「あゝボルネオ」目次へ

12.想い出すままに

独歩三六七大隊第三中隊長  安田道章尊

〝まえがき〟

 特定の人以外は、人間の記録ほど確かなようで、いい加減なものはない、と言われている。その時々の記録が尊重され、写真やテープが利用されるのもそのためである。
 北ボルネオに於ける当中隊隊の足跡も、記録らしいものは何一つ残っていないために、ただ記憶だけを頼りに書かなくてはならない。しかも生来の健忘症に加えて、戦後の混乱と欠乏の中に、唯々生きる事だけにエネルギーを燃焼してしまい、いよいよ耄碌の度を深めている現在の頭には、凄惨苛烈を極め、生死をかけての休験さえも、濃いかすみを隔てて見る想いの昨今である。
 それだけにこの拙文は、時も処もわからないこま切れの想い出にすぎないが、我々が戦友と共に行動した。その時その場の体験という限りにおいては誤りはないだろうと思っている。その意味では、このこま切れ随想でも、今は亡き戦友の英霊を慰める手向けの一こまともなり、またご遺族の方々に僅かでも現地の状況を偲んでいただくことができ、加えて生存者の皆様の心のつながりを新たにするよすがともなれば望外の幸せと思い、敢えてペンをとった次第です。

   □ □ □

 「ゴゴーン、ズズーン」と船体を震動させる異様な金属音に「やられた?」と我先に上甲板へと飛び出した。我々のすぐ後に続いていた輸送船が二隻?やられたとのことだ。然し船体は既になく、大きな渦巻きの中に見えかくれする幾人かの人影と、板切れのようなものが浮いているだけであった。
 「敵艦○○隻、轟沈せり」という大本営発表で聞かされていた「轟沈」を目のあたりに見て慄然としたものである。
 三千トン級?の輸送船を捨ててボンボン漁船に乗り換えなければならなくなったのもこのためである。漁船なら魚雷は大丈夫だろうが、飛行機に見つけられたら最後である。だから漁船での生活はすベて暗い船底においてなされ、甲板に姿をあらわすのは僅か数人。どこまでも漁船に見せなくてはならなかった。向こう鉢巻きの勇ましい姿で、大きな魚を釣りあげ、思わぬごちそうにありついたのもこの頃である。
 かくして目的地である北ボルネオ東岸タワオに無事上陸したのは十月中旬近く。直線距離にして二千五百キロメートルの海上を五十日近くを要しての航行である。然も漁船の船底での生活だけに戦力は少からず消耗したと思う。

 タワオでの生活を象徴的に言えば、敵上陸に備えての対戦車壕掘りとスコールの毎日、それにココ椰子の実とパパイヤにバナナであろう。
 赤道に近い常夏の国、然も日中は焼けつくような炎熱の中に突如やってくる大粒の夕立ちともいうべきスコールは、まさに蘇生の思いであり、榔子の実の汁は最高のジュースといってよく、戦車壕掘りの労をいやしてくれたものである。バナナも尺五寸の大物から親指大のものまで種類も味もいろいろであった。野菜は胡瓜、南瓜、二尺近くもある茄子に甘藷、タロー芋など内地の夏と大差はない。
 しかしこれらをエネルギー源として、毎日壕掘りと戦闘訓練という比較的平和なタワオ生活もそう長くは続かなかった。

 毎日のように執拗に繰り返される敵機の襲撃に逃げまわる日が続き、次第に奥地へと追いやられ、食糧の補給もないまま南瓜やタロー芋が貴重な主食の座をしめるような事態にたち至った。
 そして遂に来たのが、西海岸の要地ブルネイ地区への大転進である。昼なお暗いジャングルがあるかと思えば、泥濘膝を没する沼地あり、けわしい岩山を超えたとホッとする間もなく、ワニが首をならべている濁流ありといった変転極まりない山野に、道なき道を求めての転進である。ワニや大蛇は最も恐るべきものであるが、四、五寸もある濃紺の美しい大サソリもこわい。一度やられたら最後でぁる。いつの間にか密林の頭上から三匹、五匹と落ちてきてシャツやズボン下の中にもぐり込んでたっぶりと血を吸う蛭には、すべての戦友がそのかゆさのために悲鳴をあげたものだ。

