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19.玉砕!! 奥山部隊

独歩三七一大隊本部付  鳥山博志

 記事のうち「銃持つ白骨」 は四中隊の丹羽上等兵からの聞き書。
 第一中隊の戦斗は左腕を失った福岡一等兵のもの。
 六月二十日は斬込に参加し重傷後自決してなお生還した板倉上等兵、銃砲隊の岡村上等兵からの聞き書きです。
 他はすべて私のメモ、体験等です。

 昭和十九年

十月二十五日 アピー上陸(現コタキナバル)
 北ボルネオ「アピー」(ゼッセルトン)上陸、アピー西方四粁附近のゴム林に入る、倉庫を兵舎として起居す。

十一月三日 編成完結
 中部第二部隊(愛知)中部第三部隊(静岡)の精鋭は万死を越えて無事任地に到達した。
 ここで十一月三日までに編成は事実上完結した。

 独立歩兵第三七一大隊(奥山部隊)
 大隊本部   大隊長 奥山七郎大尉
        副 官 増田武雄中尉
 暗号班 平岩直一中尉 兵器 石川 巌中尉
 通信班 渡辺善一中尉 衛生 宇野鎮雄少尉
 経理 田代徹見習士官

 第一中隊 中隊長 鈴木 重麿中尉
 第二中隊 〃   紀谷右太郎中尉
 第三中隊 〃   中川 敏雄中尉
 第四中隊 〃   田邨 保男中尉
 銃砲隊  〃   林  黎三中尉
 作業小隊 小隊長 西村 勝鈼少尉
     (総員 九九三名)

十一月四日 機帆船
 機帆船八幡丸は渡辺中尉以下六十余名を乗せて「アピー」を出帆(私も之に同乗)
 船は椰子の葉その他で完全に艤装され小山のような感じである。
 各中隊の大部分は陸路を行軍(トウアラン街道-ラナウージャングルを経てー)サンダカンヘ。

十一月十一日 「サンダカン」上陸
 二哩兵舎に入る、マンゴーをはじめて食べる。敵機の銃撃たびたびあり、
十一月下旬飛行戦隊兵舎へ移動、
十二月一日新兵はみんな一階級進級一等兵となる、
十二月二十五日、クリスマスプレゼントに延百数十磯による大爆撃あり、ゴム林にかくされた兵舎の大半を吹飛ばしてしまった、この爆撃で兵一名戦死。
 このあと兵舎は八哩地点へ移動した。

  昭和二十年

二月十二日 「サンダカン」出発
 灘作命甲第二三号に基き北ボルネオ前田島方面(ラブアン島)転進のため第二作戦道に依り「サンダカン」出発。
 〝死の行軍〟とよばれた「サンダカン」〜「ラブアン」五百余粁にわたる転進はじまる。
 (第一日) 兵の行軍したあとには点々と私物品が棄てられ、なかには貴重な食糧品(醤油等)の一部を棄てたものもある。矢野が倒れ、吉野が倒れ、大桑が夢遊病者の如く数歩あるいては倒れた……午後に至っては隊列も班のまとまりもめちゃくちゃになり、お互戦友のことなど何も省みることができなくなってしまった。
 この日、目的地二三哩地点に到達せるも、大隊長、石川中尉、井川軍曹、中川軍曹、阪野伍長、松永兵長、水野兵長、鳥山等十数名にすぎなかった。
 (第二日) 落伍せる兵の集結にあて一日休養。
 (第三日) 午前四時ごろ起床して足に自信のないものが先発した、牧野俔、小川賢二、塩沢茂男、田中貞二、波多野外治郎、鳥山等である。しかしこの先発隊の大半がこの日の目的地三五哩地点に到達し得ず、ジャングルの湿地帯に抱き合ったまま冷雨にうたれて夜を明したのである。
 (第四日) 遂に大隊長は兵に官給品の処理を命じ蚊帳、毛布、書類の一部等を破棄したのである。
 これまでに落伍せる者(十二日)山田亀三郎、矢野俊夫、大桑敏夫等(十四日)牧野俔、稲垣秀穂、塩沢茂男、神谷康好、鈴木広治等、二宮少尉は病気にかかるもまだ元気。

