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16.南方従軍を追憶して

独歩三六九大隊第三中隊  枌原敏秀

 炎熱やくがごとき赤道直下のボルネオ・タワオの椰子林の中で、岡田少尉・枌原軍曹・国光軍曹・岡田伍長・前田伍長・坂元伍長の将校、下士官計六名が、独立混成第五十六旅団第三六九大隊の幹部要員として、同旅団第三六七大隊第一中隊(広瀬隊)から、転属命令を受けたのは昭和十九年十一月八日であった。

 当時の第一中隊長広瀬中尉殿は、中隊全員を椰子林に集合させ、大東亜戦完遂の多事多難と、中隊任務の重要性についての懇篤なる訓辞と、さらにわれわれ六名の新任務についての覚悟と自重自愛について温情豊かな惜別のことばを述べられたのであった。広瀬中隊長殿以下中隊全員の最後の心からなる見送りを受けながら、われわれ六名の者は、焦熱の太陽をあびながら涙の別れを告げたのであった。それから、われわれ六名は、直ちに、新しい第三六九大隊の第三中隊長遠藤中尉殿の指揮下に入り、われわれ少数の幹部要員だけが、全く未知の新しい任地に向って、悪疫瘴癘(しょうれい)のうっ蒼たる道なき道を勇躍出発したのであった。

 さて、ふり返ってみると、昭和十九年七月二十八日、国宝姫路城下の歩兵第百十一聯隊補充隊に応召し、独立混成第三六七大隊の編成とともに第一中隊長に陸軍中尉広瀬正三氏を仰ぎ、七月三十日軍用列車は下関に向って姫路を出発した。車中から見る姫路城の姿が視界からだんだん遠ざかり、やがて山々の間にその姿を没してしまつた。これで姫路城とも永遠の別れになるかも知れない、さらに今日まで起居を共にしてきた家族や近隣の方々との最後の別れになるかもしれないと思うと、思わずひとしれず涙の落ちるのを禁じえなかった。応召と同時に、私は第二小隊長岡田少尉殿のもと第四分隊長として田口兵長以下十三名と直接行動を共にすることになったが、応召当時は、分隊員とは全く一面識もなく心細く思いながらも、これから何年続くかしれない大東亜の長期間、分隊員とともに生死と苦楽を共にすることを思えば、中隊長以下全員粉骨砕身、かたいかたい団結をせねばならないと悲壮な覚悟をしたのであった。

軍用列車は風光明媚な瀬戸内海沿いに酉へ西へと進み、やがて下関に到着した。八月四日には、門司港を出発したのであるが、出発に際しての地区司令官の壮行の辞と訣別の訓辞には、われわれの輸送船団二十七隻の中六、七割は目的地へ到着までに空襲、魚雷によって撃沈されるであろうとのことばがあったが、死はもとより覚悟の上とはいいながら、全く悲壮極まるものであった。八月四日、わが広瀬中隊は「たちばな丸」に乗船し、われわれの南方向輸送船団はいよいよ門司港を出発した。数隻の駆潜艇と友軍機数台が輸送船団の護衛に当った。祖国日本の美しい山々がだんだん遠く小さくなってゆき、やがて波間に浮きつ沈みつ消えていったのが今もほうふつとして追憶される。「さらば祖国よ栄えあれ」と全員で遥か東方を拝しながら、いよいよ危険海域に進んで行ったことが忘れられない。

九州の南端を通過し、台湾の高雄港に到着するまでに、船団のうち数隻が魚雷・火災などによって早くも沈没した。日本の輸送船の墓場といわれる台湾とフィリピンの中間のバシー海峡を戦々恐々のうちに無事通過し、八月二十四日にはルソン島のアパリ港にやっと上陸したのであった。内地出発以来約二十日間の船中の生活は、炎熱と極度の衛生不良とによって、兵員の罹病、疲労もはげしかったけれども、途中「たちばな丸」には何等異常もなく、出航後初めての上陸は全員蘇生の思いをしたのであった。上陸と同時に中隊長殿は、ここまで全員無事に到着しえたことを特に喜ばれ、それと同時に、熱帯地特有の伝染病、マラリア熱などの発生が大きい当地の現況と、特に現地人の婦女子に対しては猛毒の故をもって絶対に接近すべからずと自重自愛を訓諭され、皇軍の任務のいよいよ重かつ大なることをさらに徹底せしめられたのであった。

