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14.噫々悲惨な戦史 独歩三六七大隊

第三七軍参謀長 陸軍中将 馬奈木敬信

『独歩三六七大隊の足跡』に寄す。
 噫々独歩三六七大隊。あの悲惨な戦史を辿るとき、今なお万感交々胸に迫るものがあります。
 昭和十七年初期の大戦果にもとづいて全ボルネオを統一指揮下におくべしとする意見は一蹴され、南北をそれぞれ陸海軍地区に分断し、僅か一握り程の兵力で警備し軍政を行うことになった。
 然るに敵の反攻は意外に迅く戦況逼迫するに及んで同十九年九月南ボルネオを新たに第三七軍の指揮下に入れ作戦任務を遂行せよとのことになった。この機に及んで全ボルネオの作戦指導となっては正に窮地に突き落された様相である。このボルネオの陸上交通は不可能に近く、それに制海権なく、制空権を失っている戦況下で日本の一倍半に近い広大な地域に、如何にして兵力を配備し新作戦態勢をとるや悩みは深刻である。余りにもボルネオの戦略的価値を軽視し、実情を知らない人々の多きことかと天を仰いで歎息した。

 この窮境はひいては独歩三六七隊に及んだのである。この無為無策は総ての処置を泥縄式となし、五十余の大小部隊が相ついで増加されたものの何れも輸送途中敵の攻撃を受けて遭難し漸く辿りついた部隊も殆んどが竹槍式装備で無手勝流式軍隊の実情である。独歩三六七大隊もかくしてサンダカンに上陸。休息、隊伍の整理も出来ずに東海岸タワオに転送させられた。これから戦闘準備にとりかからんとする十九年十二月になると、第三七軍の東海岸配備を北正面に変更という南方総軍の企図が伝えられた時には、軍はあげて断々乎として反対した。かかる無謀とも評すべき転進は地形上作戦戦闘に勝る大損害を被ること必至であるからである。それなのに二十一年一月には総軍命令で実行が強要された。俗にいう「サンダカン死の行進」はこの光景を表現したものである。独歩三六七大隊の如きはサンダカンより更に遙けき地点タワオより強要されこの犠牲となった。

 長路の死の横断転進に打ち耐え、ブルネイの目的地に到着したる将兵は休養の暇なく六月初頭有力な濠軍の来攻を迎え撃ちブルネイ戦を展開し、更に又々道なき道を軍司令部位置たるテノムまで五十日を要して転進するなど、その間病魔に襲われ栄養失調に斃れ、或は戦場に散華した戦友諸公に想いをいたすとき胸はさけ腸は煮え返るのである。正に上司不明のいけにえと評せざるを得ない。況んや御遺族の身上に於ておやである。

 だがこの尊き犠牲は二十五年後の今日酬いられて世界の経済大国と、かつての戦場では銅山、油田、森林開発等々に逐次成果をあげつつあることも英霊の加護であることを銘記し共に手を携えて冥福を祈りたい。

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