18.佐藤玉砕部隊の手記
独歩三六六大隊鉄砲隊 松本勇
今年も暑い夏がやって来ました。
夏になると待ち遠しいのが、南風会であります。この会は毎年八月の暑い盛りに現地ボルネオを想い出しながら行なわれる会で、貫兵団第三六七大隊第一中隊(広瀬隊)の生存者が主催している。
今はなき戦友の霊を慰め、また、当時の苦しかった想い出を語り合う楽しい一日であります。
私が独混三六六大隊銃砲隊の者でありながら、南風会に入会させて頂き、第一回目、明石会場に出席させて頂いてより十回目となります。私の所属しておりました佐藤部隊は、ご存じの通り玉砕部隊で、生存者の同時帰還者は四名で、復員後も住所すら判らない状態で現在に至っております。したがって当時を語るにも話し相手がなく、相談するにも力になってくれる者もなかったのであります。また、戦友達が彼の地でそのままになっているかと思うとき、胸の張りさける思いでありました。ところが、南風会に入会させて頂いてよりは、広瀬隊長並に出席者により毎年一回は戦死者の慰霊祭が行なわれるので、せめてもの心の慰めといたしておりました。
この度は、第一中隊(広瀬隊)のみでなく、第三六七大隊全員の会を結成され、盛大に慰霊祭をとり行なわれましたことを、心より本当に嬉しく思っております。
戦後二十五年も経てば、ともすれば忘れられようとして行く今日、このように盛り上って来たのも、広瀬隊長殿以下第一中隊生存者で結成されている、南風会の地味な働きが、実を結んだものと思っており、深く感謝いたしております。
今回この第三六七大隊合同慰霊祭を契機としてボルネオの足跡として図書出版を計画していられるとのこと。
広瀬隊長殿より玉砕部隊でも奥山部隊の方は既に生存者によって相当詳細に報じられている。しかし同じ玉砕部隊でも佐藤部隊の方は未だ世に知られていない。佐藤部隊の生残りの一人として亡き戦友顕彰のためぜひ一筆投稿せよと特に言われ、一下士官の身では佐藤部隊の全般をとても知るよしもなく、又記録もなく、ややもすれば記憶もうすれておりますが、己が生命の限り生き続けたボルネオの足跡だけなりとも何とか綴り述べさせて頂きます。
私の所属原隊は、貫兵団独立歩兵三六六大隊(旧部隊号灘一五八九一部隊)銃砲隊(佐々木隊)といい。ブルネイ北地区警備隊としてブルネイ北方約十数粁の、ムアラ海岸を中心に陣地構築、警備の任に当っておりました。
昭和二十年六月七日、敵は俄然有力な艦砲射撃、空爆と共に上陸、瞬時にして彼我攻防の修羅場と化したのであります。
さて思い省りみますると、私等は
昭和十九年七月二十五日
南方総司令部要員として、岡山中部四十八部隊に応召
昭和十九年七月二十八日
ボルネオ守備軍要員が応召して入隊し、先に出発するので、私達は支給された被服を返納してそちらに廻す。彼等がタワオ地区警備の須賀崎部隊である。
昭和十九年八月七日
屯営出発、下関に向う。
下関にて約一週間船待ち、門司港で荷揚作業に従事。
昭和十九年八月十三日
門司港出帆、途中基陸上陸、同出帆、高雄上陸、同港出帆。
基隆港外で僚船一隻撃沈され、百十名が海没したと聞く。
昭和十九年八月二十日頃
高雄港で空襲を受けB29十九機の波状攻撃を受けた。軍艦の高角砲により敵磯一機を撃墜した。
バシー海峡に出て約三時間経った頃より、敵潜水艦の攻撃を受け、次々と僚船船団は撃沈され、台湾最南端(ヘイトウ)に避難す。約三日いて給水等終り再出発、途中何度となく敵潜水艦の攻撃を受けた。
昭和十九年九月十一日
マニラ直行不可能となり、比島北サンフエルナンド(リンガエン湾)に上陸、携帯天幕にて夜営をし約一週間いた。スコールに悩まされた。
汽車にて(台車)マニラに向い、アルベルという小学校を兵舎として、マニラ港の荷揚作業等に従事す。マニラ到着の翌日、マニラ初空襲を受け、その被害は大であった。
(註)南方総司令部は当時すでにマニラにはなく、寺内司令官以下サイゴンに渡っており、船舶の都合で同地にて解散し、マニラに残る者と、ボルネオ守備軍に転属する者とに分かれた。
昭和十九年十月十八日 マニラ出帆。
昭和十九年十月二十七日
北ボルネオ、アピー(ゼッセルトン)に上陸、汽車にてパパールまで行き、約十日間休養す。
昭和十九年十一月七日 アピー出帆、タワオに向う。
和年十九年十一月七日(注:原文のまま)
北ボルネオ、タワオ上陸。
