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9.悪夢は忘れたい

独歩三六七大隊第四中隊小隊長  永井茂雄

 『現地は季節の変化もなく、現地での行動の終始と時間的なつながりが、どうしてもはっきりしません。悪夢は忘れたいです。』
 ただ現在、私の記憶におぼろげながら残っていることを書いてみますと次のようなことです。

 マニラを出発スルー海を南下してクダットに到着、サンダカンを経て任地のラハダットに向いましたが、機関銃隊も一緒だったと思います。現地はささやかな港町で全員その当時は比較的元気でした。中隊長統率のもとに毎日のように町周辺の要所に陣地を構築する作業を進めていました。最初のうちは敵機の来襲もなく現地住民(大部分は「マラヤ」あと僅少の中国人、印度人)との人間関係も円満で憲兵隊にご迷惑をかけるものもなく、おそらくその頃の内地でも、余程の山間部でない限り味わうことの出来ない平和な一時を楽しむことが出来たように思います。

 然し全般の戦局は刻々と緊迫していたようで、いつでしたか坪田兄が分屯していられた「シンボルナ」で電信隊の受信で、連合軍側の有力部隊がレテイ、タクロバンに上陸を開始したとのニュースを聞いて、内地帰還もまず不可能だと話し合ったこともありましたが、そのうちラハダット上空にも、毎日敵機が姿を現わすようになり、遂に中心部に爆弾が投下されて大部分が破壊され、現住民には幾人かの負傷者が出たようでしたが、そのことが士気に影響することもなく、附近のゴム林を開いて滑走路を新設する作業も始めていた位でしたが突然、転進命令が出たのでしょう、行先は知らされることもなくラハダットを出発、密生するジャングルの中を高温多湿な悪条件に悩まされながら西へ西へと転進していったようです。

 ニカ月を必要とする長距離行軍でした。マラリアの病歴をもったものが殆んどでしたが大きな支障となったのでしょうか、やっとの思いで西海岸近くのテノム、ウエストン附近に辿りついた頃は、病人、廃人、落伍者で散々ばらばらでブルネイ行きの恐らく最終便の一つか二つ前の船に乗り込むことが出来たようです。

 ブルネイではリンパン警備を命ぜられ至近距離に彼我の攻防による砲声のとどろくのを耳にしましたが、直接戦闘に参加する命令も出ないまま再び東北方の山岳地帯に今度は一般邦人、文官の方もー緒だったようですが再度転進しました。
 昭和二十年の何月頃でしょうか、見当がつきませんが、敵機の襲来が急になくなった頃、日本の無条件降伏のことを知らされましたが、間もなく武装解除になり、収容所入りとなったようですが、大竹入港が昭和二十一年四月下旬だったことから逆算して、収容所の生活が六、七ヶ月位ではなかったかと思われます。ラハダット出発後、山中隊長、石山少尉は転進道中にてお気毒にも戦没され、中隊としての行動はその時終ったというような感じです。

 あのままラハダットに駐屯していたとすれば、損傷は少なかったでしょうが、終戦を迎えた頃にはどうなっていたのか想像も出来ませんが、帰還後も一度は平和なラハダットに行ってみたいような気特にもなったことです。全く夢のようです。
 山中、石山両兄にも随分とお世話になりました、ほんとうにお気の毒なことです。謹んで英霊の冥福をお祈り申上げます。坪田兄を始め四中隊出身の戦友諸兄並びに御遺族皆々様の御多幸を心よりお祈り申上げます。
 以上誠に簡単なことで申訳もありませんが、これ以上のことは、はっきりといたしませんのでよろしく御寛容の程お願いします。

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