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13.謹んで英霊を弔う

独歩三六七大隊本部付  笹倉顕夫

 今日ここに北ボルネオの瘴癘(しょうれい)の地に戦役された元独立歩兵第三六七大隊所属の方々の慰霊祭が行なわれるにあたり、私達生存者相集い故岡田大隊長はじめ幾多の御霊の前に謹んで追悼のまことを捧げ御冥福をお祈り申上げます。
 御遺族の皆様には恙なくお過しでございましょうか、皆様のお心をお察し申上げ、唯々ご安泰を願うのみでございます。
 奇跡的に生を得て苦闘のボルネオを後に引揚船葛城丸で故国に帰還して早くも二十五年の歳月が流れ、私達もすでに白髪の目立つ年頃となりましたが、なにかにつけて遠くあのジャングルに或は彼の山野に散華されました多くの戦友の面影を偲び当時の状況を思い浮べては胸のつまる思いを繰り返すのです。

 毎年夏が訪れる毎に近辺の緑濃い山に入り、むせる草いきれの中に立つと、あのボルネオのジャングルの様相がまぎまざと目前に浮び夕方になって「ジーン」と鳴く「日ぐらし」の声を聞いては全身汗と泥のあの行軍の日の情景がよみがって来るのです。一年半余りのボルネオの死闘は数年以上にも及ぶ苦しい毎日であり、私達の一生涯を通じて脳裡を去らぬ悲痛な思い出となりました。昨年一月には北ボルネオ方面戦没者の現地慰霊団が派遣せられ、我が旧部隊よりも広瀬氏がその一員として親しく彼地を訪れ、酷熱の地に眠る戦友の霊を慰められたのですが、願わくば我が戦友の御霊よ、どうか安らかにお眠り下さいと祈らずにはおられません。

 思えば昭和十九年八月船団は我々を乗せて一路南に向い、毎日のように襲う敵の魚雷攻撃をかわしつつバシー海峡を渡り「フィリピン」の「ルソン」島にたどり着き、それからはあの機帆船による危険な航海が続き「ボルネオ」の目的地「タワオ」には漸くにして十月はじめに上陸したのです。
 暫くは「タワオ」に南国の情緒を味わったのですが、やがて食糧も乏しくなった昭和二十年二月、急遽西海岸の「ブルネイ」方面への転進作戦となり「タワオ」を出発したのですが、まさに「死の行軍」は、これから百日余にわたって続いたのです。

 炎熱の下のジャングル湿地帯の難行軍、濁流の渡河、山岳地の踏破等筆舌に尽しがたく、加えて食糧の欠乏はさらに我々の行動を苦しめ続けました。「パパイヤ」の根をガリガリ噛じりながら歩いた幾日か、この難行軍の後、目的地「ブルネイ」に到着した人員は各隊とも指折り数える程となり、その後毎日部隊を追及して到着する戦友を迎えて、ブルネイの守備についたのですが、やがて敵機の来襲熾烈となり美しい「ブルネイ」の街も廃墟と化してゆきました。そして六月優勢な英濠軍の上陸攻撃が始まり、これを迎え撃つべく「ブルネイ」背後の山の陣地について、今日は最期だと互いに水盃を交わして斬込みの覚悟をしたのも幾度か、敵の迫撃砲による物量攻撃は物凄く遂に我が部隊は「リンパン」地区への移動転進に移り、真夜中照明弾の炸裂する中を必死の作業によって渡河し、又々それから四十余日に及ぶ山岳地帯の横断転進行動を開始したのです。

 全くの前人未踏の密林を或は腰を覆う「コケ」の中をガムシャラに歩き続けました。当初に用意した食糧は日毎に欠乏し、我々の疲労は激しくもうこのままでは全員餓死する外ない状況に立ち至った頃、漸くにして友軍との連絡がついたのです。シャツは破れ軍靴は底がとれ、疲労その極に達したといっても過言ではありません。
 その後数少なくなった部隊は甘藷と南瓜、芋の葉を食べながら暫く休養をとったのですが、体力の回復は困難でした。再び前線に出動の準備を整えていましたが間もなく敗戦を知らされ、複雑な気持のままに武装解除後収容所生活となり、英濠軍の厳しい監視下に、然も少量の食事に堪えながら或は鉄道の作業に、物資の揚陸作業に又は清掃作業等について八カ月の収容所生活を送り、昭和二十一年四月私達は北ボルネオ最後の引揚者として内地に帰還したのですが、この苦闘の間に幾多の戦友を失い、これらの方々と共に帰還する事が出来なかったのは最大の痛恨事でありました。

 拙文で意を尽せませんが思い出を記して当時を偲び英霊の御冥福を祈念すると共に御遺族の万々の御健康を祈り上げます。
 どうか生き長らえて今日相集いました皆様も益々御壮健で又会える日を期したいものです。
 最後になりましたが、慰霊祭を行うについて格別の御尽力を下さった広瀬氏はじめ関係の諸氏に深く感謝の意を表します。

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