先に出発した須賀崎部隊で同郷の山本軍曹に逢う。約二十粁奥のタイガー地区スンガイボロのゴム林の中に屯営する。
昭和十九年十一月二十一日
独立混成第三六六大隊編成され、銃砲隊に編入された。
昭和二十年一月十六日
ケニンゴー向け転進のためタワオ出発。
(註)これよりボルネオ死の行軍が始まるが特に印象に残ったところだけ簡単に記す。
ラハダットに到着し、約一週間行軍準備をして出発した。セガマは農園で「好い所だなあ」と思いながら通過した。
百粁地点で、初めて他隊の戦病死者を見る。これより密林地帯の行軍である。
コヤ河合流地点
丸木等で濁流を渡ったが心細かった。
この地点より落伍者が出だした。
ラマグ対岸
山の上よりコヤ河の向うに部落が見えた。毎日毎日が密林とぬかるみで民家を見ることがないので、懐かしかった。
四十二哩地点
軍靴の修理と、むし芋の接待とを、サンダカンの部隊がしてやると言うことであったが、到着が遅れ空喜びに終った。
病弱者はここからサンダカンに送られた。
加藤上等兵戦病死す。墓標を立て、片腕だけ火葬にして、遺体は埋葬した。
ボト
この頃より落伍者が増え出した。後から来た部隊に聞いたが、次のミルルやパパーンは佐藤部隊の墓場であった、と言われた程であった。
また、この頃より元気な者が倒れ出した。原因は自分は元気だから先に兵站に着き、装具を置いて弱った者を迎えに行く、これの繰り返しであったから、疲労したものと思われる。
ラナウ
高山植物があり、キザミに似た食べられる野草があり、夕食の足しにする。
非常に涼しく水も冷たいし、極楽に来たような気持であった。
三日間休養をして出発したが、ぬかるみと異って、道が堅く、少しの間は足が痛かった。
ケロコット
岡田部隊長の陣没された報を聞く、また、我が隊より転出した、福富兵長が担架で後送されて来たのに出逢った。
ケニンゴー
やっと到着したと思ったが、命令が出て、更にブルネイへ向けて出発した。
メララップ
元気であった船着浅吉軍曹(児島郡出身)が、メララップの病院で戦病死され火葬にした。
約一週間休養して、汽車でテノム経由でボーホー卜者、河を渡り更に汽車でウェストン着、行軍でリンコンガンまで行き、約一週間船待ちをする。船便がありウェストンより乗船し、ブルネイ着が四月十四日でありました。
タワオ出発時、約百二十名いた隊員が、無事到着した者、隊長以下二十八名と記憶しております。しかし我が中隊が一番多く、某中隊は四名だけの隊もあったと聞く。
なお、到着した内訳は将校三名、下士官、兵長等予備役が大部分で、一等兵、二等兵は四、五名しかいなかった。
しかし、第二国出身の川窪浅喜一等兵は、小さい身休でよく頑張り、六月一目で上等兵に進級した。
以上がボルネオ死の行軍の一部でありますが、行軍の内容についての詳細は、またの機会に述べます。
兵舎建築及び陣地構築
四月二十日頃より、ブルネイ港より約一粁程奥のゴム林の中に兵舎を建築した。二十八名入るには大き過ぎるが、追及者が来るのを予測して大きい物を建てた。残念なことに落伍者は一人も来なかった。南風会の荒井町の中山さんが、筒井部隊に追及される途中におられたのも、その頃であります。
兵舎の建築を終り、部落北の飛行場、ムアラ街道に面した山に、銃座、横穴等の陣地を構築したが、暑い毎日の作業であり、マラリア等病弱者が多く、その作業には十名足らずの者が毎日当っていた。
六月に入り敵機の来襲が、毎日定期的にあるようになり「おーい!! またお客さんだぞ」という程になった。余り低空で来るので特にB24などはスピードも遅く、地上から射撃しても落せるのにと、腹が立っていた。しかし命令が出なければ射撃することは出来ない。
ところが六月六日に「六月十日より敵機が低空で来た場合射撃してもよい」との命令が出た。
私は兵四名を連れて、大隊本部裏山に七日早朝より銃座を構築中、すぐ大隊本部に行くようにと使いが来た。命令受領である。
大隊本部武田一義中尉は命令を伝えた。
「佐作命第一号」佐藤部隊作戦命令
「本末明敵艦船約五十隻、水平線上に現わる、各隊は直ちに戦闘配備に着け」
これが作戦命令の第二号でありました。
敵機動部隊上陸
我が隊は、幸い残して行く程の病人はいなかった。その夜のうちに現地召集の兵も若干編入され、少しは心強くなった。ただ、-人タワオより連れて来た苦力(チャンチュー)が非常になついていたが、戦闘に参加させることは出来ないので別れることになり、沢山の食糧を与えて別れた。今はどうしているか、懐かしい。