 このような地上の恐怖に加えて、上空には敵機の編隊が絶えず爆音を轟かせている。
 携帯口糧もない、犬、猫、蛇、木の実等、食べられそうなものは全部代用食となる。木の実を食べて死ぬ者もあれば、マラリア、栄養失調でたおれる者、ワニにやられる者、手榴弾で自らの命を断つ者、すべてそれで最後である。戦友の屍をのりこえても遮二無二進まねばならない文字通り生き地獄ともいうべき凄惨な大転進であった。
 やっと辿りついたブルネイ地区は敵の爆撃や艦砲射撃で市街は破壊され、直径十メートルもある大穴がいたる処に無気味な口をあけていた。我が軍には敵機を迎撃するだけの飛行機もなければ高射砲もなく、爆撃、機銃掃射はすべて思いのまま、乗員の顔が判明できる程の低空機銃掃射を繰り返す敵機に歯ぎしりしながら小銃でねらい撃ちをやったこともある。
 かくするうちに敵は優勢な機械化部隊をもって上陸、進撃を開始したため、友軍の損害は甚だしく、いよいよ当部隊を主力に、玉砕覚悟の敵陣突入を敢行するか、奥地へ転進して態勢を整備し反撃を再開するか、二者択一を迫られ、後者がえらばれたもようである。

 かくて再度の大転進が始まるわけだが、その際、主力の転進を容易にするため、当中隊は「河口附近に停まって敵の追撃を阻止せよ」という重大任務を受けたのである。正しく重大任務である。玉砕は当然覚悟しなくてはならない。しかし少しでも多くの時をかせぐため、最後の一兵に至るまであらゆる工夫をこらし、手段を尽くして、その任務を完うしなくてはならない。
 任務の重大性にかんがみ、勇猛にして敏捷かつねばり強い抵抗を将兵に要請し、恩賜の酒(微少ながらいただいたと思う)と恩賜の煙草を全員に配給、祖国のため殉ずる覚悟を新たにする。
 戦場にある者は常に死に直面しており、瞬時も死を忘れてはいない。従って戦いにたおれることを別に恐れはしない。併し玉砕覚悟の戦いを控えて恩賜の煙草をいただいた時の何か粛然とした気持ちは当人にしかわかるまい。果たして中隊の全将兵が何を思い、何を感じたであろうか…‥。

 恩賜の紫煙が密林の中に溶けこむ頃、偵察のため斥候が出発する。この時である。「本隊に追及せよ」の命に接したのは!!
 将兵の顔がゆっくりとほころぶ。決定的死を前にして恐らく走馬燈のように去来していたであろう胸中の思いが、この突然の命令でプッツリと切れ、瞬間、放心状態になり、次に我に返っての喜びであろう。
 戦いの場だから次の瞬間にも死は我々を待っているのだが、決定的死をまぬがれた時は嬉しい。やはり、生きる、生きているということは嬉しいことであり大切なことなのである、としみじみ思う。

 この後本隊を追及しての転進は第一次の転進と大同小異であるから省略するが、この転進中に終戦となり、その後一年近くの収容所生活を終わって内地帰還となった。収容所生活で印象的なのは、うすい重湯のようなメリケン粉のおかゆで、この中にグリンピースが十個たらず入っているが、これを食べたらたちまち下痢、口の中で何度も噛んで呑みこむのである。牛乳を口の中で噛んでのめという医者があるが同じ理屈であろう。もう一つは我々の持っている時計や万年筆を収容所管理の濠州兵が非常に欲しがったものである。時計一個あれば1年近くも生活できると言った兵士がいたとかいう噂が流れる程、彼等にとっては時計はすばらしい貴重品であったようだ。濠州の田舎の文化の程度が、またのんびりした生活が想像できた事である。

 最後にこの拙文を今は亡き戦友の英霊に捧げその冥福を心からお祈りすると共に、ご遺族の万々のご多幸と生存者の皆様のご発展を心からお祈りしてペンをおきます。

「あゝボルネオ」目次へ