 アパリ港からマニラ港までは、最も危険であることが予想され、兵員のうち、罹病者を除いては大発艇にそれぞれ分乗してマニラ港に向け出発した。この間、罹病者達は、大型輸送船にてマニラ港に向ったのであるが、途中船団のうち数隻が魚雷によって撃沈されたことをわれわれ本隊がマニラ到着後に知り、犠牲者の冥福を祈ったのであった。マニラでは約一週間駐留待機し、九月八日にはマニラ港を小型舟艇で分乗出発したが、敵機の偵察もいよいよひん繁となり、戦局はますます苛烈になることが予想された。昼間は燃えつくような太陽の下、鮮烈なる原色の島影を追って、見えつ隠れつ連絡を保ちながら、あるいは島影に待機しあるいは前進し、夜間は南方特有の涼風を船上に受けて星空を仰ぎ進路を保ちながらボルネオに向ったのである。十月二日には、北ボルネオ・サンダカンに上陸、十月七日には同港を出発して十月十一目には北ボルネオ東海洲タワオ港に上陸したのであった。思えば、内地を出発してから約二月有余、幾多の危険を超えてようやく目的地ボルネオに到着したのであった。

 北ボルネオ・タワオは北緯約三度の地点であり赤道面下といってもよいであろう。上陸直後、同地に永年居住の日本の商社員が、タワオはボルネオ中でもデング熱、マラリア熟その他伝染病の最も悪条件下にあることを話されたのを聞き、これからの幾年月かの熱帯地での戦闘、警備の並々ならぬ苦労のほどがひしひしと感じられたのであった。そして上陸と同時に、直ちに同地付近の警備に約一月間服務したとき、はからずも、岡田少尉以下将校下士官六名が新部隊の幹部要員として転属命令を受けたのであった。内地での応召以来転属まで三カ月有余、その間、広瀬中隊の幹部の方々、兵員の方々から公私にわたり、何かと御援助と御協力をいただいことに対し感激し、厚く感謝したのであった。

 いよいよ、われわれは、広瀬中隊と別れ、独立混成第五十六旅団歩兵第三六九大隊第三中隊に配属され、十九年十一月十五日、第三六七大隊本部から転出された遠藤中尉殿を中隊長として迎えた。当時の大隊長は陸士出身の櫛山大尉殿であった。年若くしてしかも温厚らいらくな方であったので大隊中の信望が特に篤かった。タワオから数十粁離れた奥地の密林地帯のタイガー地区で大隊、中隊の幹部編成は一応完了したけれども、主要兵力としての兵員の到着は全く未定であった。情報によれば、内地から応召兵を乗せた輸送船が途中で撃沈されたとのことであった。待てども待てども兵員の到着はなく、一月余りが全く無為のうちに過ぎ去ってしまった。敵の上陸も楽観を許さない状況下、もし上陸すれば全員玉砕は必定の結果であると思うと不安この上もない悪状況であった。

 兵員の補充を待つこと久しであった。ようやくにして到着した補充兵は、予備役はごく少数であり、ほとんどが第二国民兵役であり、兵器は分隊長が小銃を携行する程度であり、分隊員ほとんどが無銃、無帯剣であった。兵器は現地に到着すれば完全支給されるとのことで内地を出発したとのことであった。ある者は輸送船の遭難者であったとのことであった。また身休的には、手足・眼・耳の不自由な応召兵もかなり含まれていた。これでは戦闘に堪えうる部隊とは決していえない。内地からの補充兵はもう人的に欠乏しているのではないかとさえ幹部間で不安な話しが交わされ、大東亜戦の前途悲観や危倶の念を抱いたのであった。兵質低下の甚だしい補充兵を第三中隊の要員として受け入れたことは、敵の上陸すなわち全員玉砕を意味することになる。兵役の経験のほとんどない者が大多数を占める当大隊では、熱帯地という環境の不適応、食糧の不足、衛生材料の不充分などの原因から続々患者が発生し、病臥・病死するものが急に増加し、陣地構築・警備勤務などにも一大支障を来す結果となった。

