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20.ブルネイ河渡河転進

第三七軍司令部付陸軍技師  五十嵐修作

 昭和二十年六月八日未明より予期していた濠軍のラブアン島一斉攻撃が開始された。間もなく濠軍上陸の報に接した。
 日夜をわかたず激しい艦砲射撃音、爆撃音が遠くに無気味に聞えていた。夜空に遥かに遠く炸裂の火花と照明弾の花火のような妖しい光り、炎上する真っ赤な炎を見ながら、予てより玉砕を覚悟の上でラブアン島に踏み止まり任務を遂行している、白田島司、西さん、石井さん、坂井さん、吉田実等の僚友の無事を祈っていた。

 遂に六月十日朝、ラブアン島攻略に勢いを得た濠軍は艦隊約七十隻の燐烈なる艦砲射撃の反復と、優勢なる空軍の焼烈なる爆撃の援護により濠軍約ニケ旅団が、ムアラ桟橋附近に上陸し、それを迎え撃った貫兵団佐藤大隊は激烈なる死闘するもその甲斐なく悲憤にも全員玉砕した。
 海空軍に援護された濠軍は迫撃砲攻撃にてジリジリプルネイ市内に肉迫し、六月十二日にはブルネイ市内に至近弾が激しく撃ち込まれ、また空にはグラマン、双胴のP38等の飽くなき機銃掃射と神経弾の乱射に併せて艦砲射撃の反復に我々は焦燥感が高まり只々無抵抗に無事を祈り時の過ぎることを祈った。

 六月十二日午前遂にリンパン地区への転進命令が伝達された。
 熊野周二ミリー州長官が、軍政要員、一般邦人を把握指揮することになり、各自持てるだけの糧秣を持ち同日夕刻迄にブルネイ埠頭に集結するよう全員に伝達した。
 私の任務は糧秣の配給と渡河用のサンバン(小舟)の調達である。糧秣庫は合同宿舎にあり、私が管理していたので全部供出して、米、塩、粉末醤油等各自持てるだけ配給した。

 さて、私の困ったことは渡河用サンバンの調達である。濠軍の日夜をわかたぬ海空陸の猛攻にて市内は混乱し、民情はとみに悪化し、不安定で、住民は危険を逃れて山の中に疎開して街にはあまり人影は見えず、ブルネイ河にも舟の姿は見えない。また現地人政庁職員も誰も出勤していない。このような状態で果たして舟が調達出来るだろうか?
 どんな方法で集めたらよいのだろう? 然し何としても諏達しなくては我々は玉砕するほかない。
 私は戦火の中を政庁のチーフオフィサーのインチ、イプラヒム氏を自宅に訪れた。イプラヒム氏は運がよく在宅で、私は当方の事情を説明しサンバンの調達方を懇願した。イプラヒム氏は当方の実情を諒察されて直ちに快諾されたので私は安堵した。イプラヒム氏は直ちに機敏に奔走してくれた。さすがに敏腕、徳望家の氏である。私たちは到底不可能なことを数時間後には大小数隻のサンバンを舟頭と共に準備してくれた。私は出来得れば二十隻位のサンバンが欲しかったが、数隻といえども至難のことであり実に有難かった。

 インチ、イプラヒム氏に一言御礼の言葉を言いたかったが、混乱のさ中でとうとうお会い出来なかったことは心残りである。
 十二日夜、いよいよ渡河決行である。
 既にに全員集結している。緊張と不安の中で待機している。
 まず、婦女子、子供、一般邦人を乗せたサンバンは注意深く静かにブルネイ河を渡って行った。
 その頃より無数の照明弾が発射され、頭上で炸裂した。何万燭光か? マグネシウムの白熱光で一瞬真昼のように明るくなり、その光りが河面に映えて、必死の中で見たその妖しげな美しさは今だに私の眼底に強くやきついている。
 然し、不思議にも敵の砲撃も敵機の銃撃もなく、ただ照明弾の発射だけで、今だに思うことは、我々の渡河を援護してくれたのではなかったのか? と錯覚する。
 恐怖と緊張の中に満員のサンバンはちょっとでも身動きすると今にも沈没しそうになりながら何回か往復した。
 私は、最後のサンバンに乗った。照明弾の打ち込みは益々激しさを加え、無気味な閃光を放っていた。
 舟は静かに音もなくブルネイ河を渡って行く。

 私の胸中には諸々の感慨が去来した。
 我青春を精一杯捧げたブルネイ、あの山、あの河、あの建物。従順、親切で誠実、明朗なブルネイの人々、数々の想い出。埠頭には大勢のブルネイの人々が別れを惜しんで手を振っている。その姿が照明弾の閃光に浮き出されている。その姿がだんだん遠くに去って行く。
 ブルネイよ、さようなら・・・。
 私は、さようなら、さよならを絶叫しながら、とめどもなく湧き出る涙で満面クシャクシャになっていた。
 私は、この時ほど涙を流したことは今だにない。
 想い出多きブルネイよ、ブルネイの友人よ、またいつの日か必ず会えることを心に信じっつブルネイを去った。
 沈着機敏な行動により全員無事に渡河に成功した。
 夜空は未だ照明弾で真昼のように明るい。
 対岸のブルネイの町とアイルカンポン(水上部落)がまるで美しいライトに浮き出された芝居の舞台のように映し出されていた。

 六月十二日早朝転進決定からブルネイ河渡河決行までの間、私の任務は余りにも多かった。サンバンの調達は勿論、各所との連絡、糧秣の配給、重要書類の整理、人員の把握、等々と目まぐるしく夢中になって走り廻った。時間は刻々迫る、気は益々あせる、私物の整理する暇もなかった。
 私の生涯で、この日ほど多くのことを処理することは二度と経験出来ないことであると思う。
 インチ、イプラヒムさん、最後までお世話になりました。心より御礼申し上げます。
 あの戦乱のさ中で早急にサンバンを調達してくれたご好意と並々ならぬご努力に対し我々は衷心より感謝いたしております。
 また、危険を冒してサンバンを力一杯漕いで渡河に協力してくれたブルネイの人たちにも深く感謝の意を表します。
 もしあの時サンバンが調達出来なかったとしたら、我々の運命はどうなっていたろうか? と思うと胸がつまる思いである。
 ご恩は終生忘れません。戦後ブルネイ王国は独立し、聡明な若きサルタン(王様)の統率のもとに目覚ましい復興をなし、着々と近代都市を形成し発展していることは誠に喜ばしいことである。
 先年ブルネイのサルタンに招かれて彼地を訪れた。元ブルネイ県知事、木村強より、インチ、イプラヒム氏は現在ブルネイ国の国会議長の要職にあり、益々御壮健にてご活躍とのことを聞き誠に喜ばしい限りである。
 願わくば、ご老齢でもあり、ご自愛せられ、益々の御健康と御健闘を心からお祈りするものであります。
 あの時リンパンにて、防疫課の深谷技手は六十四、五歳のご老人だったので、これからの行軍には到底耐えられないとのことでブルネイに残置して来たが、その後の消息を聞いていないが元気で帰還しられたであろうか。
 これより我々はいよいよリンパン地区にて筒井大隊と合流し、その指揮下に入り、幾多の貴き犠牲者を出した四十数日間に及ぶ筆舌に表し難い悲惨なる死の行軍に移ったのである。

 七月二十九日、幾多の貴き犠牲者を残置し飢えと疲労の極に達した我々は軍司令部最後の拠点であるボーホート近くのテノムに到達したのである。
 テノムにて終戦の報を受け、それより濠軍により武装解除され、長い長い忍従の苦しい収容所生活を送ったのである。

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