17.死の転進命令下る
第三七軍司令部付飛行班長 山田誠治
昭和十九年九月下旬我々の最も尊敬する山脇軍司令官は大将に栄進され年の瀬もおしせまった十二月下旬参謀本部付に転任と決定し我々を大いに落胆させた。昭和二十年一月十八日アピーの地を出発されることとなり、我々は旅程の安全と前途の御多幸を祈りつつ名残り惜しくもこれを見送ったのである。
新軍司令官馬場正郎中将のアピー着任は色々な事情があって遅れ、とうとうその年を越して昭和二十年の一月末になってしまった。ボルネオとは目と鼻の先にある筈のスマトラからアピーまで辿り着くのに、実に一カ月余りもかかったことになる訳だ。しかもこの一カ月の間に北ボルネオの情勢は、正に急転直下の大変動をきたしたのである。その上更に山脇軍司令官に引続いて灘軍生えぬきの馬奈木参謀長までが、昇進栄転と相次いで、真にボルネオ軍は一転して、その中核体の総てが交代することになってしまった。
馬奈木参謀長が馬場軍司令官と共に執務をしていた期間は、僅かに十日間くらいである。それから総軍の参謀長会議が行われ、その直後、馬奈木少将は中将に昇進し、続いてサイゴンの第二師団長に転出することになった。灘の参謀長には敢斗兵団長として待機中の黒田少将が横すべりに任命され、直ちにその後をうけて、参謀長室におさまり事務の引継ぎが行われた。この間僅かに二週間余りのうちに、灘軍の性格は何も彼も根本的にバタバタと変ってしまったのである。処で馬場軍司令官は参謀長の交代がすむやいなや、いきなり司令官室の自分の机を運んできて、黒田参謀長の隣りに並べてしまった。驚いたのは新任参謀長ばかりではなく、側におった馬奈木前参謀長もあまりのことにこの行状にはいささか眉をひそめたのである。その上参謀長の机に積まれた多くの決裁書類を片っばしから手に取って、後先の区別も順序もあらばこそ、無雑作に通覧加筆をはじめておられる。どうやら参謀長から書類を廻される時間が待ちどおしいのか、或は御両名共ボルネオに関する限り新参であるから、その場で相談をして決裁する方が便利だとでも考えたのか、そのへんのことは測り知れないが、兎に角この異様な光景は暫くの間続いていった。
当時既に参謀部の庶務将校の役目を仰せつけられていた私は、そのうちにこの部屋へ入るのが次第に嫌な気分になって来た。その後も出発を前にした馬奈木前参謀長からしばしば直言があり、一度は司令官室に帰るかと思われた馬場中将のこの奇行も、その後一向に直りそうもないので、私はとうとうあきらめてしまった。どうやら新任の御両名の性格には相当大きな開きがあるらしく、ボルネオの配備と同様にその前途は益々多事多難のように思われたのである。
二月という月は、上空からも地上からもアピーはひっくりかえるような大騒ぎのうちに終始した。続いて貫兵団長の能崎少将が進級して内地の兵団長に転出し、後任には明石泰二郎少将が発令され、敢斗兵団長には、改めて山村少将が着任されるなど、敵兵団の上陸を前にして盛んに首脳部の交代が行われていた。それに加えて気速やな新軍司令官の初度巡視が抜打ち的に実施されるので、大破した司令部の整備やアピー空港の補修等には、異状な迄の手が加えられたのである。軍建築隊はそれこそ目の廻るような忙しさであった。その間に滑走路の補修状況を考慮しながら、馬奈木前参謀長は小型機に搭乗してアピーを発って行かれた。