熱病にうなされ、いとしい妻や子の名前をうわごとに言い出すとそれは死の一歩手前である。戦友や衛生兵ができるだけ看護をつくすけれども、何分にも医薬が欠乏し、軍医も薬剤がなければ手の施しょうがないという悲惨な哀れな戦況であった。親・兄弟・妻・子などに今一度会いたく最後の願いを無意識の中に口にしながら炎熱の密林地帯で戦病死された幾多の戦友に対して心からの同情と哀悼の意を表するとともに、看護に最善を尽くされた多くの戦友達に心から深甚の謝意を表したのであった。

 春夏秋冬のない常夏の国である。一年中猛暑、酷暑という暑さのために人間の記憶が没却、滅失してしまう。それでも時々内地のことを想い出す。昭和二十年一月一目、今日は内地では正月の元旦である。遥か故国に向って遥拝し祖国の繁栄を祈る。原住民はタピオカと称する木芋を栽培している。このタピオカの根を粉にして団子にし、これを正月用の餅の代用品として内地をしのびながらお祝いをする。今日ばかりは敵機の偵察もない。戦友相集まり、郷里の自慢話、食べ物の話、正月での催し物、最後には女の話など戦雲を忘れて相語り、相興じ、そうして生還したらあれもしたい、これもしたいなど夢うつつの話しの連続で今日一日はたっぶり命の洗濯をする楽しいひとこまもあった。

 昭和二十年二月六日に北ボルネオの奥地から再びタワオ港に逆転進してさらに南ボルネオのパンジエルマシンに転進することになった。この時は、海軍の哨戒艇によってわれわれ第三六九大隊は輸送された。途中、敵機の偵察と空襲を受けたが被害もなく二月八日にパリクパパン港に到着することを得た。この間、われわれの部隊の移動と同時に、われわれの旧所属広瀬中隊を含む第三六七大隊では、徒歩行軍によって北ボルネオの中央山脈を、前人末路のジャングルを突破し、野獣その他の言語に絶する幾多の危険と障害を克服しながらブルネイ方面に転進されたと聞いたのであった。その間、敵と遭遇し、斬込隊の突入、白兵戦の展開など多くの戦死者を出すとともに、又数十日にわたる死の強行軍のために、佐野少尉殿以下下士官、兵など多くの戦病死者を出したと聞き、応召当時からタワオまで征旅を共にした多くの戦友達の英霊に対して哀悼の情を禁ずることができなかった。

 パリクパパン港は、海軍の特別根拠地として重要港であり、高射砲陣地が構築され、敵機来襲にも恐れを見せない装備をもっていた。同港に上陸寸前、敵機の空襲を受け、われわれの部隊は即刻避難態勢に移ったが、高射砲陣地からの正確な攻撃により、一機が直ちに撃墜され、他の数機がいずれかへ遁走したときは、「海軍健在なり」と海軍に全幅の感謝を示すとともに、意気軒こう、戦意のますます高まるのを覚えたのであった。二月十一日には紀元節の佳き日を寿ぎながら同港を出発し、翌十二目は南ボルネオのバンジエルマシン港に上陸した。

 バンジエルマシンは、南ボルネオの一大中心港であり南方ジャワとの交通も極めて便利である。物資は豊富であり、民情も悪くなく、日本人の南方進出者がかなり多く居住している。海軍の民政府があり、ここでは陸軍よりも海軍の方が顔役であった。大阪市の出身者が多いためか、市内の町名なども、浪速通、千日通、旭通などの地名が使用されていた。また大阪劇場という映画館では現地人がインドネシア語で日本映画の活弁をしていたのは印象に残っている。ボルネオで慰問映画を見るとは全く想像もしないひとときであった。さらに、日本人を院長とする市民病院もあり、身休異常者は、衛生下士官の引卒のもとに診察治療、薬剤の支給を受けて戦力の回復に努めたのであった。

