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10.思いでのボルネオ

独歩三六七大隊銃砲隊長(後大隊副官)  萩野三吉

 大東亜戦も愈々激烈を加えサイパン島は遂に敵の手に渡り日本の玄関に火のついた昭和十九年七月二十七日姫路に召集され、部隊編成もそこそこに夕やみ迫る七月三十日姫路駅を後に一路征途に上った。門司で二十七隻の輸送船団をくんだ我が部隊はどこに行くのか任地は示されないまま門司港を出港した。

 その頃敵の潜水艦はすでに日本近海に盛んに出没して危険この上もない航海であった。むし暑い輸送船の甲板に天幕張りの兵舎にすし詰めの兵員、真夏の太勝はかんかん照りつける、それでも敵の魚雷に見舞われていつ海に飛び込まねばならないため上衣と救命具は離せない。
 種子島西方の黒鳥沖にさしかかった時だった。輸送船昭南丸は敵の魚雷攻撃を受けて轟沈、実に無残であった。こんな事態の中で我々の輸送船は五隻の海防艦に護られて南の海に向っている。敵潜水艦の攻撃は全くはげしく護衛の海防艦が相ついでやられる。今は全くはだかの輸送船団で危険この上もない。まして輸送船も雷撃のため一つ二つと減って行く。かくして傷ついた船団は漸く台湾の高雄港に入港、ここで高雄に上陸、しばし気を休め台湾バナナに金平糖と内地以来甘味にうえた兵隊は心ゆくまで甘味にひたって中には下痢を起した者もあった。

 その頃敵の空海の攻撃は益々はげしく輸送船のバシー海峡の通過は困難、そのため我々陸軍部隊は比島ルソン島の北端アパリに上陸、ここからマニラ迄行軍で行けという命令があったがとても行軍は不可能という事で、総軍司令部に連絡してボンボン船を廻してもらい、これに百二、三十名ずつ分乗してマニラに行く事にした所がこの船には水がない。その為に夜になると海岸の浅瀬につけて上陸、飯盒炊さんをして一日分の食事を作り又乗船航行、こんな事をくり返して約一週間の後漸くマニラにつき、マニラ競馬場に宿泊、ここで兵器を受領して武装し岡田大尉が大隊長として着任された。
 マニラに四、五日いたがそれからもボンボン船でパラワン列島沿いにボルネオに向った。途中大しけにあい船団はばらばら九死に一生を得て漸く北ボルネオに到着、サンダカンを経てタワオに上陸、此処で陣地構築をしてタワオの守りを固めた。赤道直下炎熱地を焦がす彼地での陣地構築も随分苦労であった。かくして昭和二十年の新春は真夏のタワオで迎えた。この頃より敵の空爆は日増しに激しくタワオ飛行場も空爆にあい使用不能、夜間飛行場の穴うめ作業もあった。かくしているうちに西海州への転進の命令を受け、部隊はタワオを後に西海州のブルネイに向っての行軍が始まった。

 この行軍が所謂七色の花の小説に出る死の行軍で、馬も車も通らぬ「ジャングル」と、泥沼の悪路で一日の行程一〇キロにも及ばん日も幾日かあった。この間に食糧不足とマラリアの為に多くの戦友を失った。岡田大隊長、副官堀尾中尉もこの行軍の途中で病魔のため遂に戦没された。かくして幾十日の後やっと「ブルネイ」に到着した。その時は兵隊も疲れ果てて第一線で戦闘の出来る兵員はごく僅かではなかったか。
 ブルネイ警備の日いくばくもなく、敵将「マッカーサー」は数十隻の艦船に兵員を満載して艦砲撃射と空爆の援護の下に昼間ブルネイ桟橋に上陸用舟艇を横づけして上陸、夜は艦砲射撃、昼間は爆撃と迫撃砲射撃でじりじりと攻撃を加え来り、遂に兵団は守りきれず、夜間ブルネイ河を渡河してサエ山に後退せざるの止むなきに至った。その間にも敗戦の幾多の悲劇があった。

 兵団長明石少将は此処を最後の決戦場と死守の決心をきめられたようであったが、在留邦人多数をかかえた我が兵団はサエ山決戦も出来ず、テノムの軍司令部の線に後退する事になり、百万分の一の地図をたよりに又「ジャングル」と要路との戦いの転進が始まった。この間の食糧不足は言語に絶しカンポンを襲っての現地人の食糧を徴発し、道なき道を切りひらき病魔と戦いながら漸くにしてテノムに到着、この間にも又数多くの戦友を失った、誠に痛恨の極みである。
 テノム到着後間もなく昭和二十年八月十五日、あの終戦の詔勅を兵団本部で受けたのであったが、それを信じられなかった。幾多尊い戦友の命を失った兵団ではあったが、戦意はまだまだ強固なるものがあった。しかし総ては終った今は亡き戦友の面影が走馬燈のようにまぶたに浮かび胸のいたみを感じる。
 今明石兵団長の訓示を思い出し、感慨無量である。此処にその訓示を述べて稿をとじる。

   訓   示

 有史以来の悲運に直面し愁困灼熱の春を迎う。世界の平和に寄与せんとして長途外征に出で遂に干戈(かんか)を収め兵備を撤するの止むなきに到り、金甌(きんおう)三千年の青史を汚せり、今や戦局の処理を速に完遂して皇軍有終の美を完うするは予等目下に於ける急務にして軍紀を確立して皇軍本然の姿に復し良民としての資質を恢復培養し以て戦後復興の礎石たるは現下唯一の道なり。
 今や予等は窮境の極に陥り我が周囲の大なる苦難を以て閉塞せられある事、前古未曽有と言うべく、凡百の難苦に克ち荊棘(うばら)を拓き民族の発展を遂げ世界の和平を図るは予等に負荷せられたる重責なり、此処に於てか予等は大勇猛心を奮起し荊棘を拓きて前途に光明を望み勇躍邁進せざるべからず。寒梅は雪に堪えて漸く芳しく松柏は霜を経て愈々濃く艱難を克服するは日本国民の衿持なり。又快ならずや終生念ずべき唯一無二の新寿を迎え遥かに照々たる光明を望み奮然進発するに当り右訓示す。

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