『山田大尉、おれは全くえらい処へやって来たものだよ。兎に角作戦準備の期間など全然ないよ。これでは今更どうしようもない!! 貴公は幸いボルネオ各地の状況に詳しいそうだから、これからは此処を動かぬようにしてくれ……』馬場軍司令官は着任早々私に向ってしみじみとそう言われた。これはおそらく馬場中将が当初に於ける率直な気持であったのだろう。かくして二月に入ると間もなく新軍司令官によって、二つの軍命令が発令された。その一つは、東海岸に展開中の貫兵団と家村部隊に対し、急遽ジャングル地帯を強行突破して北ボルネオの背梁山脈を乗り越え、総員をまずラナウに向けて転進せしめよとの軍命令である。これが即ち世に「ボルネオ死の行進」と言われた全行程六〇〇粁に及ぶ密林濾過の転進作戦である。勿論ことここに到るまでには、色々と総軍との間に困難な折衝が取り交わされたようである。灘軍としてはこの防衛正面の変換は極めて容易でないことを全員が熟知していた。何となれば軍隊だけならばまだしも、東海岸方面には特殊事情が至る処に存在しているからだ。元来この地域には戦前から多数の邦人が進出している。
就中日産農林は広大なエステートを到る処に確保して、大地に足をふんまえた大事業を経営しているし、又シャミール島を中心として鰹漁業を営んでいる海の男達のボルネオ水産など、これらの産業に関連するいくつかの中小企業や、サービス業などを合せると、邦人の数は数百名を越えている。しかもそれを構成する幾多の家族、病院、特に小学校などが各地に造られてあり、今もしそれらの各基地をすべて撤収して総員を結集し、これらを軍隊と同行させるとなると、それは決して容易な業ではない。それに加えて、約二,000名の俘虜を移動しょうとするならば、おそらくその大半は既に栄養失調と病気のため動けぬ者ばかりである。そして最後にその密林の小道なるものが、果たして何処まで造られてあるのかなど、至難な条件は数限りなく枚挙にいとまがない。殊に我々が最も憤激したのは、総軍の作戦指導の愚劣極まる失態である。過ぐる二月初旬の参謀長会同の折には、それに関しては総軍からは一言の意志表示もなく、何らの下相談すら行われていなかったにも拘わらず、馬奈木前参謀長の転出と相前後して、はじめて『東正面重点配備の方針を改めて、西北方へ転換する必要あり、貴軍の可能性を伺いたし』と突然の下相談がはじめられたのである。
誠に愚劣鈍重なることこの上なしの指導方針と言わざるを得ない。軍としては前述の状況をくりかえして説明し、この転進はまず不可能に近いことであえてこれを強行するならば、戦闘以上に多大な犠牲を覚悟せねばならぬとの強硬意見の具申が行われ、容易にその結論は出そうもなかった。この間に四囲の情勢は益々切迫して、やがて総軍は命令を以てする以外に方法なしとの強制的な意向の応酬もあり、二月の初旬遂に最も恐れていた事態が招来した。ここに南方総軍命令に基づき、馬場軍司令官は万己むを得ず涙を呑んで東海岸在住の全員に対して断乎転進命令の発令となったのである。
その頃灘軍独自の対応策として、いつの日かは兵力の転用が必要となるものと考えて、司令部附の渡辺義男少佐を長とする作戦道路建設隊が、ラナウから東に向って、既に道路の開設作業を開始していたことは前述の通りである。この部隊の幹部には、軍政部から土木のエキスパートも参加しており、例えば五十嵐修作氏なども、その一人であった。(同氏の著書「ボルネオ道」参照)この道路の計画は、概ね十五粁毎に宿営補給の為の兵站地を設置して、そこには宿舎を建て、糧秣を集積する等の企画に基いて準備が進められていたが、実質的にはそれはまだ緒についたのみで、その後の進捗は遅々として進まなかったのである。然しラナウの周辺まで必死にたどり着いた者達は、これらの補給地によって辛うじて命を継ぐことが出来たと言われている。……
