屯した部隊、或は憲兵、軍政部要員等は首実検の度に肝を冷し青くなる思いをしているようである。
     大勢の日本人の中には現地土人より恨みをかっている者もあって今日に至ってはやむを得ぬことであろう、勝てば官軍が世の常である。

    十二月二十三日
     かねがねの念願がかない第二分所より第三分所に移転出来たり。
     此処に於て姫路出発以来の第一中隊将兵と共に合流なし昔の姿に帰ることが出来たり、歓喜極りなし。
     加島光次君を病舎に見舞う。

    昭和二十一年

    一月一日
     ボルネオに於て第二回目の新春正月を迎う。
     昨年は「タワオ」であった。物資はなくともタワオ時代はまだ戦の最中で、何くそという張りがあった。我が国振に神習いて門松あり、七五三縄あり、雑煮もあった。
     敗戦第一年の本正月は全く夢だに思わぬ収容所生活である。ただ空腹に耐えるのみ。
     しかし身を清め皇居を拝し、伊勢神官、氏宮荒井神社を拝し、留守家族に挨拶を行う。
     兵に元旦の訓話を行う。
     「恥辱をそそぐ、母国再建の道は忠誠の心ある諸君が一人一人健康に留意して一人でも多く日本に帰国出来るよう努力することである」と決意を新たにす。
     家族等の本年正月は如何であろう、ただただ健在であれかしと祈るのみ。

    一月七日
     前の転進の時「モステン」に於て大変お世話になりし奥村友平氏に出会う、彼は和歌山県串本町のご出身だそうである。
     又余の同郷の人高木玄一軍医大尉、余の幕舎を訪問下さり煙草を下さる。
     彼高木軍医大尉は余より三学年下で御尊父は三菱製紙の薬剤師として勤務のかたわら剣道を指南され、余の青少年の頃よくお世話になったものである。久しく会ったことがないのにこのようなボルネオの地で会うとは、実に嬉しかった。

    一月十日
     明石閣下に新年の挨拶に行く、プルネイ転進時の閣下は苦悩と焦燥に痩せていられたが只今は元気のご様子である。暇を見つけて絵筆をもっていられるらしく、烏の絵がたくさんある。
     帰途「アンダプァン」で補導官をしていた北野至亮君に会う、彼は、金沢市大工町九〇が本籍地なり。

    二月三日
     今日は日曜日なり、収容所も日曜は長閑なり。大隊内の慰霊祭を斎行なす。
     岡田元大隊長以下六四九柱なり。
      ○花添へて魂招(たまお)ぎ奉る祭りかな
      ○神去りし戦友(とも)にたむけの現地花
     夜日本婦女子団の演劇大会あり、久方振りに女性の姿を見る。兵員一同も目の正月と喜ぶ。
     内地帰還の目標つけり「クチン」部隊は三月一日、その他北ボルネオ部隊は四月初旬なりと。
     速かにその日の来るを待つのみ。
     死亡者の整理、生存者の功績調査を二月二十日迄に調査提出せよとの厳命なり。
     正月以来我と戦いし濠軍は何れかに去り行き交代に英印軍が進駐し来る。
     以来所内は明るくなったように思う。
     英印軍とは将校が英人にして准士官以下兵は印度人よりなる部隊なり。
     何かにつけ印度人は我々日本軍に好意を示ししてくれる。特に作業現場では濠軍の時と比較にならぬようである。作業から帰り来た者が例を挙げて色々余に話し教えてくれる。
     黄色の膚より来る近親感であろうか。白人英国にしいたげられた本能の反揆であろうか。
     余も一日作業に出てみたいと思う。

