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15.忘れられぬ「タワオ」の防衛

独歩三六七大隊第二中隊  若松周策

 昭和十六年十二月八日貧乏国と言われた日本が世界の諸国を相手取り宣戦布告をした。月日が進むにつれて戦局は悪化の一途を迫って行く、当時巷間にあって「サイパン」が陥落すれば日本はもう完全な負けだとよく聞かされた。
 この「サイパン」は確か昭和十九年に完全に敵の掌中に入った。同年七月二十八日私等は日支事変に続いて再度の召集となり、歩兵第百十一聯隊補充隊(旧姫路聯隊)に応召、同日独立混成第五十六旅団歩兵大隊第二中隊に編入され、同年七月三十日姫路を出発し同八月四日門司港を出帆したのであるが、この時の輸送船団は開戦以来最大規模のものと言われた。

 即ち輸送船(油送船)は二万屯〜三万屯級かその数二十七隻、護衛艦として駆逐艦二隻、海防艦三隻と記憶しているが、数十万の将兵を乗せて南方へ向った。勿論南方方面というだけで落ちつく先が何処の地か誰も知らない。戦友の間では「ルソン」島だ「ミンダナオ」島だ否「ボルネオ」島だ「セレベス」島だと何の根拠もないのに噂は噂を生んだ。船団は九隻ずつ三列縦隊に並び、護衛艦が前後左右に位置し前進した。
 私等は中央列の前から二番目の船だったが、この船は旗艦であることが知らされた。威容堂々高波を蹴って進む雄大な光景これに勝るものはない。船内では門司で予め我々の手によって作られた筏を囲み種々と注意事項の説明があった。救命具のつけ方を始め敵潜水艦の攻撃を受けて輸送船が破壊沈没の憂目を見るに至った場合の訓練が各分隊毎に始まった。筏に乗る順番を決めたり、銃剣その他装具のつけ方など説明も受けた。そして「ドカン」と一発受け船体の沈没するような状態になった時は筏と共に舷側から荒れ狂う黒潮に飛び込む練習である。全員生還のないことを覚悟して乗り込んだ将兵ではあるが、正直な話しが気持ちはパットしない。

 乗船後の翌五日だったと思う、海軍の兵隊が(任地迄輸送の命を受けた海軍の兵士達が乗り組んでいる)三、四人右往左往していると思っていたら直ちに「戦闘配置につけ」と第一声が叫ばれた。予定の位置に待機したが船団からの連続爆雷投下が功をもたらし幸い「ドカン」の難は免れる。その後もしばしば戦闘配置につけの号令と共に爆雷の投下は続けられた。三日目だったと思う、私が吊り便所(「トイレ」は舷側に木箱で簡単に作られ「マニラロープ」で吊るされてある)で用足している時だった。右側の輸送船一隻が船列を離れて行く、おかしいなあと思いながら用を終え分隊に帰ったら丁度昼の飯上げ時であった。近くにいた他部隊の兵士達十数人が天幕から顔を出して騒いでいた。

 数秒後内臓が飛び出たのではないかと思われる爆発音の「ショック」(この爆発音は前述の船列を離れていった輸送船昭南丸と記憶している)爆発船は猛煙のため三十秒程全く見えなかったが、煙が上空に散り始め船体が次第に見え始めた。最初はおかしな船体だと思っていたが、船体の全影が見えた時の格好はⅤ字その儘の姿であった。この時両舷側から兵士の群れが続いて海中に飛び込む姿が判然と見られた。爆発船と私等の船との距離約千米前後位だったと思う。船体は十秒位で沈没した。誰いうとなくこれが本当の轟沈か(一分間以内に沈没する呼称)沈没後二度大きく私等の船は揺れた。この船は兵器弾薬を積載していたもので兵隊は四、五千人位とか上官が話していた。

 この日夕方から波浪は益々強くなる一方、丁度この頃台風が通過する時であったのであるが、船団は敵潜水艦を避けるためこの台風の中心地へ向け針路を変えた。これがため海軍の水兵を始め全兵士と馬も相等数同船していたが全部船酔のため「ダウン」する。翌日の朝昼食時には飯上げに行く者は稀れであった。船も数隻難破したと聞かされた。その翌日だったか台湾の基隆港内近くに停泊し半日程して更に同港を出帆し台湾の南の高雄港に入港した(月日不明)同港には二日程いたと記憶しているがここで内地向けの手紙が出された。