六月八日より大隊左第一線に配備についた。ムアラ街道を見下ろせる場所である。
十日の夜、某少尉以下十名程で、トラックにてムアラ半島に連絡に出たが、夜中に他中隊上等兵一人が、血だるまになって還って来て、全員戦死したと報告した。ムアラ半島には我が銃砲隊より、込山三郎伍長(岡山県出身)以下一個分隊が派遣されており、隊長殿も非常に心配しておられた。
十日より艦砲射撃が熾烈となり、海の方がバッと明るくなると、シュル、シェルと音を立てて弾が飛んで来て、後からドドドーンと発射音が聞える、終日続いた。また、それと交互して爆撃があり、ゴム林の中に沢山貯蔵していたドラム缶(ガソリン)を機銃掃射で炎上させられた。流出するガソリンが火の川となって流れた。それまで上官からは、黒胴の戦闘機が近く来るからと言われて、折角整備した飛行場も結局、友軍機は一機も来ずじまいで爆破することに決まった。
爆破には五十粁爆弾三十発を一カ所に埋め、三カ所を爆破することに決まった。導火線がなく爆破させる方法がないので、人が金槌をもって信管を打ちに行くという「嘘のような本当の話」も出たが、結局唐臼式にして、約三百米程離れた所より縄を引張り、きねを落して爆破させた。それが十一日最夜中の十二時であった。大隊長は「ああよかった」と陣地で言われた。
また、ムアラ街道には、五十粁爆弾を各所に埋め、地雷代わりにしたが、効果があったかどうかは不明であります。
十二日になると、迫撃砲弾も飛んで来るようになり、艦砲、爆撃、迫撃砲と交代で陣地が攻撃され、この五尺の身体の置き場に困った。
大隊本部に、各隊下士官一名(各一名伝令を持つ)が命令受嶺者として居たが、集合があり、航空隊の松尾軍曹と土手を上ったとたんに、P38の機銃掃射を受け、足元を弾が走って行ったので、二人は抱き合って土手を転び落ちて、皆に笑われたこともあった。
艦砲射撃は、初めは遠く着弾させ、次第に射程をちちめて行く、いわゆる「ゴバン」の目のように撃って来た。観測機が頭上にいてその命中は確実であった。
十二日昼頓に
「大隊は今夜中、敵陣に斬込を実施する」との命令があり、各人は出来るだけ身軽な装備となり、夜を待った。
敵陣地に斬込敢行。
艦砲、爆撃は終ったが、迫撃砲弾は飛んで来た。
夕やみせまる頃、いよいよ出発である。一応分隊編成であるが、そのうち下士官、兵長を長とする。二、三名一組で斬込班を編成した。出発に先立ち、無線で「大隊はこれより斬込を敢行する。明石兵団長以下皆様のご健闘を祈る」旨の電報を打ち、無電磯を破壊して出発した。
大隊長殿より「銃砲隊下士官前へ」の命令で、私が大隊長の所に行くと「道案内をせよ」ということでした。鉄砲隊は、最前線に陣地を構築し、敵状がよく判っていたからである。
各中隊は、大隊長殿を先頭に敵陣に近づいて行った。何んだか敵が居そうな場所なので慎重に進んでいたが、私は足に何かが引掛ったように感じた。針金であった、ところが左右より信号弾が上った、真昼のような明るさである。全員地に伏せ消えるのを待ったが、フヮーリ、フワーリと落ちて来て、なかなか消えない、その長かったこと。幸いこのときは、敵の攻撃は受けなかったが、敵が居るので一層慎重に前進する。
少し行くと、林より抜け出て開けた草原のような所に出た。各隊はそれより横隊となり、斬込態勢に入った。
ちょうど小さな林の所まで来たとき、パンパンと二、三発小銃で撃って来た。私はその場にかがんで様子を見た、一瞬のことで合言葉を忘れていた。ところが大隊長殿は「乃木、乃木」と言われた。乃木-東郷が大隊の合言葉であった。しかし返事がない、大隊長殿は「突っ込め!!」と命令を下したが、真っ暗で何があるか判らない。誰も動かない、ところが大隊長殿が抜刀して、一番に突っ込まれた。私も我に返り突入した。これより斬込戦が始まった。
大隊長殿と共にした者は、副官、軍医、各隊下士官一名、及び伝令各一名であった。各所で爆発音や喚声があがり、朝方まで続いた。夜が明けないうちに自分の陣地に引揚げなければ不利であるので、各隊は決められた時刻に、各人自分の陣地に引揚げたが、それからの迫撃砲の攻撃の激しかったこと、とても筆舌には表わせません。
各隊より、大隊長に斬込の戦果について報告があったが、百六十名以上の損害を与えたとのことでした。我が方も被害は大きかったと聞く。