    二月二十四日
     一週間程前であったか、軍司令部の某中佐参謀余の幕舎に来たり言うに、馬場軍司令官の御意志だがボルネオを去るに際し慰霊祭を実施したいが出来るだろうかとのこと。
     勿論出来ると余は回答なし、それ以来余の勤めとして準備を進む。
     幸い斎員には余の外このアピー収容所に二名の適任者を求め得たり。
      陸軍軍曹 行森正雄氏   岡山県御津郡新山村重岡神社社司
      陸軍曹長 中島達夫氏   岡山県都窪郡吉備町下撫川神宮皇学館卒
     殊に中島曹長は余と同窓の出身の者で神戸市湊川神社(楠公を祀る)に奉職の経歴ある者なり。
     祭場に対しては余の指示に基き軍司令部の諸官等が種々手配準備を進めて下さる。
     斎服に関しては邦人婦女子より斎服に似た物でも裁縫すると申出下さる。しかし白衣、白袴、白足袋をお願いすることとせり。
     素人がよしや斎服に似たものを製作しそれを着用した場合、女学生の演芸会の芝居じみたものとなりかえって神厳味を損うと思惟した為である。
     別掲図の如く祭壇、神饌、花輪に至る装飾まで内地の祭場を偲ぶ立派なものが出来たり。



     今日二十四日の日曜日の良き日を選び定め、時刻には英印軍代表者、日本軍及び邦人多数参列のもとに余斎主となり、初代軍司令官陸軍大将前田利為大人命以下一万八千余柱の英霊の慰霊の祭儀を涙ながらに謹み御奉仕申上げたのである。
     慰霊文は後難をおそれてか参謀の指示により焼却なす。

    三月一日
     我が中隊の戦死者に関する事務処理一応完了し部隊本部に提出して肩の軽くなる思いなり。
     しかれども思いを御遺族に及ぼす時、一家の柱を失ったことも知らず、ひたすら無事帰り来るを待ちわぶ老父母、妻子の御遺族に思いを致す時断腸の思いなり。
     かつて日露の乃木将軍の凱旋の詩に
      王師百萬征驕虜 野戦攻城屍作山
      愧我何願看父老 凱歌今日幾人還
     このようなのがあるが真に乃木将軍の御心境を察される思いがする。
     数日前より戦死者の書類の控えを中心に英霊録と題して編纂なしその冒頭に巻頭のしのび詞を記せり、文左の如し。
       巻頭の ことば
     ああ春の夜の無情の嵐に山桜の散るが如く、生死を相共に誓いし多数の部下益良雄を護国の神鬼として幽冥に送る。ああ悲痛の極なり、ああ惜しき極なり。
     昭和十九年七月二十八日動員令の大命に依り尽忠奉公の諸人等と始めて隊長、部下の深き緑を結び万葉の一防人の詠める、かの「今日よりはかへりみなくて大君の醜の御楯と出で立つ吾は」の心意気を今の現に、波涛万里を渡りて同年十月六日に任地北ボルネオ東海州「タワオ」に着きぬ。
     馴れぎる赤道直下の灼熱に堪え、瘴癘を冒し、一部を以て防衛の重任を遂行し主力を以て陣地構築作業に従事せり。此の間熱地の疫癘マラリアに斃れしもの幾人ぞ。
     明くる昭和二十年「レテイ」、「フィリピン」の戦況我に利あらず、我々部隊も命ぜられるままに北ボルネオ横断転進開始せらる、我が中隊は二月二日患者及び弱者六十六名を残置し任地「タワオ」を後に一部を第二号兵站線、主力余以下八十六名は第二号兵站線を出発せり。百数十里の長路加うるに雨期にして、ジャングル内の悪路は泥濘膝を没しなおかつ食糧確保少なく医療設備なき兵站線の不備は行軍部隊をして予想以上の飢渇と困難に遭わしめ、毎日落伍者その数を加え行けり。
    中にも厳父と部下将兵一同の慕いたる岡田憲之部隊長殿を「タンブナン」に於て、又余の同郷の士堀尾部隊副官を「メララップ」に於て各々黄泉の客となりたることなり。