 バンジエルマシンで約十日間駐留の後、部隊はさらに数十粁奥地のタナアンボンガンで同地付近の警備に服務することになった。当時第三六九大隊の各中隊は、タナアンボンガンを中心に各地区に分屯し、連日、ゴム林、榔子林の中でそれぞれの陣地構築に余念がなかった。敵機の偵察も毎日定時的であり、勤務はいよいよ激しくなり、それに反して、食糧の補給も充分ならず、噂では、タラカン島に敵が上陸し、同島に病気のため残留せる一部患者は捕虜になったとかの悪いニュースが伝えられるようになり、戦局の推移はますます悪化するように思われた。こうして連日敵機の来襲、敵の上陸におびえながら、中隊の貧弱な装備に恐々としながら戦局不利の数カ月が経過したのであった。なお、この警備期間中にわれわれの中隊長は、遠藤中尉殿から山田大尉殿に交迭された。

 七月三日に、当大隊はさらに北ボルネオクチン方面に転進命令を受け、部隊はバンジエルマシンに集結してジャワ島を経由し、北進することになった。この時も、海軍の哨戒艇で輸送されたのであるが、出港後一昼夜にして敵機数台の来襲を受けた。幸いにも、南方特有のはげしいスコールに見舞われたために、敵の目標となりえず撃沈を免れることができた。おもえば戦々恐々の二昼夜であったが、スコールは神風であり、われわれにはやはり天佑神助があったのだと一同大いに喜んだのであった。無事、ジャワのスラバヤ港に上陸し、約二週間ここで待機することになった。

 ジャワ島は、物資が豊富であり、スラバヤ市内の商店街は活気にあふれ、見るものすべてが驚くばかりである。特に砂糖の出産国だけあって、市内には到るところに甘味品が並べられ、われわれの食慾を煽り立てるものばかりであった。当時、内地では、物資は統制され、砂糖などは国民が一番飢えていたものである。街を行く若い婦人や娘の着飾った姿は平和そのものであり、軍衣をまとうわれわれには余りにも強い刺戟であった。

市内の一流のレストラン、社交場には、日本からはるばる出稼ぎに来た多くの日本女性がみられた。内地では今頃、モンペ姿の女性が「ぜいたくは敵なり」のスロ-ガンのもとに、日夜、本土防衛のために甲斐々々しく防空壕に、防空消火演習に働いている時であったであろうに、振袖姿の女達が、東京音頭、銀座の柳などの流行歌で踊り狂っているのをみて、ただただ驚く外はなく、戦争というものに対してはげしい嫌悪と呪いをいよいよ大きくしたのであった。乗船準備も完了した乗船の前日、今度乗船すれば明日の命は保証できない、この世の最後になるかも知れないと思い、中隊の下士官数名と市内の食堂で、有志壮行会を開き、日本製ビールを内地出発後はじめて満腹吃飲したときの味と旨さは今もって忘れることはできない。

 七月十八日、大隊は、各中隊毎に数次に分れて北ボルネオのクチンに向け、ジャワ島の西端ジャカルタ(バダビヤ)港を大発艇で出発し、七月二十日、南スマトラバンカ島トバリ港に上陸した。
 この島は、比較的自然の産物や物資に恵まれ、約一カ月間ここで待機することになった。赤道直下であり、南緯二度位の地点にあるので、昼は焼け付くような文字どおり焦熱、しやく熱であるが、夕方ともなれば、涼風が海辺から吹き寄せ、昼間の疲れを充分回復することができる。民情もさほど悪くなく、この島に上陸してからは、敵機の偵察は上陸直後は定期的に一日二、三回程度であったが、一週間後にはこの島を去るまで不思議なくらい偵察はなかった。いささか精神的な不安は薄らいだが、却って嵐の前の静寂のような予感もして無気味極りないものがあった。

南十字星が明らかに夜空に輝く夜ともなれば、土人のバッサール(夜店市)が開かれ、軍票さえあれば好きなものを買うことができ、タバコがあれば物々交換ができ、又民心も悪くなかったので安心して夜の散歩を楽しむことができた。着飾った土人娘の踊りや歌が夜から翌朝まで幼稚な楽器の伴奏で続けられ、これが戦地であるかとさえも思われる保養のひとときもあった。

 八月十七日、バンカ島トバリ港を出発して目的地の北ボルネオ・クチンに向った。八月十九日には、バンカ島の南にあるビリトン島に立寄り、大隊はここで集結して、爾後の転進計画を立てることになった。時すでに、内地では原子爆弾により広島、長崎が一瞬にして全滅し、続いて八月十五日に戦争終結、無条件降伏の玉音放送がラジオを通じてなされていたのである。