引揚げてゴム林の丘の陰で、今後の作戦を大隊長殿及び各中隊長殿が練っている間も迫撃砲弾は飛んで来た。作戦会議の横で、各隊命令受領者が伏せて聞いているとき、両側に二発続けて落下した。自分は「やられた」と思って身体に力を入れてみたが、異状はなかった。
「大隊長殿異状ありませんか!!」と聞いたところ「異状ない」との返事であった。中隊長にも異状ないというこで安心したところ、松尾軍曹(福岡県出身)が「腕をやられた」と言うのです。私が右腕にさわってみると、関節がグジャグジャと音がし、出血が甚だしい。早く止血をしなければならない。その場に適当なものがないので、小銃弾を血管に当てて止血し、タオルで腕を吊った。その間でも迫撃砲弾が飛来して、包帯が出来ないので約十米程移動したが、そこにも飛んで来る始末で、その命中率のよいのには驚いた。また、伝令の一人が足の指を飛ばしたのか「大隊長殿、足の指を飛ばして申訳ありません」と報告する者、また「頭をやられた、来てくれ」と言って訴える者もいて一時混乱した。
(註)松尾軍曹には、収容所で再会し、当時手当が非常に良かったので、腕が助かったと感謝され、復員後も文通していたが、数年前交通事故で死亡された。
その後、少し異動して夜を待ったが、夕方になって、また、前夜と同じように斬込みらしく、あち、こちで爆発音がした。しかし前夜程でもなかった。後の報告で、前夜の斬込で深追いをした斬込班が、夜が明けて陣地に還れなくなり、そのままジャングルにて寝て、夕方になりそのまま斬込んだと報告した。
敵の警戒が厳しくなり、斬込みもむつかしくなったので、一応石炭山に引き揚げることになった。
大隊の引揚げに際して、第二中隊(山崎隊)が後衛に当ることになった。同隊はこの地で玉砕したものと思われる。
石炭山には一個大隊の友軍が、健在でいるという話であった。
私は命令受領者のため軽装であったので、食糧等必要品を中隊兵舎に取りに帰ったが、兵舎は野戦病院となっていて、負傷者が十数名寝かしてあった。しかし、軍医、衛生兵等は一人もいなく、寝たきりで動けない負傷兵ばかしであった。片腕を止血して、放ってあるため、本人は大きな目を開けているのに、片腕は腐っていて口はきけない者もいた。生きていて身体が腐っている、その悪臭は何んともいいようがなかった。私としても任務もあり、どうすることも出来ず、中隊の集合場所に走った。あの光景が今でも忘れられない。
石炭山への登り口の谷で、飛行機の攻撃を受けた、負傷者は若干出たが、戦死者はなかった。
急な山道のため、食糧等が重いので、途中で各所に捨ててあったので拾って行き、終りには一番少なかった私が、一番物持ちになった。鰹節が沢山あったが、これがジャングル内で一番役に立った。
石炭山に着いたが友軍は見当らず、敵兵が周囲の山にいた。山の稜線を降りるとき、五十米程下と、向う山に敵がいて射って来る、前に進むことも出来ず、後に退がることも出来なくなった。九二の重機の近くに迫撃砲弾が落下し、一瞬にして五名の負傷者が出て、重機の搬送が困難となった。このとき曹長が(出身県、名前を忘れた。配属になって一週間程しかならない方)急に抜刀して、敵陣に斬込んで行った、そして、「中隊長殿、昼間の斬込みは駄目ですよ〝‥天皇陛下万才〝」といって敵中に斬込んだ、当曹長は、口ぐせのように「俺は勲章も位も最高のものをもらっている、これ以上はもうもらえない、何時死んでもよいのだ」と常に言っていた。
これに対し、私達はあるだけの弾を、銃身が真っ赤になるまで連続で撃ち込んだ。大分敵に対して損害を当えたが、我々の所も、敵に発見されることとなり、集中攻撃を受けた。そのためその場におられなくなり、谷に降りて行ったが、弾薬も残り少なくなった。
それから三日間程は夜、昼なしに迫撃砲と艦砲射撃で、この五尺の身体の置き場もない程で、私達の移動して行く先々に砲弾が追いかけて来た。このとき同郷の尾関伍長がマラリア熱を出し、夢遊病者のように歩いていた、私はそばに行き元気づけたが意識も余りはっきりしていなかった、彼とはあの時が最後であった。
石炭山には友軍はいないという結論に達し、サエ山に転進することとなった。このときはすでに石炭山の周辺は、完全に敵に包囲された形で、転進路は完全に遮断されていた。
