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11.ブルネイ付近の戦闘        

貫兵団参謀  松本幸次

 先頃三六七大隊元中隊長広瀬君より慰霊祭挙行の旨及びこれを記念して小誌を発行したき旨連絡がありました。たまたま私高血圧のため療養中でかつ突然の事で慰霊祭には参加出来ませんでしたが当日遥かに西方を拝し黙祷を捧げかつ当時を偲び感慨無量でありました。

 さて小誌に掲載のため何か書けとの事ですが、当時の記録は何一つ手許になく二十五年前の記憶を辿り浮び出た事を記します。
 なお手許に備忘録一つないのは終戦後内地帰還の際英濠軍の命令で地図や書類一切の搬出を許されなかった事にもよりますが、その他に私の場合は私自身で書類等を焼き捨てざるを得なかった理由があったためです。
 それは終戦直後まだテノム附近に集結していた頃三十七軍から一箱の金塊の保管を頼まれ私が預っておりました。後にこれは占領軍に引き渡したのですが、彼等はまだ何処かに隠しているとでも思ったのか私の宿舎はしばしば留守中に濠軍により急襲され寝台の藁布団の中から床下まで探索されメモ帳のようなものも全部持ち去られる始末でした。又所用のため遠くへ出かけるおりなど途中思いがけない所に英軍将校や濠軍将校が待ちうけ身体検査をされ図集や鞄の中まで細密に調べられたものです。恐らく大切なものは身につけていると思ったのでしょう。そして彼等が期待していたものが何もないとわかった時の彼等のがっかりした顔が今も眼に浮びます。しかしその序でに手帳等を押収されて些細の事から当時益々詮議の厳しくなっていた戦犯容凝者の傍証等に利用されては大変と思い全部焼却し結伺何一つ記録のないまま帰還したという訳です。

 私がボルネオに到着したのは終戦の年の一月で山脇大将と交代して新たに軍司令官となられた馬場中将と同じ飛行機でまずアピーに到着しました。私はそれまで内地の陸軍士官学校教官として生徒の教育にあたっていましたが、昭和十九年の十月には米軍フィリピンに上陸し戦況は刻々我に不利であり、B29爆撃機もすでに東京上空に出没する状況で私の家の周囲の若者はもちろん相当年寄りの者まで相次いで召集される状態なのに現役の私共が安閑として内地勤務に携わっている事は相済まぬ気持がして何処でもよいから戦地をと志願しましたところ、ボルネオ行きを命ぜられました。当時参謀本部も陸軍省も慌しい緊迫感に包まれていました。

 しかしボルネオに到着した第一印象はまことにのんびりムードで見るべき程の陣地もなく暑さの為やむを得ずではあるが、人は午睡し空は青く海はキラキラと輝き何処に敵がいるかと思われる平和なけだるいような静けさで正に大きな断絶感であります。そして武器も弾薬も近代戦を闘う第一線部隊としてはまことに心細い有様でこれでよいのかと疑わざるを得ませんでした。ただ是は何れも将兵の責任でない事は勿論です。
 しかしこのボルネオにも間もなく凄惨な戦乱の場面が起る事は必然であります。

 私はすぐに貫兵団司令部のあるタワオに参りました。この頃全般の戦況は益々急迫し二月南方総軍の命令により三十七軍は配備の重点をボルネオ東海岸から西海岸ブルネイ方向に変更することとなり既に海上輸送は空海からの敵の妨害で輸送困難となった為やむなく陸路峻嶮なるキナバル山脈を横断して東から西へ行程三百乃至六百粁の所謂サンダカン死の行軍と呼ばれる大転進を強行することとなった。即ち諸君が身を以て体験された通り三六七大隊始め貫兵団の各隊はタワオーモンステンームハラットーラナウーテノムーブルネイと密林湿地を踏破し瘴癘(しょうれい)飢餓に堪え病苦と闘いつつ転進を続け行進六百粁以上、四月中頃先頭部隊の到着迄に二カ月半余を要した。しかも六月十日敵が上陸する迄には未だ全兵力の集結を完了する事が出来ず、かつ到着した兵員も体力極度に消托し陣地構築の遑(いとま)もなく敵を迎え撃つ状況となった。