 八月二十四日、第一次転進は、櫛山大隊長殿を中心とする大隊本部および第一中隊、第二次は第二中隊および第四中隊、そして最後の第三次転進中隊は、山田大尉殿を中隊長とするわれわれ第三中隊であった。時すでに戦局は極めて不利な状勢にあり、また舟艇の準備も不如意であったので、山田中隊長殿は、第一次先発の大隊本部への追及にはあまり積極的ではなかった。これがため第三中隊は大隊本部の出発より約十日間おくれてようやく出発することになり、いよいよ乗船寸前に、爾後の作戦行動は全部隊とも直ちに停止し、別命あるまで現在地で待機せよとの命令が第二十五軍司令部から出されたのであった。これがため、われわれ第三中隊は、第三六九大隊から現時点をもって、後目復員するまでやむなく切り離されてしまったのであった。

「不滅不敗の日本が戦争に負けた。」「日本は無条件降伏をしたそうだ」「日本が敗れるなんてそんなことは敵の謀略だ」「ビリトン島に在住する他部隊では下士官兵が続々逃亡しているそうだ」「原住民の態度が急に変った」などの噂が突如として流れ始めた。神国不敗の信念が幾千年もの間継承されてきた日本にとって、敗戦、無条件降伏というこんな大きな言語に絶する汚名屈辱の歴史があるだろうか。この時ばかりは、本土の国民はもとより、全戦域にわたって日夜悪戦苦蹄を続けて来た全将兵には全く信じられない茫然自失の心境であったと思う。
大隊長、中隊長をはじめ各幹部は、いかにして将兵の精神的打撃を鎮め、いかにして不測の動揺を和らげ、いかにして全員無事に内地に復員帰還せしむべきかに最大の責任と配慮をもたれたに違いない。

 八月二十七日に、方面軍からの命令により、地区在住部隊は全員バンカ島ムントクに集結を命ぜられた。この時、ムントクでは直ちに聯合軍の検問を受け、報復的虐待を受け、捕虜収容所に強制収容されるのだとの噂も飛び始めた。皇居遙拝、不忠を詫びながら天皇陛下万才を叫び、御紋章を削りとった兵器を涙ながらに海中に投入する将校、兵器私物を海中に投げ棄てる下士官兵など複雑多様なる当時の兵員達の心境は余りにも大きな衝撃であり、とても筆舌に尽しがたいものがあった。

 いよいよ捕虜としての面目なき恥辱の収容所生活が始まった。各兵科混成の臨時集結部隊である。兵科の相違から生ずる不和の問題、臨時集結部隊であるという無秩序状態、階級無視の不穏事件、さらに収容所内に同居せる一般邦人との問題などについて、臨時集結部隊の大隊長であった土井少佐殿がとくに終始格別の並々ならぬ配慮をされたことは、全く敬服と感謝の一語につきるのであった。

 収容所での自給自足の生活がこれから約六カ月問続いた。その間、各部隊では、それぞれ農耕班を編成し、とり急ぎ食糧の確保に最大の努力を払った。また、土着民の民心も、急に表裏のごとく変化し、兵器などの盗難事件もしばしば発生したので、収容所自休の警備は日本兵が従前以上に厳重にあたることになり、収容所内の軍人や一般邦人の生命財産の保護をすることになった。ある時、私が週番副官として収容所内を巡察中、所定区域外で行動している一般邦人を見掛け注意したところ、その邦人が一別以来七年振りの大学時代の旧知であったことは全く意外にも驚きそのものであった。六甲山麓の大学を卒業して以来の全く不思議な邂逅であった。同君は金属関係の商社に勤め、バンカ島の主要鉱産物である錫関係の仕事に従事しているときに終戦となり、収容所に入所したとのことであった。夜間同君を訪れ、しばし懐旧談に耽ったのであるが、その時同君より頂戴した和英辞典も後日復員業務を担当したとき、特に聯合軍へ提出する英文書類の作成に最大の力になったことは今も忘れることができない。