 (銃持つ白骨)
 行軍間に死者が出た場合、自分の部隊については火葬や埋葬ができたが、他の部隊についてはとてもかえりみることはできなかった。(後には自分の隊についても手がつかなくなってしまうが。)
 五十哩地点を過ぎて間もなくだった、道ばたの木や草むらに、巻脚絆をし、装備をつけたままの兵が銃を抱くような姿勢で六、七名死んでいた。タワオから来た兵であろうか、長途の行軍に病み、疲れ、食もなくなり、ついに兵站を目前にしながら力つきたのであろぅか。中にまだ息のある下士官と兵がマラリアで動けず、かすかな意識の中から、「助けてくれ、助けてくれ。」と叫んでいたが、衛生兵すら薬を持たない有様なのでどうすることもできなかった。ただ四中隊の兵十名ほどが、自分の食糧を出し合って飯を炊いて出したのが、ここでできる精いっぱいのことだった。「ここから六里ばかりさがると、五十哩の兵站があるから、そこまでどこをどうしてもさがれ。」
 と励まして去ったが、それ以上のことのできなかったのが、あといつまでも気になった。(四中隊丹羽正上等兵)

 ここを私が通った頃は、いちばん状況のよい時で、たとえ死んでも部隊の兵を路傍に放置することはなかった。ただ同じ道を歩いていた濠軍の捕りょの死体はいくつも見た、またその戦友が作ったと思われる木につるを巻きつけた粗末な十字架が随所に立っていた。
 行軍路での死者は、この後ぐんぐん増していった。とくに戦況悪化後は、銃持つ白骨が道をふさいだと表現されるような悲惨な状況になるのであろう。

 (ラナウ)以後、どうにか行軍は続くが「ラナウ」に着くと百数十名が患者として残留した。増田副官、西村少尉、中沢曹長、国行見習士官、印宮、小川等もこの中に含まれ、元気だった平賀兵長、石川兵長は寝たまま、山本四郎はひょろひょろ、戸塚上等兵は重態だった。
 第一中隊の兵が心から敬慕してやまなかった二宮少尉が三月九日ここで戦病死、一部元気な患者がその火葬を行った。

三月二十四日 前田島上陸(ラブアン島)
三月二十四日 渡辺中尉以下先発隊ラブアン島上陸
三月二十六日 大隊長・副官以下大隊主力上陸
三月二十九日 平岩中尉以下上陸(鳥山上陸)(近藤正敏はポーホート陸病に入院)
 落伍者を除き、上陸完了
 上陸以来、殆ど例外なく連日空襲あり。

四月十五日 平賀兵長以下六名上陸
四月二十一日 近藤正敏上陸

五月五日 伊藤 幸上陸
五月七日 本格的大空襲あり、
 数百発の被弾のため飛行場使用不能となる、発電所も大破、断線十数カ所に及ぶ、
 この日の来襲機延約二百機 これより六月艦隊進攻まで空襲日に燐烈となる。
五月八日 陣地構築
 事務その他一切停止、大隊長副官以下全員陣地構築に専念

六月一日 兵長(四名)上等兵(八名)進級発令
 (兵長) 加藤彦二 小松県一 広瀬素行、片野一夫(三中隊) 
 (上等兵) 滝浪利作、金森清、鳥山博志、山本四郎、伊藤幸、
       田辺松雄、後藤静雄、太田一行(二中隊)
六月二日 陣地構築完了並進敵視賀会
六月四日 在ラブアン島在郷軍人召集
六月六日 中川軍曹・片野兵長兵団に遺骨送届のため出発
六月七日 第三戦備下令
十時三十分 水平線上にマスト発見(北方監視哨)
十一時四十分 艦船姿をあらわす 二十余隻 上空を飛行機が警戒誘導
十二時 第三戦備下命  この日も増田副官以下全員陣地構築中、作業中止して戦闘配置につく
十二時二十分 艦船五十数隻を数う(南方監視哨)
○この日大隊命令を以て下士官任命(六月一日附)
(伍長) 島崎正一、森武、水野倉蔵、近藤春雄、松永昌平、平賀大司、黒谷義夫、江川末次郎(鉄砲隊)
(軍曹) 二十年三月一日附で進級  芳村一、阪野清久

十四時 艦隊の近接と共に敵機が上空に飛来しはじめ十四時爆撃と相まって猛烈な艦砲射撃が開始された。
 このとき副官命令で大隊長宿舎のマンゴーの樹上に登って観戦した。それは誠に美しいパノラマを見るような状景であった。薄紫にかすむ北ボルネオの山々を背景に狭い湾内いっばにい数十の艦船が停止して一斉に砲門を開き、その上空には戦爆数十機が乱舞して銃爆撃を敢行、そのため島庁附近及三中隊前面陣地附近は全く爆煙の中、発電所及憲兵隊附近は火災を起したと見え黒煙がもうもうと天をおおっている。応召前、内地でみた映画「ハワイ・マレー沖海戦」そのままの壮観であった。十七時ごろよりは 砲撃をやめ湾外に去った。