 私は配備変更の命令と共に飛行磯でブルネイに先行を命ぜられ該で地陣地の偵察その他諸準備に忙殺されたのでこの行軍には加わらなかったが将兵の辛苦如何ばかりであったか。又この行軍中戦没された岡田大隊長始め幾多の英霊に対し誠に哀悼の念に堪えません。私がブルネイに於て諸準備中、新任貫兵団長として明石閣下が赴任されました。貫兵団は歩兵六ケ大隊のうち須賀崎大隊をタワオに、櫛山大隊をパンジエルマシンに、木村大隊を軍直としてポーホート附近に、奥山大隊をラブアン島(前田島)に、従ってブルネイ附近には三六七(筒井)大隊と佐藤大隊のみでした。
 さてブルネイ方面貫兵団の防備正面は広大で到る処敵の上陸可能でありますが、ラブアン島及びムアラ半島に上陸する可能性最も大と判断してこれに重点的に配備されました。然し兵は疲れ部隊の定員はその半分にも満たず、一門の火砲、迫撃砲もなく頼む重機も全部は到着しておらず、又弾薬も僅少でなかなか至難の防衛と思われました。

 俄然六月七日朝来敵艦船数十隻、航空機数十機がブルネイ湾を埋め、予想の如くまずムアラ半島突端我が佐藤大隊の一部陣地附近に猛烈なる砲爆撃を加え、六月十日主力を以て半島部に上陸して来ました。
 戦況上掲要図の如く本戦闘に於て佐藤大隊は当初一部を以てムアラ桟橋附近に上陸した敵を撃退するなど勇戦したが衆寡敵せず全滅。又ラブアン島奥山大隊に対して敵は八、九両日艦砲射撃及び航空機数十機を以て反覆猛爆したのち十日戦車を先頭に上陸、奥山部隊は勇戦し頑強な抵抗ののち六月二十一日夜大隊長は最後の手兵を率い二隊となり、敵陣に斬込み全員壮烈なる戦死を遂げた。

 筒井大隊はブルネイ附近戦闘に於て石炭山に右第一線として奮闘ののち兵団命令により転進、爾後軍主力と合流し最後の抵抗を企図するため再び密林、山地を突破苦難の機動作戦を行いました。
 この機動作戦は明石兵団長統率の下に筒井部隊を主力として他に若干の工兵碇泊場司令部自動車小隊、ボルネオ燃料廠の一部憲兵隊等の小部隊で軍政官、在留邦人婦女子等を掩護しつつ人跡未踏の山岳地帯を通過して行われました。
 転進に使用した地図は百万分の一か二百万分の一でかつ中央山岳部は白紙として未測量のものでした。これを唯一の拠り処として磁針により方位を測定し、河の流れによって地形を判断し、時として土民の通る小径を利用し、時として森林を伐採新たに道を開きつつ前進しました。

 かつて米軍飛行士がリンパン河附近に墜落し土民の助けによりテノム方向に逃走した。兵団はまずこの逃走経路に従い前進する事に決し、当時これを追跡した憲兵隊が諸情報を蒐集しつつ土民の先導により前進した。リンパン河渡河後の機動の初期は暫くこれを利用出来たが間もなく土民に逃げられこの企図は水泡に帰した。後は不完全な地図を頼るのみです。密林や河原を時として丸木橋の上を一列縦隊で進むので行軍長径は数千米にも伸びる。後尾の状況は如何と梯団の最後尾に来て見ますと身体の弱い兵程遅れ戦友や分隊長や元気な中隊幹部等が片手に銃や装具を片手に病兵の肩を支え喘ぎながらの行進です。或は急造の竹の担架に病兵を載せて進む、然し狭い道中で四人搬送は出来ず、場所によっては二人で担ぐしかもその足許は木の根岩角、苔の生えた斜面等で足を取られて患者諸共傾倒する等それは涙のにじむ行軍です。

マレー半島から転属して来て確か碇泊場司令部に配属された大川伍長も途中に休んでいた。さあ一緒に行こうと手を取っても自分に構わず先へ行って下さい。もう少し休んでから追いつくと言って動かない。顔色は悪く身体は衰えている。その近くには邦人の老婦人も休んでいる。そんな折遙か後方でボーンとにぶい手榴弾の破烈音が一発、ああ自爆か、思わずつぶやき暗然としてうなだれる。ここが最後尾と思ったのにまだその後方に・・・戦友に迷惑をかけまいと最後まで放さなかったその手榴弾で自決をしたのであろうか、それとも敵意を持った住民との闘争であったのだろうか。

 これでは急いだ行軍は避けねばなるまい。最後尾の収容隊も出来るだけ強力にしなければ、しかし僅かな携帯食糧であるから下手をすると兵団全員の命に関わる余り遅れる訳にもいかぬ。
 梯隊は黙々として進み人一人いない山の中適当に歩いて適当に野営する。野営の折は籾を鉄兜で搗いて炊事する将兵はもとよりであるが、熊野ミリー州長官が白髪の頭でコツコツと鉄兜を搗いておられた様子が今でも目に映る。
 でも籾のあった間はまだよかった。何もない日もあった。これは何としても急がず、しかし遅れず目的地に着かねばなるまい。