 高雄は私が昭和四年頃から九年夏迄いたことがあるので市内の地理にも詳しく書簡発送に住所が必要のため高雄市の町名等戦友に教えた。この高雄から先は足の遅い船は敵の的となるためとバシー海峡の状況が極めて悪化していたため十五ノット以上のスピード船でなければならないとのことで十余隻位で南下した。同年八月末ルソン島「アバリー」に寄港し「サンフエルナンド」にて下船したと記憶している。この地には先着の他部隊の兵士の姿が見られた。そして同年九月四日「マニラ」に上陸したのであるが「マニラ」港は旅順港のように港の入口が非常に狭くこの入口には日本軍の巡洋艦、駆逐艦等数隻が煙突だけ出して横倒しになり沈没している姿があった。有名な「コレヒドル島」の要塞があれだと港の入口の小高い山を指さして戦友の一人が呟いた。入港に際し敷設された機雷を除去するため数時間後上陸した。

 マニラ市内に入ると電車の軌道に婦人警官が立ち交通整理をしていた。市内を抜けて一粁程行ったところに競馬場があり、この一部が鉄条網で囲まれこの中に五十人位の白人が捕虜として収容されていたが、白人は我等を見つめて「自分等は今暫くはここに入っているが直ぐ自由の身になり、代ってお前達日本兵が今度はここに入るのだ」と言っていると通訳が話していたことを記憶している。

 この地「マニラ」に四泊し、同年九月八日「マニラ」を出発更に南下の途につく。これから先は本船では吃水が深く危険なため吃水の浅い機帆船(ボンボン船)で行くことになった。私等は「金力丸」(船長一人、機関長一人計二人)という船で一ケ小隊程が積み込まれた。二度程「カツオ」「サワラ「「カマス」の一片を食べさされたが(船員から釣道具を借り兵隊が流し釣りしてとったもので、「カマス」「サワラ」は一米以上のものである)毎食事の飯は機関長(髭をはやしていた)が炊いてくれたのであるが、副食は飛魚の塩漬になった内臓を二十日間食べて過ごした。同年九月二十六日「北ボルネオ」「クダット」着、翌二十七日同地発十月一日「サンダカン」上陸(二泊)同月三日同地出発、六日「タワオ」に上陸する。

 マニラ出発以来二十九日、姫路出発以来実に六十九日目にして辛うじて任地「タワオ」に第一歩を踏みしめる。桟橋にて米の荷揚げが始まった。全員これに従事する「トロッコ」にて要所々々に積み上げる。荷揚げが終了すると直ちに整列し舗装された道を行進した。十五分位歩いて街はずれにかかったが舗装道路は続いた。附近一帯は椰子林で海岸線は「マングローブ」が繁茂している。一本の椰子の木に数匹の「リス」が我等勇士を歓迎しているが如くスルスルと登ったり降りたりする。夕闇迫る頃椰子葺のお粗末な空屋に辿りついた。ここが今夜の「ホテル」なのだ。翌日中隊は更に前進した。四、五十分位歩いたと思う。椰子の「コプラ」を取るために皮をむかれた椰子が「トロッコ」の終点と見られる地点に山積されてあり、現地人「インドネシア人」の若い者が二、三人いた。ここから登り坂になっていたが間もなく榔子林の中に赤屋根の家が一軒見えた。この附近は「タワオ」産業台と呼ばれ邦人が経営する椰子「パイナップル」の栽培をはじめ乳牛等を飼育していた(平野という人だったと記憶する)中隊長笹川中尉の下に一小隊長岡村少尉、二小隊長原田少尉、三小隊長山田少尉の陣容で指揮班、一、二、三各小隊別に「ラワン」材と榔子の葉で葺かれた粗末な牛小屋に似た家屋に各小隊が配置された。私等原田少尉の下四分隊長山口軍曹以下原兵長、石原上等兵、森本一等兵、千本上等兵ら六、七名は白燈台のある通称燈台山の警備監視に「タワオ」到着と同時に派遣された。