     四月十七日出発以来ニケ月有半にして余以下僅かに二十八名目的地たる「ブルネイ」に到着せり、憩う暇なく部隊は新しく筒井部隊長を迎え中地区警備隊となり、中隊は同地南東地区たる「ツトン」道四・五哩地点の陣地確保を命ぜられ、毎日百余名の現地人作業員を督励しつつ陣地構築に従事せり。而して五月九日盟邦ドイツの遂に連合国に無条件降伏の悲報を聞けり。
     同年六月に入るや敵機の飛来甚だしく度数を加え、爆撃熾烈を極む。俄然七日には敵は艦砲射撃と相俟ちて前田島及び「ムアラ」に上陸なし来れり、戦況は花火の導火線の如く瞬時にして拡大され「ブルネイ」に於ける戦闘となれり。
     兵器少なく兵員又多大の消耗なせり、我は必勝を信じ悠久の大義に生きんものと心に誓い命ぜられるままに四・五哩の陣地を捨て、「ブルネイ」北側に戦力増強加入なし、部隊の右第一線として「ブルネイ」河を背水に該陣地を死守交戦せり。此の時に於ける中隊の将兵数は第一号兵站線の東伍長以下の安着と逐次落伍者の追及及び現地召集者等にその数は増したりといえども僅かに中隊長以下五十五名たりき。

     戦局は日に増し燐烈となり十三日夜を期し兵団は後退のやむなきに至りぬ、夜暗を利用行動するといえども照明弾白昼の如く炸裂、各種砲撃綾なす中を不備な手漕ぎの丸木舟等に各々の身を托し「ブルネイ」河を渡河、サエ山に引き去り立て籠れり、兵にあらざる邦人等も義勇隊を編成しよく日本人としての面目を完うしたり。善く処し善く戦うも戦闘遂に我に利あらず、ああ前田島警備の奥山部隊、北地区警備の佐藤部隊は各々任地に遂に玉砕なせり。
     わが部隊も又此処サエ山を良き死所と定め両部隊の弔合戦をなさんと将兵相誓い、或は斬込隊となり或は夜襲を以て彼に酬いたり。
      太刀は折れ弾丸はつくとも吾が魂は、すめら御国を千代に護らめ

     拙詠なれど当時の余の心境なり。
     十五日夜兵団の決心俄然変更し、負傷者、患者、邦人、婦女子等を護りつつ軍司令部の位置を求めつつ新戦場に転進軌道することに決せられたり。而してこの転進こそ筆舌に絶する大困苦と大困難の連続にして地図もなく、道もなく、人気もなき処を来る日も来る日も進路と食糧を求めつつ衣は綻び靴は破れるままに軌道しぬ。殊にミリー州、西海州の国境山脈越えはその極に達し、兵団の先遣隊として常に先頭を伐開前進せる我が中隊将兵は遂に食糧は尽き、欠食の数は日毎に加わり、遂に食せぎる日も来りぬ、しかし任重し、カなき身休に鞭打ちつつ泥水に腹を満たし、苔の煙草に気を慰し、その任を遂行なせり。

    七月二十七日、今は亡き戦友の神霊の加護と全将兵の辛苦の努力は報いられ西海州「ケマボン」に於て軍の後方警備の任にある警備隊に合流なし、此処に始めて軍司令部の傘下に馳せ参ずる事を得感激措く能わず。この間実に四十三日を要せり。
     当地にありて大戦の大局並に「ボルネオ」に於ける各所の敵進攻の大要を聞知す。殊に「ポーホート」戦は今や彼我相対峙中なりと而して意外にも此処警備隊に前横断転進中病瘴のため落伍せし小野軍曹小康を得て追及中本情勢となり警備隊の一員として健在に服務しあり、部下戦友も彼との再会を夢の如く喜び合う、然し同軍嘗より池上兵長以下五名すでに「ボーホート」戦闘に壮烈なる戦死の旨を聞かされたり。

     当地にありて数日の暫しの間草臥れを休め空腹を満たす、やがて軍命を待って部隊は三ケ中隊に仮編成なし、中隊は七月三十一日夜暗を利用新任地「アンダプァン」に向い出発せり。
     八月二日任地に着く、当「アンダプァン」は草原地帯にして対空挺、対落下傘戦闘の要地たり。着任と共に地形偵察、対空監視、陣地構築、兵の棲息所建築、兵力農耕による食糧確保等片時瞬時の憩う暇あらず、この間長期の過労と甚だしき食糧の不足は毎日の如く、春秋に富む我が将兵をして黄泉に旅だたしめ地獄の絵巻を見る如く感ぜしめたり。
     中にも小隊長佐野中尉の死は余をして悲嘆の底に落せしめたり、氏は神戸の人にして応召前は佐野合名会社の代表社員として家業に従事、町内会長或は氏子総代等の公職に身を忘れ小官等と共に応召するや常に軍務に精励上下に信望せられ、中隊にありては小隊長として先の横断転進或は「ブルネイ」の戦闘及び同軌道作戦に武功を樹てられ又常によく部下を愛撫せられ、部下より父母の如く慕われり、然るに今やこの人なし、四十四歳の男盛りを一期として神去れり、惜しき極なり。

