7.ボルネオ横断、第一兵站線を行く
独歩三六七大隊鉄砲隊小隊長 森村忠一
大東亜戦争も愈々熾烈となり、戦局も重大さを加えてきた昭和十九年七月末姫路の連隊に応召、部隊を編成南へ行くのか、北へ進むのかも知らされないまま門司を出航した。
既に敵潜水艦は近海に出没しており、輸送船団も多くの犠牲が出て船団を組んでは進み得ず最後はボンボン船の集団となってやっとボルネオのタワオに到着した。内地を離れて二カ月余り、思えば長い海上輸送であった。
我々部隊の任務は敵の飛石作戦に対応する為のタワオ防衛である。各隊共に綿密な地形偵察を終えて陣地構築に取り組んだ。私の小隊は日産農場の牧舎を改造して兵舎とし、二粁程離れた山の背後に掩体を構築する事とし、赤道直下の炎天の下で毎日土木作業を続けた。
然しその時の装備は、鉄砲隊とは名のみで曲射砲は一門しかなく後送される武器弾薬も輸送船団潰滅の為何時補充されるのか判らない状態であったが、一同の意気は盛んで毎日陣地構築に努力していた。
然し戦局は急転し昭和二十年一月の終りに東海岸のタワオから西海岸のブルネイに転進しその守備に任ぜよとの命が下された。
これがボルネオ死の行軍となるとは誰一人予想しなかったが、然し道なき道のジャングル地帯を通りボルネオの横断というこの作戦の容易でない事は明らかであった。命令遂行の為部隊全隊がその準備に追われていた。
その時私は、ペンシャガンよりテノムに至る第一兵站線の道標の設置、掘さく、架橋その他部隊の転進を容易ならしむる為道路設定隊となり先行すべしとの命を受けた。正確な地図もなく目的地迄間違いなく到達する道路、道標を作り得るか、万一違う方向に進んだとしたならば後方より転進の大部隊に時間と労力とその上貴重な糧秣を空費せしめるのみならず軍の作戦に重大なる支障を来す事を思ってその任務の重大さに非常な責任を感じた。
私の指揮下には第一.中隊より東伍長以下八名作業隊より柴原伍長以下七名通訳として現地の日産農場の責任者青木氏が同行し一月三十日部隊と別れてタワオを出発した。
当初は川に沿って部落から部落へと道をつないで行く事にしたが、通訳青木氏は我々の任務をよく理解し現地のダイヤ族との総ての交渉を纏めてくれた。幸い我々は食糧の他に宣撫用として塩を相当量携行していた事、相当奥地でも敵対意識がなかったのでダイヤ族の協力を得る事が出来た。我々が塩を持っているとの情報は驚く程の早さで上流へ、或は奥地へと伝わって行くらしく作業をしながら前進すれば部落毎に出迎えんばかりの態度で、道案内はもとより作業の応援も出来る限り出して協力してくれた。
タワオを出発川沿いを進んでいる時は比較的順調であった。ある程度川上迄遡って地形偵察をし迂回せずに出来るだけ直進するようにした。川には鰐がいるし、頭上の大木には猿が群をなして木から木へと移動して行くのが見えたし、川ぶちの草陰から二米近くもある大トカゲを見て驚いた事も再々あった。
川の流れから離れて奥地へ入って行くとうっそうとしたジャングルであったり、草いきれのきつい雑草地であり、いつもじめじめした湿地帯であったりの苦労の連続であった。
ジャングルに一度入れば熱帯の太陽が空に輝いていても昼尚薄暗く下草の伐採や木の幹を削って目標とし、曲がり角では小枝をくくりつけて矢印とした。川を横断する場合は付近で木を切り、腰まで川に入って橋を作る。
軍装の部隊が通過するのだから重さに耐えるだけでなく一人宛通るにしても足許の幅も広い目し、片側には手摺りを簡単ながらもつける等気をつけて部落から部落へと前進した。
密林の中でスコールにあえば山蛭が無気味な動きで服に着き僅かな隙間から入り込み、血を吸っては黒いかたまりになっているいやな日も続いた。
然し苦労の毎日とはいっても、部落の葬式で哀調こもる歌を唱えて死者をとむらっている処は全く日本のお葬式と似ているので人情については同じ事だと感じたし、又山奥の部落で塩漬けの猪肉を御馳走に出され醗酵しているその匂いに閉口しながらも最高のもてなしをしてくれているとの事で鼻をつまむ思いで食べた事、ダイヤ族がロダンの竜等を作っている処、錦蛇の一切れを貰ってスープにして食べたことなど今迄経験した事もない珍らしい数々の思い出もあった。
炎天の下での作業をしながら進むこと約二カ月余り一名の負傷者もなく全員無事第二兵站線を進んできた大隊本部に合流出来た。その間本隊との連絡は何一つ出来なかったので、奥地で一小部隊がゲリラと遭遇し全滅したとの情報が本部に入り、てっきり我々の道路設定隊が戦死したものと思われていたとの事にこちらが驚いた位であった。
かくて道路設定隊としての任務は終り、ブルネイに転進している各中隊に戻るべく後を追う事とした。
我々が作った道路標や架橋を砲兵隊や工兵隊、通信隊が利用し、西海岸へ転進したとの事を知り聊かなりとも我々の労苦がお役に立ったものと考えている。
然し我々が食糧等には事欠くことなく進み得た事に比べて、第二兵站線を進んだ我が大隊は一口の粥もすすり得ず、炎天の下マラリアの高熱に悩まされ、部隊の三分の二近くの犠牲者を出した死の行軍であった事を知り、亡くなられた方々の御冥福を心からお祈りしてお祈りしております。