 当初は「ボルネオ」型と名付けられたが機帆船が二、三日毎に二、三隻程燈台山沖を通った。その都度中隊本部に通報していた。桟橋からこの地点まで約十粁程離れていたと思う。燈台山には日本製のものと思われる山砲が一台据付けられていた。この燈台山の警備は約一カ月余り続けられたと記憶する。その後命により中隊に戻った。毎日の演習は内地の聯隊と異なり一口に言うと穴掘りである。即ち敵の上陸に備え模範陣地の構築である。重機、軽機の設置壕を始め椰子林一帯の安全通路の難工事である。三十五度前後の直射日光、そして「マラリア」という難病と戦い一日も早く完成しなければならない。将兵は必死で寝食を忘れ作業に従事した。

 作業を開始してから二、三日後であったと思う。金属製の「キーン」という耳をつんざくような爆音に兵隊達は手を休めて澄み切った青空を仰いだ。見たことのない双胴機が約二十機猛スピードでしかも低空に飛来し榔子林を偵察している。旋回するたびに大きな榔子の葉はざあざあと音をたてて動揺する。最初兵隊は友軍機と思っていたのだ。そのうちに二、三の兵隊があれは敵機だと言いだした。上官は士気に影響するとみてか「馬鹿を言うな」と怒鳴った。双胴磯は正しく戦闘機として優秀な実績を持つ「P38ロッキード」であった。その日は十分程旋回して姿を消したが、日本兵の上陸状況を偵察して帰ったのであった。それから二、三日して「タワオ」飛行場の猛爆が始まった。「タワオ」産業台の兵舎から爆弾投下の状況が手にとるように見える。この機種は「B24? コンソリーテッド」である。
 しかし当時の飛行場爆撃は主たる目的の爆撃ではなく、なぜなれば敵はこの頃「タラカン」島(石油の大宝庫)を第一の目標に毎日数百機の大型爆撃機が連日全島を攻撃したのである。そして帰途「タワオ」飛行場に予定数の爆弾を投下していたものであることを上官が話された。

 敵機が去った後は昼夜の別なく直ちに中隊全員出動「ツルハシ」と「スコップ」を手に手に持って飛行場の復旧にかけつけるのである。やっと広範囲にわたる飛行場の穴埋めが終了し重い足を引きずりながら兵舎についてやれやれと腰を下したと思うと次の爆撃で又しても飛行場は荒廃化し「イタチ」ごっこの繰り返しを何日か続けた。この頃すでに友軍の輸送は完全に止っていた。
 従って食糧の補給は完全に停止となった。腹が減っては戦争は出来ない。原地産の「タピオカ」「オビカス」とも称したこの木芋を主食とし副食は椰子の新芽と「ワラビ」(内地の「ワラビ」とは異ったもの)で飢えを凌いだ。「マラリア」患者は熱発のない日は全員「ジャングル」を奥深く食糧求めに駈けずり廻った。
 前述椰子と「ワラビ」以外には殆んど食べられるものは見当らず栄養失調者が続出し「マラリア」の高熱が拍車をかける結果となって死亡者が出始めた。戦況は刻一刻と悪化するばかり、この頃第一小隊隊(岡村小隊長)は確か「バリックパパン」に転進を命じられた。中隊は三個小隊のうち一個隊減り心細さは一段と増す。しかしこれは作戦命令であったのに違いない。

 それから以後幾十日が過ぎた頃だった。記憶は判断としないが中隊は「ブルネイ」方面(ケニンゴー?)へ転戦することになったが、この行軍は北ボルネオ未踏地の横断で、現地人でも横断したことがないと言われた本当の死の行軍であったのだ。出発前神足軍医の厳重な身休検査が実施された。結果は約三割位?の兵隊は残留者となった。本隊参加者で無事に任地に着けた数は何人であったかは記憶にないが、半数以上の兵は「マラリア」による高熱と食糧の欠乏のため栄養失調となり中途で倒れ死亡したという。聞くも語るも涙に他ならない。

 一方残留者は病人ばかりであるが条件は同一で次々と死亡者を出した。黒水病(尿が濃黒褐色となる)となり脳を侵されて発狂して死亡する。英霊はねんごろに火葬にするため戦友が集まり実施されたが、これも最初だけで即ち生ゴムの木は水分が多くて焼けず、そのうえ敵磯の爆撃のため長時間火を燃やすことは出来ず、全身火葬が不可能となり片腕全部を切断して実施することとなったが、戦況は益々悪化するばかりで重病人は増える一方、使役者も極めて少数となり肘からの切断火葬となり、これも出来ないようになって遂には手首だけの火葬となるに至った。そして残体は「タワオ」上陸当初模範陣地構築として掘った壕に埋葬する。花一本も求める事は出来なかった。正に墓穴を掘るとはこのことなのであろうか。

