8.切歯してボルネオに別かる
貫兵団長(初代) 能崎清次
滅多に筆を手にしないので指先が硬化し筆先がうまく走らないが御判読を願います。
御芳墨に接し万感交錯何よりも先年拝眉の節は何かと御厚情にあづかり深く感謝申上げます。
御手紙によれば復員以来御慰霊に将又戦友や御遺族の慰問激励に並々ならぬ御尽力の趣只々我が廃骨に鞭うたるる思いにて感謝の辞もありません。
さても貫部隊の生存者にとりては何よりも所謂死の行軍が終生忘れ得ぬ難行苦行だったと思います。この転進に就いては実は前年十二月末に比島方面の敵動向に鑑み我兵団転進の要なきやを一応軍司令部に具申したのだが数日後その意なしとの事でした。然る処一月下旬測らずも全部隊急転進の命令に接し、しかも途中の食糧集積の状況上天候その他の障害に拘らず予定外の滞在延引を許さざる事情にあるを知り軍の期待の只ならぬことを知った次第です。
兵団の転進は単にサンダカン方面迂回だけに止まらず砲兵その他重材料はカヌーによる少数量の急流潮行を強行せねばならず、これが運行計画もあり、昼夜策案漸くにして成案を得、二月十一日紀元佳節より実施に移ったのでありました。もとより軍としても数割の損耗を覚悟した重大決行であり、私自身又心を鬼としての断行でした。
思えば慈に到る長き期間何を為し何を準備して来た事か万感尽きません。
ともあれ部隊は行動を開始しました。私は後始末の進捗を見て出発のつもりなりしが測らずも内地の重職に転ずべき電命を受けタワオ最後の飛機を得て出発山上の飛行場に到着、この小部落にて強行軍中の部隊(二人次には三人また二人というようなバラバラの到着状況)を迎え慰労の言葉も出ぬありさま。岡田大隊長の落伍もこの時に知ったと思うが、正に死の行軍の現実をはらわたをむしらるる思いで知ったのでした。
シンガポール行の飛機を待つ身は各隊集結を待つ余裕もなく切歯してボルネオに別れを告げたのですが、その後千葉附近の第一線にて又々穴掘りに専念しつつ終戦となり、全虚脱の状態にて年末漸く家郷に入りました。
然るに-然るにです、在郷一年にして今度は戦犯として幽囚の身となり、爾後六年有半只吾身の生存を見つむるばかりの孤独生活を強いられたのです。
斯くして放された社会は浦島太郎が帰った社会に比すべくもない変化でした。爾余はクドクド申上げるまでもないと思います。ただ一介の世捨人として三猿主義こそが吾れに許された毎日です。
ボルネオ会の活動もその後承りましたが最早や人前にツラを晒す気にならず相済まぬと思いながら隠遁していました。
先年の慰霊祭には之が最後と思い強いて参拝させて頂きました。御遺族にお会いする機会もあらばと期待していましたが、それも出来ず半端な気持で帰宅しました。若し本書が御会合に間に合うならば然るべく微衷お伝え下さるよう願います。
次に当方の写真ですが、往年のものは戦犯に際し地図類、職員表、芳名録、写真等一切の後累を断つ為凡て焼却、今更八十を越した田舎爺の写真も意味なしと思いお送り致しません、何卒要しからず。
御会同の生存戦友諸氏へは只々御健闘を祈る旨宜しく御鳳声願います。
クドクド懐古のクリ言を並べました。時節柄御健勝を祈ります。