(拡大図)


六月八日 未明、ブルネイより中川軍曹、片野兵長帰遣
 昨夜、沖から間断なく砲弾を島に叩きこんだ敵艦隊は、午前七時頃再び姿を現わし、昨日と同じ隊形でブルネイ湾に進入した。
 艦砲射撃と爆撃は前日にも増して猛烈を極め、時には同時に、ほとんど間断なく攻撃が続いたが、昨日の如く日没までには悉く去り、夜間は遙か沖合から十五分毎位に砲弾を送った。
 この夜、飛行場は柳隊に依り爆破された。
六月九日 十三時五十分頃、飛行場占領の目的を以て東側地区に上陸を企図せる敵を銃砲隊木村中尉迫撃砲をもってむかえ撃ちこれを撃退す。

六月十日 砲爆撃下、陸軍桟橋附近に遂に一部上陸、つづいて戦車揚陸。
 敵戦車の進出急なりしため三中隊一小隊(井出)連絡絶ゆ。
六月十一日 大隊所属海軍大発土民に燐き払わる、これで重要書類の搬出絶望となりしため、副官の命に依り、中川軍曹留守名簿だけ残し他は全部焼却。
六月十二日 敵、柳隊陣地裏側に進出、兵器室平賀兵長以下三名、夜闇にまぎれ三十瓩爆弾で上陸地点爆破生還
六月十三日 第三中隊連絡絶ゆ 夜 柳隊使役の兵補十余名刺殺

六月十四日 第四中隊井上小隊孤立す。救援連絡に赴きし前田兵長以下四名遂に還らず。
 重囲の第三中隊葛原小隊より「爆弾届けよ」の連絡兵たどりつく
 本部より荒永軍曹を長にして、滝浪利作、田辺松雄、山本四郎、小川賢二、印宮三男、加藤松二、鳥山博志等三十瓩爆弾を届ける。
 このときの葛原陣地の壮絶な状景は永久に頭から消えないほど強烈なものだった。
 砲爆撃に鋤きかえされたくぼみに十数名の兵が身を伏せ、機関銃を構え、小銃を手に敵戦車数台と二、三十メートルの距離に対峙していた。ほとんどの椰子が打ち折れ、中には根ごところがっているのもある。葛原准尉は中ばから上をふっとばした太い椰子を楯に軍刀をついて敵戦車をうかがっていた。絶対優位にありながら釘づけになって前進しようとしない敵戦車と、爆弾を手許にこれを待ちうける泥まみれの日本兵、いまでも絵に残したいと思う悲壮な場面だった。
 十五時ごろ、銃砲隊陣地にも歩兵を伴った敵戦車二台が進入して東た、重機関銃座についてこれを迎え射った中田見習士官・茶屋兵長等戦死。
 葛原陣地に爆弾を届けたあと、滝浪上等兵は大隊本部入口の道路脇で敵戦車に爆弾をしかけようとして射たれ半身を失う壮烈な最後をとげた。
 渡辺中尉は最も親愛せる滝浪の半身の前に通信班の兵を集めて「…‥遅かれ早かれ、いつかわれわれも滝浪と同じ運命にあるのだ……同じ死ぬなら、滝浪の美しい死を忘れず、全力を尽して、お互に最後を飾ってくれ。」と悲壮な訓辞をした。
 この日、第一中隊陣地にも敵戦車数台が突入した、戦車は壊滅状態の陣地を縦横に蹂躙して廻った。中隊の兵はこれに体当り攻撃で対抗したが、衆寡敵せず遂に全滅した。鈴木重麿中隊長は敵機開砲弾の破片を大股部に受け負傷、歩行不能となっていたが、部下の力戦苦斗の戦死を見とどけ後、敵前にて東方を遥拝し、聖寿万才を唱え軍刀を以て見事割腹自匁した。