一方その頃サンダカンの停虜収容所には、二,000名以上の英濠軍の俘虜が、不安と期待の入りまじった複雑な気持で毎日を送っていた。収容所長の星島大尉は、豪気な性格の将校であった。此処の作業は専ら飛行場の設定がその主要任務である。展開以来丸二カ年の月日を、ただ基地の建設のみに打ち込んで来た星島大尉にとって、今完成に近いサンダカン飛行場の姿を眺めることは、誠に感慨無量の心境であったであろう。然し今となっては、この滑走路に懐かしい友軍機が着陸することはもはやあり得ない。一体何の為に多くの停虜達の血肉を注いで来たのか、彼は今日迄の自分に与えられた任務の跡を顧みると、ふと妙な気持になっていた。星島大尉は工兵隊の出身である。だからサンダカンに於ける二カ年間の土木作業は彼にとっては正に天職であった。それは〝南方の要地に雄大な構想の基地を建設する男の夢〟ともいうべきものである。しかも彼は多くの俘虜を駆使することによって、収容所長としての大きな自信と自覚を得てきた。その強い男の目標が今無残にも目の前で、崩壊しょうとしている。今日迄の彼は任務の為には断乎として命令事項を実行させてきた。その半面俘虜に対する給養は、むしろクチンの収容所より以上に、心を配っていたとも言われている。英濠軍の俘虜達は、最近になってから、強制的に陣地の構築にまで狩り出され始めた。さすがの彼等も、この作業に対しては徹底的に反抗サボの気構えを見せたという。俘虜達は今日まで、連合軍の最後の勝利を信じて、飛行場の建設に力を注いできたのだ。考えようによっては、それが得等にとって唯一の生き甲斐であったのかも知れない。
だが然し、ことがここまで来ると、騒然たるあたりの空気や沖合を行く連合軍主力の進撃の嵐が、彼等の皮膚にも何かを感じ取らせたのであろう。「日本軍は今や完全に守勢に立っている。我々を救出する友軍部隊はもはやこの沖合に迫っているに相違ない」これらの情報は、彼等の心に生き残るべき意欲を猛然と燃え上らせていった。こうなると今迄じっと堪えていた彼等の胸の中に、収容所の脱走計画が、次々と実行に移されるようになったのは、一応うなずけることであろう。それから年末にかけて、俘虜の脱走事件が三回にわたって探知され、しかもそれはすべて事前に発覚された。年の瀬も押迫った或る日のこと、サンダカンの憲兵隊は突如行動を起こすと、州警察を動員して、俘虜脱走事件の幇助罪の故を以て、華僑の有力者約一〇〇名を一斉に逮捕し、即座にこれを断罪に付した。それは、貫兵団としては先手を打った威嚇手段であったと思われるが、果たして処断された華僑達が、本当に俘虜と気脈を通じておったのかどうか、それは永久の謎として今日迄残されている……。
そして一九四五年(昭和二十年)の元旦がやって来た。この日、北ボルネオに対する初空襲が、轟然とアピーの町に落下したのである。我々の頭上にも、愈々敵の挑戦状が降り注いだのだ。一月六日、十日、十五日と、アピーの空襲は益々激化して行くにっれて、なぜか東海岸一帯はいつの間にか、戦雲の嵐から置き去りにされたような、妙な空気に包まれて来た。一月六日、兵団参謀武田中佐はアピー上空に於て戦死、続いて兵団長能崎少将は中将に進級、内地の兵団長に転出と相次いで、ここ東海岸にも敵前に於ける奇妙な転出が行われていた。新兵団長明石少将は、この頃まだスマトラで赴任の準備中とあって、ボルネオ軍は上下を挙げて正にてんやわんやの大騒ぎが演じられていたのである。諺に「泣面に蜂」という言葉があるが新兵団長は到着せず、参謀は戦死のこの不幸な貫兵団の頭上に、突如として配備変更の転進命令が下達されたのは、昭和二十年一月下旬のことであった。これと時を全く同じくして、当時スルー列島の西端、タウイタウイ島に配備されていた完全装備の虎の子部隊独立混成第二五連隊(家村部隊)に対しても、急遽サンダカンを経てまずラナウに向って急行せよとの軍命令が下達された。
