21.原隊より三六九大隊に転属して
独歩三六七大隊第一中隊小隊長 岡田耕平
嗚呼ボルネオの血涙史の記念号が発刊されるに当り寄せ書に参加出来ます事を光栄に存じます。
憶えば二十数年前姫路編成の独歩三六七大隊第一中隊(広瀬隊)第二小隊の一員として応召、二十七隻の船団を組んで下関を後に一路南下、琉球-台湾バシー海峡の難所を通過、比島のルソン島及びマニラ市へ入港上陸して整然たる都市実に驚き同時に機橋附近の若い浮浪者の多いのにも更にびっくりしました。
滞在二、三日にして機帆船に乗り更に南下途中カツオの美味を賞しつつボルネオ北部都市サンダカンに入港一夜を明かし中部ボルネオ・タワオへと進航、上陸後かなり長期間陣地構築に専念しました。
十一月中旬、遠藤岩雄中隊長殿の下に独歩三六九大隊(櫛山部隊)へ転属を命ぜられました。
タワオ地区は世界に稀な悪性マラリア発生の地にてマラリアによる戦病死者続出し、私の小隊三十数名中より一カ月以内に数名の病死者が戦わずして幽明境を異にし誠に暗澹たる日々でありました。
間もなく櫛山部隊に移動命令が出て海上を夜間南下途中、邦人経営のテーブル耕地に立寄り軍民懇談会の招待を受け、物資の豊富な処と不毛に近い土地の格差の甚だしさを感じました。更に某地に駐留後直ちに部隊本部より温帯野菜を栽培するよう命令を受領、農業経験者三十六名と共に独立宿舎に入り直ちに農耕地区を決定、四ケ班に農地を配当直ちに作業開始、通訳某氏の案内で現地人村長に現地人労務者百名余りとパパイヤ及び甘藷の苗木を数千本蒐集調達し植付け完了第一段階を終了しました。赤道直下の葉菜の種播きは内地と異なり三、四回後に初めて発芽し安堵の胸を撫で下しました。その間数回施肥潅水を繰り返し全員の熱烈な努力の賜でした。
引続き既成農地買収か新適地開拓のため経験者数名と通訳某氏と共に各所へ出張、中国人経営の模範的農園を見学し熱帯農業の手法について大いに参考になりました。
次に内地人経営の鉄鉱石採取現場附属農園を視察しました。
毎日夕方の定期的スコール、肥沃の土質かつ気温は夕方降雨後内地の十月末の涼感の健康地で高山地帯の大森林からの清流は滾々として渓谷を噛み内地同様の懐かしい環境でした。同地は労せずして大収穫出来るよい立地条件ゆえ早速附近の農耕適地を選定、大部分の農耕班員を此処に移動して葉菜類の順調な成育を見ましたが移動命令のため農場を放棄して中隊へ復帰程なく終戦の報を受けスマトラ島よりジャカルタ経由一孤島にて待機、内地帰還となりました次第です。
今、心静かに二十数年の昔を省りみますと、当時私は既に不惑の年をすぎたしかも常日頃から身体を鍛えていない胃腸の弱い老兵というべき者でした。
転属した独歩三六九大隊(櫛山部隊)は全国各地からの寄せ集めでしたが、櫛山大隊長殿は近く陸軍大学に入学のためご帰国だという噂を聞くほど若い二十代の御方でした。しかし老兵といえども大東亜共栄圏実現のための聖戦に精一パイの御奉公の覚悟でしたが、現実には何ら御奉公らしき働きも出来なかった事を慚愧に思っております。せめても一人でも多くの兵士と共に健康を保持したいと願い栄養確保に専念努めたつもりです。
今もし私が転属を命ぜられず原隊(姫路編成三六七大隊)に居たならば、聞くだに恐ろしき一、○○○粁の長路の死のボルネオ横断作戦行軍に指揮官の小隊長として参加せぎるを得ない運命にあったことでしょう。もしそうだとすれば、私にはとても耐え応ずべき休力はまずまずなかったでしょう。したがって既に此の世の人でなく異郷ボルネオの土と相成ったことと思います。
浮世もさりながら、戦場こそ全く此の世の縮図の如きものと思われてなりません。運、不運は丁度サイコロの目のようです。転属を命じられた時は折角海路の万難を乗り切って遙けきボルネオに来て原隊と離別して他部隊に転属とは淋しさこの上もなく心細く感じましたが、今から思えば私の身体を案じての広瀬隊長殿の深い思いがあったのではなかろうか、今更ながら感謝せずにはおれません。
櫛山部隊に転属したため死の行軍から免れ大敵とも遭遇することなく、我が身をいといつつ赤道面下の灼熱と悪疫マラリアには耐え勝って帰還出来得たことをこよなく喜びとするものです。しかしながら我が身のことのみを申して喜ぶべきではありません。原隊である郷土編成の独歩三六七大隊の一、○○○名の七割までの勇士が悲しくもボルネオの異境に散華された御霊に対し選んで心より御冥福を御祈念いたしたいと存じます。
また転出した櫛山部隊は全国各地出身者のため再会の折がありませんが、地元原隊の三六七大隊ことに広瀬隊では毎年催される南風会には事情の許すかぎり出席して旧戦友皆様にお出逢い出来ることを楽しみにしております。
戦友皆々様の御発展御隆昌を合せ祈念して筆をおきます。