 やがて、聯合軍将校多数がムントク港に上陸し、混成大隊長土井少佐殿の指揮のもとに、全員所内に整列し、重要兵器私物の点検を受け、無事引渡式が完了したのはムントク収容所生活の終り頃だった。この期間中、英軍の日本軍に対する態度はかなり好意的であり、また紳士的であった。このことは、われわれがムントク収容所を引揚げる最後まで、全く日本軍の自主的警備に委かされていたことによって裏書きすることができる。

 年が改まり、昭和二十一年二月十九日、ムントク収容所に別れを告げ、部隊は翌二月二十日、スマトラ島バレンバンに上陸した。われわれの中隊は、佐出中尉殿を新中隊長として、バレンバンから約一〇〇粁奥地のムシ弾薬庫の警備に服務することになった。この時の直属大隊長は渡辺少佐殿であった。
 この地域は見渡す限りゴム林であり、しかも碁盤の目のように縦横整然として遠くまで広がっている。樹皮を削れば直ちに白い粘い乳状液を採取することができる。その昔、オランダ民族が東洋方面に進出を企て、自国発展のために積極的な植民政策を樹立したことは歴史の語るところであり、現在の広範囲にわたるゴム林は、当時の遺業を物語っているということができるであろう。

 われわれの中隊は、このムシ弾薬庫警備に日夜服したのであるが、しばしば、原住民から兵器を窃盗されるという事件が起きた。兵器、弾薬の完全警備は英軍からの強い厳命であり、また、もし兵器などの検査の際、員数の不足を発見されればこのことは、内地帰還が他部隊よりも著しくおくれるかも知れないとの噂があった時であるので、中隊では全員内心恐々たるものがあった。原住民の兵器窃盗の直接原因は、もしオランダ軍が占領軍として上陸してくるならば、われわれの古い祖先は、オランダの虐政に永年ひどく苦しめられて来たのであるから、この際復讐の一戦を交えるために兵器が必要である。従って日本軍の敗戦を機会に日本兵の兵器を窃盗掠奪するより入手の方法はないと考えていたらしい。これがため、この地区では各部隊ともかなり原住民のゲリラ戦法による被害を受けたのであった。

 われわれ佐出中隊は、いつかは訪れるであろう内地帰還の夢をみながら、大隊長渡辺少佐殿の命を受けて日夜弾薬庫の警備や飛行場の使役に精励した。スマトラ在住の部隊でも、一部は最近復員船で帰還したらしいとの明るい噂話も飛び出し、草葺きのかりそめの宿舎にも俄かに明るい笑いが続発するようになった。国宝姫路城は空爆で木葉微塵に飛んでしまったらしい、神戸市、姫路市などは影も形もないそうだなどの噂も流れた。佐出中隊長殿は、日朝点呼の時は必ず、「内地帰還の日は遠くないだろう、身心ともに充分自重自愛して日本再建のためにわれわれは全員無事に内地に帰還しなければならない。」との訓辞をされたことが未だに脳裏に深く残っている。趣味・娯楽を通じて兵の人心を和らげ、一人残らず内地に帰還させなければならないという温情が、中隊長の心の奥深くに常にあったことを思うとき頭の下がる感激で胸が一杯であった。中隊には、指物大工として器用な一等兵がいた。彼は畳半枚位の大将棋盤を作り、それに見合う大駒を作り、各班対抗の団休将棋戦を展開し、野次と談笑のうちに夜おそくまで興に耽ったことは懐かしい思い出である。

 待ちに待った内地帰還の復員命令が遂に出た。それは二十一年八月二十日であった。期せずしてどっと歓喜の声が湧き上った。中隊長殿をはじめ中隊全員の喜びは何にたとええたであろうか。親兄弟、いとしい妻子との対面の白もすぐ目前に迫った。「みんな元気で帰ろうよ」、「鳥は立てども跡を濁さずだ」、「さらばスマトラよ」など喜びと希望の歓声が宿舎一杯に広がった。
 環境整理を終え、われわれ中隊は数台のトラックに分乗してバレンバン港に到着したのは八月二十三日であった。翌二十四日、英軍の乗船検問を受けた。他部隊では戦犯容疑のため乗船を拒否され残留する兵がかなりいた。応召後今日まで、幾多の苦労を共にしながら乗船寸前に残留させられる不幸・不運がわれわれ中隊から一名も出ないようにと神仏に祈り念じつつ、地獄極楽の分れ目の検問所に向ったが、この時の心境はこれまた何にたとえうるだろうか。運命の神の命ずるまま、順次検問所を通過していったが、われわれの中隊からは一名の容疑残留者もなく、全員無事に乗船しえたことは無上最大の喜びであり、中隊長殿とかたく手を握って喜びあい感涙したのであった。