然し考えてみると、これはまるで金持の身のまわりを無理矢理にはいで苦力に落として使うようなものである。タワオ、ラハダット、サンダカン及びタウイタウイに陣地を構築していた灘の主力兵団部隊は、この突然の命令に、全将兵を挙げて愕然となったのはけだし当然のことである。それにもまして、思いがけない恐怖の渦中に突き落とされたのは、数百名にのぼる在住邦人の家族達であった。更に又より深刻な淵に立ち並んだのはサンダカンの俘虜達である。彼等は今こそ我が身の周囲に、最も危険な時が迫りつつあることを察知して呆然となった。日本軍に囲まれて、ジャングルの小道を西へ向って護送されて行くことは、確かにそれ自体が極めて大きな危険を意味することになる。彼等にも、その旅の何たるかはおおよそ判断されたのだ。殊にマラリアに犯されている大半の者達は愈々死が自分達の側に寄って来ていることに感付いて、思わず知らず天を仰いだ。今や強力無比の連合軍が、既に眼前間近なセレベス海を縦横に遊弋しているというのに、自分達はみじめにもその前後を大部隊に囲まれて、これから未知のジャングルへ投入され、次第にこの町から遠ざかって行かねばならないのだ。
然しながら、マラリアに犯されていたのは、ただ俘虜達ばかりではなかった。軍司令部の我々でさえも、アピーに移ってからは特に飛行場の周辺は湿地ばかりで、ひどいマラリア蚊の巣窟であった。マラリアの外に三日熱、デング熱など、次第に激しい高熱状態が続いて行くと、気の弱い者達は最後には脳障を起こして、水にとび込むなどの狂態を演ずるのが常である。タワオもサンダカンも、物凄い暑さとマラリア蚊の多いことでは、アピー以上の土地柄といえよう。貫兵団も家村部隊も、大半の者が既にその洗礼を受けていたのである……。
転進命令は既に発令された!! 貫兵団司令部の所在地タワオにあって、当時兵団長の職を代行していたのは、佐藤大隊長である。昔からタワオはサンダカンとは又違って、日本人によって開拓されたいわば心のふる里のような町である。それは戦前戦後を通じて、いまだに変らぬ特殊なきずなのようなものを持っている。最近の現地報告を見ても、タワオの町の現況を次のように伝えている。
『東南アジアの人々が、日本に対して非常な期待と親近感を抱いていることは、各地を巡る度毎に例外なしに痛感させられたことである。殊にタワオの町は、大正の初期から日本人が農園の開発に精魂を尽した処だけに、今もなお当時の日産農林社長、故久原房之助を偲んで「久原道路」という呼び名さえそのまま残っているほどである。戦後英国に接収されたセガマやモンステンの農園が、現在でもいまだにそのままに放置されていることを心から惜しむ声さえも聞かれた。この町こそ日本人によって造られた日本人の町だというのに……』
そのタワオに陣地を構えていた木下砲兵隊が、兵団命令によってこの地を出発したのが、昭和二十年の紀元節の日であったと木下少佐は語っている。もしもそれが本当であるとすれば軍命令の下達と同時に、貫兵団の主力は逐次サンダカンに向って集結すべく、小部隊に分れてタワオを出発していたものと考えるべきであろう。そして家村部隊もまた蟻輸送の方式を以て、夜間ひそかに島を離脱して、これまたじりじりとサンダカンに向って集結したものと思われる。東西をつなぐこのジャングルの道は細くかすかで、到底大部隊を前進させ得るものではない。これを通ってラナウに向うためには、おそらく中隊以下の小さな群れを編成して、必死の覚悟で突入して行くより外に方法はない。