六月十六日 銃砲隊長林黎三中尉は兵数名と敵戦車に体当り攻撃敢行爆砕、壮烈な戦死をとぐ。
六月十七日 第四中隊長田邨中尉戦死
六月十八日 斬込出撃後重傷の田代見習士官手りゆう弾で自決
六月十九日 午前十一時半ごろ機関銑座についていた鳥山敵砲弾の破片を左大腿部にうけ壕中に倒れる。荒永軍曹、水野伍長等止血のてだてをするも血はとまらず、砲弾が炸裂するたびに奔騰して止まぬ血をみながら意識を失ってしまった。
 この日、同じ銃座にいた加藤兵長戦死、森伍長、山上等兵等多数の死傷者出る。陣地の損傷甚大。

六月二十日 大隊最後の日
 大隊最後の斬込出撃が命令された。兵力約九十名、三隊に斬込隊を編成した。
一、敵本部 奥山大隊長、増田副官、大隊本部、第四中隊、安原分隊三十余名
二、飛行場中央 葛原准尉、第三中隊、第二中隊二十余名
三、飛行場左翼 石川中尉、第一中隊、銃砲隊、酒井隊三十名。

 敵本部の襲撃に向つた大隊長の一隊は、二十二時陣地前を出発し、本部南の膝近くまで入る湿地帯を通り抜け西へ大きく迂回して進んだ。
 飛行場南の道路へ出たところで敵と遭遇、激しい射ちあい、白兵戦斗が展開された。ここで敵に相当の損害を与えたが、わが方も大隊長、副官のほか六、七名の戦死者を出してしまった。生き残った一部は敵中をつっきり更に奥深く進入し敵の糧秣集積所を占領した、この時の指揮は四中隊の三島曹長がとった。ここで通りかかった敵のトラックを止め、将校二兵一を刺殺したが、つづいておこつた戦斗で三島曹長ほか七、八名が戦死した。

 四中隊の板倉上等兵は「斬り込み後、生き残った者は三中隊の位置へ集結せよ。」と大隊命令が出ていたので、糧秣集積所から更に三中隊方面へ向う途中、敵歩哨線からの斉射をうけ左大腿部から臀部へかけて重傷を負った。「もうこれまで」と銃口を喉にあて、地下足袋の先の切口から出していた足の親指で引金をひいたが、銃口がゆれ失敗した。二度めは成功し溝に昏倒したが、弾丸が喉の中心を外れていたため奇蹟的に助かった。
 本部の山本上等兵は島庁附近の道路上で負傷し動けなくなったため手榴弾で自決した。
 飛行場中央を襲撃した第三中隊の消息はわからない。おそらく斬込突入後多大の戦果をあげて全員玉砕したものと思われる。

 第三斬込隊は、ながらく現地にあって飛行場方面の地理にあかるく燐津践団の岡村上等兵(現地召集)を先導に進んだ、そのころ、敵は日本軍が殆んど壊滅した位に思っていたためかこの方面の警戒が非常に手薄だった。斬込隊は途中気づかれることなく進み、そのまま敵幕舎に突入した。敵は不意をつかれ大混乱に陥り多数の死傷者を出したが、わが方もまた半数以上の戦死者を出してしまった。
 生き残った兵は、小兵力毎に分散し北方山中に在って遊撃戦斗に入った、しかしこれも七月なかばにはほとんど全滅してしまった。

 このときの銃撃、爆撃、突撃のかん声は対岸のメンバクールでも聞かれたというが、ラブアン島の本格的戦斗はこれで終った。
 しかし、ボルネオ本土メンバクールにあって軍司令部との連絡にあたっていた第二中隊(紀谷隊)は、この後も敵と交戦を続けながら後方基地へ移動していた。この戦いで高柳公平少尉以下十数名が戦死した。

   〝ああラブアン島〟

    連合軍十数倍の兵力と
    物量を惜しまぬ 海と 空と 陸からの
    嵐のような攻撃にさらされた 奥山部隊は
    劣悪な武器に 弾丸も乏しく
    少ない兵力に 援軍もなく
    その上 孤島の 退くこともできず
    ただ肉弾攻撃だけを 唯一の武器に
    祖国の安泰を祈りながら
    さいごの 一兵まで戦った。
    しかし、ときは
    歴史の大きく変わろうとする
    敗戦まぎわのこと
    この 南の小島の戦いは
    一般は勿論、戦史にも忘れられたまま
    ここに終った。
    連合軍ブルネイ湾進攻以来十五日目
    終戟五十余日前のことである。
奥山部隊  九九三名
 ラブアン島(四三三)
  戦  死 四二六
  戦傷帰還   七

 ボルネオ本島(五六〇)
  戦 死  三八
  戦病死 四一四(行方不明七四を含む)
  帰 還 一〇八


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