 待望の復員船は遂に八月二十五日バレンバンを出発した。出発の直前、英印軍の兵士が「日本は戦いに敗れたが日本は弱いのではない。聯合軍を相手によく今日まで戦った。日本は強い国である。自分は将来日本に行くことができるならば、東京とフジヤマを是非見たい。さようなら。」と話しかけられ、私もブロークンな英語で別れを告げたのであった。いかに人種が異なっても、やはり人間の愛には世界共通のものがあることを痛感したのであった。
 やがて、われわれの帰還船は思い出多いスマトラを後に出航した。手を振り上げ見送ってくれる聯合軍の兵もいた。榔子林におおわれた美しい島影が波間にだんだん小さくなっていった。応召以来正に三年有余。この間、南方特有のいろんな病魔と戦いながら全将兵が戦陣をかけ廻った。ある者は草むす屍、ある者はみずく屍となり護国の英霊と化せられた。万感胸に迫って言うべき言葉を知らない。謹んで、今次大戦中の幾多の尊い英霊に対して、心から敬弔と哀悼の誠を捧げます。

 憶えば、内地を出発してから南方に向う輸送船は、連日敵機潜水艦に対する戦々恐々で不安の連続であったが、今こうして内地に向う帰還船は、天候も快晴に恵まれ、戦時中の危険不安も全くない。甲板に出ては、懐しい故国にだんだん近づきつつあるとはしやぎ、やがて日本の美しい姿が海上はるかに見えてくるであろうと希望と歓喜に充ち溢れた復員船、その復員船が台風シーズンにもなんら影響もなく、フィリピン、台湾を後にして、バレンバン出港後十六日目に、懐かしい故国の山々を夢に描いた片時も忘れえなかった祖国の姿を、この眼で直接に魅せられたごとく凝視しながら、豊予海峡を通過して大竹港に入港し、痩せ衰えた復員者達が日本再建の決意と家族会見の希望に充ち溢れながら、祖国の土を力強く第一歩踏みしめたのは時正に昭和二十一年九月十一日であった。

  「あとがき」

 このたび、元南方派遣軍独立混成第三六七大隊第一中隊長元陸軍大尉広瀬正三氏から、当時の同大隊本部、その他の各中隊の戦没者の御英霊に対して合同慰霊祭を八月下旬に行なうため、記念誌を発行したいので寄稿されたいとの御依頼を去る七月末に受けました。
 私も、戦時中南方で広瀬氏の中隊で何かとお世話になったこともある関係で、何とかお役に立ち得ればと思い、また、短かい文章でもよいからとのお言葉もありましたので、その積りで書き始めましたところ、案外長くなってしまって結果としてはまとまりのない拙ないものになってしまいました。
 ふり返ってみますと、応召後すでに二十六年も経過しておりますので、今から当時のことを憶い出して書き始めましたが、戦時中、後日のためをと思い記していたメモ的な資料も残念ながら終戦時焼却してしまいましたので、記憶が不鮮明であったり、また事実を忘れてしまっていることもたくさんありますので、充分なことが書けませんでした。
 ここに書き綴りましたものは、私自身が当時の足跡を何とか憶い出してて書いたものであり、戦時中の極めて粗雑な記憶の一部分に過ぎないことをお詫び申し上げます。
 第二次世界大戦という史上最大の不幸にまき込まれ、幾多の人々が外地の戦場で、はたまた内地で尊い命を失なわれました。本人の不幸はもとより、御家族の方々の悲運もさらに大きいものがあるでしょう。
 今次、私達とともに、戦友として大東亜戦に参加され、不運にもあるいは戦死、あるいは戦病死された幾多の英霊に対して衷心より哀悼の誠を捧げ御冥福を祈るとともに、人類を破滅にみちびく呪うべき戦争を永遠に地球上から追放することを念願してやみません。
                          合 掌

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