貫兵団の主力四,000の転進命令は、まずラナウに辿り着いたならば、ケニンゴー高原を南下してテノムに達し、更にジャングルを通過してブルネイの海岸線まで、延々として約七〇〇粁を歩かねばならないのだ。また家村部隊はラナウを経てアピーに達し、軍司令部前面の防衛陣地を固める任務を持っている。その上俘虜部隊の二,000余りと邦人五00余りを加えて、総勢約八,000の人員が、今からこの道なき道を歩いて行くのである。果たしてラナウに辿り着ける者はこのうちの何名であろうか。それこそ考えただけでも戦慄の走るような恐ろしい行軍が、今総勢八,000人の前途に長々と横たわっている。あくまでも完全装備を帯びたまま、勇敢にこれを突破しようと意気込む家村部隊をはじめとして、迫撃砲を捨てた砲兵隊、二〇〇発の弾丸と数個の手榴弾を腰につけた歩兵部隊、はては病みほうけた俘虜の群れ、そして幼い乳呑み児を背負った農園の人々など、今となってから「何故この八,000名が、この地獄の道へ入って行かなければならなかったのであろうか?」私にはいまだにその本当の意味が分らないのである……。
さて次に馬場軍司令官が発令した第二の軍命令は即ち軍司令部をアピーの臨戦態勢を速かに促進せしむる為に発令されたものである。これはまず軍司令部をパダス渓谷のサボン地区へ転進せしめることと、テノムに到る細長い縦深陣地を速かに充実せしめるべき戦闘配置の命令である。現在アピーにある兵力は僅かに一ケ大隊にすぎない。これから東海岸の主力兵団が、ジャングルを濾過してケニンゴーを通過し、西海岸の各要衝へ到着する白まで、果たして現兵力を以て敵の上陸部隊を阻止することが出来るであろうか、それは甚だ疑問と言わざるを得ない。
危い哉第三十七軍の司令部よ!! さればまずその軍司令部を一日も早くサボンへ移動して、灘の複廓陣地を構成することが目下の急務である。『軍司令部は、自ら率先して大至急に臨戦態勢をとれ!!』馬場軍司令官は陣頭に立って大喝一声した。事態は確かに焦眉の急を要すること正に超非常時である。
かくて三月中旬、灘の軍司令部は一斉にサボンに向って転進を開始した。軍通信隊が真っ先に地下壕を完成して移動を完了すると、司令部の全機能は逐次サボンに移行され、その活動を開始した。此処はパタス河の上流サボンの農園である。アピーの南方八〇粁の要衝ボーホートを経て、パダスの渓流をさかのぼると、あとは右岸に沿って上流に走る一筋の軌道のみが、遥か五〇粁のテノム盆地に到る交通路である。我々はこの五〇粁の地帯を仮称して、テノム渓谷の縦深陣地と呼んでいた。私はかつて加野参謀と共にこの地帯を隅なく歩いたので、その細部をよく知っている。そしてこのテノムの縦深陣地のみが、今こそ我々の前面を守る唯一の天嶮として、眼前に心強く横たわっているのである。軍の参謀部はサボンに到着するや、その戦闘任務が大きく二分された。それは、第三十七軍を総括指揮する軍令本部の機能と、司令部前面の戦闘防衛部隊を直接指揮する戦闘司令所の二つの機能である。
私は、黒田参謀長を囲む作戦情報の両参謀と共に、サボンの中央にあって馬場軍司令官の作戦指導陣に参加することになった。一方戦闘司令所は、現在まだそのままアピーに位置して、高級参謀の高山彦一大佐が自らその指揮をとっていた。渡辺少佐、中山大尉、松宮中尉、平井准尉、阿部曹長、宮本軍曹、飛行班の小林軍属など、参謀部のそうそうたる強者共がその周囲にあって、夫々高級参謀を補佐していた。兎に角いまだ不充分とはいえ、軍司令部の臨戦態勢は、どうやら形だけは整って来たようである。残されたのは、我々の眼前にあるアピーの町からポーホートを経て、ウエンストンやブルネイの海岸線や更に前面にあるラブアン島に到る西海岸の各要衝に、我が防衛兵力が到着配備される日は果たして何時の日なのかということであろう。進めよ、歩めよ!! 貫兵団よ、家村部隊よ!! 太陽よ、風よ、星よ!! 願わくば一人でも多く一目でも早く、転進部隊が西海岸に現われて来るその日まで我々は唯ひたすらに待ちに待っているだけである。
だが然し、東海岸を発進した総勢八,000の主力兵団のうちやがて我々の前に姿を現わす兵力は一体いくばくであろうか?
またその彼等に果たして強敵を迎え撃つだけの力が残されているであろうか?……。
後略(同氏著書「ボルネオ戦記戦闘編」参照を乞う)