このため林の中で三日間状況を見ることとした。薄暮を利用して飯を煮き、梅干づけにして置く、そうすれば二日くらいは食べれた、また、肝油球が沢山支給されたので本当に役に立った。
サエ山に渡るため、川端まで山を降りたが川岸の草原に、草で屋根をしたものがたくさんあった、敵が建てたか、友軍が建てたか判らなかったが、まだ真新しく草も青かった。夜まで待期し丸木船を借りて渡った。原住民に大分お金を払いました。
舟より降ろされたところは、腰まで海水がつかるところであった。そこからマングローブを歩いて山の方に向かった。方向が間違ったのか一晩中、明る朝も水中行軍で身心共に疲れた。海中で二国出身の川窪上等兵が重機が重いので、海水につかりそうになるのを、つけまいとして頑張っていた顔が目に浮ぶ。
夕方、岸についたがそこに前の部隊の物と思われる梅干が樽で置いてあり、鰹節等副食にするものが少しあった。
夜になって山に登って夜営をした、夜が明けて港を見て、始めて敵艦船の多いのに驚いた。サエ山にも友軍はいない、我が大隊全員負傷者も入れて約百名であった。
サエ山を後にし、リンパンまで行くことに決った。しかし、足を負傷した歩行困難者が「手榴弾を下さい」「隊長殿、自決させて下さい」としきりに訴えていた。また、負傷して治療もしてないし、衣服は血で真黒になっているため、その悪臭は何んとも言いようがなく、まるで生地獄であった。
これより毎晩のように敵に遭遇し撃ち合いになったが、敵も深追いをして来なかった。毎日、脛や深い所は腰までの水中行軍で思うように進めず因っていたところ、小舟に数人乗って来た原住民が来たので、舟を借りようと交渉した。彼等は向うに置いてある分をと言い、その受取りに松本軍曹(滋賀県出身)以下兵三名が行ったが、それきり還って来なかった。
水中の行軍で、夜寝るときはマングローブの木の根の上に、二、三人の者が身体を木にくくりつけて寝た。夜中に冷たいので目を覚して見ると、尻が水につかっていたこともあった。
食糧も無くなって来たとき、ジャングル内の部落に出た、約三十軒ぐらいあった、鶏やヤギ等沢山いたが住民は一人もいなかった。
大隊長殿は「絶対に物を取ってはいけない」と命令されたが、住民がいないので買うことも出来ない、また、部落に永居は出来ないので近くの丘の林の中に入り、五日程休養をする。鶏やヤギを徴発して一斗缶で煮て、ジャングルに持ち込んだ。
それでも毎日、近くで絶えず銃声が聞えて少しも油断は出来なかった。米も若干ではあるが準備が出来、身体も元気を取り戻したので、再び敵を求めてジャングルに入った。
約五日程して再び部落に入った。ここにはパイナップルが沢山あつた、また、モミを沢山徴発した。一度はジャングルに入ったが、再度部落に入った者が、敵兵に発見され撃ち合となった。我が方は三名戦死した。(戦死者は他中隊の者で氏名は不明です)
この附近は部落が点在している所で、水中でなく、湿地行軍であったが、それだけに敵を見ることも多くなった。
このとき、大隊長の命令で「これ以上部隊で行動していては、敵の目につきやすいので、部隊を解散する。各人は生き延びれるだけ延びて、一人でも多くの敵兵を殺せよ」との命令が下った。
しかし、今まで生死を共にして来た者が、敵中で別れて別行動をとることは出来ないと言い、そのまま斬込を続けていた。
或る日、山より野原に出ようとするとき、四、五名の敵兵が歩いて来た。全員で一斉攻撃をかけようとしたが、後の方を見ると百名以上の敵が来ているを見付け攻撃を中止したこともあった。この辺に来て、敵の数も多くなって来たようだった。転進を始めてより一ヶ月以上経ち、兵員も八十名足らずに減り、皆んな疲労して来た、食糧も食べない日の方が多くなった。ビンロー樹の芽を海水で煮て食べたこともあったが、シブくてとても食べれたものではなかった。また水も海水を飲んだ、海水は飲みにくいが、岩塩を咀んでその幸い内に海水を飲めば真水に感じられた。この状態では餓死する、食糧の調達が必要となった。
再度湿地帯に入ったが、昼間見ると水牛が沢山いた。夜になり水牛取りに太田曹長を長として各隊一名が派遣された。銃で撃っては敵に発見されるので、生け取りということであったが、しばらくして銃声がして、ばらばらと走って曹長以下が帰り、「敵兵がいて某兵長がやられた、救出は出来ない」と言うことであり、水牛取りをあきらめ、全員戦斗態制に入った。敵もそれ以上は攻撃して来なかった。