 それで私は司令部の江頭大尉、内田主計外四、五人を率い進路標示及び食糧探索のため兵団の先頭より出来るだけ前へ前へと進んだ。土民の狩猟の為の道など道らしいものは皆利用した。それも特に河の中などは或は右岸を或は左岸をと通り易い所を通つて歩くので水の中からこれを探し求めるのに実に苦労した。そしてその場所には兵団のため標識をした。道のない所は土人の蛮刀で密林の下枝を伐採しつつ進んだ。蛮刀はこんな折実によく役立つ事も休験した。磁石が何よりの頼りであった。然し全山倒木で直径一米もある大木が積み重っているのを次から次と乗り越える事はとても大変な事であった。そんな折はその地帯を迂回した。四方暗黒の密林内で日の光はない、何処にいるのか見当さえつかぬ。こんな折不完全でも地図は地図、これと対比して地形を判断するには密林の上から四周を眺見せねばならぬ、それで亭々として一きわ高く聳える大木を選びこれに登って周囲を眺めた。百万分の一でも大きく地形の全貌はつかめた。そして無駄なく最短進路を進んでいる事に安心した。

 或る日分水嶺を越え始めて東に流れる小河に出た。だんだん少しずつ河幅は広がったが水はよどみ木の油で赤く錆のように色づき魚は一匹もいなかった。そしてその河の端は百米もの断崖絶壁となり河水は滝となって真っ直ぐに落下し小さな滝壷から不思議にもそのまま地下にもぐってしまう。しかしその地点から水のない河床が河幅五十〜六十米位の広さで直径数米もある巨岩をゴロゴロ敷き並べた状態で続き長さ二里程にも及んだ。そしてある地点で突然地下から潺々(せんせん)として水が湧出して河となる。先の滝水が地下をもぐって吹き出したものであろう。そしてそこが図上の河の始まりであった。今はその貴重な地図もないのではっきりしないが、多分テノム河の地図上の最上流であったろうか。この乾いた河床は雨期のスコールの時は濁流と化し山から巨石を落下させたもので物凄い水勢と思われた。あの垂直の断崖を三六七大隊の皆様は記憶しておられますか、木の根にすがり滑りながら降りたあの断崖を……。

 しかし此処まで来ればもう道に踏み迷う事もない、やっと大任を果せたと思いホッとしました。清流には魚もいた、そこでひょっこりイバン族に出会した。絶えて久しく人影を見ず懐かしくも初めて会ったその人は黒い裸で竹槍をかつぎ毒の吹き矢を背負い今にも喰いつきそうな精悼なイバン族二人であった。その夜初めて土人の部落に宿泊した。然し警戒して不審番を立て交代で眠った。後で判明したがこの部落附近で三十七軍から貫兵団に出した連絡部隊が土民のため全員全滅したのであった。部落には豚もタピオカもあり、後続の兵団も何かと息をつける事と喜んだ。
 私はその頃血尿を出すようになりもう長くはないと悟ったが、更に先行してテノムに行き軍司令部に貫兵団の状況を報告した。
 この間約一カ月半で先にブルネイで戦闘中無電機も駄目となり、それ以来状況不明であったので軍司令官以下大いに喜ばれ兵団の奮闘を賞せられた。

 爾後兵団はテノム附近に集結し戦闘に備えたが間もなく思いもかけず終戦となった。全身の力がスウーツと抜けて行くような気がした。
 苦労を続けられた明石閣下も今は既に病没された。飛行機で供にボルネオに渡った馬場軍司令官は内地帰還後再び濠軍に召致され戦犯容疑の全責任を負って従容として処刑された。筒井大隊長や広瀬中隊長には戦後お目にかかった。三六七大隊の皆様又御遺族の方にもお目にかかりたく、次に又慰霊祭等の機会がありましたら参加させて下さい。

 ブルネイの戦闘からあの転連作戦問筒井隊長や広瀬、笹川、安田、永井の各中隊長の奮戦振り、そしてそれを助ける将兵の並々ならぬ労苦の程はこの稿を書きながら二十五年の歳月を経たとも思えぬ程鮮明に眼前に浮びます。そしてその間戦没された幾多の英霊に対し、又全員玉砕された奥山、佐藤両部隊の英霊に対し深く哀悼の意を表します。
 文中多少の記憶の誤りや地点の前後しているような処もあるかも知れませんが御諒承下さい。

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