     八月二十四日に至り大東亜戦争の終局停戦せしことを聞知す。大君に於せられては八月十五日国民に対し御詔書を、十七日には陸海軍人に対し勅語を下賜せられたり。大御心の中如何ばかり拝し申すも畏き極みにして胸次を刺す思い切々たるものあり。
    九月二十九日命あり正午「アンダプァン」発「テノム」に於て部隊に合し夜行軍を以て「ボーホート」収容所に向い出発、途中井上利男兵長を失い十月一日入所、同月十六日「パパール」に移り十一月末には「ゼッセルトン」収容所に移動なし来る。此処「ゼッセルトン」に於て罹病者、弱者として「タワオ」に残置しおきし第一小隊長三木中尉以下の部下将兵も既に入所しあり、而しその三分の一強は既に此の世の人でなく「タワオ」防衛の重任を完うなし、君が代の苔蒸す悠久を祈りつつ護国の神と化してあれり、彼部下御霊の安かれと祈るのみ、而して生存者は十二月二十三日余の懐に帰り来たれり、残留隊長として種々御奉公の誠を致せし三木中尉に多謝す。
     今此処「ゼッセルトン」の浜辺の一小舎にありて、今は亡き部下益良雄の香しき勲功を偲びつつ来し方の跡を辿り以て巻頭の詞となす。本書の些少なりとも御遺族に対し香しき武功を伝うるの資に供さば余の幸甚とするところなり。

     乞願くば御英霊靖国の宮奥深く神鎮まりて大君しらす豊秋津島根を元の国振りに一日も早く還らしめ給え、家族は勿論我々戦友に至るまで臣の正道を導き恵み給え。
     終筆にあたり多忙な復員業務或は作業の中を本書の編纂浄書に尽力為し呉れし黒田曹長に絶大の感謝の意を表す。
     昭和二十一年三月一日識之於北ボルネオ、ゼッセルトン
        独立歩兵第三六七大隊第一中隊長陸軍大尉 広瀬正三

    三月十二日
     待望の乗船に関する命令でる、諸兵一同歓喜す。
     二、三日前より給与悪しく困りおりたる処本日は嬉しき命令と共に小夜食まで上り、盆と正月が同時に来た思い。

    三月十三日
     書類検査実施されると共に兵の所持品検査が実施せらる。厳しいことを要求せらる。

    三月十八日
     先発者並に航空関係部隊乗船なす、当アピー収容所として最初の帰還なり、我が筒井部隊より部隊副官荻野大尉、部隊本部付寺川准尉の両官先発者として出発せり。

    三月二十三日
     次々と帰還船がゼッセルトン(アピー)港に入港し来る。
     第二次も本日出発なり、我と同分所の海軍部隊も今日の第二次出発の模様なり、書類検査が非常にやかましく厳重なりと。
            ○
     乗船日が近づくにしたがい所内には真とも嘘ともつかぬ色々な流言飛語あり、某部隊将校は乗船に際し地図或は戦闘に関する書類を持参の為その責を問われ銃殺されたとか、或は某部隊の兵には線を引いた罫紙を所持しただけでその部隊は乗船が後廻しになりたりとか。
     書類並に所持品に対して進駐軍がどの程度まで許可しているのか、我々末端まで真実は判らないがともかく成る程度制限をしていることは事実であろう、それを我が軍がそれを上回る厳しさで必要以上の検査を実施されるのである。
     余は何物も所持したくない、ただ中隊留守名簿と中隊英霊録とを何とかして持ち帰りたい。
     郷土の人等で編成なし此の地に出征して来た部隊として必ず戦死者の御遺族が我が家にその模様を尋ね訪れ来ることは明なり。
     数名の戦死者であれば頭にきぎみ覚え帰還も出来るが、百名を越す戦死者に対して日時、場所を記憶することは不可能である。一命を捧げた夫や我が子の戦死した御遺族にいいかげんなことは指揮官として申せるものでない。戦死月日、場所を正確に伝えて武功を称えて御慰め申上ぐるべきがせめてもの務めである。
     それにはどうしても記録を認ためた書類を持参して還らねばならないのである。