此の頃であった、方向が判らなくなり、高い木に登って見たことがあったが、見渡す限りのマングロープで何も判らなかった。絶えず毎日銃声がし、小さな斬込みが繰返えされていた。
食糧も、モミを水筒で黒くなるまで「イッ」て、モミのまま食べた。始めはモミをついていたが、モミが無くなるまでつくことは大変なことなので、モミのまま食べるようになった。ところが、堅いのでアゴが痛く、初めは咀ことが出来ない、でも次第に慣れてくると食べれた。しかし、大便が出ないので大変困った。転進時持って来た鰹節は貯蔵も出来るし、本当に助かり、命をつなぐことが出来た。
八月に入ったと思うのに、リンパンは来ない、通り過ぎたかも知れないと言う者もいたが、同じ所を歩き廻っていたものと思われます。
或る目、三十米程の川幅のある川に出た。鶏や犬の声がするし、昼間は銃声もするので、部落も近いと思った。大隊長殿は、「今夜あの部落に斬込みをする。」と言われた。満潮時は装具をつけてはとても川は渡れないので、干潮になるまで川岸で待った。約三時間その場に伏せていた。
前より「てい伝」で「敵の話し声が聞えるから静かにせよ」と伝えて来た。やっと潮が引いたので、一人が泳いで渡って綱を張り、皆んなでそれに伝って渡った。皆んな渡り切っていたところで敵の一斉攻撃が始まった、敵が待ち伏せていたのである。ちょっと見ると、三十米程の所で自動小銃を立撃ちで撃って来た。
私はその場に伏せて、部下に 「撃て、撃て」と命令した。こちらが撃たなければ敵はいくらでも撃って来る、しかし、急襲のため十数名が一度に倒れた。私も銃を取り撃ったが、至近距離のため命中確実であった。しかし、いつも頭を上げていることは出来ない、現場が湿地であったため、水シプキが上り、「弾丸雨あられ」という言葉があるが、正にその通りで、目も口も開けておられない状態でありました。手榴弾を取り出し投げたが、ニッパヤシが繁り、遠くに投げられず自分自身も若干破片を受けた。
敵と遭遇する少し前に雨が降ったので、上衣を背嚢の中に入れ、外被を着ていたが、お守りを上衣の中に入れていた。ところが「パン」と大きな音がして、飯ごうに弾が当ったのである、私はすぐ背嚢を取った。今度は銃に弾が当り木被が飛び、銃身のみとなった。
すぐ隣りの倒れた兵隊の銃を取って撃ったが、何分にも敵の攻撃はすごく、しゃにむに撃って来た。先に渡った者が後返りをして応援に来て呉れたので心丈夫になり、突撃を敢行した。かくして彼我入り乱れての斬り合いになった。私も銃剣術には自信もあった。林より出合いがしらに一人刺したが、そのとき大腿部に銃弾を受けた。お守りを身休から離したとたんであった。弾が当り、ヒザをついたとき背後を鈍器のようなもので「ドスン」と叩かれたように感じた。右手が動きにくくなり、続いて腹がぬくくなった、血が流れている、斬られたのである。更に友軍の応援があり敵は退いたが、中隊長以下ほとんどの者が戦死または負傷した。
私は少しして起き上ろうとしたが、身体を起したとき袖口より血が水を流すように流れ出て、腹のシャツの中にも、ズボンの脚絆の上にも血がたまっていた。
出血多量でフラフラして座っていることも出来ない、ちょうど酒に酔ったみたいになった。すぐそばに三小隊長の野村少尉(山口県出身)が顔を半分水につけて「苦しい、苦しい、起して呉れ」と、うなっていた。自分では起き上がることは出来ない。私がいざり宿り、起そうとして力を入れたが、力を入れれば自分の傷口より血が出るのが判る。
「小隊長殿自分の全力で起すから、自分でも起きるようにして下さい」と言い、手がきかないから自分の身体を下にもって行き、起してあげた、ところが座ったとたん、バッタと倒れ、そのままでありました。また、その横の兵隊は、腰部に被弾しくずのいて、背嚢が頭の上になり苦しんでいた。そして、
「苦しい、この背襲を取って呉れ、楽な姿勢で死にたい」と言う。
私がちょっと背嚢にさわると、
「痛い、痛い、その背嚢にさわって呉れるな」と言う、私は我慢しろ少しの間だと無理に背嚢を取り起してやった。そのときの声は何んとも言えない声であった。そうしたら「やれ、これで楽に死ねる」と言って喜んだ、また、他の一人は大腿部をもぎ取られ、小銃を足の下に敷いて苦しんでいたが、私が行くと殺して呉れと言う、私も自分の傷を見せ