 この間残留隊は各隊と合併し第一中隊広瀬隊出身の三木少尉の指揮下に入つていた。又「タワオ」産業台の爆撃で数名が戦死した。爆撃の物凄さは一本の椰子の木を倒すのに(食糧用として椰子を倒す)兵隊二人がかりで三十分位時間を消費するのに一度爆撃があると一発の爆弾で椰子の大木が四、五十本吹き飛んでしまい、一町歩〜二町歩位が荒野となる状態であった。その破片を拾ったが重量にして三、四瓩位のものがあり、表面はぎざぎざだらけの鋼、ちょっとさわっても指が切れる「やすり」のような感じで「カミソリ」のように匁が立っているものであった。

 なお残留隊は本隊と別れてから三・五哩より「メソプルア」(「ポンプルア」と現地人は称していた)方面「アパスガーデン」方面、「テーブル」方面と三・五哩地点から二〇粁〜三○粁位の距離の範囲内を転々と移動した。行軍に際し「山ヒル」には大いに悩まされた。前後するが三・五哩分哨にいた時、非番を利用して重患者用の魚をとりに戸田上等兵外三、四名と海岸に行った事があった。沖合に広範囲に作られていた「生簀(イケス)」に(満潮干潮を利用して魚が「生簀」に入る仕組みのもの)腰までつかって波打際から一〇〇米位遠浅の所を前進したときだった。急に物凄い爆音がした。びっくりした爆音の方向を見ると「セバチック」島の横合から三十機位比較的小さい黒色の戦闘磯が眼前に向って飛来した。

 私は思わず「モグレ」と叫んだ。敵機はその儘頭上を過ぎた瞬間、バリバリバリと機銃掃射である。産業台付近を襲った十分間程であったが、旋回して徹底的に乱射乱撃して飛び去ったことがあったが、褌一枚裸体の私等が銃撃を加えられなかった命の恩人は椰子の実そのもので、即ち何百何千と海岸に浮いている椰子の実と私等の頭との区別が出来なかったものである。敵機が遠のいてから早速産業台に患者を見舞ったが不思議に全員無事であった。この頃は戦闘機、偵察機、爆撃機と入替り立番り毎日敵磯に見舞われたが戦死者、負傷者は比較的少く数名に止まった。

 前述椰子林の爆撃の時戦死を遂げられた戦友の中で名前を覚えているのは西村上等兵である。飛行機ばかりではない、燈台山の艦砲射撃は凄かった。「ドーン、グヮングヮンと早朝と夕暮れが時間的に多かった。この艦砲射撃は殆んど休みなく約一カ月位続いた。この頃だったと思う、戸田上等兵外四名三・五哩分哨の監視に当っていた時五、六名の戦友が訪れた。彼等の眼は異様に血走っており発言しない。そのうちどうしたのかと事情を聞いたところ「セバチック」島に敵兵が上陸した様子であるので自分等は斥候決死隊として偵察してくると言い出し牛蒡剣を分哨の下で研ぎ始めた。研ぎ終ると私等に行ってくると言い残し用意されていたものと思われる「プラウ」(小舟)に飛び乗り「セバチック」島へ向け出発した。

 満月だったのか、まん丸な月が皎々と照って明るい夜であった。分哨の者全員そして彼等の行動を知っていた兵が数名混じり見送ったが淋しい見送りだった。命令により行動を起したものか? それとも彼等だけの合意により行動を起したものかは未だ私にはわからない。又彼等の消息を誰れも知るものはない。斬り込みを敢行し名誉の戦死を遂げられたものと私は思っている。分哨から見る向いの島「セバチック」島は丁度距離的にも明石から淡路島を見たような感じであった。

〔附記〕 タワオ防衛時代のこの記事は当時筆者も強度の「マラリア」患者であったし、又険悪な状況下に食糧探しに、看護したりされたりの毎日々々であったので、記事の月日等は全く記憶にないと共に前後交錯している点もあると思われるし、又内容にも不備の点が多々見られるも時間の制限もあり、記憶に残っていることのみ簡単に書いたもので御了承願いたい。
 「タワオ」の英霊よ安らかに眠り給え、遺族の方々の御多幸をお祈りして筆を止む。

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