     余が未だ世間を知らぬ齢、若小の中隊長ならいざ知らず、既に支那事変に於て小隊長として部下を失いその弟妹を引取りて世話する等御遺族と接し、或は在郷にありて在郷軍人分会長として郷土の御遺族の柱をとられた悲しみを共に分ち合って来た者として、何とか持ち帰りたい書類である。
     余がもし片足片腕でも失っておればいざ知らず、五体満足で還るならば尚一層その思いがする。
     しかるに書類検査が厳しく、流言とは思うが罫紙すら不可というなれば全く処置なしである。万一これら書類が彼進駐軍の禁ずるものであって発見された場合、我の覚悟あるはともかくとして我が部隊、我が兵団に迷惑がかかり引いては一刻たりとも早く帰還したい兵等の乗船が延引するならばこれ又何とも申訳ないことである。
     書類を持ち帰るべきか、焼却すべきか毎日悩む。

    三月三十日
     去る二十三日より本日迄週番勤務に服す、次番者に申送りなす。
     俳句を学ぶ機を得たり、愚句集を一冊まとむ。

    四月十二日
     待望の日来たる、梯体をなして埠頭に向う。途中現地華僑人等の中には一部分の者であろうが、面白半分に奇声を発して我が隊列に向って投石する者あり、実に不愉快なことなり。
     埠頭には先着順に印度兵に、所持品検査を受けている姿が目に入る。
     余は運を天にまかせ下士官らしき大男の前に進みて検査を受く。
     彼印度兵、我が顔をうかがい見るようなかたちしたのみで我が所持品を十分検査もせずパス!! 早く乗船しろとばかり艦上を指さす。無事検査通過も諸英霊の御守りであろうか、乗船してしまえば所持品は我がものである。
     正午には我が部隊は乗船完了せり。
     帰還輸送艦はかつての航空母艦「葛城」である、三万数千トンだという。

    四月十四日
     アピー港出港、母国日本に向う、ボルネオのキナバル山が何時々々までも我を見送ってくれるのであろうか眼底から去らない。
     船室は狭くむし風呂の如し、しかし全員は帰還の夢かなってか不満を言う者なし。

    四月十六日
     正午、仏印サイゴン着、帰還兵数百名乗込み来る。
     給油、給水その他食糧も満載した様子なり。

    四月二十四日
     故国の山なみが見ゆる頃誰いうとなく甲板上にあがり故国に向い手を振る。
     大竹に帰国の第一歩を印す。

    四月二十五日
     検疫、復員業務、支給品の受領、配給等多忙なり、その間にありて営内を一巡して見る、営内社の立派な御社あり、一室には各地から寄せられた手紙受取人なき為か山積されてある処あり、後刻その中から小官宛に来たる母よりの手紙を兵が持参して呉れる、家族一同無事の様子、有難し。
     又一室には内地の爆撃の都市を朱色で地図に表示したる処あり、我が村は陸軍造兵廠のあるにもかかわらず被害なき様子にこれ又安心なす。
     軍司令官陸軍中将馬場正郎閣下の別れの訓示あり。
      「日本再建の道嶮し、しかれども汝等の雙肩にかかる、自愛奮闘あれ」と。
    (註) 此の温容の閣下が旬日後再度現地に呼び戻され部下一同の戦争責任の罪を問われ死刑されるとは、勝てば官軍の連合軍の身勝手をうらむ、気の毒千万である、謹んで軍司令官閣下の御冥福を祈り申上げる次第なり。