「馬鹿!! 何をいうか、俺の傷を見よ、俺もこれで頑張っている、元気を出して頑張るのだ」と力づけたが、
「その銃を取って呉れ、自分で死ぬから」と言う、
そばの自分の銃が取れない程の重傷である、私も銃を取ってやろうと思って銃を動かすと
「痛い!! その銃を動かして呉れるな」と言う、
ちょっと見ただけで二、三十名が倒れていて手の付けようがなく、本当に此の世のものとはとても考えられなかった。
頭を刀で切られた黒宮伍長(三重県出身)は十分間程「ウーウー」と言っていたがそのまま戦死した。
中隊長の所にいざりより、身体を起してみたが、すでに戦死されていた。私は書類をその場で破り処分した。皆んなを起したりして力を入れたので出血がひどく、意識が「モウロウ」として来た。持つて来たサラシ一反で(これはジャングルで汚れた褌を、目的地に着いたら新調するために持っていた)傷口を無理をしてしばった。立ち上って行こうとしたところ、小隊長の当番兵で松本一等兵(岡山県出身)が、
「班長、行くなら俺の背嚢の中に、小隊長の米が二合程あるから持って行って呉れ、私は足をやられているから、もう永くないから」と言う、
「俺はまだ歩ける、お前は動かれないのだから持っておれ」と言って持たせてその場を出た。途中でも非常に元気な兵隊が、
「班長行くかい、俺れは駄目だ、足をやられた、元気でな」と言う、見ると片足先が飛んでいる、何んとも手のつけようがない、元気でおれ、救助に来るからと言ってその場を離れた。
私は中隊長、及び戦友を此の地に残してそこを離れることに決心したのは、小隊長二人起すのに力を入れたため、出血が多くなり自分一人で負傷者を処置することはとても出来ない、また、この状況を大隊長及びリンバン附近にいると思われる貫兵団長に報告する義務があると思い、後に心を残しながら断腸の思いで湿地帯を出た。
約十米程行った所に道路があり、部落に通じる一直線で、友軍が部落に斬込むところであった。ところが、右上丘の上に機関銃陣地があり、一斉射撃をしていて突入している友軍がバタ、バタと倒れていて本当に涙が出た。私は皆んなが途中に倒れることなく、全員無事で部落に突入して呉れることを祈った。少しして部落の方で手榴弾等の爆発音が一時やかましく聞こえて来たが、佐藤部隊はこの地で大隊長殿以下生残り全員が玉砕したのであります。鳴々。
私は少し丘に上ったススキの中に倒れた。そのとき万一を考えて手榴弾の安全栓を抜き、何時でも爆発出来るようにして胸に抱き、そのまま意識を失った。
何日経ったか判らない、雨が降り寒さのため気がついた。私はススキの中に寝たきりで、血を充分吸った蚊がススキに鈴なりになっていた。また身体を動かすと「ワーン」と蝿が飛び立ち、身体にはウジがわいていた。ズボンや上衣の血のにじんだところには蝿が卵を、塩を盛ったように生みつけており、血の腐った悪臭で自分の身体ながら閉口した。
自分の記憶をたどると、昨日までのことが想い出されたが、大隊長は、戦友は無事突入しただろうか、それにしては余り静かになった、どうなったのだろうかと思っていた。
水が飲みたくなり起き上ろうとしたが、ピリッとも身体が動かない、何んとか起きようとするがとうとうその日は起きることは出来なかった。夜に入り身体だけ起して座ったが、傷の痛みと空腹で立っことが出来ない、しかしここでいては死んでしまう、全力を振りしぼってやっと立つことが出来た。少し行った所で湿地帯に入り水を少し飲んだが、それで少しは元気を取り戻した。
少し道を進んだが、敵兵らしき者がいるようなので湿地帯に入った。ここで大きなヒル(小指大もあった)十数匹が足にすい付いたが、取ることが出来ない、その内に意識がもうろうとして来た。土手に上りヒルを取り寝たが、寝転ぶと起き上れないので土手にもたれて寝ることにした。これから数日間孤独のさすらいが続いた。
昼は敵中なので動くことは出来ない、野中の林の中や、凹みに寝ていて夜になると南十字星をたよりに南へ進んだ。
昼スコールで、ひどい雨が降って来てずぶ濡れになっていると、蛙が沢山集まって来た、不思議に思って見ていると、私の身体から落ちる「ウジ虫」を食べに寄って来ていると判り、自分もウジ虫を蛙に与えて一日中遊んだこともあった。また、或る夜は敵に出会い止むを得ず川の中に入り、顔だけ水面に出して一晩中我慢をして難を逃れたこともあった。
民家の近くなので芋があり、掘って食べたので少しは元気を取り戻した。再度湿地に入りまたヒルにやられ、動けなくなったのではいながら川端に行き水を飲んだところ、不思議と立って歩け出したのだ。雑嚢を十米程後に置いたが取りに行く元気はなく前に進んだ。軍刀と手榴弾だけを持って林を抜け、そこで民家を見付けた。原住民が私を見付けて非常に親切にして呉れ、飯を食べさせて呉れ、ムシロを敷いて家の中に寝かせて呉れた。目が覚めたら朝であり、拡声器で放送されていた。
「そこの日本軍人、裕仁は降伏した。日本は戦争に負けたのだから、てむかいするな」と言う意味のことを日本語で放送した。
私はしまったと思ったが、身体が動かない、原住民に裏切られたと思ったが、自分では起き上ることは出来ない、手榴弾を持直そうとしたとき、六尺以上もあるオーストラリアの軍曹が来て手を握った。支那人らしい者が日本語で、
「戦争は終った、裕仁は降参したのだ」と言うが私は信用出来ない。
ジープが五十米程に置いてあり、そこまで歩けと言う。私は、
「歩けない」と座ったままで言った。ウジはわいているし、血が腐って臭うので困った様子であったが、軍曹は、自分と部下の包帯で私の傷をしばり、右手を吊って呉れた。
五十米程歩いて、ジープに乗せられ本部に連れて行かれた。その時、軍曹の腰の手榴弾を取ろうとして、叱られ両手を前でしばられた。
本部について驚いたが、小部隊でなく、大砲は列び、幕舎は見渡す限りという程建ち列んでいた。とても七、八十名ではかなう敵ではなかった。一個師団以上で、「これでは駄目だ」と思った。
その日、本部に担架にのせられ運び込まれたが、既に三名の日本軍人が担架にのせられて置かれていた。私の横の兵は、奥山部隊の者だといっていた。彼は身休に五発の銃弾を受けていた、彼と私の二人は重体であったので明る日船でブルネイに運ばれ一泊した。そのとき身休のウジを取ったらしく、ものすごく熱い感じのする薬をつけられ、やけつくようであった。私はその晩一晩中「うう!! うう!!」とうなったそうで、他の一人が明る朝、
「お前あの憲兵にお礼を言って置け、一晩中寝ずに看護して呉れたのだ」
と言った。見ると憲兵が一人自動小銃の手入れをしていた。私は頭を下げた。
朝食を出して呉れたが、その実味かったことを未だ忘れられない。
朝再び担架のまま船に乗せられ、着いた所が前田島(ラブアン島)であった。始めて見る島であるが、青木は一本もなく、椰子も全部頭が飛んでいて、艦砲射撃のものすごさを物語っている、日本の飛行機の残骸もあちこちに見られた。船から担架のまま病院に運ばれ、レントゲンを写り、病室に入れられた。非常に親切に取り扱われ、約一週間いて重傷者日本兵十三人と、オーストラリア兵一緒に飛行機でモロタイ島に送られ入院した。日本軍人重傷者は、軍医の試験台のようになり、親切に手術、治療して呉れ、全快しました。戦場とはいえ幾多の戦友の命を奪った憎むべき敵濠軍ではありますが、身動き出来ぬ重傷の私の命を救ってくれたのも此の濠軍であります、私として本当にオーストラリア軍の好意に感謝しております。
入院五カ月で昭和二十一年の正月頃退院して、オーストラリア軍の雑役に従事し、五月に入り急に衣服を持って集合せよと命令があり、その日の内に乗船した。リバティ型でVO80と書いてあった。十日間海ばかしで何も見えない日が続いて五月二十一日田辺港に上陸した。
第三六六大隊の者は、武田大尉、城田兵長、吉田上等兵三人と私だけでありました。私は非常に寒いため足と肩が痛くて困ったが、無事復員列車に乗ることが出来た。
故郷に帰り、彼等に便りを出したが、終戦の混乱期であり、二、三人は尋ねて来た者もあったがそれきりとなった。それから大分生活のゆとりも出来て来たが、古い戦友を尋ねるにも住所すら判らない。そのときに南風会の話を同じ会社の塩崎仁一氏に聞いて、入会させて頂き十年目現在に至っております。
私としては出来ることなら、今は無き戟友のご遺族が判れば尋ねて、当時の状況をお教えしたいと思っております。残念なことに、編成されてから間なしに戦斗になったのと、全国各地よりの混成部隊のため、また、戦時名簿等が全々残っていないため、尋ねることが出来ない現状であります。この度のこの催しが発端となり、少しでもご遺族の方が判れば幸と存じます。
また、南風会も今後益々充実され、発展されますことを祈って筆を止めます。