    四月二十七日
     昨二十六日第一中隊諸君とも別れの挨拶をする。
     余不肖にもかかわらず、よくぞ今日まで生死を共にして下さった各位に厚くお礼を申上ぐ、自分は何処へも行かぬ荒井神社の田舎神主が天職なり、近くえ来らるる時は必ずお立寄り願いたい。
     御健勝を祈る。昨夜中満員の復員列車の人となり今朝二時姫路駅着。
     被爆で出征の時の姫路駅は焼野と変っている、しかし復興のいぶきは感じられる。
     駅前にて残材で焚火しつつ五時三十分の一番電車を待ち、同村、同中隊の加嶋光次君と共に荒井に帰り来たる。
     老母は我が背を撫でて無事を喜び給う。しかし帰着して未だ一時間もたたぬうちに印南郡神吉村の方から、御遺族第一号の訪問を受く。
     (後文省略)

    七月二十八日
     二年前即ち昭和十九年七月二十八日は再度の御召に姫路部隊に入隊した忘ることの出来ぬ日である。幸い今日は日曜日に当り第一中隊の将兵が炎暑の侯にもかかわらず我が家に集い来てくれる嬉しい日である。
     辛い悲しい苦しい思い出は数限りなくあるが、せめても私の慰めは我が独立歩兵三六七大隊中で我が第一中隊が生存者数第一位の七十名の命をもって帰還したことである。

     而して私に心配かけまいとしてか各々食糧を持込み持参して集い来られたのには、いやはやなんとも申せぬ思いがする。老母も家内も手料理に多忙を極む、しかし苦にならぬ顔をしてやっている、多謝。
     集い来る或る者は苦しき思い出を力んで語り合い、或る者は麻雀に打興じ、或る者は囲碁をなしている。いずれも一つ釜の飯を共にし苦楽を分ち合った戦友の集いである。
     定刻、私自身斎主となり慰霊祭斎行、今は亡き佐野中尉以下百六名の戦友益良雄の在りし日の勇姿を偲ぶ。
    (註) この慰霊祭が第一中隊として第一回となり、爾来今日まで毎年欠けることなく実施。回を重ねること二十五回に及んで いる。本年(昭和四十五年八月二十三日)たまたま部隊の御遺族を招き部隊慰霊祭の実施の運びとなりたこと誠に御同慶に堪えない次第です。
     やがて懇親会となるも、時のたつを知らず、話のつきるを知らず。
     出席者左の如し(順同不)
      田口 勝、小野仁一郎、衣笠清、清水国太郎、萩原義治、
      大和俊雄、蔭山真一、森川正三、塩崎仁一、福岡時夫、
      竹本定雄、矢木 孝、片山進平、松尾忠良、山田助市、
      斉藤 巍、柏木静夫、大西 清、楞野利夫、福山一男、
      三木一夫、三輪八郎、北村徳通、黒田謙治、加嶋光次、
      喜納喜巳三、広瀬正三 (以上二十七名)

     巷にて同胞が同胞の我が軍の非をつき、上官侮辱をわがもの顔に言う悲しき風潮あり、かかる時私の隊にはかかる者は一人もなく、集まり下さる戦友各位に対しほんとうに感謝せずにはおられない。私はよき戦友諸氏に恵まれた幸せ者である。
     老母も戦友諸氏の立居振舞いを見て吾に言う。
    『何某様は車一パイ軍の被服を持ち帰りしとか、何某様は軍の医薬品を多量に持ち帰りしとか聞く、お前様は人の心を一パイ持ち帰りくれた孝子者なり』と。

      ◎附 記
     本稿は赤紙を手にした昭和十九年七月二十五日より帰還した昭和二十一年四月二十七日を経て、戦友第一回の集いの七月二十八日迄の満二カ年を私の戦塵日記から原文のまま書き取ったものです。
     何の興味もなく、何の面白味もない、まことに拙き文のメモ同様のものでありますが、私にとって生涯忘れることが出来ぬ苦闘の足跡の史料でございます。
      よくこそ、あの生死苦闘の間に認ためしものぞ。
      よくこそ、所持品検査きびしき中を持ち帰りしものぞ。
    と思います。
     戦塵によごれ、紙質も粗悪な戦時中のノートでペン書きはともかくとして、鉛筆書きの部分は既に判読し難きまでに磨滅消耗した此の日記帳に私は無上の愛着の情を覚えるのです。
     本稿が些少とも英霊顕彰の礎となり、生存戦友の各位が思い出の足がかりともなれば望外の喜びと存じます。
    以 上

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